高崎市指定史跡

徳川忠長の墓

徳川忠長は、慶長11(1606)年徳川第二代秀忠の子として生まれ、幼名を国松といった。第三代将軍家光の弟であったが、幼少の頃から才気は兄より優れててたため父母は弟の方をより可愛がり、これが原因で家光に疎まれることになったと言われている。忠長は元し和2(1616)年甲斐の大名となり、のち信濃、駿河、遠江を加えられ、寛永元(1624)年55万石の禄高を領する事となり駿府城に住した。このことから、通称駿河大納言と呼ばれた。しすし秀忠の死後、数々の乱行があったという理由により寛永8(1631)年甲府、翌寛永9年高崎城に幽閉され、時の高崎城主安藤重長による数度の助命嘆願にもかかわらず自刃を命ぜられ、寛永10年12月6日、28歳の若さでその生涯を終えた。その位牌には「峯厳院殿前亜相晴徹暁雲大居士」とある。なお、亜相(あしょう)とは大納言の唐名(からな) (中国での名称)である。墓石である五輪塔の総高は、台座をくわえて約234センチ、これが二段に築かれた台石(高さ73センチ)の上に建てられてある。水輪の正面には「峯厳院殿御宝塔」と刻まれ、火輪の正面には横並びに三葉葵の紋が二つある。地輪の裏側には、「御逝去寛永十葵西十二月六日、御造立延宝三卯年四月六日」と二行に記してある。傍に「十一世心誉代」とあり、大信寺十一代目の住職心誉の時代に造立された事を示している。

 所在地 高崎市通町75(大信寺)                           

指定年月日 昭和四十一年四月二十一日        高崎市教育委員会