大胡城

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場所・・・群馬県勢多郡大胡町河原浜

本城は北限近戸神社ら北側堀切りから南端秋葉様の台地までの長さ670m、根小屋東端から西曲輪西外堀りまでの東西幅310mの紡すい形の地域を占め、並郭式の平丘城である。北から、 近戸曲輪(仮称)、越中屋敷、本郭(本丸、二の丸)、三の丸、南曲輪、秋葉台曲輪(仮称)、と並んで、その間を掘切りで断たれている。最北端の掘切りと三の丸北側の掘切りのものとには顕著な「折}があり他のものは直線的である。本郭を構成する二の丸、本丸だけが半円の囲い付で、その間の堀切りは他の堀切りよりも浅い。この城には西曲輪、東に根小屋の平城部がつく。根小屋は南半が稲荷曲輪の別郭となり、公民館北側に虎口があった。

又、本城は、市ノ関、大前田、樋越の稲垣屋敷、河原浜、八ツ峯、大室、荒子、今井の寄居山、上泉、荻窪、小坂子、兎貝戸、勝沢、の諸砦を外堡とし、嶺、深津、女淵、膳、山上、堂の諸城と連繁し赤城南麓の中央に君臨していた。城主大胡氏は、足利太夫成行の末といわれ、永禄、天正の間、上杉、北条両氏抗争の間、よく命脈を保って天正末期に至った。東鑑にも大胡太郎、大胡左右衛門次郎、大胡五郎の人々の名が記され、その主系が江戸牛込に移ってからも、ここは大胡氏の城であり、むしろ大胡城の大成したのはその後の事と考えられる。三夜沢に天文十三年大胡常陸介高繁の寄進状があるとおり、当時も城主は大胡氏であった。上泉城主は大胡武蔵守信綱(上泉と改む)であり、山上、膳の城代をつとめた大胡民部左右衛門もここの城主であったとおもわれる。天正末、由良氏の城代として益田伊勢守が派遣されていたこともあるが、間もなく城は北条氏の直轄となり、山上郷右衛門顕將が城主を命ぜられた。天正十八年、徳川家康関東入部の際、牧野康成が封せ゛られ、元和三年迄在城して長岡に国替えとなったのである。廃城以来すでに三百年余、尚、この城祉はほとんど完全に保存され、常に人々の心に去来しい愛郷心の基底をなしているのである。 山崎一著 「群馬県古城塁祉の研究}より


 

案内板

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本丸北側の土塁

 


 

水の手門


 

 

本丸

本丸から北東を望んだとのろである。未だ発掘はされていない。

 


 

訪問記

池波正太郎著「剣の天地」を読むまで、上泉伊勢守信綱に対して漠然としたイメ-ジしかなかったが、近くに剣聖とうたわれた先達がいたことを誇りにおもう。この城址に立つことができて、例えようのない幸せを感じた。城址はあまり整備されていない。近所の人が,時期をみて、草刈や整備をしている。へんに整備されているより、この方がよいかもしれない。平成12年11月3日