牧野氏                                牧野氏在城のとき、城主忠成の弟、越中守儀成が居住していたので、「越中屋敷」と呼ばれていたが、正式には北の曲輪または北城といわれている。天正十八年「1590年」牧野氏が移封され、元和二年「1616年」まで二十六年間の在城中に改増築された部分は、本丸を南北につくった桝形門である。大胡城最後の城主は牧野駿河守忠成だった。牧野氏の家史によると、その祖は相撲の神様といわれる武内宿槇から二十五代目の成朝が、三河国宝飯郡牧野村に住居を構えたときから牧野姓を名乗っている。その後、足利尊氏、今川義元などに仕えていたが、忠成のとき今川が滅びたので徳川に属し、以来、徳川の大名として仕えて天正十八年、父康成二万石で大胡城に封ぜられ、康成慶長五年「1600年}関ヶ原の合戦に子の忠成とともに出陣した信州上田城攻めで失敗し、その責任を問われ四年間ほど吾妻に引きこもっていた。慶長九年家督を忠成に譲り、慶長十四年五十五歳で病没した。忠成二十四歳で大胡城となり、慶長十九年「1614年」大阪冬の陣を経て、元和元年「1615年」同夏の陣で戦功をあげ、よく二年七月五万四千石に加増し、越後長峰城に移封された。牧野忠成が越後長峰城に移封された後、大胡城は廃城となったが、これには、こんな面白い逸話がのこっている。あるとき、忠成が大胡城の櫓台に登ってみると、南の空が赤く燃えているので、これは江戸の大火だろうと早速見舞いにと江戸城に参上すると「早々と駆けつける心がけは見上げたものよ」とかなんとか誉めことばを与えられ、調子づいた忠成「江戸は私の城の眼下ですから」と言ってしまい、そんな所に城はいらないと越後長峰城に移封されたという。