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場所・・・前橋市小坂子町西新井

 小坂子町西新井に小坂子城があり、西新井城ともいう。

この城は嶺城の支城であり、厩橋城(前橋城)とのかかわりの強い城でもある。この城の殿様、五十嵐和泉守は、その祖先は越の国(越後、越中、越前)の人でおる。関東管領の上杉の旗本として、上野の国の漆原城(北群馬郡吉岡村漆原)の城主であった。そして箕輪城とは互いに助け合う関係であった。このような支城の城主は、本城の箕輪城が落城(永禄九年)すると敵(武田氏)に降るか味方の別城へ加わるしかなかった。和泉の守は東方の厩橋(前橋)へと逃げのびた。其の時に厩橋城を守っていた大将の丹後の守北条景秀(1580前後)は和泉の守の傑物(弓の名人)を見抜き、家臣に取りたて厚く待遇したそうである.そして、景秀は娘を和泉の守に嫁がせ、親子の縁を結んだほどである。この時に和泉の守は小坂子村に移り、小坂子城の城主となったのが小坂子町との巡り合いであった。やがて和泉の守は一人の男子を生んだ。幼名を鶴千代といい、大変利発な子で、小さい時から長昌寺の和尚さんに読み書きを学んだ。時は移り、徳川の世となり、厩橋城の殿様、酒井雅楽頭(うたかみ)忠世公(1617-1636)がある時、長昌寺に立寄った折に、接待役の鶴千代に逢った。殿様は 鶴千代を見て、この子は将来きっと国の役に立つ人物になると確信し、直ちに百石の俸禄をあたへ、殿様の世継ぎである安房守忠行公の側付(旗本)とし、名を五十嵐荘左衛門と名乗らせた。更に、五十嵐荘左衛門久和は大坂冬の陣、夏の陣に従軍し、大きな手柄を立てた。その功績により、また、百石が加増されたという。(小坂子公民館の庭に碑文現存)。小坂子城の規模は、狭長な地形上にあり、南北220mに及ぶが、幅は80mに過ぎない。北端を渋川-大胡街道がかすめている。本丸は東北-西南の長さ60m、壕をめくらしていたのだが東側は外縁が失われてしまった。南北の堀には道路がある。北側には高さ3mの土居が鍵形に遺り、東北は鬼門をかいている。本丸の南40mと、北70mに堀切りの跡がみられ、北のものは逆乙形である.西には帯曲輪がつく。山城形式であったことが認められる。


 

本丸南の堀切


 

本丸南にある子供地蔵


 

本丸全景


 

 

本丸東にある外堡 (下北沢)


 

本丸北(堀切があったと思われるところ)


 

本丸南にある八幡神社


 

訪問記

 現在は畑になっていて、古い家があるが、住んでいない。今は、狩野さんとい方の所有であるそうである。西側の道路との比高3m位の丘城である。小坂子町広報に最近、この城のことが載っていたそうで後日調べてみたい。 ( この件については平成13年9月2日に調査し、トップに記載し直した。)