五十嵐荘左衛門親子を称える碑
小坂子町 公民館の入り口北隅に、大きな自然石の安山岩を刻んだ古碑がある。
この碑文は、地石の平らな面に直接刻んだもので大変読みにくいむものである。
何日もかけて、「芳賀歴史友の会」が碑文を写し取り、解読を試みたが解読する
ことは出来なかった。幸い、原田種成博士、(国領町)のご指導により、ようやく
難問を解決することができた。この碑は高さ70センチメ-トル、幅175センチメ-トル、厚さ
25センチメ-トルで、台石の上にがっちりと据えられている。紀年銘は延享二年(
1745)井通煕撰とあり、「井」は「井上」の姓を修したもので井上蘭台のことである。
江戸の学者の井上蘭台に文をかかせたことはたいしたものであると、原田博士
は驚嘆されていた。原文は次の通りである。
五十嵐和泉守其先越川人属上杉管領麾下下居上野川城又与箕輪城輔車相
依是時敵国並作屠城略地箕輪漆原皆丘廃矣和泉守東奔厩橋其守将丹後守北条
景秀厚遇和泉守異於它人和泉寺徒小坂子巴而家焉聚景秀女生一男小鶴千代為
児穎敏学書於厩橋長昌寺 太守雅楽頭酒井忠世君過長昌寺鶴千代陪其莚席 太
守見而奇之廼間寺主日是子何如寺主悉告其状。太守日鳥 良家子必為国器賜食
巴百石属 世子阿波守忠行君麾下稱五十嵐荘左衛門従口頗有り戦功。太守賞之
加賜百石其子孫相伝以至於今給事 厩橋太守家百年矣以忌辰修造墓碣其銘日
信誼之門保其家兮。
惟茲徳栄為国華兮。
後人作孚庶乎不差兮。
延享二乙丑
七月二十二日
松永永哉叟立
東都井通煕撰
解読文
五十嵐和泉の守は、その先は越州なり。
上杉管領の麾下に属し、上野の州(くに)漆原城に居り、また箕輪城と輔車相い依る。
是の時 敵国並び作(おこ)り、城を屠(ほふ)り地を略し箕輪漆原皆丘墟となる。和泉守
は東のかた、厩橋に奔(はし)る。其の守将丹後の守北条景秀、厚く和泉の守を遇する
こと、他人に異なる。和泉守、小坂子巴に徒(うつ)りて家す。景秀の女を娶り一男
を生む。小字は鶴千代、児たりしとき穎敏(えいびん)、書を厩橋の長昌寺に学ぶ。
太守雅楽頭(うたのかみ)酒井忠世君、長昌寺に過(よぎ)る。鶴千代其の莚席に陪
す。太守見て之を奇とし、廼(すなわ)ち寺主に問いて曰く、是の子は如何と寺主悉
(ことごと)く其の状を告ぐ。太守曰く、ああ、良家の子なり。必ず国器と成らんと、食
巴(しょくゆう)百石を賜い、世子阿波の守忠行君の麾下に属せしめ、五十嵐荘左衛門
と称す。浪華の両軍に従い、是の従頗(すこぶ)る戦功あり、太守之を賞し、百石を加賜
す。そこ子孫相い伝え、以て今に至るまで厩橋の太守の家に給事すること百年なり。ここ
に忌辰を以て墓碣(ほ゛けつ)を修造す。その銘に曰く、信誼(しんぎ)の門、その家を保つ。
これこの徳の栄えは、国の華たり。後の人孚(まこと)を作(な)し、差(たが)わざるに庶(
ちが)からん。延享二年乙丑 七月二十二日 松崎永哉(えいさい)叟立(そう)立つ
東都井(上)通煕撰