八段錦8 たとえば、人格さらには霊格ということを主体に考えた場合に、何を基準にするかというと、「自分のために生きているか」「自分以外の他者のために生きているか」ということが基準となるのである。 この場合の「自分以外の他者と」というのは人間ということではなく、生きとし生けるもの総てである。 「総てというと、有機物と無機物の境が判然としないウイルスなんかもかい?」てなツッコミもあると思うが、そこんところも含めてであるのはゆーまでもないことである。 もちろん、自分のために生きることが霊格が低いということであり、自分以外の他者のために生きるということが霊格が高いということである。 まあ、どこの国でも、ご長寿者をめでたがる慣習があるわけであるが、長生きしようとする人で、心から何もかも人のために生きてる人なんてのはいないのである。 長生きするためには、どんな言いわけをしても、とりあえずは自分の身体、つまりは健康を考えないといけないからである。 健康を考えるというのは、自分以外の他者のことはさておいて、とにかく自分のことだけを考えるということである。 つまり、長生きすればするほど、霊格が下がるということである。 気功もヨーガも密教も仙術も、総ては不老長寿・不老長生、しいては不老不死がその究極の目的であるから、自分のことしか考えないということであり、いわば霊格をいかに下げるかという教えである。 つまり、どれもこれも、最低最悪クズゴミガラクタ廃棄物てな人格霊格を作るためのメソッドであるわけである。 ううむ、いいね、象気功はこーでなくちゃいけませんやね。 さて、その、最低最悪の自分のことしか考えない人格霊格を作るメソッドの代表の気功の中でも、気功のエッセンスを寄せ集めた気功の中の気功である八段錦を本日も怒涛の解説でLIVE放送する象気功はいったいどのくらい霊格が低いんだということであるが、あたしは皆さんのために自分をなげうって人体実験して、その結果を皆さんのためにほざいてるわけであるから、ひとえに「自分以外の他者のために生きてる」わけであるからいいんだもんねー、ざまーかんかんである。 まあ、このように、ものは考えようである。 わはははははははははあはははっはっははのはーっ 笑うな。 つーことで、さて、ひととおりふざけ倒したところで、本日の本題である。 八段錦を一段ごとに写真や絵で紹介してる本やサイトがあるが、そんなものでは何もわからないということは、これまでの解説でいやというほどご理解いただけたことと思うのである。 それがたとえ、DVDや動画であっても、ヘタクソの動作であれば、どんどん本質から遠ざかるのである。 また、そのセンセーが空手や中国拳法の何段であるとか、本場のちゅーごくじんであるとか、日本の気功の権威と称するホラ吹きであっても、張り切ってるだけで基本もなにもあったもんじゃないことをやってる場合がほとんどである。 氣の世界は、聞きかじり読みかじりのにわか仕込みでわかったようなことを言い張ってるだけのヘタクソ満載の世界であるので、たいていのマニアはとんちきなメソッド・カリキュラムを延々と夢中でこなして、人生を無駄にしているのである。 大センセーと言い張ってるパ~が本物であるかどうかは、気功法というからには、氣が出ているかどうかということに尽きるのである。 どんなに豪快な動きでも、どんなになめらかで見事な演舞でも、氣が出ていないものは気功法として間違いである。 当たり前である。 これは、氣がわかり氣が見えるあたしら霊能者には難なく見分けられることであるが、一般能無し衆生にはそんなことができるわけもないので、ナンセンスなことに、体の具合の悪い気功師であるとか、でたらめな食生活のために老化してボロボロのヨーガ行者であるとかに師事して、時間も金も無駄にしてる人も多々おられるわけである。 基本的な目的が健康・不老長寿であるのに、体の具合が悪いとか、老化してボロボロのセンセーというのは、どんな言いわけをしてもセンセー自身のやってることが大間違いであるのは、普通に考えればわかることである。 ものごとは何事も普通に考えればいいのである。 普通とは何かつーよーなめんどくせーことはあちらにひとまず置くとして、おいおい、置くのかよ、たとえば、立つことを普通に考えれば、武術や格闘技や武道なんてこと以前に、踵(かかと)体重で立ってるアホはいないのである。 ちょっと押したら後ろにひっくり返る姿勢で立つなんてことをしてる人間が有史以来いるわけはないのである。 その誰が考えてもアホなことをいかにも秘伝のように教えるセンセーが巷間に溢れ充満肥満してるわけであるから、世界中で、ものすごくたーくさんの人がとんちんかんで無意味なことを日々お励みになってるわけである。 象形流站椿功では背骨の最上部の首の付け根を足の親指を中心とした前足部に乗せると解説しているわけであるが、もちろんそれは、全体重を前足部にかけるということではなく、足の裏全体は接地して、中心を土踏まずとした場合のバランスが前足部ということである。 その基本が首の付根が前足部に乗るということである。 それで、ふくらはぎが痛くなるとか、つるなんて場合は、それはそれで間違った立ち方である。 足裏全体を接地して、踵に薄紙を一枚挟んだ感覚である。 何も考えずに普通に立てば、バランスをとるために誰でもそのようになっているのである。 象気功で解説している站樁の立ち方は、「普通に立つ」ということを解説しているのである。 それが、マヌケな気功師や仙術なんかのホラ吹きのでたらめを真に受けて、間違った立ち方をさもありがたいお題目のように信じ込んでいるから、象気功が異端扱いされるわけであるが、あたしは常に当たり前のことしか言ってないのである。 自分のしてることを考えて、どうもこれ無理があるなと思ったら、それは間違いである。 いわゆる根性や気合は健康にはつながらないのである。 正しいことは無理がないのである。 無理やりこれでもかとあちこちひねるとか、無理やりこれでもかとあちこち伸ばすとか引っ張るとか、無理やりこれでもかと息を吐くとか吸うとか止めるとか、無理やりこれでもかと歩くとか走るとか、無理やりこれでもかと無謀な回数をこなすとか、無理やりこれでもかと我慢するとか、なにしろ無理ということは、健康につながらんし、しいては最終目的のご長寿にはつながらないのである。 無理なことを継続すれば、当然どこかに不具合が出て、さらには、それが病気につながったりすれば、運気どころではないのは当たり前であるから、何をかいわんやである。 何事も気持ちのよい範囲内が、健康につながり、しいては脳も快調になり、それが運気上昇につながるのは当たり前である。 だから、八段錦も無理がなく気持ちのよい範囲内の動作がよろしいのである。 人間は体を動かすと、それが即、ドーパミン放出のスイッチとなるのである。 それが、「気持ちいい」ということである。 まあ、それが、間違った方向に行くと依存症てなことになるのであるが、動くことで依存症になることはないのである。 ところが、その動くことに無理が生じると、アドレナリンやノルアドレナリンの過剰な放出となり、血管はよろしくない状態となるのである。 血管がよろしくない状態になれば、細胞がよろしくない状態になるのは当たり前である。 細胞がよろしくない状態になれば、癌や梗塞やその他の疾病・障害などに罹患する可能性が大きくなるのも当たり前である。 身体の限界を追い求めて無理をしまくるスポーツの一流選手が、普通の人より早死になされることが多々あるのはご存知の通りである。 また、気功という観点から言うと、無理があると「氣が切れる」のである。 もちろん踵体重では氣が切れるのであるから、正しく立つことが前提であるのは言うまでもないことである。 その正しく立つということは、「普通に立つ」ということである。 普通というのは中庸ということである。 出ました、中庸。 続く。 |
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