八段錦6 まあ、八段錦は八つの段でそれぞれを八回ずつ繰り返すということが基本であるわけである。 すでに解説したことであるが、この八回というのは、ちゅーごくでは、八(パ)と商売繁盛などにつながる発(ファ)の発音が似ているということから縁起がいいというだけのことであるので、律儀に八回やる必要はないのである。 八段をそれぞれ八回では全部で64回もやるわけであるから、これ、あたしみたいな宵越しの銭を持たない葛飾亀有生まれ湘南育ちの気の短い江戸っ子サーファーにはめんどくさくてやってられないのである。 どんなに有益なものでも、めんどくさくなると継続ができなくなるのである。 各動作を覚えたら、毎日やるのは半分の4回ずつでも十分であるし、それでもめんどくさけりゃ3回ずつでも2回ずつでも、さらには1回ずつでもいいのである。 要は継続である。 氣のカリキュラムはとにかくやらないよりはやった方がいいというスタンスが大事である。 まあ、八段錦はやり過ぎても偏差の問題もないので、いくらやっても差し支えないのであるが、過剰にやってもそれで何か特別な効果が出たり特別な能力が開発されたりすることはないので、これでもかと根性でやっても無意味である。 八段錦の目的が、超能力開発とか霊能力獲得とかてな間抜けなことではなく、気功の目的そのものの「健康増進」であるから、「適度」ということが肝要である。 八段錦はある意味、気功そのものである。 気功の有用有益なものを寄せ集めたメソッドであるということも言えるのである。 そうはいっても、それが間違えた立ち方であり、間違えた動作であれば、効果は半減どころか、気功として無意味になる場合もあるので、ものごとは世界一のセンセーを参考にすることが肝要である。 氣の出ていないセンセーの立ち方動作では、それがどんなに綺麗でも、どんなに理に適っていると言い張られても、気功として無意味である。 たとえば、そのセンセーが武術的にいかに強くても、いかに流麗で美しくても、いかに教理教程に忠実でも、そのセンセーの立ち方や動作が気功として優れているということではないのである。 あるいは、ヨーガでどんなに難しいポーズができようが、それがヨーガとして優れていることではないのと同じである。 ヨーガの本来の目的も健康増進であるからである。 とても余人のできることではないアクロバットのようなポーズができたり、とんでもない呼吸法をこなしたり、腹筋をぐりぐり動かしたりできても、寿命とはなんの関係もないのである。 ヨガをやってる方はご存知の方もおられると思うが、真言ヨーガだの目覚めのヨーガだのヨーガ教典の読誦呼吸法だのなんとかヨーガセラピーだのといーろいろえらそーなことをのたまわって、威風堂々の体躯でNHKのヨガ講師も務めていた有名なヨガの大センセーと言われる男性が66歳でころりと心不全でお亡くなりになったのである。 何もしないふつーの人の寿命が90歳が当たり前という、昨今の長寿大国日本では、66歳では、早死にもいいところである。 どんな言いわけをしたところで、つまり、その大センセーに習って、同じようにできるようになれば、その大センセーのように、早死にするということである。 なにしろ天下の国営放送も認める日本のヨガの権威である大センセーであるから、ヨガは早死にする方法であるということになるのである。 まあ、これは、ヨガがへっぽこということではなく、大センセーがヨガの本質を理解していなかったということである。 だから、えらそーにもったいぶって教えるセンセーを闇雲に信じ込んではいけないのである。 誰とは言わんが、最近では、いかにもヨギーてな格好でクンダリニーが覚醒しただの空中浮揚ができるだのと、塀の中のあの人の二番煎じを売り物にして、老化してボロボロで60代のときにすでに80代に見える白髪でゲーハーでヒマラヤを背景にお座りしてるようなホラ吹きの本やセミナーを受けても、なんにもないのである。 言ってることすべてが、聞きかじり読みかじりのホラだからである。 かっこうをつけてえらそーなことを大層にもったいぶってのたまうやつにろくなもんはいないのである。 そこへ行くと不肖象師匠はたいしたもんである。 世界最強の超能力者で古今未曾有の大霊能者であらせられるにも関わらず、空中浮揚もサイキックも前世鑑定もスピリチュアル鑑定も占いも霊視も失踪者探しも地震予知も宇宙との交信も神との交信もなんにもできないのに大食いで女好きという、いわば無能力者で消化器系が絶好調であそこも絶好調が売りである。 まあ、あそこが絶好調は日本国内に限らず世界中の各宗教団体あるいは宗教まがい団体の教祖幹部聖職者神職者指導者導師リーダー各位にも多々おられるので、売りにはならんかもしれんのであるが、まあ、なにごともたたないよりはたつ方がよろしいのは言うまでもないことである。 つまり、このようにくだらなさの上に下品というよーな最低最悪のキャラクターを前面に押し立てているからこそ、象気功は信ずるに足るわけである。 え?馬鹿だから健康なんだろう? そー言われると、ぐうの音もぷうの音も出ないのであるが、不肖象師匠がそのへんの病気がちで早死にのホラ吹きとちがうのは、健康で身体頑健・体力自慢であるところである。 たたいてもどついても、たいていのことではびくともしないのである。 いい年した中高年のおっさんであるのに、血圧は常に125の75で、体力はいわずもがなで、血管の状態を調べると20代前半と言われ、親族の寿命を参考に予測すると、どう考えても、事故にでも遭わない限り、寿命は楽々と百歳以上である。 現在のところ、あたしの寿命の目標は120歳である。 どんな超能力者も、霊能者も、霊視を売り物のでぶも、前世鑑定のでぶも、気功の権威のでぶも、ヨガの権威の老化して今にもしんじゃいそうなボロボロのヒマラヤおすわりのゲーハーも、健康状態と寿命ではどこからでもかかってこいである。 どんなにえらそーなことを言っても、とーにょーであちこち具合が悪くて動くのも大変だったり、老化して年齢より20歳老けこんで見えたり、そのあげく早死にしてしまえばなんのこっちゃである。 えらそーなことを言って早死にした奴の言うことを信じ込んでそのとおりにやればすぐしんじまうということである。 意味ねーだろである。 気功もヨーガも密教も導引も仙術も、目的は不老長寿・不老長生き、しいては不老不死であるのは当たり前である。 具合を悪くてして早くおっちにたいなんてことを目的の修行メソッドがあるわけがないのである。 どんな修行メソッドカリキュラムも健康になることが基本である。 たとえ心のありようを変える修行にしても、心を変えることにより健康になるということが主眼である。 心を変えて不健康になるて修行法があるわけがないのである。 健康のその先だなんてことを言う馬鹿がいるが、健康の先に不健康を目指すなんてことはナンセンスである。 どんなことがあっても体を痛めてはいけないのは当たり前である。 お釈迦様も修行の果てに、苦行は無意味であると喝破なされているのである。 病気になりたいとか、早死にしたいなんてことが目的なら、寒くて熱くて腹へってひもじくてめんどくさくて退屈でつらい修行なんかするよりも、楽しい酒池肉林暴飲暴食に楽しいゲーム三昧の運動不足のでぶはげめがねで十分であるのである。 さらには、不老不死が高じて、魂は死なないだの、死後の世界だの、因縁だの、タタリだの、除霊だの、浄化だのとホラを吹いて金儲けを算段してるのが宗教であるが、神の思し召しと称しても神のお告げと称しても、どんなにきれいごとを並べたてても、その目的は経済効果金集めであるということをわきまえた上でお楽しみなるのが宗教を楽しむコツである。 それで、どうみても総ての欲から解脱大悟して悟りをこれでもかと開いて、ものすごく光り輝いて素晴らしく見える人に出会ったときは、30歩ぐらい下がって、さらに走って1㎞ぐらい離れて、眉に唾をべとべとにつけて、双眼鏡でじろじろ見て、後頭部ハゲを確認して、そいつがあらぬサイトを見て「えへへへへへー」と笑いながらひとりであらぬことをしてる姿も想像して、自分とたいしてかわらんパ~であるということをよーく確認してから、おもむろに「ぼっぼくもパ~です!」と喚いてから入門入塾入会入信弟子入りをするのが正しい順序である。 ううむ、十二分に世間のホラ吹きをディスったところで、さてさて次回は八段錦のどこに迫るのか突き放すのかどつくのか、出たとこ勝負の神のお告げのお笑いLIVE放送はさらに続くのである。 ううむ、アレだが、まあ、いいや。 続く。 |
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