象気功

除霊


除霊法19 返り念障(かえりねんしょう)10・気の穴

えーとなんだっけ?

ああ、そうだ、たしか「返り念障」を受けないようにするにはどーするか?ちゅーことだったと思うのである。

まあ、何回も言いますが返り念障を受けないようにしたければ、相手に念障を発生させるような観念、感情を持たなければいいわけであるが、これができないように神が人間をお造り遊ばされているわけである。


前回、解説したように、これは、たとえばいろいろな文献、あるいは大センセイのご本を読んで、「なーるほど、何があっても、しても、心が清らかならいいわけか!」なんちゃってそれを保とうと思っても、脳のほんの一部のそのまたほんの一部の新皮質のほんの一部の前頭葉なんかの表層意識による精神では、その数千倍数万倍の膨大な爬虫類脳に駆逐されてしまうのでぜーんぜんだめであり、密教、神道、修験道、カソリック、プロテスタント、モスリム、インチキカルトなどのカリキュラムで大修行を敢行しても、これまたぜーんぜんだめで、なんの役にも立たず、とにかくなにをどーしても、他人にちょっとでも厭なこと言われただけで、そいつを恨んで辛んで憎んで怒りの念障をごってりと山盛りで発したりして、返り念障はその何倍も頂いて人生のどつぼに怒涛のごとくはまる日常をどなたもちゃくちゃくと歩いておられるわけである。

つまり神によるありがたーいお脳のプログラミングで表層意識による精神で何をやってもだめなのである。

それではあたしたちはいったいどーしたらいいのかとゆー苦情を言いたいわけである。

このまま、頭も重く、肩も腰も足も返り念障ずっしりぐりぐりごりごりで身動き取れずに一生泥沼の底をずるずる這いずり回る人生しかないのか?とゆー苦情である。


さて、それをなんとかするためにあたしの神が象気功を現したのである。

神のお授けであるから、できないことでも、とにかくなんとかしちゃうわけである。

まあ、なんとかするっちゅーても、なーにしろこんなもん読んでる皆さんであるから、こー言っちゃなんですが、運のいい人なんかおられるわけがないのである。

運のよろしい人は忙しいのでこんなくだらんもん読んで、あーだこーだ理屈こねてる暇にお金儲けに邁進する毎日であるから、人のことも自分のこともどーでもよくて、返り念障なんか受けないので、こんなもんぜんぜんきょーみはないのである。

必然的にこれを読んでる皆さんは、まあ、本人の思いとは関係なく、返り念障で脳が硬直化して、どーでもいいこをぐだぐだと日夜思い悩んでいる、返り念障大受けの皆さんであるわけである。

とにかく、なんでんかんでん、とにかくうまくいかないのである。


それをいくらかでも緩和して生活を豊かにしてあげようじゃあーりませんかとゆーので神さんを降ろしお授けをいただいちゃおうとゆー大変香ばしい企画なわけである。

ううむ、象気功でもっとも重要な法を説こうとゆーのにこんな信憑性のない表現でいいのかねしかし。

まあ、表現の是非はともかく、象気功の本領発揮の念障祓いの秘法「気の穴」である。

象気功のタイトルの「気功の穴」も実はこのあたりから来ており、まあ、これが象気功の奥義っちゃ奥義なんであつが、まあ、これ、実はわかりにくいので解説が大変なのである。

とにかく、返り念障を祓うとゆーことで、身体ができていない大半の皆さんの身体で体現できるかどーかわからないのであるが、まあ、とにかく粛々とお筆先により解説するのである。

さて、「気の穴」である。

人間の身体の前面の空間には、一本の管が頭上の彼方、天空の彼方、宇宙の果てから身体の前面を通り足元を通り抜け地の底を通り抜けてまた宇宙の彼方へ果てしなく伸びでいるのである。

わかるかねこれ。

この、管が身体のどのくらい前か?何センチ前か?太さは何センチか?なんてことではないのである。

「身体の前」にあるのである。

あるったらあるのである。

あるんだからしょーがないのである。

だーれにでもあるのである。

だから、もちろんあなたにもあるのである。


名称はなんてゆーのか?なんて聞かれても、そんなもん知らないのである。

管である。

まあ、オリジナル・タームをつけるとすれば「象管(ぞうかん)」である。

まあ、身体と接してるっちゃ接してるし、離れてるっちゃ離れてるのであるがとにかく果てしなく無限に長い管が天空から地の底宇宙の果てまで伸びているのである。

その管の下部の、足の親指の辺りからかなり下の方に「小さな柔らかい穴」があるのである。

これもどのくらい下か?何メートルぐらい下か?なんて聞かれても、身体の長さ、足の長さ、手の長さ、胴の長さ、顔の長さ、姿形、人相手相が違うように、人それぞれでありますのでわからんが、とにかく、かなり下の方に穴があるのである。

「象管」を気で慎重に探っていくと、気の力が入らないところに出くわすのである。


意識がそこで消えるのである。

その「気の力」が入らない、意識の消えるところが「気の穴」である。

ううむ、これ、わかる人が何人いるんだろうか。

ううう、これ意味があるんでしょうか?

まあ、そんなことは関係なく強引に推し進めるのである。

なにしろ、神のお筆先であるので、わかろうがわかるまいが知ったこっちゃないから、理解は読んだ者の勝手である。

象気功は提示するだけである。

まあ、それでね、その穴に気を呼吸とともに柔らかく吹き込むのである。

「象管」は身体の全面にあるのであるから、もちろん前方に穴があるので前方に向かって柔らかく吹き込むのである。


また、意識で送り込んでもいいのであるが、まあ、なかなか意識のみで送り込むのは困難なので呼吸に乗せて柔らかく吹き込むようにするといいのであるが、いずれにしても気がわからないと実感できないかもしれないのであるが、これが返り念障を軽減するのに非常に効果があるのである。

実際にこれがうまくできると、頭や肩にのし掛かっている念障がこの穴に吸い込まれるように減少するのである。

念障による頭の重みや肩の張りや凝りが消え、念障がなくなるのが実感できるのである。

つまり、念障のない状態を実感できるのである。

念障を背負っていない身体がこのように楽なものであることが実感できるのである。


それで、この「気の穴」に気を送り込んで、念障を消滅させているときは、まあ、これ、できていればとゆーことを前提でありますが、とにかく、この状態のときは、身体も楽であるが、返り念障を生む「恨み、辛み、妬み、嫉み、憎み、怒り、恐れ」なんて感覚がなくなるのである。

つまり、この状態を保てれば、返り念障を生まないから、人生も非常に快適になるのであるが、しかし、これ、なーかなか持続することは困難である。

でも、やらないよりは、確実に念障は軽減されますので、人生は確実に良い方向に向かうはずである。

これを知る前と後では確実に運命が変わるのである。

まあ、これ、何度も言うが、「できた場合」である。

まあ、しかし、現在は気がよくわからなくて、これができない方も、「象管」と「気の穴」の存在を知ったということは、いずれ「できる」可能性があるのである。


まあ、身体ができていてこれが体現できて、念障が軽減できた方は、もちろんラッキーである。

確実に以前よりは人生が良い方向へ向かうのである。

でも、これも、やっぱり、DNAの範囲内であるので、この法を行うのを終了するとゴムが縮むように、脳は戻ろうとするのである。

でも、真言と同じようにやる前よりは確実に「恨み、辛み、妬み、嫉み、憎み、怒り、恐れ」の念を発することが減少し、返り念障を受けにくい身体、脳になるのである。

でも、繰り返すが、「行う以前よりは」である。

これで、昨日まで四六時中他人を恨み憎み人生を呪い社会を呪い自分の不遇を呪って返り念障満載で人生の泥沼を這いずり回っていた御仁が、いきなり、「恨み、辛み、妬み、嫉み、憎み、怒り、恐れ」なんて感情で念障を発することがなくなり、返り念障のない豪放磊落怒涛豪快の人生を歩き出すなーんてことではないのは当たり前である。

それでも、やらないよりはやった方が確実にその後は良い方向へ向かうのである。


その穴が拡がるからである。

それで、まあ、その穴の許容量はかなり広大なのであるが、それでも、これを頻繁に年がら年中行った場合には穴の許容量に限度があることがわかるのである。

穴がこれ以上入りまへんと言い出すのである。

ううむ、象気功はすごいな。

神さんのお授けだけに際限がないな。

続く。

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