広葉樹(白) 第四回公開講演会   
       

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プログラム

日時平成7年7月16日(日曜日)
会場横浜市市民文化会館関内ホール(大ホール)
参加者 1,000名

開 会 13:00〜
   会長挨拶 金子保雄
   来賓挨拶 横浜市医師会会長 内藤哲夫先生
          横浜市衛生局地域医療課長 清水征夫氏
 
   第一部講演 
          養老孟司先生(解剖学者・東京大学医学部名誉教授)
          柳田邦男先生(ノンフィクション作家)

   第二部 対談
     司会 谷荘吉先生(医療法人協仁会小松病院長)
        養老孟司先生
        柳田邦男先生
     質疑応答
閉会のあいさつ 松山秀介横浜市大医学部小児科教授
閉 会 17:20
       




講 演

その1
“死者から見た生者
講師 養老孟司 先生
     解剖学者・東京大学医学部名誉教授

 私は本日のお話に適当かどうかだいぶ悩んだのですが、と申しますのは今ご紹介がありましたように、私はホスピスの一歩先で、亡くなられた方をずっとお預かりして参りました。だいたい毎年30〜40人の方をお預かりして参りましたので、そちら側から考えることを申し上げるしかないな、と思って参りました。

 自然に生きて自然に死ぬと言う事ですが、これは現代社会では非常に難しいと私は思っております。そもそも多くの方がその自然というものをあまりお考えになったことがないのではないか、という印象を持っております。自然とは何かというのは非常に大きな問題ですが私は簡単に予測ができない、従ってコントロールが出来ない、そういうものを自然と呼ぶと。どういう事かと申しますと例えば、私は3月に退官致しましたが、去年の9月に教授会で「3月で辞めます」と言うことを申し上げた訳ですが、そうしたら同僚の数人から「先生、4月からどうしますか」という質問を頂いた訳です。まあ癌の告知と同じで、言われてみなければどんな気持ちか分からないもので、「辞めてみてから考えます」と申し上げました。そうしたら、一部の方が「そんなことで、よく不安になりませんね」とおっしゃる。ですから私は「ちょっと待って下さい、先生もいつかは何かの病気でお亡くなりになるはずですよ。何の病気でいつお亡くなりになるか、お分かりですか。」と言ったら、「そんなこと分かる訳ないでしょう」「それでよく不安になりませんね」と申し上げました。(笑)

 つまり、ご自分の事をお考えになるとすぐお分かりになるのですが、現代の多くの方はおそらく自分の生き方の向こう側に何か大きな壁をこしらえ、今の例で申しますと、自分が働いている所に非常に大きな壁を造ってそこから先は考えないという風にしておられるということが、そういう問答の中から分かるような気が致します。で、私は職業柄やむを得ず、その壁を越えさせられた、というところがありまして。と申しますのは私の所へ来ておられた方は全部お亡くなりになられた方ですから、そうしますと若いうちは目の前にあって横になっておられる人というのは、何だろうなということをある程度は考えますが、それもそれほど深刻に考えるわけじゃない。なぜかと言いますと、それは所詮、赤の他人でありまして、しかもそれの「成れの果て」であると。適当な表現がないので「異物」であるという感じをずっと持っておりました。

 ところが1O年やって参りますと段々意見が変わって参ります。意見が変わって来ると言うのは何も10年やっていたからというだけではなくて、気が付いたら自然に年を取っている訳ですから、まさに自然なのですが、そういう状況で見ていますとなんとなく亡くなられた方に親近感が出て参ります。それは仕事の対象、飯の種であるというだけでなく、やっぱりこれは何だろうなと思うとき最初に思うのは、いずれ俺もこうなる、と言うことであります。それでもう10年やって、50を過ぎてどう思うようになったかと言うと、亡くなった方を見たり、触ってますと、ふと思うのは「あ、これは俺だな」という感じがします。それで極端な言い方をすれば、手を解剖するには亡くなった方の手を握らなければならない。そうするとどういう感じがするのかと言うと初めは全く異物といいますか、全く関係のない冷たい物、固い物を触っている訳ですが、そのうちふと気が付くと、自分の右手が、自分の左手を持っているという感じに非常に近くなっているということに気が付くわけです。

 そこで、そういう感覚から世間を見ますと、皆さん全く違う感覚をお持ちではないかという気がして参ります。まさに亡くなった方というのはある種の異様な物で、自分とは違った物として捉える、これは日本語の中に非常によく現われていまして、例えば溺れて死んだ人を「土左衛門」と言います。あるいはテレビでドラマなどやっておりますと、刑事が被害者、殺人事件などで殺された方を指して「あの仏が」と言っております。つまり、「土左衛門」になったり、「仏」になったりしている訳で、要するにそこには非常にはっきり出て来るのは死んだ人は人間ではない、という考えであります。私は日本の文化の基調をなしている大きな切り方であると思っております。

 私がどう思っているか、今ご説明したことでお分かりと思いますが、死んだ人はやはり人間であります。ただの人間である、という気が致します。ただの人間ですから、私は亡くなった方をむやみに大事にするということは致しません。もちろん土足で踏んだり、生きていたとき気に入らなかったからといって「この野郎」といって頭をコンと叩いたり、そういう事をすると言う訳でもない。まあ、応分の敬意を払っています。例えば私どものところに亡くなった方が運び込まれて、いえ、自分で運び込んで参りますが、すると、お棺の蓋を開けて出さなければならない。これ、ご本人にお願いして出て頂くのが一番良いのですが、本人が出て参りますと面倒な事になりますので私どもが持ち上げて出す。(笑)それで台の上に置きまして次に何をするか、ひょっと見ますとどうしても顔を見ますから目が合う。目が合うといっても大抵の場合、向こうは目をつぶっていますから、ただ顔をパッと見る。するとどういう風に自分の感情が動くかと言いますと、やっぱり初対面の方が多いものですから、挨拶をしなければと思いますので軽く頭を下げます。で、向こうが頭を下げ返すと、えらいことになるんですが、幸いそういう経験がないうちに辞めることが出来まして。そういう感覚でございます。ですから、私が非常に不思議な感じがして来たのは、逆に一般に亡くなった方というのを、つまり死んだ人というのをどうして我々は生きた人間と分けるんだろうと。たまたまそんな気持ちている時に起こってきた問題が例の「脳死問題」です。

 「脳死問題」の議論を聞いたり読んだりしておりますと、私のように考えている人が非常に少ないと言うことがはっきり分かる、どこかで死んだとしないと気が済まない。で、どこかで切るわけですよね、ここで死んだと。だからあの臨調では脳死状態になったら死んだことにしようとして一生懸命基準を作ったり、偉い人を日本中から集めていろいろ議論している。何が起こったかというと、議論がまとまらなくて、少数意見が兵器になってしまいました。それを見ていて、私はこれは当たり前だなと思いました。どうしてかと言いますと、人がどこで死んだかということを人間は科学的に論理的に決める事は出来ない訳です。そんな事は皆さんちょっと考えればすぐ分かることでして。

 これもよく申し上げるのですが、私が大学院生の時に皮膚の研究をしておりました。大体は鶏を使っておりましたが、つまり卵を暖めてですね、皆さんは気持ち悪いとおっしゃいますが、有精卵ですと鶏が卵の中でどんどん育って、風邪などひいて一週間も大学を休んで、卵を培養器に入れっぱなしにしておくとひよこになっちゃう。ピヨピヨいってましたねということになるんですが、そのひよこを使いまして皮膚の培養をしている。それだけではなくて人の皮膚が欲しくなるわけで、そうすると人のを剥いでくれば良いわけですが、大学院生ですからそういうわけにいかないので、自分のを剥いで使うわけです。剃刀でこの辺を剥いで使うと、最近はなくなりましたけれども多少跡が残るわけです。痛い、まあそれはいいのですが、それを採って使います。ガラスの中に容れて飼う。そうすると当然の事ですが余りが出ます。さすがに自分の一部ですからもったいないのでとっておこうかなと思う。でどうするかというとシャーレに容れて冷蔵庫に放り込んで置きます。それで次の日また、それを実験に使う。ちゃんと使うことが出来ます。つまり皮膚というものは次の日でもちゃんと生きているわけです。そうしますと、一体ここに生えているこの皮膚は何だという疑問が生じる。これは、俺であろうか、何か別の物であろうかと。そういう事も皆さんはあんまりお考えになった事はないと思いますが何だか分からない物になって来ます。生きているうちは生きているわけで、死んでいるとは言えない。そう思いますと「生と死」というのはある意味で理論的に考えていきますと区別がない。じゃあ、そういう区別を我々はするか。そこでハタと思い当たるのが法律であります。

 法律では、医者というのは、死亡診断書というのを書くことが出来る、書く権利をもっているのですがどなたかが亡くなりますと皆さんがまずしなければならない事は、医者から死亡診断書をもらってくるということです。死亡診断書がもらえないようなケースは西丸與一先生(前横浜市大法医学教授)がおられますが、そっちへ回る。死亡診断書を見ますとそこに死亡時刻というのが書いてある。死亡時刻というのを法律が決めているわけですから、皆さん死亡時刻というのがあるということを固く信じて疑わない訳です。で、それをずらしてえらく怒られた偉い先生が昔おられたのですが。死亡時刻というのはわたしなどは全然関係ないと思います。状況によっては大事になることがございまして、相続問題などが引っ掛かかると面倒な事になる。で、死亡時刻が書いてありますが、これは法律上の取り決めである。つまり約束事である、という風に私は思っております。

 で、それではどうしてそのような時刻が出来るのか、それは単純な事で言葉というのはそういう性質を持っております。つまり、どういう性質を持つかと言うと、物事を切る性質を持っている。ですから、私たちは「生」という言葉を作って「死」という言葉を作り出すと、そこで境目が発生いたします。境目が発生したのは元々そこに境目があったのではなくて、私どもの頭の中に物事を切る性質があるから、そこで切らざるを得ないから切ったのです。それを延長して行きますと、私どもの身体というのは、本来生まれもったままの状態で育って来るわけですから一個のものですが、これに名前を付けだしますと、これがバラバラになって参ります。頭とか、手とか、足とか、胴体とかいう名前を付けますと、それでは手は何処から何処までだ、という議論が当然出来て来るわけであって手が何処から何処までかと考えますと皆さんきっと言えないと思います。この辺と言うしかない。しかし、学問というのは、厳密性を要求しますので、解剖ですと手は何処から何処までだと考え出す。そういうことでなかなかピンと来ないかも知れませんが、後でゆっくり考えて頂ければ何が言いたいかがおわかりだと思いますが、実は物事を切る、フィジカルに変えて行くのは人間の脳の一つの扉でございます。ですから、生と死というものが何処かで切れてしまいます。そして人間の身体という物に言葉を当てはめていくことによって実は人間の身体がバラバラになるわけですが、つまり胴体と手足と頭をくっつけてやりゃあ、人間が出来るだろうと。逆に、バラバラ事件などになりますと殺した人が死体の始末に困ってそういう形にばらしておりますが、(あれを見ていますと私にやらせりゃあもっと上手くきれいにばらすのにといつも思うのですが)非常な苦労をして無理してばらしている。まあ、自然でないばらし方をするからああいう事になるのですが。余計な事ですが、なぜ解剖のような行為が発生するかということが何となくわかって参ります。それは、私どもが、つまり人間が人間の身体に対して言葉化する、言語化するという事をやりますと、実は本来一つの物であった人間の身体がバラバラになってしまいます。それと全く同じように人の一生というものはだらだらと始まっている、何処で始まったか判らない。

 「トリストラム・シャンデ」という小説を読みますと、主人公が何と言っているかといいますと「俺の不幸は生まれる十カ月前に始まった」という風に書いてありますが、正にそういう事であって多分その辺から始まるであろうと。しかし、その辺から始まるかどうかと考えて見ますと、実はその時点で受精が起こるわけですが、もうちょっと測るとそこには卵子と精子があるわけで、どの卵子と精子が組み合わされるかは決まって居ないわけですけれども、少なくともそれが存在していないと受精卵は出来ませんので、もう少し前からあったかも知れないと言う気がします。そうするとだんだん禅の公案みたいになって来まして、父母未詳以前の何とかというややこしい問題になって参ります。要するに両親が生まれる前のお前はなんだ、という問題ですが、そういう事を考えて参りますと、人間の一生というのも訳のわからない所からまず始まります。そして、始まって産まれますが、産まれてくるのはですね、今は親御さん達が予定しまして、医者も一生懸命予定をいたしまして妊娠ですと判るとまず、予定日というのを教えてくれるわけです。

 これも非常に面白いものでして、予定日近くなって産まれそうもないということになると医者の方が予定日通り産まれるようにしたりする事が出来るわけです。そもそもそれだけでなくて産むか産まないかということを現在では親はある程度決定することが出来るわけですが、これは昔は出来なかった。ですから、産まれる所というのは人間のコントロールの下にあるとお考えかも知れませんが、それは私は大きな間違いだと思います。何故かというと実は産まれて来る子供の立場を考えていないからでありまして、産まれて来る子供の方から考えますと、全く自分の意思がそこには入っておりません。ですから、実は私どもは産まれて来るときは一切予定なしに産まれて参ります。そして予定なしに産まれて参りますと、今度は何が起こるかといいますと、勝手に年を取ります。私も気づいたら57になっておりまして、誕生日がくると58になるんですが、でそのうち2年経てば赤いちゃんちゃんこを着せられて、いろいろ女房が言っておりますが、そうなる。で、産まれたときからというか小学生とか中学生とかあるいは大学生の時とかそんなつもりは私は全くなかった。その位の方を見ると「年寄りだな」と思っておりましたが、自分でハッと気が付くといつの間にかそういう年を取っているんです。

 そして、先ほど申し上げましたように、年を取って行きますと、あちこちとガタが来まして、そのうちに必ず何かの病気になっていずれ死ぬと、ということは分かって居りますが、それがいつ何の病気か全く分からない。実はこの事は仏教の中に極めて端的に表現する言葉が在りまして、それを「生老病死」と。産まれて年を取って病を得て死ぬと、いう風に呼んでいます。「生老病死」とは何かといいますと実は私は人の自然であるという風に申しあげます。人の一生を自然と考えたときには自分の意思でなく産まれて来て、自分の意思でなく年を取り、そして何の病気になるか自分のつもりでなくて病気になってそこで死ぬというものであります。ところがそれが人間の自然の一生だとしますと、現代社会を見た瞬間にまた再び驚くことに気が付くわけです。

 現代社会の中で皆さんが暮らしておられる時にそういう風な論理で生きておられる方は殆どゼロです。定年退職されても何もしないで、私みたいに仕事はとりあえず休もうと思えば、今日も来るまいと思えば来ないでも良かったわけでして、首になる心配というのはこれ以上ないわけでして、そういう人は別にして、そういって自然の人生という意味で人生を生きておられる方がどれ位いるかという風に考えますと、殆どとはいいませんが90%位の方はそうしておられないのではないか。じゃあどうしておられるのかというと私は「ああすればこうなる社会」といいますか、一生懸命考えてこういう風にすればああなるだろう、ああいう風にすればこうなるだろうとそう考えて毎日やっている。役所ないし会社にお勤めの方なら、これこれこういう風なことをいたしますから、それについてはこれだけのお金が要るから出して下さい、それをやってこういう仕事をすれば大体こういうことが出来て、これだけお金が儲かりますという。そういう風な企画を出さないと絶対に通らない。私なんかですと、のこのこ出掛けていって実はこういう事がやりたいんですがと、そういう事をやってどうなるか、どうなるか分かりません、そんな企画は通せないという話に必ずなる。

 別の例を見ますと、お子さんが少しづつ大きくなってくればどこそこの幼稚園に入れて、次はどこの小学校へ入れて、どこの中学校に入れて、高校へ入れて、こういう大学に入れると大体どの程度の会社に就職出来て、いつ頃までは、課長、部長か知りませんけれどそうやって考える。つまりこれは何かと言いますと先ほどの「生老病死」とは全く違って、こうすればああなるという考え方でございます。で、こうすればああなるという考え方以外で動いている所がこの世の中であったらお目にかかりたいと言う気がする位に現代社会というものはこうすればああなるという考え方でいっております。ですから日本では外人の方がびっくりしますけれども、最近はあまり驚かなくなったようですけれども、電車がきちっと時間通りに来る。これは昔良くあったジョークですが、南米の電車になるとたまに時間通りに来る事があってびっくりして、時間通りに来たと言うとあれは昨日の汽車だって言う、そういう風な事が日本では全くない。

 それではこうすればああなる社会の基本的な原理は何かと申しますと、先程、自然というのは予測と統御が出来ないと申し上げたけれども、予測と統御が出来る社会。ああすればこうなる予測と統御が出来ないとなりますと、新聞が怒ります。神戸で震災が起こって政府の対応が遅いといって怒りますが、これは政府の言い訳を私が変わって言いますと、神戸の震災は予定になかったんでそれに対して予算も計上していなければ、人員もあててなかったから仕方がないという事になります。それが自然と人工の違いであって、人工というのが何かと言いますと、ああいえばこうなる。ああすればこうなるをもう少し短く言いますと、実は合目的的な社会でございます。つまり、こうなると言うために最も効率の良い方法を徹底的に追求するという原理で我々は生きております。ですから、そのためには何かの目的を設定するわけであってどういう目的を設定するかというと、出来るだけ働かないで、出来るだけ沢山の収入が得られるという風な事を設定いたしまして、まあ、回りを見てですね、そりゃあんまりそんな事を考えますと怠け者になるしかなくて、結局は儲からないということになるから、適当な所で、様々な要因を考慮しながら合目的的に我々は行動する。

 そういう風な日本の社会というものを見ておりますと私は実は昆虫が大好きでしてよく蟻なんか見てました。私は覚えていないんですが亡くなった母親がよく言っておりましたが、私の家は鎌倉の横町にありまして、横町で私が幼稚園のころしゃがんでずっと座っている。母親が通りかかって「何しているの」見ると犬の糞があって犬の糞を見ている。で、いつまでも犬の糞を見ているので「あんた何しているの」と言うと「いや虫が来ている」と言って犬の糞に集まる虫を見ていたようですけれども、その感覚で申し上げますと、日本のそういった徹底的な合目的的な社会というのは実は蟻の社会に見えます。外人がよく日本の社会をさして「蟻の社会」と言いますが、頭が黒いという事と人間が大勢いるという事だと思いますけれども、それだけではなくて何が言いたいかといいますと、蟻は多分一切物を考えていないと思うんです。ご存じのように本能で行動しておりますから考えていない。しかし、蟻は非常に合目的的な行動をしております。それは、驚くほどです。

 私は蟻の社会と日本の社会を見ておりますと、突然不思議な気がしてくるのはですね、我々は毎日一生懸命考えてそっちの案が良いとか、こっちの案の方が良いとかそういう物を比べて一生懸命生きております。そして苦労しておりますが、蟻はそういう事を一切考えないでちゃんと合目的的に生きて、最終的には私どもと同じ年月、数億年という年月をちゃんと生き延びて来ている。そうすると我々えらく苦労してやっているけれども結局は蟻がやっていることをやっているだけじゃないか。余りにも合目的的、効率的に行きますとそれは典型的な昆虫の社会になって参ります。人間というのは多分それに余分がついたものでありまして、余計な事をするものであります。そういうところが何か欠けてはいやしないかな、という気がして来るわけであります。

 実は今日なんでそんな事を申し上げるかと言いますと、私は一週間ほど前までブータンという国に行っておりまして、ブータンというのはヒマラヤの南の麓にございまして、インドと中国、チベットに挟まれておりますが、そこへ行って私が何を思ったかといいますと、本人は旅に出た積もりでいるわけですが、実はその旅は空間の旅でなくて、時間の旅でございました。私がちょうど子供の頃、犬の糞を見ていた頃は、戦争中から戦後にかけてでございますが、その時代の日本にそっくりでございました。車はあることはあるがあまり使っていない。牛や馬が非常に多い所ですから、外を歩く時は気を付けなければならない。牛糞・馬糞・人糞というのを避けて歩くということは子供の頃にだいぶ鍛練してあったので何でもなかったのですけれども、それを思い出した。

 お寺の中にトイレがありますが、皆さん面倒臭いから大体外でしているんです。けれども、ちゃんと家の中にもトイレがあります。お寺は山の中にありますからトイレを見ますと床に四角い穴が開いているだけであります。それで割合とその穴が小さいものですから、下を見ますと4〜5b下の方に地面があります。そこに泊まってですね、夜中にそのトイレヘ行ってトイレの穴を見るとそれが完全なブラックホールで、下が真っ暗で見えない。私はそこで初めて気が付いたんですが、ああいう穴が開いているトイレというのは下が見えると非常に目標が定めやすいのですが、ブラックホールになっていると非常にやりにくいという事です。焦点が非常に近くなってしまいまして、それは余計な事ですが。そんな生活をしておりました。実は何が言いたいかと言いますとそこのお寺に何十人がお坊さんがおります。非常に驚いたのがそのお坊さんが一人一人みんな顔が違う。これは当たり前じゃないかとお考えでしょうが、しかし、そういう意味ではないんです。

 ちょうどお祭りがありまして近郷近在の善男善女と言いますか大勢の人が集まって来る。これがまた特有の顔をしておりまして、坊さんの顔と見比べて私が何を思い出したかと言うと、黒沢明の「七人の侍」でございます。ちょうどあんな格好をした人達が集まって、そして坊さんの顔を見ていますと全部名前が付けられる。日本人によく似た顔をしておりますから、ブータンの人は。どういう名前を付けるかと言うと、西村晃とか北島三郎とか私が勝手に名前を付けて。日本でも俳優さんというのは割合個性のある顔をしておりますが、そういう顔がごく普通にお坊さんたちに見られる。私はそれが実に不思議だった。それでブータンの首都というのはティンプーという所がありますが、ティンプーからお役人が何人か来る。これは遠くから見てもパッと分かります。つまり一人一人が分かるのではなくて、あ、あれはティンプーから来た役人だなということが顔を見るとすぐ分かる。で、日本に帰って参りますとほとんど99%日本人がティンプーから来た役人の顔をしております。それじゃ坊さんの顔はどこが違うのか、どうもあれは生まれたままでそのまま育つとですね、ああいう顔になるのではないかという気がします。で、それはどういう事か、私にもよく分からない。向こうの坊さんの形態や組織を研究したわけではない、ただはっきり分かっていることは。ある意味で実力主義でございました。よく出来るお坊さんは大変偉い坊さんになる。だけど子供の頃からお寺に入れてしまいますから、出来ない人も沢山入っている訳で、その出来ない人はどうしているかというと、どうも出来ない成りに所を得ているような気がする。そうでないとああいう顔は出来ないような気がする。それが私が一番強く感じた日本の社会とのコントラストでございます。

 それでは先程申し上げたようにそれはどこの違いかと言うと、何のことはない、50年の昔、私が子供だった頃は実は日本人はああだったではないか。じゃあ、この50年というのは一体何だったのか、と、ものすごく大きな違いの様にも見えるし、そうでもないようにも見えますが、少なくても今の私の感覚からしますと、この50年というのは大変な変化であったと、言う気がする。じゃあ何をしたかというと、先程申し上げた、やっぱり日本を蟻の社会に変えて行ったという気がします。

 でそれが生きて行くこと、死んで行くこととどんな関係があるかということですが先程から申し上げているように一人一人の人生というのはよく「かけがえのない」という風にいうわけですが、私は「かけがえのない」という形容詞は自然に付く形容詞であると考えております。逆に自然というのは「かけがえのない」という性質を必ずもっております。ですから山の木を切るにしてもそうですが「かけがえのない」自然を守ろうと言い出す人は必ずいるわけです。その時に今度はそれを人間に応用致しますと、一人一人の人生は正しく「かけがえのない」。皆さん方の人生というのは他の人が生きる訳にはいかないし、私の人生を他の人に生きてもらうわけにもいかない。まさにそういう意味では「かけがえのない」のであります。しかし、そのティンプーから来た役人が皆同じ顔をしているように、そういう風な社会の中で「かけがえのなさ」というのが消えてしまいます。それはある意味で同じ顔に成っているからである。そういう所では私は「生きる」と「死ぬ」という事の価値が全く違ってくると思います。

 先程も控室でお話をしておりましたが、日本の医療制度の中で健康保険の制度というのが典型的にそうなっております。つまり、ある病気になったらある治療をする。こういう薬を出してはだめ、という風な基準がはっきり決まっております。それで動いているわけですが、こういう物の見方は何かと言いますと、私の申し上げております「人工」でございます。つまりそれはどの人も同じであると、普遍的などと言っていいと思いますが、そういう風な前提で人を扱っているわけでして、まさに平等でもあります。そういう風な平等かつ効率的かつ普遍的かつ透明、透明というのは論理的でよく分かるということですが、こういう風な社会を我々は戦後50年必死になって作ってきた。しかし、その結果起こって来たことは何かと言いますと、実は一人一人の人間が皆違うという問題は何処へ行ったかという事です。つまり、「かけがえのない」人生というのは何処へ行ったかという問題であろうと思います。そしてかけがえのない人生という物が消失して参りますと、死が大きな問題として浮かび上がって参ります。何故かと言いますと死というものを、先程も申し上げましたように、我々は予測して、計算してやる事が出来ないわけです。もちろん一部ではそういう事が出来るように成った。科学技術のお陰で出来るように成ったんで、アルツハイマーになるとはっきり分かった患者さんが、アメリカで自殺装置で自殺したという問題があります。医者がそれを手伝ったというので起訴されました。合理性というものを突き詰めて参りますと、そういう事が起こって参ります。それは自分の死もまた予測と統御の範疇に入って来る。ホスピスの問題も癌の告知の問題もそうですが、我々はどこまでを予測と統御の範囲に入れてよいかという問題が逆に申しますと「生老病死」という自然の人生の中の一番ぎりぎりの所まで詰まって来たと言うことであろうと思います。

 私自身は私の母が実はこの三月に亡くなったのですが、生前うちの女房をつかまえて「私は野垂れ死にする」とよく言っておりまして、女房がカンカンに怒っておりましたが、それはちょっと想像して頂くとわかると思いますが、可愛いお婆さんでいれば面倒見てやろうと思っているのにといって女房は怒っているわけですが、お袋の方はとんでもないと思っておりまして、野垂れ死にしていいと頑張っておりまして、自分の家を絶対に動かないで入院もせずに結局死にましたけれども。そういう風な生き方というのは今の社会では相当強い人でないと許されない。だいたいそんなことをしたら医師会から評判が良くないわけに決まっているわけで、何故かと言うと死ぬときに一切費用もかかりませんし、医者もいりませんから、医療制度に反逆するという感じに成ってしまいます。

 で、そういう死に方を家族が許すかというと、ほとんどの家族がそれを許さないだろうと思います。幸い私はこういう性格で本人も医者でございますから、そういう状態で何かしたってですね、ろくな事はないという事はあらかじめ分かっておりますので、もう病気のうちから入院はしないと頑張っておりましたから。幸いにも同級生が医者でおりますからその人がよく面倒を見てくれまして困ったら診てもらうという事で済みました。そういう事も考えてみれば非常に贅沢な事です。だけどもそれをさっきのブータンの話ではないのですが、ちょっと戻って考えますとちっとも贅沢な事ではないんで、昔で言えば当たり前の事であった。畳の上で死ぬと良く言ったものです。現在は畳の上で死ぬ人は殆どなくて都会ですと9割以上の人がベッドで死んでおります。

 こういう風な社会というのはそれではいつ頃から出来たか、人間の人生が自然の人生よりも人工的など言いますか、普遍的な人生、一般的な人生という風に変わって来たのはいつか、それは実は私は江戸時代であると申しています。日本の伝統の中ではむしろ中世がそういった人がそれぞれかけがえのない人生を生きるという時代でありました。で、それはもうこれ以上お話する時間もなくなって参りましたので、スライドを持って参りました。必ずお見せするものですから、中世の人達が、死んだ人達をどう見ていたかという事だけは、簡単にお見せして終わりにしたいと思います。

 最初は九相詩といって鎌倉時代にはお坊さんはこういうのを見ていたし、こういうのを書いていたわけで、女の人が生きておりまして、

(スライド)さあ死にます。死にますと畳の上に寝かせて着物をその上にさらっと掛けでございます。なぜ掛けてあるかといいますと、これは多分昔の人も湯灌を使わせて亡くなると体を洗ってあげたんだと思いますが、体を洗ったあと服を着せようとしますと、たとえこういう着物であっても着せるのが面倒臭いから、(私はそれはよく分かっているんです。脱がせるのはしょっちゅうやりましたが、死んだ人に着物を着せるのは非常に面倒臭いので)こうやってさらっと上に掛けておきます。

(スライド)それをしばらく放置して置きますと、こういう状態になってお腹が膨らんで来ます。で私はいつも申し上げるのは、皆さんの中に生まれる時一人で、死ぬときも一人だと言って頑張る人があるわけですが、それは大変な間違いでありまして、皆さん方生まれる時から非常に沢山の生き物、(基本的には生まれたあとですが)非常に沢山の生き物と一緒に生きておられるわけです。亡くなられる時も実は多くの生き物と一緒であります。それはどういう意味がと言いますと、お腹の中には、大腸菌とか乳酸菌とかですね色々な原虫が住んでおりますし、人によっては蚤、虱から始まって、皮癬、疥癬、たむしとかですね、水虫に至るまで、人間の体というのは一つの生態系でありますから、自分が死んだからといって自分の中で暮らしている生き物が全部死ぬわけではありませんで、だいたい細菌が生きておりますからガスが発生して、ああやってお腹が膨らんで来ます。普通は生きている間はあれをちゃんと出しているわけで、肛門というのは非常によく出来ておりまして固形物と気体というものをちゃんと区別して出すように成っております。気体を出そうと思ったら固形物が出ちゃったという事は普通はないわけです。(笑)ですからこういう生物がどれくらい人間に住んでいるかというんで、大体桁数にして一億だと言います。こういう物を火葬にしてしまうわけですよね、現代社会では。まさに一億玉砕とわたしは言っております。(笑)

(スライド)もう少し置いておきますとこういう状態に成ります。

(スライド)こういう風に傷だらけに成って参ります。

(スライド)こうなりますと側に行ってよーく見ませんとこれは果たして人間かなという感じでありますが。

(スライド)冬で乾いた状態ですとミイラに成ります。あるいは死に方によりますが餓死とかですと割合ミイラに成りやすい。

(スライド)で、これですね。ここまで来ますと誰が見ても死んでるんじゃないかな、という気が致しますけれども、これは私は大変驚くべき絵だと思います。鎌倉時代にこういう風な絵が描けたという事は世界にもほとんど類例がない。どういう事かと言いますと、人間の主体、特にこの場合骨ですがこういう物をここまでリアルに描いた絵というのは世界中何処にもないと思います。この時代にですが。で中世の日本人が持っていた目というのは実はこういう目でございまして、私はこういった目の持ち主の中から親鸞とか道元とか日蓮という人達が出たと思っております。それは日本の歴史の中で世界的に普遍性を持った時代であるという事は皆さんもなんとなく意識しておられるんじゃないかという気がします。

(スライド)これが過ぎますとこういう状況になりまして、バラバラの骨。

(スライド)これが藤原新也さんのインドと女神の写真、もう一つ盗んできてご本人に無許可で使っておりますが、これが今の最後の姿を表しております。

(スライド)これはそういう絵を一枚に描き込んだ物を六道絵と言っておりますが、六道輪廻の六道ですが。

(スライド)その九相詩の中にはこういう絵がございましてこれも先程の絵と同じ様に見事な写実でございます。これは写真とほとんど代わらないような。これは鎌倉時代の日本人が描いているという事を、ぜひ頭の中に明記しておいて頂きたい。おそらく現代の日本人にはこういう目はございません。こんなものは目を背ける、見られないと思います。それを私は原始的だとかですね、残酷だとは思いません。こういう風な客観的な冷たいと言いますか、普遍的な目から逆に非常に強い宗教が生まれております。

(スライド)こういう時の人達に比べて我々は非常に弱い人間です。そしてこれはインドのベラレスの写真ですが、前の写真とこれが非常に良く似ている事にお気付きだと思います。つまりカラスがいて野犬がおりましてそれが人間を食っております。本来の「生老病死」はこういう物であります、と言うことです。

(スライド)これはちょっと参考の為に出したのですが、当時のヨーロッパでは骨についてどういう絵を描いていたかというと解剖図であってもこの程度でございます。この一番左が14世紀でありますが、先程お見せした九相詩の骨の絵はもっと前だと思いますが、当時の西洋で描いていた絵はこんな絵でありまして、これはアラブの解剖図の写しですが、非常に稚拙な物であります。

(スライド)江戸になりますと、こんな絵を描くようになりまして、江戸の絵の大きな特徴は人間の体を歪めて描くという事であります。骨を描いてもこのようなお化けの形、お化けの象徴として描くのであって、知識が正確になっていることは明らかに見てとれますが、絵じたいは極めて変形したものになっている。

(スライド)これはこはだ小平二が描いている、これも幽霊ですけれどもこれにも当然ですが頭の骨のイメージがありましてそれに北斎流の蛸のイメージがおそらく重なっているような絵ですが、こういう風にデフォルメしてしまいます。江戸になりますと我々は身体というものをまともに見なくなりまして、それと同時に社会から身体というものが消えて行く、なくなるという風に申し上げております。

(スライド)今のデフォルメ、非常に面白い点ですが、実はあれは何を指しているのかと言うことを申し上げたいのですが、我々の体というのは脳の中にある大きさで割り付けられております。ご覧になると良く分かると思うんですが、例えば知覚系ですね、これは、この辺が非常に大きい。唇の辺りが非常に敏感だ。脳の中では唇が占める割合が非常に大きい。しもぶくれの顔になっておりますが、頭のてっぺんなんか大して神経が行っておりません。脳の中で見ると小さくなります。そういう脳の中で占める割合で体を逆に描いてやりますと、こういう非常に変な形が生じて参りました、右にそれが描いてありますが、これでご覧になると分かりますが、手の親指など非常に大きい事が分かります。そして舌、顔全体に相当する位大きい。ですから、舌を噛むと飛び上がるほど痛いですが、それはこのように脳の中では非常に大きな役割を占めているわけです。

(スライド)下に描いてありますが江戸のポルノグラフィーでありますが、これにペニスが非常によく描いてあります。こういう風な絵が、外人がよく歌麿と言って笑うわけですが。これは何かと言いますと今の論理で言いますとちょうど同じことを表していると思います。つまり、性行為の時の人間の頭の中にあるペニスの大きさというのはこんなものであるか、あるいはもっと大きいものである。頭の中はほとんどそれで占められておりますから。で、江戸の身体の考え方というのはむしろそういうものであって、江戸時代の人の頭の中にある身体というのは実は脳の中の身体である、ということがこういう所に非常にきれいに出ているのではないかという気がするんです。上の絵を描いたのはカナダの神経外科医でありましたペンフイールドという有名な人でありまして、ペンフイールドの描いた変な格好をした人間を「ペンフイールドのホモクルス、こびと」と呼んでおりますが。ペンフイールドはひょっとすると歌麿の絵をみて思いついたのではないかという気がするくらいであります。

(スライド)これはその江戸時代に全然別な見方がやはり日本の伝統の中に残っているという事をお見せするために出したのですが、これは「解剖総身図」というこれもまたおそらく世界で有数の彩色の、色のついた解剖図でございますが、江戸時代に描かれたものです。これをご覧になりますと今の北斎が描いていた絵、あるいはそういった物とは全く違った、極めてリアルなちょうど鎌倉時代にあったような、中世にあったような物の見方という物が解剖の中に復活している、あるいは連綿と残っているという事がお分かりになると思います。

(スライド)こういった形で頭を外しまして、

(スライド)そうしますと硬膜が露出しています。

(スライド)そしてこういう風に脳を見ることが出来る、と言うことが書いてありまして、当時の日本の解剖図の非常に面白い所は実地に自分が解剖した時には必ず色がついているという事でありまして、色を付けてありますのが日本の解剖図の非常に大きな特徴でございます。解体新書は翻訳でございまして、解体新書の挿絵には色が付いておりません。

(スライド)これは可鍋暁斎の九相詩を描こうとしていた、つまり江戸から明治にかけて一種の中世返りみたいな現象がちらっと起こるわけですが、それを簡単に示してあります。(スライド)暁斎はこのような暁斎漫画といわれまして骸骨の絵を沢山描いておりまして私は大好きなんですが、骸骨がお茶をいれたり、踊りを踊ったりしておりまして踊りを踊っている時は三味線を弾いて扇子をもっているわけですが、扇子も三味線もあるいは傘も全部骨だけになっております。

(スライド)これはよくお見せするのですが、もう一つ自然という時に我々が忘れてならないのは、自然の人間というものにはこういう風な人達が含まれているということです。これもご存じのように江戸ではすっかり隠されてまして一つ目小僧という伝説に変わります。これは単眼症という奇形ですが。

(スライド)あるいはシャム双生児がそうですが、こういう物が外国から来ますと日本のマスコミは非常に大きく取り上げますが、その時に絶対出ない質問というのは、日本にはこういう子供はいませんか、いたとしたら生きていますか、死んでますか。生きているとしたら何処にいますかという質問は絶対に出ない。この社会ではこの様なある種の自然な人間はないことになっております。それが私どもが造った江戸以降の社会でありまして、先程予測と統御、合理主義という事を申しましたが、それは我々の伝統として、もはや400年の伝統として持っていると私は考えているわけです。

(スライド)これはそういう事があるものですから解剖というものを一般にもう少しお考え頂くという意味もありまして、右のような標本が最近ドイツで出来るようになりました。これは解剖をある程度やった身体をプラスチック様で固めた物、こちらは生きた人でありますが、こういう風にして見せることが出来る。

(スライド)これは第一号でして、今はアメリカにございますがこのような展示を科学博物館で一般展示をしようということで解剖学会と一生懸命やっておりますがこういうものは見せないほうが良いという意見といろいろございまして、いろんな意味で難航しております。

 時間が近づいて参りましたが、言わんとする事はある程度お分かり預けたのではないかと思います。最後に歴史的な物をお見せしましたが、よく多くの方が日本の伝統を日本の美徳のようにおっしゃる事がありますが、今の絵でお分かりだと思いますけれども、日本と言ってもそう単純ではない。中世まで戻れば全く違った世界がそこにはございます。しかし、皆さん方も国語の教科書では「方丈記」をお習いになったり「徒然草」をお習いになったりですね、あるいはそれどころではなくて日蓮とか親鸞とか道元の造った宗教のお寺はいまだにあちこちにございます。そういった伝統も同時に生きているわけであって、決して江戸以降の日本が日本ではない。しかし、私は江戸以来400年の伝統と先程申し上げましたが、現代社会はその中に非常に強く浸かっておる、特に戦後そういう物に浸かっておりますし、そういった方向が極めて強く伸びたという風に考えております。その結果ここでは詳しく申し上げる事は出来ませんが、生死の問題というものが社会的な問題として非常に取り扱いにくくなっている。

 その大きな原因と言いますか一番基本的な原因は、先程申し上げておりますように現代社会の人工化の行き過ぎにあると、私は考えております。それは我々自身、一人一人が持っております、物の考え方に因っている訳であって、そう簡単にどうこうなるものではない。それは当然の事であります。今簡単に日本の絵画という物をお見せした訳ですが、「方丈記」を仮にお読みになったとしても、あるいは「平家物語」でもそうですが、「平家物語」の量初に書いてあります“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”というのはどなたもご存じだと思いますが、しかしそれが実感として伝わる方は現代の日本人には殆どいないのではないかという気が致します。ああいう風な“祇園精舎の鐘の声”がですね、ああいう風に聞こえるのは、今お見せしたような九相詩の世界に住んでいた人達であって、江戸になったらどうなるかと言いますと“鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春”と言うもので、もはや商売の対象でございます。そういう事をお考え頂きますと、いいとは思いますが、もう一生の事でございますから、慌てて考える必要はない、間に合わなければ死んでしまえば良いだけの事でございますから。ゆっくりお考えになる参考にでもなればと思って申し上げた訳でございます。時間になりましたのでこの辺で終わらせて頂きます。どうもご静聴ありがとうございました。





講 演
その2
“自分の死をどう物語るか”
講師 柳田邦男 先生
    ノンフィクション作家

 皆様こんにちわ、柳田でございます。解剖学者の毒気に当てられて、大変な所に皆さん紛れ込んでしまいましたね。私も30数年前に事件記者の駆出しをやっている頃、よく事故とか殺人事件とか現場で仏さんを見る取材をした時など、ご飯食べられなくなっちゃいますよね。だけどそういう事に慣れるというのはどういうことなのかなというのはまだ分からないですけど、解剖の先生というのはすごいなと思いますよね、毎日それを職業としてやっているわけだから。

 でも生と死を考えるときに、死というものについて一度自分の死というものを具体的に、リアルに、イメージしてみるということが非常に大事なんじゃないかと思うんですね。ただ漠然と抽象的に「死ぬって怖いな」とか「死にたくないな」というのではなくて、やはり人間一度は死ななければいけないとなったら、自分はどういう風に死んでいくのかな、ということをイメージしておくことは大事なんじゃないかなと。

 最近、立花隆さんが臨死体験という本を書いてですね、なんかそんな臨死体験が出来ないかなと変な興味をもった人が増えたようですけれども、養老さんの本を読みますと、そういう楽しみはその時まで置いておいたほうが良いって書いてありました。私がNHKの記者をやっている頃にね、これはあまり外部に出せないんですけど、ニュース報道で人の生き死にを扱ったり、つまり著名な方が亡くなったりすると訃報のニュースを書きますね。時にノーベル賞を受けた方とか、文化勲章を受けた方とか、そういう方が亡くなったと言うと業績の原稿を書いてニュースに出さなければいけないんですけど、それからじゃニュースが間に合わないと大変だというので、だいたい著名な方が、あるいは有名な作家の方が病院に入っておりますと、どこからか誰かが聞き込んで来まして、「あぶないらしいよ」と言うともう死亡記事を書いちゃうんですね。(笑)それで茶封筒に入れて上に吊るしてあるんです、何人も。

 たとえば作家誰々とか、ノーベル賞受賞者誰々といって、そしてその封筒を開けると何々さんはあるいは何々氏は何月何日何時何分どこどこ病院でなくなられました。死亡原因は○○であってという風な事が書いてあってそこを埋めれば良いんです。もし、僕自身の死亡記事がそこら辺にぶら下がっていたらどんな気持ちなんだろうかなとかね。人のことだから平気でいられる。後ほどお話したいと思うのですが、私達は死ぬということを考えるときに一体誰の死を考えているのかということを、それを一人称とか二人称とか三人称とか、いろいろな立場あるいは物の視点から考え直して見ると、いろんな事が見えて来るんですね。だけど、自分の死をイメージするということは、自分の主観的な一人称の死をある意味で三人称化する作業だと思うんです。そうする事によってかなり自分の締めくくりと言うものを客観視出来るんではないかなと言う気がします。

 僕のとても尊敬する先輩で、59才で亡くなりましたけれど、伊達宗勝という男がいました。記者時代にお酒の飲み方から、夜討ち朝駆けの取材から、もう本当にしごかれました。特ダネ記者でね、面白いんですよ、七つ道具をいつも持っているんです。七つ道具って何かというと、笛とか、白手袋とか、サングラスとかいろいろアタッシュケースに入っているんです。白手袋なんて何に使うのかと思ったら、こういう事があるんです。こういう事を公にするとヤバイんですけど、ずいぶん昔私が駆出しの頃ですから30年程前の事になりますけれども、渋谷の消防署前の銃砲店に立てこもった猟銃乱射事件と言うのがあったんですね。大和市の方で警官からピストルを奪って車を盗んで逃げ回って小金井公園まで行って、そこで乗り捨ててまた別の車を盗んで渋谷の銃砲店に女の子を人質にして立てこもった事件です。

 で、その当時記者でしたから、伊達氏と一緒に多摩地区をどこだどこだというので朝から晩まで追いかけ回してたんですね。小金井公園に車が乗り捨ててあったと言うんでそれっと行った。そしたら今度は渋谷に現れたというので、それ行け。で、行けと言うんですけれどもタ方近くで道路が混んでるんですね。五日市街道をぶっとばして行ったんですけれど、まあNHKの旗を立ててパトカーの後をついて行ったんですね。普通の走行じゃとても現場に近づけないから、パトカーがサイレンを鳴らして行くのを後をついて行ったんですね。で、信号があるとパトカーは行けるけれど取材の車はまさか赤信号を走れないでしょう。それでね、やおらその伊達氏がアッタシュケースから白い手袋を出して、NHKの旗を巻いちゃえと言うんで、旗を全部隠しちゃって、そして黒いハイヤーですから警視庁の覆面パトカーみたいに見えるんですよね。そして笛を出すんですよね。信号でパトカーがさあっと行った後、その後ろからほんとに車間距離がないくらい後ろについてね、彼が窓を開けて白い手袋を出してそしてピッ、ピッ、ピッ、ピッ、とやるんです。そうすると全部車がどいて止まるんですね。すごいことやるもんだと思って。これも見つかったら交通違反で直ちに逮捕されますけれど、そんなことをやって渋谷の銃砲店に30分もしないで着いた覚えがあります。

 で、飛び出していったらバンバン音がするんですね。私が最前線に飛び出して行ったら、先に着いていた記者からつかまれて「そんなことをしたら射ち貫かれる」と言われて、確かに向こうを見たらやたらとライフルで撃っているんですね。それで共同通信の記者なんてのはここを射貫かれた奴がありましたけれど、まあちょっと余談でございました。

 そういう伊達氏という記者がおりまして、長年肝臓が悪かったのですが、50代半ばで肝硬変になりまして、自分がもう危ないということが分かったんですね。彼は皇室関係、宮内庁関係の取材に強くてよくいろんな婚約のニュースとか、そういうものをスクープしておりましたけれど、最後は昭和天皇の健康状態を取材するためにいろんなつてを伝って宮内庁病院に入院しちゃったんです。(笑)それで自分で宮内庁病院に入院してそこのスタッフと全部顔なじみになって、看護婦さんから御殿の中の人達の健康状態をこっそり聞き出すとかなんとかやって、すごいことやるもんだなと思いましたけれども。ま余談になりますが、三島由起夫が1970年に自決した時も三島由起夫から遺書をもらった二人の記者がおりました。一人は毎日新聞の徳岡隆夫氏、もう一人は伊達氏、この二人なんですが、この二人が三島由起夫が川端康成の後ノーベル賞を受けるんじゃないかというのでマークしてたんですね。で、どうしたらそれをスクープ出来るかというので、「楯の会」に入りましてね、(笑)それで、あの軍服みたいなの全部一揃え買いまして、それで富士山麓で演習とか言って会社休んでそこへ行って一緒に参加してるんですよね。ですから、すごい三島さんに尊敬されちゃって、それで11月の自決の時には前の日の夜でしたか「明日午前10時に市ケ谷会館に来い」と呼び出しがかかって、何も知らずに行ったらそこに遺書が置いてあったんですね。それで彼も「楯の会」のグルじゃないかというので警視庁で取調べを受けたくらいだったんですけれど。

 まあそれは有名な遺書事件ですが。その彼が自分の死についてちゃんと死亡記事を書いていました。素晴らしい戒名まで自分で作りましてね。僕大好きなんです、この戒名が。「報道院殿情報確認調査大居士」って言うんです。(笑)すごく長いんです。で、これね伊達という名前で皆さんピンとくると思うんですが、これ仙台の伊達藩ではなくて四国宇和島の伊達藩の末裔なんですけど。だから戒名についてはかなり凝りたいというのでね、あるお寺の檀家になっているのですが、そのお寺のお坊さんがやはり「報道院殿情報確認調査大居士」では仏さんに会わないからというのでちゃんと作り変えたんですね。「宝道院殿浄誉覚忍聴沙大居士」としまして、これすごい長いんで京都辺りのいいお寺に頼むと500万くらい取られるそうですけれども、伊達さんはただみたいにして、自分で作ったから、ただお坊さんがいかにもお寺さんらしい形でやり直したんですね。そして自分が死んだ時にニュースにして欲しいというか、新聞社にファックスで一斉に送ってくれというので、自分の故事来歴と業績をすごい長い原稿を書きまして。で、本人はいつもニュースというのは短く書かなきゃだめだ、なんて言ってね、ニュースというのは1分以内の範囲で書かなきゃいけないと言っているのに、本人は5分位読まないと終わらない位の業績集を書いておりまして、でも彼が亡くなった時にわっと各新聞社に配りましたら10行位に削られてしまいましたけれども。(笑)でも、ちゃんと記事になっていましたね。

 慶応病院で亡くなったのですが、素晴らしい最期でした。そういう事を考えて、自分は先が長くないなと考えて、ちようど昭和天皇が膵臓癌の手術をされて、いろいろと苦労されている真只中に亡くなりました。亡くなった時も割と調子が良くて、朝ご飯食べて気分が良いなあと言って天井を見て、そしたらふっと事切れたんだそうです。まあ、そういう事でございまして、それくらい自分の死というものに対して、客観化して、三人称化して、そして自分の死亡記事まで書くということはどういう事か。あるところで書きましたけれど、これは前の癌センターの杉浦隆先生に教わったことですが、人間の死というのは人生をインテグレートすることではないかと、インテグレートと言うのは、微分・積分の積分ですけれどね。人生を集大成し、集約する。そのインテグレートしてそれが一瞬出て来るそれが死ではないか、とおっしゃってそれをある時書いた事がありました。ということはそれを自分で確認すると、ああ俺の一生はこうだったんだ、まあ、これで良いにするかという感じになるんだと思うんですね。また悔いが残るのならば、なるべく残された時間の中で優先順位はなんだろうだとか、そういう事を考えると良いと思うんです。

 東京にライフケアシステムという訪問ケア、あるいは在宅ホスピスをやっておられる組織がありますけれども、佐藤智先生という方がもう10年以上ずっとおやりになって、いろいろ訪問看護婦さんもおられますし、お医者さんもおられる。そこでおやりになっていた川越厚先生が、ご自分も癌になられた方ですが東大の婦人科の先生でしたけれど、大学を辞めてそして一介の訪問ホスピス、在宅ホスピスの医者になられて、去年の秋、急きょ色々なしがらみがあって亀戸の産育会という古い伝統のある中規模の非常に良い病院がありますが、そこの病院長になられて今、そこの病院を起点にして在宅ホスピス、在宅ケアのシステムを一生懸命作っておられて、よりよい看取りとドクターとして言えるだけの看取りをこの半年位の間にすでに1O数人おやりになったという風におっしゃっておられましたけれど。

 その川越先生がまだライフケアシステム時代に経験されたある御家族の体験を本に書いておられますが、その中にさりげなく書いておられるけれど、いいなあと思ったのは、まだ働き盛りの奥様が癌で亡くなられる話なんですが、だんだん病状が厳しくなった時にね、これから一週問単位で大事なことをきちんとやって行くように考えましょう、というような事をおっしゃる場面があるんですね。そういうのってとても大事で、ある段階では一年単位で考えて良いでしょうし、ある場合にはそれが一カ月になり、一週間になり、そしてだんだん状況によっては一日一日、もう今日一番大事だと思うことを優先して今日やりましょうとか、そういう風にやって行く。そういうのが自分の人生をインテグレートして行く上で非常に大事だと思うのですが。じゃあ何が残された物なのかな、というのはやっぱり自分の一生を振り返ったり・あるいは自分の家族とか連れ合いとかそういう問題を考えたりする中でにじみ出て来るのではないかと思うんです。

 で、今日はこういうホスピスを考える会で、自然に生きることそして死ぬことということで、養老先生がおっしゃるように、なんでこんなにスローガンとして、こんな横断幕を張るほど自然に死ぬということを強調しなければいけないのかと言うのは、本当に今の時代と言うのは不思議な時代だと思うんですね。僕はよく言うのですが、今は死ぬことが難しい時代だと思ってるんです。で、それは養老先生がおっしゃったように、やっぱり人間の生と死というのが人工化されてしまって、自然にはなかなか行かない。私自身が9つの時に兄を亡くしました。結核でした。終戦の翌年で、半年後私は1O歳になっていましたが父を亡くしました。やはり結核でした。自宅の畳の上で相次いで亡くなりました。非常に自然な死です。兄は19才で、当時高等工業専門学校、仙台にある仙台工専に行っており空襲にあって焼け出されて雨の中を逃げ惑い、そして肺炎を起こしそれが結核性の肋膜炎になってしまって、それで家に帰ってきて一年足らずの闘病で亡くなりました。

 かねて結核を患っていた父もそれでショックを受けて、みるみる衰えて半年後にやはり畳の上で亡くなりました。兄は本当に忍耐強い兄でしたけれど、勉強好きでよく父親に健康が大事だから夜遅くまで勉強しちゃあいかん、とすごく厳しかったんですね父は。自分自身が長年結核で苦労してきたものだから子供の健康だけは大事にしようというので、もう勉強よりも進学よりも健康だというので。夜9時の消灯というのは厳しくてね。8時になったら布団敷いて寝る準備、9時になったら消灯というので、兄は勉強が好きで仕様がないものだから、布団の中にもぐって頭から布団をかぶって懐中電灯で勉強してたんですね。そういう根性のある兄だったので、病気になってすごく衰えてからも文句一つ、あるいは苦しいと言うことは一つも言わないで、最期の日も静かにす一っと顔色が変わって、朝9時頃でしたけれども母がちょっと静かに掃除をしていたそうですけれど、目の前で息を引き取って、たまたま2月11日という紀元節の日だったもので、私も学校が休みでいました。小学3年生の終わり頃でした。目の前でそうやって息を引き取ったんです。その年の夏、7月の暑いさなかにやはり父が亡くなった時も、もう朝から自分の死と言うものを覚悟して家族を全部呼んで、私は兄弟が多くて、5人いました。1人兄が死んでもまだ5人いました。それをみんな呼んで一人一人手を握ってね、じっと見つめて、そして11時位ですか、かかりつけのお医者様が来て、そして静かに「御臨終です」という場面がやってきた。それを母が水を浸したガーゼで口を湿らせる様なことを僕らに教えてくれて、そして看取った訳ですけれど。本当に自然という言葉そのもので、お蔭様で私は死と言うものが恐ろしいとか、怖いとかあんまり考えないんですね。

 だけどそれに対して最近は癌で亡くなる方が4人に1人という時代で、しかもその半分位は何かの形で痛みとか苦しみとかあるし、それから衰弱の度合いとか、あるいはいろんな形で病気の姿、病状が結核のようなきれいな死ではないですからね、辛い場面がある。しかもそれが最近はある意味でテクニカルに医療が進んでますから、こういう事態も起こるわけです。例えば私のすぐ上の姉の旦那が、私にとっての義理の兄ですけれども、数年前に膵臓癌で亡くなりました。私は少しは知識があるものですから、ターミナルケアのお世話したんですけど、最期の所で私大失敗したんです。それは膵臓癌でちょうど昭和天皇と同じような症状で、十二指腸の方もかなり潰瘍性で傷んできていたし、それから総胆管もつぶれてひどい黄疸がでて、その黄疸がきっかけで気が付いて診断したときには、もう膵臓が6センチ位の大きなおできになってたんですね。それでこれは3ケ月しかもたないでしょう、何もすることは出来ません、という風に相模原市の大きな病院で言われたんです。

 そんな何もしない、出来ないと言うことない、これからが大事だからなんとか兄の予後をしっかりみてやんなきゃいかんし、少しでもよりよい日々を送れるようにしてやらなきゃというので、私もいろいろ調べて築地の国立癌センターに行って、お腹開いて術中照射といいますけれど、電子線でその膵臓を焼いて癌を一時おさえちゃう。それと十二指腸を使わないように、下血とか出血とかしないように胃から腸にバイパスを作る。それから胆道は全部取っちゃってね、肝臓から出て来る胆道の先を直接小腸の方ヘバイパスを作って胆汁を流す、それで黄疸を防ぐ、胆嚢なんかみんなとっちゃう。そういう事をやりました。そしたらすごく元気になって、3ケ月どころか結局11ケ月生きましたが、暮れから正月にかけて元気で自宅生活出来ましたし、剣道の道場の指南をやっていました。小学生や中学生を教えてたんですね。そういう所へ行っていろいろと教えることが出来るくらい元気で過ごしました。お正月の料理もとてもおいしく食べられたんですね。

 でも最期のころ連休明けにちょっと軽い心筋梗塞を起こして再入院しました。5月の末にはだんだん癌の毒性が回ってもうだめだろうなという状態になってしまったんです。手術なんかは癌センターでやったけど、家に近い方がいろんな意味で便利だし、毎日姉がケアに行くのも便利だからと言うので、また相模原の病院に戻ったんですね。で、こんな事はまさかないだろうと思ってたんですが、膵臓はほとんど焼いて働かなくなってるし、バイパスだらけだし、また全身に肝性、毒性が再発で回っている。そしたらこれどうやって家族が付き添う中で最期を迎えるか、当然お医者さんがやってくれるものだと思って、そこをきちんと頼んでおかなかったんです。で、何が起こったかと言うと、朝10時頃心停止が来たんですね。そしたらその熱心な若いお医者さんが突然心マッサージを始めちゃったんです。連れ合いである姉を押し退けて、医療スタッフで心蘇生を1時間くらいやったんです。だからその間戦場みたいになっちゃったんですね、ベッドが、病室が。で、姉は押し出されちゃって、結局1時間後にだめでした。姉が部屋に入った時には、そこには冷たい亡骸があった。

 私も姉から電話もらって、私は多摩市に住んでるんですが、相模原までタクシーで30分位で行けるものですから、タクシー呼んで家内を連れて飛んで行ったんですけどね。そしたらちょうど「御臨終です」と言われた5分後くらいでしたけど姉は呆然としている。看護婦さんが清拭している横の壁に倒れるようにして寄りかかっていたんですけれど。本当にその時失敗したと思いました。前もってお医者さんにきちんと頼んでおかなかったのかと悔やまれた。

 でも、もっとお気の毒な例、これは今年の4月名古屋で行われた日本医学会の総会に出席した時にもちょっと出した事例なんですが、ある大学病院で38才のビジネスマンが肺ガンで亡くなった場面なんですけれども、もうほんとに全身転移でお気の毒な状態だったんです。若いから当然奥様と中学生の一人娘のお嬢さんと静かに看取ってあげれば良かったのに。やっぱり熱心なドクターが心マッサージをしちゃったんですね。この場合は蘇生したんです。ところが全身転移で病み衰えてもう見るもお気の毒な状態なっている。しかも心臓は動いたけれども意識はもどらないし、昏睡のままであまりにもその形相のすごさに、中学生の娘さんはショックを受けて行方不明になっちゃったんですよね。で、3日間心臓が動いたけれども、また2度目の心停止がきて今度はマッサージもしないでお別れになったんです。

 娘さんにとって死と言うものに生涯抱くであろうイメージというのはすごい傷になったというのかな、それから奥様にとってもやはり充分にあの世に届けられなかったという意味では、大変悔いを残したんではないかなという気がするんです。そういう心マッサージとかいろんなテクニックがあるが故に、またお医者さんの伝統的な考え方だと1分1秒でも命を保っことが使命だという風に考えているとなると、そういうことが起こってしまうんですね。自然というものからおよそはずれた物々しい形になってしまうんですね。で、何とか自分なりの死なり、あるいは肉親の死というものを取り戻すにはどうすれば良いのか。やっぱり科学とか技術とか、手にした専門家はそれを使わない方が良い場合もあるっていうことをね、どこでわきまえてもらうか、わきまえてもらうというのは変ですけれども、持っている技術というのは使いたがりますよね。戦争をやれば核兵器を使いたがるのと同じように、一番優れた技術、使える一番良い物を使おうとする。だけどそれが本当の意味で人間の生き方、あるいは生きざま、死にざまとして良いのかどうかという別な視点からみたときに、どんな素晴らしい機械であれ技術であれね、使うということがかえってマイナスであることを何とかそのプロフェッショナルな人々に知ってもらわなければならない、と言うことを医学会総会で申し上げたんですが。

 それと同時に実際わが身の問題として、あるいは自分の肉親の問題として考えるときに、どういう風に最期を迎えるか。そこなんです、イメージして欲しいのは。自分が死ぬ時にどういう形で最期の瞬間と言うものを、たとえば連れ合いと手を握って死にたいとか、子供を抱き締めたいとか、そういう事をきちんとイメージして、それは絶対壊してくれるな、そういう事を事前にお医者さんに頼むとかね。この数年ずいぶん変わって来たようです。東海大学の安楽死事件があった頃から、尊厳死協会にリビングウィル、つまり生前の意思、自分の死の姿というものを登録しておいてそれをお医者さんに書面でみせてやってもらおうという人が増えましてね。当時は登録者が1万人もいなかったのが最近は7万人だかに増えたらしいですけれど、それともう一つは医療界の方でもそのリビングウィルを大事にしようというお医者さんが7〜8割位になってきたようですね。やはりそういうのを見せられたらなるべくそれに添うようにしようという。ところが数年前までは、そんなことは法律にもない、お医者さんと云うのはとにかくやるだけやった、という風なものが圧倒的に多かったんですが、変わって来た。もちろんそのどういう場合にそういうことをやったら良いのかとか、あるいはやっちゃいけないのかという事は全くケースバイケースの問題になると思うんですが。そこで自分の死を自分なりに手にする意味で私は今の時代、自分の死を造る、クリエイトする創造する。自分の死を造る時代と言う風に時々呼ぶんです。そうしないと死ぬに死ねない。死ぬのが難しい時代じゃないかなと言う気がするんですね。

 で、そのいくつかのノウハウみたいなものを申し上げますと、第一に自分自身がまずわが身の死、と言うものをイメージする。第二にはそれを家族と話し合っておく。お互いの生前の意思というものをきちんとしておく。それは何も脳死になったときとか、植物状態になったとかそういう限定的な話ではなくて、もっといろんな形での死と言うのがありますから。例えば癌の末期の時どうするかとかね。あるいは脳梗塞で全く意識も失い植物状態の時、それぞれいろんなケースがありますから。テレビなんかでそういうドキュメントやドラマがありますよね。そういう時に一緒に話し合うと良いなと思うんです。私なんかも物書き稼業をしているせいで、そういう物を見るときに家族でよく話し合います。

 ですから私は一昨年、自分の25才の息子(次男)をどうするか、脳死状態という土壇場で息子の意思というのは何だったんだろうか、とかいろんな事を考えましたけれども。幸いにして、そういうテレビを見て彼と議論した事もありますし、尊厳死とか脳死とか臓器移植とか話し合ったことが何度もありました。

 それから彼が膨大な日記を書いたんですが、私と長男は次男のベッドサイドで次男の日記を必死になって読んで、どういう風にしてやったら今の次男にとって良いのか。

 そういう風に家族で、ある意思を持ち合うと言うことが大事だと思いますね。それから、もっと一般的に死というプロセスをよく知って馴染んでおくという事も大事なんですね。それは闘病記とか終末期医療の本とか最近本屋さんに行きますといっぱいありますね。そういう本を読み慣れて死というものを身近な所に持っておくと良いと思いますね。忌み嫌うのではなくて日常、死というものを身近にしておく。

 戦後の日本人の意識の中でいろんな物が変わってきました。さらに戦後、明治憲法から今の新憲法に変わったことによって、男と女の各々の対等性とか様々な物が変わりましたね。そういう中でここ20年位の間で、例えば性に関する意識と言うものが変わって、そういう物が家庭の中とか親子とか兄弟の中とか、割りと自由に話せるようになってきた。次にその意味で家庭の中で自由に話せるテーマというのはやはり死ではないかな、という気がするんですね。やっぱり人間生まれて死ぬまで、さっき養老先生がおっしゃったように「生老病死」と言って自然の営みな訳でして、生まれる所に生の問題があり、そして終点における死というものがとても大事なテーマなんです。そう言うものが家庭の日常会話の中でも、もっとあった方が良いと思いますね。そういう本を読んだりすると知らず知らずリハーサルになるんですね。死をイメージすると言うことはとても大事だと思います。それでタレントなんかのベストセラーになるとあまり参考にならないですね。それよりももう少し地味な方が良いと思います。

 例えば私昨年、文芸春秋で「同時代ノンフィクション全集全12巻」というのを編集して刊行しました。1冊2900円の高いものですけれど、その値段の割には分厚くて、5000円位の内容が入っていますけど。(笑)その第1巻が「生と死の現在」と言って闘病記を特集してあります。亡くなった方々の闘病記です。その作品は皆素晴らしいんです。余談になりますが、その中のお一人に、もう20数年前に亡くなられた東大の解剖学の教授の細川宏先生の「病者・花」という詩集も入っております。養老先生よりもっと前の時代の教授でございましたけれど40代で癌でなくなりました。養老先生、今度亡くなられる時、どういう詩集を出されるか(笑)解剖学の先生と言うのは即物的にああいうのをご覧になっているんだけれども、その細川先生というのは素晴らしい詩の心、ポエムの心をお持ちでね。本当に素晴らしい詩です。養老先生のエッセイを読むと、これ又ほんとに素晴らしいですね。なんか人間って、とことん事実を見るとものすごくロマンチックになるんじゃないかな、そんな風に思います。

 僕あるところでエッセイで書きましたけれど、戦後ずっとパイロットをやっておられた方が、もう亡くなりましたけれど、すごく素晴らしい、コックピットから見た雲の写真集をだされました。これは航空気象学にとって学術的な価値があるだけでなくて、一種の美しい写真集として素晴らしいんです。人間というのはプロフェッショナルとしてとことんやって行くと、最もロマンチックになるんじゃないかとエッセイで書いたことあります。養老先生なんかも闘病記を書かれたらすごく良いのを書くんじゃないかと思います。どうせ一度は来る運命ですから。(笑)

 それからそうは言っても、普通の人が家族の中で話しているだけでは、いろんな情報とか知識とか限界がありますから、ネットワーク作りのようなことをすることをお勧めしたい。と言うのは私去年からこの春にかけて毎日新聞で「死の医学への日記」という連載を致しました。いろんな身近で起こった生と死の話、またそれに対して医療スタッフの○○○というようなものを書いたんですけれど、その中で書かせて頂いた半田さんという方の例ですが、東京の調布市にお住まいで、そのお嬢さんが私の息子と同級生だったんでお付き合いがあったんですけれど、60過ぎになってご主人が突然肺癌の末期と診断されて、それでどうしようと言うことになりました。半田さんと言うのが、家庭科教育の雑誌の編集者をやっておられたのでいろんな友人、知人がおられたんですね。それでご主人が突然肺癌の末期、さあどうしようという時に、全くこれ偶然なんですけれど、その最中に家庭科教育の中で「生と死」の特集号を編集しておられた。世の中と言うのはほんとに偶然が重なるんですけれど、そんなこともありまして直ちにその日の夜にワープロでね、長い長い手紙を書いたんです。ご主人がどういう経過で病気診断されて、そしてこれからどうしたいか。最初あまりにも背中の激痛がひどく、ある私立の整形外科へ行ったけれど、どうもその整形外科の雰囲気から言っても末期であるということ、また充分な看取りとかケアとかがあまり期待出来ないから、なんか良いお医者さん、良い終末医療をして下さる病院、どんな断片的な情報でも良いから教えて下さい、そういう手紙を書いてワープロで打ちましてそれを40人位の友人、知人にバァッと出したんだそうです。私も頂きました。ですから私は妻を通して、数少ない知識や情報をお伝えしたんですけれども。いろんな方から集まって結局、それじゃと言うので杉並区にある病院、そこが良いんじゃないか、距離的にもいろんな条件考えたらそこがいい。まあ例えば浜松の聖隷病院とか淀川キリスト教病院とかあるけれども、いくらなんでも調布に住んでいる方がね、そちらにご主人を入院させるというのもどうしょうもないから、やはり毎日行ける距離の中で、そしてより良いケアをしてくださる所というのはそこじゃないかというので決めて、結局そこで看取られたんですけれど、とても素晴らしかったようです。

 そういう風にネットワークというか、出来るだけ人の世話になる。よく年取って来ますとね、頑固になって「わしは誰の世話にもならん」とかね。夫婦の間でさえ、私は男だけど僕は世話になりたい方なんですが、男性で年輩になってくると自分の奥さんに対して「わしはお前の世話にはならん」とか言って、50年一緒に連れ添ったけれど、「この結婚は失敗だった」なんて(笑)頑固なお父さんもおられるようで、でも実際そういうことあります。私、息子が長年病気をしたので、息子の担当の精神科の先生から、お父さんも少し人生変えて、考え方を変えた方が良いから少し休養していらっしゃい、と言われて2週間ほど内観研修というのを受けたんです。内観というのは仏教系の自分の内面をずっと見直すもので、朝6時から夜9時までずっとついたての中に籠もって自分の過去を振り返る修行です。禅と違って、禅というのはこうやって大変でしょ。そうでなくって寝そべっても良いんですけど、とにかくその間こういう事を考えなさいと宿題を貰うんですね。その宿題がまず母親に対して、お世話になったこと、それからしてあげたこと、そして迷惑をかけたこと。そればっかり考えるんです。朝から晩までね。それもただ漠然とではなくて、自分が子供の頃、小学校1・2年の頃、3・4年の頃、5・6年の頃と順次考えて行くんです。それも毎日ご飯作って貰ったとか具体的なシーンがイメージでばあーと出て来るような決定的な瞬間というべきものを思い出すよう、そういうことをじっとやるんですね。そうすると分かって来ることがいっぱいあるんです。

 例えば、ちょっと話が逸れますけれど、私自身ちょうど終戦直後に父を亡くして経済的にほんとに貧困のどん底に追いやられて、子供達はみんな10代でね、私と12才違う一番上の兄が兵隊から帰って来て、古本屋を始めました。だけどそれでは生計が成り立たないので家で母親は手内職をして、私も小学校4年5年の時は手伝いました。それで6年になった時にね、修学旅行があったんですけれど僕は行かなかったんです。というのはやっぱり家庭の経済状態が悪いから、その修学旅行のお金なんか親に出して貰うの申し訳ないと思って、学校に欠席届けを出しちゃったんですね。そしたら先生が心配して家まで来て、柳田君は行かないんですか、と言って。でもお袋も分からない。行かせたいけど本人が行かないと言っている。私は理由を何も言わなかったんですけど、気持ちの中ではお袋がそうやって苦労しているんだから、少しは手伝ってあげたいという気持ちで、行かなかったんですね。

 で、内観を受けている時にずっと母親に世話になったこと、それからお返ししたこと、迷惑かけたことと言うのを思い出して、そして小学校5・6年の頃、母親との関係を瞑想してたんですね。そうしたらふあっとその情景が浮かんで来たんです。古雑誌をばらして紙袋を作って八百星さんなんかに売る、そんな内職をして、それを僕が手伝っている所を思い出して、そしてああ修学旅行、行かなかったなと言うことを思い出した時に、突然劇的にね、僕はそれを母親に「してあげた事」として自分本意にずっと考えていた事がその瞬間分かったんです。それはどういう事かと言うと、50過ぎて内観研修を受けたのはもう6年前位ですけれど、50過ぎて人生のある距離間があってそこに浮かんでくる情景というのはいわばフイルムを見るような、今それを思っている自分と、子供である小学校6年の自分と明らかに別の人格で客観視している訳ですね。ですから母親と自分、子供である自分というのが情景として見えていて、それを見ている自分がここにいて、母親に対しても子供である自分に対しても距離が同じですから自分中心ではないんですね。そしてはっと思ったのは、母親がその小学校6年の自分の息子が修学旅行へ何か訳が分からず行かないと言っていることは、これはすごく辛いことと言うか、大変な事だろうなということが分かる。6年で誰ひとり行かないなんて言っているのはいないのに、自分の息子だけはへそ曲げて行かないと言っている。どうなっちゃっているんだろう。これは母親に対して何か恩を返してあげると言うことではなくて迷惑をかけている事なんですね。もっと子供らしく率直に自分の我を主張して、修学旅行へ行きたいと言って少しくらい母親に負担をかけても言ってくれた方が、母親は嬉しいはずなんですね。だけど、まあそこは自分勝手に母親に尽くしているという様なことを長年思って来たんで、その時内観というか自分自身のイメージを客観視することによって、劇的にそれが逆の、マイナスのイメージになって跳ね返ってきたんですね。しまった、というか申し訳ない事をしたと思って。でもその時母親は脳梗塞で、植物状態で入院してました。

 その内観で見えたのが4日目ぐらいでしたけど、7日問の研修を終えて帰りに病院に寄ったんですけれど、そのことを報告しようにも会話が出来ませんでしたけれど。これは余談になってしまいますけれど、指導しておられる先生から面白い事を聞いたんです。年を取るほどに内観は難しいと言うんです。頭が固くなっちゃって、自分の意固地なまでに考えを変えない。特に戦中いろんな苦労した人、例えば、陸軍で上海へ上陸してずっと奥地まで前線前進してとかね、自分の人生でそんなことばっかり話していて、一向に自分の内面に入って行かない。内観だから母親なり、連れ合いなり、母親が終わると父親、父親が終わると連れ合いとかね。そういう風にずっと順を追って自分の内面にある実像というのを見直して行くんですよ。大体古い日中戦争なんかに行った世代になりますと、男が唯我独尊の時代ですから、自分の連れ合いに対して感謝するなんて気持ちはなくて、ご飯作って貰って洗濯して貰って当然という風な考えなんですね。その指導する先生が面白い事を言っておられました。そういう人に聞くんだそうです。確かに内観というのはご飯を作って貰いました、なんてことだけじゃあ深まりがないんだけれど、でもせめてそれくらいお世話になった事があるでしょう。と言うと、いやない。じゃあ下着は誰が洗っていたんですか。そりゃ家内が洗っていた。毎日洗うんですか。ええ、毎日です。そうですか。毎日パンツを履き換えるんですね。じゃあ1年で365回パンツを洗うんですね。50年連れ添うと何千枚になりますか。(笑)それでも奥さんにお世話になったと思わないですか。ということをやるんだそうですけれども、人間というのはなかなか傲慢なところがありまして、世話になって元々というところがあるんですね。それが高じると「わしは誰の世話にもならんで死ぬ」と言うことを言うんですよね。そうも行かないですね。火葬場に一人で歩いて行く訳にもいかないし、自分で自分のお線香をあげる訳にもいかないしね。やっぱり誰かの世話にならないと。

 私も内観の中ですごい経験をしました。ちょうど息子がすごい神経症で、対人恐怖とか強迫神経症とかがひどくって、なかなか学校へ行けないので、姉の家がちょうど学校に近かったので世話になってたんですね。ちょうど膵臓癌で亡くなった兄の家なんですけれど、その膵臓癌になる直前だったんですね。私の姉も義理の兄も私の息子の面倒を見て逗留させてくれたんですけど、そんな経験のさなかに内観をしたこともあってですね、ある瞬間突如、目をつぶって瞑想していたら目の前にわあ一っと仏様の様な姿が現れて後光がさしてね、その周りに無限の数え切れない位小さい仏様の像のようなもの、それは生きているようでもあり、現実の人のようでもあり、仏像の様でもあり漠然としているんですけれど、曼陀羅とはちょっと違うんですが、それがぐるぐる回っている。そうしたらいつの間にか、その真ん中にいるのがその世話になっている兄のようでもあり、いつの間にか自分のようでもあり、そのうちにものすごく暖かい気持ちになって、自分がその真中にいて全ての周りの人に支えられ世話になっているというような感動的な場面に展開していきましてね。それで、わあーこんなに私はみんなに世話になって守られているのかというような事を経験しまして、ほんとに生きているということは素晴らしいものだな。ま、養老先生に言わせれば体の中に1億生きている生物がいるんですけれど、体の中の生物でなくても周りにいる現実の人間でも、本当に自分を50過ぎまで生きて行く上でどんなに支えてくれたか。これは嬉しいと言うか有難いと言うか、そんなことを感じたんですけれどね。そういう風に人間というのはやっぱり世話になる時は世話になり、迷惑をかける時はすいませんと言うことで、迷惑になってもね、人生死ぬ時には、一番大事な人生のインテグレートするためにはそういう場面が必要だと思うんですね、遠慮しない。このネットワーク作りなんてとても日本人の今までの考え方では遠慮しがちですけれども、そういう事も良いんじゃないかなと思うんです。また、人間というのはお世話する側に立つとまた生きがいを感じたり、心を分かち合ったり、理解し合ったり、また新しい人間関係が展開するというような事があるんだろうと思います。

 先ほど申しましたように誰の死を考えるのか、一人称なのか二人称なのか三人称なのか、ということですね。そこがとても大事な事なんですね。それはまた後ほど養老先生との対談の所で出来れば展開したいと思うのですが、問題のきっかけの所をいまお話して終わりにしたいと思いますが。一人称の死というのは言うまでもなく自分がどう死ぬかということで、これは生き方の美学、あるいは自分の死の美学と言うんでしょうかね。昔の武士道でいうならば桜の花も散るのを良しとするとかね、そういう自分の死をどう締めくくるかという、これはまさにインテグレートする上での基本的な骨組になる。しかし、今日の様な医療状況の中で、自分の死はこうありたいと思ってもなかなかそれを達成することは難しい。やっぱり最後に意識が無くなるとか、昏睡状態になったら、その時どういう風に家族にして欲しいか、どういう風に医療従事者にして欲しいか。そこのところが問題なんですね。それは事前にお医者さんと話し合ったりすることが必要でしょう。告知の問題というのは非常に重要な問題ですよね。一概に告知が良いとは私は言いませんが、言うにしても言わないにしても絡んでくる問題でもありますね。それから二人称は一般的には家族ですね。一番大事なのは連れ合いであるし、あるいは親だったり、あるいは恋人だったり、それから特殊な場合だったら戦友。普通の友達は二人称になかなかなれませんけど、戦場なんかで一緒に戦った戦友というのはある意味で肉親以上の二人称になりますね。ほんとに戦争体験の記録とかを読むと、生き残った人の死んで行った戦友に対する思いというのはすごいものがあります。これは二人称に近いと思いますね。これはよく私が好きな話なので紹介しますけれど、ヘミングウェイの小説に「誰がために鐘が鳴る」というのがありますね。1950年代に映画化されてゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが主役しましたけれど、スペインの内戦の時に民主戦線側で、最後に山の中でナチスドイツの支援を受けたフランス軍が攻めて来る中で立てこもって最後残る、ゲーリー・クーパーがざんばら頭のイングリッド・バーグマンにね「お前は帰れ」と言って帰そうとする。そういうシーンで終わります。個人的な思い入れで私はバーグマンのファンで学生時代に憧れたものですけれど、髪形がどうなってもきれいな人はきれいで、(笑)もうゲリラのような生活をして髪形なんてざんばらに切っちゃう。その短くしたバーグマンがまた良いとかね、そんなことを言ってましたけれど。「誰がために鐘が鳴る」というのは本屋で立ち読みしてごらんなさい。最初のぺ一ジにジョン・ダンという人の詩が載っています。それはどういう詩かというと、人が死ぬと言うのはその人が死ぬだけではなくて、愛する人の心の中で同時に何かが死ぬことだ、と言うんですね。だから、「誰がために鐘が鳴る」と言えばそれは残された者のために鳴る、という訳です。それは素晴らしい詩なんですけれど、ヘミングウェーはあそこでもっと社会的な意味で使っているんですけれど。

 それは今私が話そうとしている二人称の死という場合、例えば連れ合いとか親子とかという場合に、その死んで行く人が、生物学的にはその人の死はそこで終わる訳ですけれど、その精神的な人生やら私生活を共有してきたそういう部分には、残される側の中でやはりいつまでも生き続けたり、あるいはそれが失われるという事による悲しみとか、欠落感とか、そういうのがある訳ですよね。そういう部分が二人称ではものすごく大事になる。そのことは私自身我が息子を看取る時に痛切に感じたんですね。三人称の死というのはそれにたいして冷静、客観視出来る死です。アフリカで百万人死んだって、私達は今日、明日ご飯が喉を通らなくなる訳でもないし、湾岸戦争でどんなに死者がでようと、それは人道主義的には、あるいは頭の中ではそれに対して同情したりすることがあっても、本当にその日の夜ご飯も食べずにお祈りし続けると言うことは無いわけですよ。で、お医者さん看護婦さんにとって、患者さんの死は何かというとこれは三人称ですよね。どんなに同情し一生懸命診たって、それは所詮三人称である訳です。それは悪い意味ではなくて、三人称でなければ治療が出来なくなる時がありますね。手術なんか特にそうです。自分の息子の手術というのは、どんな名医であろうとメスを握れないと良く言いますけれど、三人称なればこそ冷静、客観的に医学の実践が出来るわけで。ですがその三人称という立場で見ていると、ややもするとそこに見えているのが臓器だったり、細胞だったり、遺伝子だったりするわけで、特に科学的であればあるほど物事というのは細分化して分析的に見ますから、断片的に物事を細分化することによって科学は発達してきた訳ですから、そこにおけるトータルな人間の、いろいろな精神的なものも含めた命全体というものがその中にない。これに伴う問題というのはまた後ほどお話したいと思いますが、どういう風にして二人称という視点から今の生き方や、死に方や、あるいは医療者のあり方というものを考えて行くか、その当たりをまた後ほどお話ししてみたいと思います。





対 談
 養老孟司(解剖学者・東京大学医学部名誉教授)
 柳田邦男(ノンフィクション作家・評論家)
 司会 谷荘吉(医療法人協仁会小松病院長)


司会:いかがだったでしょうか。最初に養老先生がお話しになられたように今日の対談も自然なものにしたいと思いますので、私がテーマを決めて骨格を作ってしまいますと、自然の対談になりませんので出たとこ勝負でやっていただこうと思います。ただホスピスという一つの視点に立ちますと、やっぱり何故このホスピスの問題になったかというと、今日のテーマの様に一般の病院の中で、あるいは在宅で、あるいはホスピスの中でもそうですが自然に死ねない情勢になって来た。そうするとどうして自然に死ねないような医療の現状が起きて来たか。特にガンの末期の場合。その辺の話から入っていただいて、それから、今一番問題になっていますのが、告知の問題だと思います。告知に関して今日のお話しにあまり出ませんでしたので、両先生がどのようにお考えになっているか。そして最後には柳田先生がお話しになられたように看取りの部分。どうしてもこの世の別れの部分になるのに、心肺蘇生のようなことをやって一番そばにいて欲しいという親族が排除されてしまう。ごく最近ですね、淀川キリスト病院の柏木哲夫先生が「愛する人を看取るとき」というご本を書かれました。柏木先生はご自分でターミナルケアを初めて約20年、そして淀川キリスト教病院でホスピスに関わられて、約2000人の方々の最期の看取りをされたわけです。そのご著書を読ませていただきました。最終的には私たちは生きている状態では常に看取る側です。一人称の死になれば看取られる立場になる。どういうふうにして看取られて、その時どういうふうにして看取るのか、というのがこれからの有り様なのではないかというのが最後の結論的な話になって行くかと思います。これは多分結論は出ないと思いますが、そういう意味で、主として柳田先生は記者の時代に、色々なご活躍があって記者的な視点がおありだと思いますので、最初の口きりは柳田先生からしていただいてむしろこの対談の本当の司会は柳田先生にお願いして、私はじっと聞いていると、そういう司会にしたいと思っております。どうぞ先生お願いします。

柳田:養老先生は解剖学という形からみていろいろと研究されて来ているわけですね。形というのは体の形。いろんな組織とか臓器とか。で、そういうものの中で我々が一番関心をもつのは脳になるんだろうと思うんですけれど、今なにしろ脳ばやりでNHKで「脳とこころ」なんて養老先生がキャスターを努められた番組で、大変よく出来ておりましたけれど。なんだかんだ言っても脳が働かなければ終わりじゃないかとかね、脳が世界を見ているとか、脳の中に社会があるとか、いろんな言い方がありますけれど、いずれにしても脳という一つの具体的なものをご覧になっていた養老先生が生と死というようなすぐれて人間の精神活動、こころの問題とか生き方の問題とかですね、そういうものをどういう風にご覧になったり、あるいは具体的なものとしての脳とこころという我々の精神生活の中の中核にあるものとどういう風に重ね合わせてお考えになっているのか、そのあたりを養老先生に伺いたいなと、だんだんボールをこっちに移しましてね。(笑)

養老:生と死だけでも大変なのにそこにまた脳を持ち込むとごちゃごちゃになってしまうんではないかと思いますけれども。私どもは人間のすることなすこと脳のすることであって脳死をお考えになればすぐ分かりますが、社会にあって脳死は死であると考えてしまいます。ほぼそれで良いということが通る位、人間のすることは脳に依存しているという風に考えております。今日のお話に引っかけて言い足りなかったかなと思う部分を申し上げると、結局私どもが世界とはどういうものかと把握する、その把握は実は脳がしている。ですから御所と考える人もあるでしょうし、昔の人から今の人まで全部ひっくるめてもそれがすべて私ども人間が考えて来た、あるいはその頭の中でこれこそが世界であるとか、現実であるとか認めてきたことである。ですからそれはいずれも脳の癖が引っ掛かっているはずでありまして、じゃあ一番基本的に脳がどういう癖を持っているかというと、先程ちょっと申し上げましたが、一つの非常に大きな癖は合目的的な行動をする。これは頭を使うという事をお考え頂ければすぐ分かりますが、頭を使って何をするかと言いますと、だいたい合目的的に物事が動く様にやる。金が儲かる様にする。出来るだけ楽が出来る様にする。あるいは出来るだけ危険に遇わない様にする。といった典型的な合目的的な行動をする。そういう性質を脳は持っていると思います。と同時に脳はそれが浸かっている環境というものが現実だという風に非常に感じる。しかもそこには個人差がございますが、何を現実だという風に脳は規定する力を持っている。能力をもっている、あるいは機能を持っている、働きを持つというふうに私は思います。ですから、皆様方がそれぞれ何かが現実だとお考えだと思いますが、それは詰まる所は脳が何かを現実だと認めている。これは変な言い方をしているようですが、コンピューターと比べてもそれほど不思議な事ではないので、何かと言いますと私どもの脳に入って来る、あるいは脳の中で起こっている事に対する重みづけが言わば現実であります。非常に強いといいますか決定的な重み付けを付けた場合に私どもはそれを現実と呼んでいるわけです。

 現代社会というのは先程も申し上げたように脳のもっている一つの機能であります、合目的的な性格が非常に強い。そういう社会の中で皆様ずっと暮らしておりますから、その中で死ということが実は自然の問題として否応なしに浮上してしまったと考えています。どうして死が浮上してしまうかと言いますと、死というものについてはそういう合目的性がいっさい成り立たないのであります。合目的性が成り立つ特殊なケースが、侍が腹を切るとか、先程三島由紀夫の割腹の話がありましたが、その三島の場合で一番問題になったのはその合理性は何か、という事だったと思います。そういう物は私は絶えずそこに留保をおいておりまして先程申し上げましたように自然というのは読めない面をもっておりますから、すべてが合目的的に、つまり言葉の中で意識的に解釈出来て良いか、という疑問を絶えずもっております。多分あまりそれを言いますと不可知論と言いますか、あるいは神秘主義にすぐ移るようにお聞きになるかも知れませんが、全く私はその気はないので、しかし今の方は非常に強く、意識こそが全てであるという風にお考えだと思います。自分はそんな風に思っていないとお考えの方もですね、実はかなりそういう風に思っているのではないかと、疑える節がございます。ちょっと典型のエピソードを申し上げますと、私は現実では脳が決めちゃうんだと申し上げます。そうすると人によっては現実は違うという結論が出まして、そういう風に新聞に書いた。そうしたら反論の手紙を頂きました。そんな事おっしゃるけれども人によって現実が違うという事を認めたら世の中ばらばらになっちゃうじゃないですかと。「からすの勝手でしょ」という社会が出来るではないかという反論でございました。ですから私はその時にもう一つ反論を書きました。

 どういう事かといいますとここにおられる皆さん方が全員ですね、仮にご自分の脳を出して、今座っている椅子の上に置いて部屋の外に出てくださいと申し上げる。私がその脳の場所を入れ替えますから、ご自分の脳のあるところへ帰って下さいと申し上げる。と、どなたも恐らく帰れないだろうと思います。ただし、次に一つだけ脳を残しまして残りを全部、ゴリラとかチンパンジーとかオランウータンとか犬とか猫とかのに置き換えまして、その方を呼び込んで自分の脳のある所へ座ってくださいと言ったらですね、まず間違いなく一番大きな脳の所へ座るだろうと思います。すぐ分かる事は私どものそういった現実というもの、あるいは何しろ私ども人間の共通性・普遍性というものを保証しているものは実は私どもの意識ではない。それは私どもが意識しなかった所で保証されているんです。人間が人間でいるのは我々がそう設計したからではない。自然に人間です。ですからこの中にこれから妊娠される方も、妊娠した方もいらっしゃるかも知れませんけれども、誰も豚の子や犬の子が生まれると思っている方はいないと思います。しかし、よく考えてみるとそんな保証は全くないわけで、人が産むんだから人が産まれると思っているのはこれは人間が保証したわけではありません。いつでも人が産めば人の子だという経験的事実があるだけです。そこが私が自然という時に申し上げたいことで、何が言いたいかと言いますと、現代社会の方々は、「からすの勝手でしょ」という社会が出来るとおっしゃったのは、人間以外の物が我々の共通性、普遍性を保証しているという、意識現実感が現代社会の人にはないという事を申し上げたい。別の言い方をしますと現代の方は自然というものを全く信用していないに近いという事であります。自分が考えてこうしなければ世の中どうなっちゃうんだろう、と必ずこういう話になる。それは私が先程人工化の行き過ぎだと申し上げたのは、そのことに良く出ているわけでして、我々はもはや自然を信用する癖はございません。ところが死というのは典型的な自然の現象です。つまり、否応なしにやってくるものでありまして、そういう風に人間を設計したつもりはどなたもないと思いますけれども、いつの間にか死ぬようになっている。これはまさに自然の現象であって、現代人というのはその自然の現象の扱い方が非常に上手いようで、全く下手だという風に私は思います。それはいろんなところに出て参ります。

 先程ブータンの話をしましたけれど、あそこで典型的なことは水洗便所がないということです。しかし、日本の便所がすべて水洗便所に変わったのは私が小学校から今日に至るまでの間なんですね。子どものころには私は水洗便所なんて使った覚えはない。で、何が起こったかというと糞便というものは、皆さん排泄しないような顔をしておられるわけですけれど、(笑)つまり、そういう風にして自然というものを我々は日常生活から非常に強く排除して参りました。ところがその中で絶対排除出来ないものが一つだけあって、それが先程申し上げた「生老病死」全体がそうなんですけれども、特に死であります。ですから、死の扱い方が分からなくなったのは何も特別なことが起こったからではなくて、日常生活あるいは皆さん方がお考えになっている現実という物がそういう自然を排除した結果、最も自然的な事象である死というものをどう扱うかということが、そういう事が起こったときに、ちょうど神戸の震災と同じで困った、要するに災難だと言うふうに考えるしかなくなって来た。そういうような考え方しか取らなくなったいう事を意味するんだと。ちょっと極端に申し上げましたけど、そう思います。実は我々生きていたり、いろんなことがあってしゃべったり、云々と言うことを根本において保証しているのは私共の脳、意識ではない。それは生物学的な言い方をすれば遺伝子であります。そして遺伝子は我々が設計したものではなくて、じゃあどうして出来て来たものかと言いますと「進化論」をお読みになれば分かりますが、非常に長い30億年なら30億年という歴史の上に成り立ってきたもので、それを現代社会ではほとんど無いもののように考える。遺伝子操作とかそういうことをやって遺伝子の研究がどんどん進んでいるじゃないかと反論される方があるけれど、それは頭の中の事でございます。そうやって遺伝子の研究をしている方がそれじゃ自分の遺伝子を信用しているかと言うと、今申し上げたように世の中ばらばらになるじゃないかという風に考える位に信用はしていないんだという事は私は分かっているつもりでございます。それが死の問題の一番大きな背景にあるという風に思っています。ですから、脳ということを申し上げたのは「唯脳論」という本にも書いたんですが、一番誤解を受けたのは脳を調べれば全てが分かるとか、全ては脳から発すると私が言っていると思った方が非常に多い。それは全く逆でございます。現代社会というのは脳に振り回されているという事が申し上げたかった。

柳田:人間というのは何か一つの物に押し付けるとそれで一件落着のような、この世のすべて悪いのは郵便ポストが赤いからとかね、そういう昔から言われるような、何か分からない事があると、例えば遺伝子のせいにするとか、脳のせいにするとか、実際は人間というのは非常に複雑で分からない所が、多くて、それを科学が進んで分かったかのような、錯覚に陥っている時代なのかなという気がして、それで、科学者に質問すると答えてくれそうな、これもまたイリュージョン、錯覚だろうと思うんですけど。養老先生の本をお読みになればあちこちに書いてありますけれど、科学というのは普遍性とか、再現性とかいうことを大事にするわけですよね。誰が実験しても同じ結果が得られる。それが普遍的な真理として通用する。そうするとそういう風な制限性というのはある限定された条件の所でないとなかなか出来ないわけですね。あるモデルを作らないと。ところが人間というのはみんな千差万別なわけで一人一人の生き死にというのは皆ばらばらなんで、なかなか答えられないですね。で、これは私が息子を亡くしたことの手記を書きまして今月末位に本が出ますが「犠牲」という題で出しましたけれど、その中でもちょっと書きましたけれど、これは心理学の河合隼雄先生から教わった事なんですけれど、人間というのは物語らないと本当のところ生きていけない。自分自身がどういう風な生き死にをしているのか物語らないと納得出来ないという事なんですけれど、これどういう事かと言いますと、河合先生が例を挙げておられたのはこういう事なんですね。例えば若い恋人がいてそのうちの男の子が交通事故で突然死んでしまった。とそこへ駆けつけた彼女が「どうしてあなた死んじゃったのよ」と泣き叫ぶときに科学は明快な答えを出せる。とういう答えを出せるかというと、これは事故で脳が挫滅したから死にました、というんですね。これはじつに明快な誰も反論しようのない、脳がつぶれて壊れたから死んだ。だけど、そこで彼女がもとめている答えはそうじゃないんですね。それが答えならば「ああ、そうですか」というんで、帰るわけですよね。だけど、どうしてと聞いているのはそういうことを聞いているんではなくて、「結婚を約束し将来にバラ色の夢を描き何も悪い事をしたことがない、一体自分はどんな.悪いことをしたの、それなのに何であなたは死ななきゃならないの。どうして」というそういう問いなんですね。これは誰も答えを出せないと思うんです。その答えはね、結局自分で作るより仕方がない。

 何も交通事故だけじゃなくてガンで亡くなる場合だってね、例えば連れ合いが30代で肺ガンになる。一生懸命勉強して就職して働いて、やっと課長になろうとしているその矢先、なんでガンにならなきゃいけないのと、その答えはね遺伝子に傷がついたからです。「ああ、そうですか分かりました」というわけにはいかないですね。その「なぜ?」というものに対する答えはとても難しくて、それはその人の人生の文脈やいろいろなものの考え方やあるいは家族の有りようとか、男女の有りようとか、夫婦の有りようとかそういう物の中で、答えを出していかなきゃならないんですけれど、なかなか出せないですね。それはそういう精神生活というか人間の心の世界というのは、まだまだ科学がメスを入れられていない。でも勿論そういう事を考えるのは脳である事は確かですし、脳がなければ考えないわけですけれど。しかし、脳をいくら解剖しても答えは出てこない。脳が考えることは確かですけれど、じゃあ「どうしてあなた死んだのよ」と言うのに対して答えが出て来るかというとないですね。ここのところ非常に難しい問題ですし、生と死を考える上ですごく大事なんだろうと思うんです。私自身息子の死んだことについて言いますと、長年神経症を患って、自分で命を絶ってそして救急センターへ救急車で運んで心蘇生をしたけれど意識は戻らない。最初は植物状態になるんじゃないかと言うところから急速に3日目位からもうそれどころか脳死に突入して行ってしまう。毎日毎日のデータは悪くなるばかりで、そして実際6日目には脳死判定でも植物死と認めざるを得なくなった。で、その過程のなかでね、どういう風に息子の死というものを親として受け止めあるいは私の長男から見れば、その弟の死はどう受け止めるかというので必死になってベッドサイドで考える、あるいは家に帰って考える訳ですけれど、その考える根拠となるのが共に人生を共有した歴史があってその文脈の中でいろんな事を考える訳です。例えば現実に起こったことですけれど、息子の場合は、その年の春に骨髄バンクに登録していたんですね。私がいろいろ骨髄バンクに支援していたりしたこともあって、何も出来ないけれどそんなことで人に役立つんじゃないかとね、あるいはもっとエゴイスティクな、良い意味でエゴイスティクにすることで自分がもう一度生きる力が発見出来ないかとか、いろんな事を考えたんでしょうね、で、八王子の病院に通院してたもんですから、その帰りにふらっと八王子の日赤医療センターに寄って、骨髄バンクのドナー登録をして帰ってきました。そういう事があって、それならば脳死状態でももし血液型が適応する人があるならば、白血病で困っている方に適応できないかなと言う事を調べて貰ったんです。もちろんそんなに突然血液型が合う白血病の方がいる訳ないけれど、できるだけ悔いを残さないために調べておこうと、万に一つでも合ったらと思って調べたけれど、駄目でした。

 ご存知のように白血病の患者さん側も骨髄バンクに登録してコンピューターに入っていますから、こういう患者さんいませんか、というとすぐコンピューターでわかるわけですよね。それでいない、それじゃどうしようかというのでそれでドクターが、そんな風にお考えならば死後の腎提供、腎臓の提供ということも有り得るのではないかということでまた、いろいろ考えたり、息子と喋ったりしました。家内はもう精神的にダウンして思考能力がなくなっていましたんで、相談出来ない状態でした。でも、息子と話し合いました。で、死後の腎提供なら、彼のリビングウィルになくても骨髄バンク登録の延長線上で考えられるのではないか。脳死における臓器提供というのは今の日本の医療界、法律の建前から言うとまだやれないけれど、それに息子は私と生きていた頃の議論では脳死での臓器摘出は怖いからいやだと言うことを言っていましたので、息子の意思を尊重するならばそれはできないけれど、死後の腎提供ならいいんじゃないか、むしろそれは息子の意思を生かすという一つの道ではないかという風に考えて結局コーディネーターにきてもらって、いろいろ話を聞いたりしてだんだんそういう決心をしました。息子は過剰な医療での延命を望んでいなかった。これははっきりありました。生前の息子の意思として。

 ですから脳死判定後、そうですね2,3日してから昇圧剤なんか投与するのを止めました。自然な死という形で行こうと、それから水分補給は最低限にする。すると不思議なことがあるものですね。昇圧剤を切ったのに血圧が上がったんですね。で息子は抗精神薬を飲んだり、睡眠薬を飲んだりして生きていたもんですから、血圧が低めで割りと寝起きが悪かったりして辛かったんですが、100ちょっとしかなかったんですね。それで昇圧剤を日常的に飲んでいましたけれど、むしろ脳死状態になってから昇圧剤を点滴したりして、130位になりましてね、そして昇圧剤を切ったら140位になったんです。不思議なもんです。そして3日間そういう状態が続きました。昇圧剤を切った後のほうがむしろ良い位で、心拍数も正常に打ってました。命って不思議だなと、そして発見というか気づいたことが一杯あるんですけれども、肌の温もりがあり看護婦さんたちが優しくてね、朝昼晩といつも清拭をしてくださり、髭を剃り口をゆすいで、髪を洗ってくれる、もう生前よりももっと元気な感じなんです。つやつやして湿り気があってそして喋りかけると会話が成立するんですね。これは親の錯覚、気休めといえばそれまでなんですけれども、何かそれを越えたとても大事な会話の時間がありました。そしたら長男も同じことを言ってました。夜を徹してそばについててやるといろんなことを喋れるとね。それを二人称だからそういう事を感じるわけですけれども、三人称だったら全然意味ないわけですよね。

 人生を共有してないですから会話の種がないわけですよね。ところが人生を共有しているとそうだあのとき萩に行ったときどうだったとか、夏過ごしたあそこでどうだったとかね、あるいは骨髄バンクに登録したけれど今はそっちのほうは無理だから腎バンクの方に切り替えてこうしようとか、いろいろなことを言ったりして、会話が成立する。そしてそういう中で共有された精神的な命というか、心の命というかそういう部分を家族がいろんな形で納得していって、その中で知らず知らずに物語りが出来てくるわけですね。息子の25年というのはある意味で80年ぼーっと生きてきた人より密度が濃かったんじゃないかとかね。いろんな事を教えてくれたとか。彼が生きた意味は充分あったとか。さまざまな物語を知らず知らず作っていく、そういう中で死というものをだんだん受容して、それでお別れしても良いなという感じが、じわっと出て来る。それが丁度10日目位からそんな風になりまして、11日目の朝位からすっと脈拍、血圧が下がり出したんで、もう今日が最後だろうなとお医者さんが言い出したんです。それでもう午後遅くには急速に下がって来たので、腎保存の冷却保存液を入れるカテーテルを大腿の静脈からずっと入れまして、腎臓の所へ持っていく手当だけをしました。それだけは最期の瞬間が来る前の処置として必要だったものですからやりました。

 そういう風にして最期のお別れが来たときには私も長男も全て心が受け入れる状態でしたから、心拍数がなくなった時には何か非常に別れるというよりも、何というか、また会おうなという感じで五分もしないうちにそのまま、検死とそして移植チームが来ておりましたから、そちらの手術場へ連れていってもらうことを自然に受け入れる事が出来ました。そしてまた、折角移植するならば出来るだけいい状態で、受け入れる側にも喜ばれる形にした方が良いと思って、そこで1時間も2時間も泣き叫んで別れをするというよりは、さらっとした別れの方が息子の気持ちにも良いだろうというので別れることが出来ました。そして腎臓がその日の夜、(腎臓は二つありますから)一つは八王子の病院で待っておられた中年の女性の患者さんに移植されました。それからもう一つは福岡の方で待っておられた中年の男性の為に夜自衛隊のジェット機で運ばれて移植されまして、両方とも、その日の内におしっこが出るようになって透析も必要でなくなってとても経過が良いんです。もう2年近く経ちましたけれどお元気で、透析も必要なく生活しておられます。後に福岡の方はですね、人生が変わった、人格が変わったかのようにとても変化されたようです。変化というのはそれまで性格的に周りの人から煙たがれて人付き合いが悪いほうだったらしいんです。ところが移植を受けた後、まるで別人のように丸くなって周りから愛されるような人になったと言うことを聞いております。それはそれで素晴らしい事だったなと思います。またそのこと自体が物語という視点からいうと、何かもう1つおまけをつけてもらったような感じで、残された者にとっては心の中でまだ、彼は生きているなとか彼の生き方は良かったなとか、いろんな意味で納得出来るものが出来て来るんですね。

 そういう風にして命の問題というものを実際に二人称で体験すると、いろんな事が見えて来る。たとえば命を共有する部分とかですね、それから時間の大切さ。様々なことが身につまされて分かるんです。そういう意味からいってもこの二人称という視点が医療界の中でとても大事だなという事、この辺りを三人称であるお医者さんがどう見るか、というのがすごく大事なような気がします。ただその二人称の考え方の背景には、日本人の一般的な、文化的な背景とか心の持ち方というのがありますから、外国、特に欧米の方とはかなり違うと思うんです。例えばこういうお手紙をお医者さんから頂いたんです。それは国内にある米軍基地の近くでお医者さんをされている方なんですけれど、産婦人科の先生だったようですけれど、お子さんが産まれるけれど新生児で亡くなったりしますね、重い障害があったとか、その場合、日本のご家族ですと大抵、悲嘆にくれた家族がその亡骸を、まだ20才代位のお母さんが抱きかかえそれをさらに、お母さんのお母さん、あるいはその家族がみんなで包むようにして遺体を引き取って行くというのがごく普通の形なんですけれど、その米軍の白人夫婦の場合はそういう事がほとんどないというんです。そういう新生児が亡くなった場合、特に重症障害児で亡くなった場合、あるいは無脳症なんかで亡くなった場合、お母さんなりその家族が引き取りにこないで、米軍の遺体処理班というのが取りに来るんだそうです。そして直接処理してしまうという事なんです。そういうところはやはりかなり違うな、それも一例や二例じゃなくていくつもそういう同じ経験をしていると言うんです。でまた遺体に対する見方も、私なんかのようにいろんな事件、事故の現場を取材してますと違うなと思いますね。日本人は例えば航空事故があって遺族が駆けつける、そうすると遺体に対面したい、遺体を自分で確認してそしてお別れしたい、というせつなる希望をしますね。

 或るときフランスで航空機事故があり日本人が数十人巻き込まれて亡くなりました。それで遺族団がパリ郊外の現場に行きました。そしたらフランス政府は会わせなかったんですね。遺体が非常に悲惨な状態になっていてそれに会わせるのは非人道的である。つまり遺体を遺族に会わせるのは非人道的であるという考え方なんです。日本は逆で遺体に会わせないというのは何と非人道的なんだという事なんです。そのあたりものすごく違うなという気がしました。いずれにしましてもいろんな意味で死に直面してどういう物語りを作っていくかというのは、文化的な背景もあってかなり違うと思うんです。そういう考え方を河合先生に教わった。というのは河合先生はユング派の心理学者で、ユングが物語をつくるというのをコンストレイションという言葉でキーワードを提出しておられるんですね。コンストレイションというのは英語で星座、空の星の星座ですけれど。何億という星が無秩序に見えてただ意味もなく点在している、だけど人間はそれを古代からつないで、あれはふたご座だとかオリオンだとかカシオペア座とかねおうし座だとかいろいろなものを作って例えば年に一度織り姫と牽牛があう悲恋の物語りとかですね、そういうものを作って納得するというか、そしてそこに自分の人生を投影したりするということを考えて生きている訳ですけれど。そのコンストレイションというのがいろんな人生とか生活とか世の中とか無秩序にある様々なものの中から自分にとって納得いく形の物語を作ることによって初めて「なぜ」というものに対する答えを得て、そして自分がもう一度出発して行く、再生していくという足掛かりにするというそういう事が出来るのかも知れない。死というものをそういう次元から捕らえることがとても大事なことではないかと思いますね。

養老:申し上げようかどうしようかと考えていましたが、私は二人称でいえば父が四つの時に亡くなっていまして、おもしろいというか小さいときの事ですからあまり記憶はないのですが、実は人生の記憶というのは父が死ぬところから始まっている。死ぬところから始まっているのではなくて死の前後から始まってる。例えば明るい天気の良い日で、結核で自宅で療養しておりまして、窓際のベッドで寝ておりました。ベッドは普段窓際になくて部屋の中にあったんですが、その日はたまたま窓際にあった。そして何をしているのかというと、飼っていた文鳥を放していたわけです、病人が。そういう記憶が残っております。それで後で母に聞いたらそれは死ぬ日の朝だといっておりました。そんな記憶が残っている。あるいは父のベッドの脇に私がおりまして、枕元に振ると音のするガラガラが置いてある。あれはもちろん子供の玩具ですから、あれ自分の玩具じゃないなあ、でもお父さんの枕元に置いてあるのはおかしいなあと思っているわけです。だけど、どうしてそこに置いてあるかという事を私は聞けない。聞けないという状況は何かというと、後ではっきり気が付いたのはつまり遠慮であります。遠慮してやはりそういう状況ですから、つまり父が病気で寝たきりになっている。で枕元に子供の玩具が置いてある。で当時は他に子供は私の家には居りませんでした。しかも私のじゃない。そうするとそこに何か意味があるんだろう、と遠慮して黙ってじっとそのガラガラを見ておりましたら、父親がニコッと笑って、非常に勘の良い人だったと思うのですが「これはこういう風にして使うんだよ、これを振ると音がするから振ると看護婦さんが来てくれるんだ」と。

 父は喉頭結核も併発しておりましたから殆ど声が出ない。ですから代わりにそれを使ってた。それで実はそういう風な思い出というのが映画のシーンのように何コマか私の頭の中に入っておりまして、そして変な時に、特にこれといって意識してない時にそういった映画のコマのようにポッ、ポッ、ポッと出て来るわけです。その出て来るものが中学生、高校生、大学生あるいは30代になってもそうでありました。私もいろんな経験をした間に、1つの中学とか高校生の時に特徴があったんです。それは、私は人に挨拶が出来ないという癖がありました。で一番極端な時はですね鎌倉というのは狭い町でして、母が開業しておりますから知り合いが非常に多い。家にしょっちゅう来ている小母さんと横町ですれ違いましてその時にいっさい挨拶をしないで通り過ぎた。後でその小母さんが怒鳴り込んできまして、何か含むところがあるんじゃないかといって。私のほうはそういうつもりはないので、なぜか挨拶が出来ないんであります。30過ぎて40代だったかも知れませんが、ある日はたと気が付いた。

 それは何かというと、それは父の臨終でございますが、私は同じ部屋で寝てたんです。母は医者のくせに相当無神経なことをするんで、つまり過労性結核の父親のいる部屋に子供を寝かせてたんですけれど。(笑)そこで夜中に起こされた。父の臨終で、ベッドの周りで大人が何人も集まって、みんなが立っている。私は子供ですから大人が立っている間から、父親の頭の所に顔を出しまして、そしたら頭の上から声が振ってきまして、誰が言ったか未だに分からないんですが、「お父さんにさよならって言いなさい」って言ったのはよく覚えているんです。それで当然の事ですが夜中に起こされていますし、子供の事ですし周囲の雰囲気が異様ですから声が出ないわけです。そしてじっと父の顔を見ていましたら、やはり勘の良い人ですから私の顔を見てニコッと笑いました。笑った瞬間にバッと喀血をしてそれが最期でありました。何が分かったかと言うと、ある日ほとんど突然気が付いたのは、あの時から私は挨拶がどうも苦手だった、あのせいだと言うことが分かったんです。その「あのせいだ」と言うのを当時はどう考えたかと言いますと、非常に簡単に考えまして、父親に出来なかった挨拶を赤の他人にすることが出来るかと言うことをどっかで思っていたんだろうと言う風に解釈をした。しかしそれから1O年位して実はそのころ私も個人的にいろいろ苦労がありまして、そういう解釈はしたんですが、決して本人は納得していない。

 そしてもう一つその時に非常によく記憶しているのは、それは地下鉄の中でぱっとそういう事を考えました。何が起こったかと言いますと、そういう事に関連がついたしばらく後に地下鉄に乗っておりまして、突然父が死んだと思って涙が出た。それで気が付いたんですが、実はその挨拶ができないと言うのは、今言ったような単純な理由ではなかったのではないかと、その時思った。それでは、それはどういう理由かと言うと、4才ないし、5才の子供にとって可愛いがってくれた父親が死ぬと言う事は、いわば理不尽な事でございます。おそらく納得していない。何故納得をしていない、と私が後で分かるかと言いますと、その後、ついこの間母が亡くなって私は焼き場へいきましたけれど、その火葬場が父を焼いた所と全く同じ所でそこを通って行く坂道を私はよく覚えているのを思い出しました。父の葬儀で火葬場へ行った時のことなんですが、部屋が二つありまして間に襖があって襖がちょっと開いている。何故か私はその襖の向こう側におりまして、その襖の開いたところから隣の部屋を見ております。隣の部屋に姉と母が向かい合って座っておりまして、真ん中にお菓子を乗せる三宝のようなものがあってその上にお菓子が乗っている。私は隣の部屋からそれを見て、あれ食べたいなあ、と思っている訳です。で一方姉はと言いますと泣いておりまして、食べたいなあと思うと同時に何を考えているかと言いますと、姉が泣いているのに自分はどうして悲しくないんだろう。でここで父が死んで姉が泣いていて私が泣いていないというのは、なんかおかしいんじゃないだろうかと言う風な事を子供心に考えている訳です。しかし正直なところ一向に悲しくないので、そういう悲しくなかったということが、そういう風な記憶として残っている。それもその瞬間にばっと気が付いたのではありますが、どういうことかと言いますと、今二人称とおっしゃいましたけれど子供の時に二人称の父の死に出会いました時に、私が挨拶しなかった。たまたましなかった。することができなかった訳ですが、つまりそれは未完の行為でございます。やりかけの行為でごさいます。もしそのやりかけた行為をやり終えてしまいますと、父が死ぬ訳で、私はよく申し上げるのですが、二人称の死体と言うのは死体ではない。

 それは普通の方の行動を見るとすぐ分かるのですが、外に出て倒れている。交通事故で倒れてから明らかに死んでいると思われる人がいて、その時顔がこっちを向いていてそれが自分の子供であれ、恋人であれ、要するに一家、親族といいますか、そういう者であれば皆さんすぐ駆け寄って抱き上げるなり、なんなりして声をかけるとおもいます。しかし、こっちを向いている顔が赤の他人であれば、極端な場合、別に差別する訳ではないですが黒人だったりすれば大急ぎで逃げちゃうだろうと思います。180度違いますから私は「死体と言うのは一つではありませんよ」といつも申し上げます。それは柳田先生がおっしゃったように二人称、三人称の非常に大きな違いでありまして、二人称の死体と言うのは根本的には、私は死体ではない。ですから私の場合ですと父の死と言うことは実は私にはどうしようもない事ですが何をしたかと言いますと、それを徹底的に否認した訳でありまして、どう言う形で否認したかと言いますと「さようなら」と一言言うことを拒否したわけです。それがよく考えてみると、人に挨拶ができなくなった理由であったんだろうと、それに気が付いた瞬間に、先ほども申し上げたように実は涙が出て来まして、ああ、父が死んだなと思いました。ですから人が死ぬのには私は短い瞬間で死ぬものではない。場合によっては30年40年かかるという風に申し上げます。だから先ほど死亡時刻と言うのは法律がかってにある瞬間と決めただけの事ですね。そして2人称の死、残された者にとってその人がいつ死ぬかと言うのは必ずしもその物理的な時間、あるいは起こった出来事通りではない、という風に私は思います。

 でそういう事が心の中にずっとあったために、逆に言いますとそういう記憶がずっと残っておりまして、それがポコポコ映画のシーンみたいに出てきたんだろうなと言うことが今になると分かります。これが基本的には精神分析だと思いますが、日本では精神分析というのは流行りませんで、それはおそらくそういう風な体験という者が、私はたまたまそういう体験をしただけであって、それが比較的ないんだろうと思います。ですから、遺体を見せない、とおっしゃいましたけれど、見せないと言うのも、例えば私が父の臨終に立ち会わないと言うことであれば後で挨拶ができないという風な奇妙な現象は起こらないで済んだ訳で、しかし、ここまで生きて来てどちらがよかったと言いますと、私はやっぱり子供で臨終に立ち会ったことはよかったんではないかと思います。ただし、それが良かったと言えるためには数十年かかった。その前に、私が30代で死んでしまっていればそのままで終わったんではないかなと言う気が致します。ですから二人称とか三人称とか言っても話はそう簡単ではありませんで、死というものをどの立場から考えるかによってそれは全く違うものになり得るような気が致します。だから、割合にこういう「話」というのは、歴史といいますか、歴史と物語というのは実は外国語では同じhistoryで、ある意味で同じでございますが、私のは、まさしく話でありましてその話ができあがった瞬間に私は非常に楽になりまして、最近は挨拶するのが何の苦でもありません。(笑)そういう風な物語というのはまさしく癒しの効果を持っている、という風に思います。

柳田:私の脳死問題について喋ってますけど、実はこれ脳死だけの問題でなくて人間の命を考える非常に貴重な経験だったものですから話してるんですけれど、それをきっかけに、いろんなお医者さんの話しを聞いたり、あるいは私自身いろんな作品を書く、執筆活動の関係でいろんな医療の現場を聞いてますけど、これはこの春、文芸春秋にも書いたんですけど、ある大学病院の新生児医療室で治療に当たっておられる女医さんで精神医学をやっておられる先生がおられましてね、いろんなお話し伺いました。それはやっぱり子供の死というもの特にお母さんが新生児を亡くす場合の衝撃というのは大変大きいですから、それが例えお腹を痛めただけで、その後の人生を20年も40年も共有しなくてもたった一日でも・あるいはお腹を痛めただけでも、その一つの命を共有したということは、残された者にとっては大変なんですね。ですからあるお母さんなんかは亡くなった子供の幻影が目の前から消えなくて、お母さん自身が心に病を持ってしまってそれでお医者さんが死んだ子のことばかり思ってたんでは明日がないからもっと新しいお子さんを産んで育てた方が良いですよ、ま誰でもそういうことはおっしゃると思うんですけれど。それで次の子が産まれたけれどもその子を見る目の間に亡くなった子の幻影がいつも割り込んで来て、そのお母さんの目付きが怖くて次に産まれた子がね、もう1O才位でやはり心の病気を持つようになってしまった、という患者さんを診ておられて、それは一人や二人ではなくてそういうことがあるというお話を伺いましてね。いかに看取りと言うものが大事かと言うことがそんな所から象徴的に分かりますし、その子供を失った時に残された側がどういう風に癒され、またどういう風に自分で物語を作ってそれを乗り越えて行くかというシステムの中ではまだまだ手がつけられていないですね。だいたいグリーフワークとか喪の仕事とかその悲嘆の癒しということが、ターミナルケアの中で注目され出したのが,本当に80年代位ですね。

 例えば上智大学のデーケン先生なんかが「死の準備教育」とかあるいはそのグリーフワークについてのいろいろな発言や本を書かれたり、或いはセミナーをやったりされて、そういうことがやっと世の中で関心の対象になる、それで「生と死を考える会」などと言う、愛する肉親を亡くした人達が悲しみを分かち合う会ができたり、今全国で20数カ所位できていますけれど、そういう会がどんどん増えていったり、また死の臨床研究会などでもこのグリーフワークがテーマになって来たのもやはり80年代になってからですね。でもそれすごく大事なんで、そこのところを見ないで、単に死んで行く者と三人称としての医療スタッフとの関係だけで、終末医療というのを考えるととても大事なところが欠落しちゃうと思うんです。ですが現実にはグリーフワークと言ってもなかなか今の医療事情の中にはそれがうまくできない。先駆的にターミナルケアやホスピスに取り組んでおられる先生方は、そういう意味で家族と言うものを早い段階から考えて、いろんなことをやっておられますけれども、まだまだ日本の医療界の中ではそういうものは、一般的になっていないですね。しかし、これからますますそういう面が重要になってくるんじゃないかと思います。

養老:反論ではないんですが、日本の医療界とおっしゃったんですが、私は今大学におりましてそこでどういう論理で人間と言うものを考えているかということを申し上げたいのですが、これはよく申し上げるのですが、私は去年肺癌の疑いということで捕まりまして、病院へ行った訳です。先ほど告知がありましたけれど、やっぱり多少びっくりした訳ですが、その時にちょっと具合が悪かったものですから女房も亭主が医者の端くれなもんですから、なかなか面倒を見て貰えないという不満をいつも持っておりまして、どうせ検査に行くから一緒に行こうということで一緒に病院に参りまして、お医者さんからいろいろ指示を貰いまして病院の中をぐるぐる回って、血液を採ったり尿を採ったりですね、ご存じのようにレントゲン撮ったり、胃カメラまで飲みまして二人でやりました。医師の所へ帰って来た時には二人ともへとへとでございまして、顔を合わせて「丈夫じゃなきゃ、病院には来れないね。」(笑)知り合いの医者で何を言うかと思ったら「一週間たったら検査の結果がでるからまた来て下さい」これは必ず言う訳ですが、そう言われて、一週間たって行きますと、医者が何をしているかといいますと、私の顔なんか見ておりませんで、机の上の紙を見ておりまして、紙を見ますとGOTだのHBだのずっと書いてありまして、あれは何かといいますと化学物質でありまして、その量がずっと書いてあります。で、こちらにレントゲンがかかっております。あれは人間の体に特定の電磁波を通して撮り方によって画像を作っているもので、あれもいってみれば数字と同じものであるわけです。じゃ医者が見ている検査というのはあれは何か、あれは計量化された、つまり数値化された我々人体でありまして、物理化学的に把握された人体であります。で物理化学的に把握された人体こそが人体であるという風に今の医者が考えていることは、あの作業を見ていれば間違いない。そしてそれを論理的に繋ぎ合わせたものが皆さんの体であります。ですからあそこで見ている紙は、あれは紙ではないんで皆さん方の身体であります。

 そういう形で把握された身体は実は普遍的な理論的な身体でありましてそれは誰でも同じであります。ですから保険制度の中には先ほども申し上げましたが、その理論が貫徹しておりまして、どういう風な病気であればどういう風な薬を使って、それにこんな薬を使ったらペケで削られて、要するにお金を払って貰えない。そういうふうになっております。ですから近代医療の中に現として存在している物理科学的な計量可能な身体と言うものを私は人工身体と呼んでおります。脳の中の身体と言っても良いですが、なぜ人工身体かと言うとそういう風な考え方で徹底的に把握された人体というものは最終的には人工臓器で置き換えられるはずだからであります。つまり血液、心臓が何をするものかということが完全に理解出来れば心臓は機械に置き換えることが出来ます。そういう意味で近代医療が徹底的に目指している、暗黙の内に前提としております身体はそういった人工身体であります。ところが今ここでずっとお話になっております身体は何か、というとそれは正しくそれに対立する物としての自然の身体であります。自然の身体は歴史性を持っておりまして先ほど申し上げました「かけがえのない」一回限りのものでございます。かけがえのない、一回限りのものなど現在の医者が見ておりましたらそれは医者の作業が出来ません。とても金にもならなければ、どうしようもない。ですからこの医療問題のようにして発生してきた末期医療の問題を含めてですが、これはすべて医療界の内部で言えば人工の身体と自然の身体との対立であって実は大学における医学というものはもはや自然の身体は扱わないという約束に、ほとんど暗黙の内になっております。

 日本では面白いことにいろんな物事が暗黙の内に決定的に決まってしまうのでありまして、例えばよく申し上げるのですが、現在の自然科学者は英語で論文を書かなきゃ自然科学者と認められません。それは大学で研究されておられる方はよくご存じだと思います。で、誰が決めたんだと聞くとですね、誰も決めたわけでないんですがいつの間にかそういう風になっておりまして、いつの間にか徹底的なルールになっております。それと同じ事で医者が人工身体というものを真の身体であるというのも暗黙の了解、逆に言いますと絶対的な了解となっております。だから何が起こったかと言いますとそういう身体を取り扱うことをキュアと私は定義しています。自然の身体を扱う人がいなくなりましたのでケアということが非常に問題になってきた。自然の身体を扱うのがケアだと私は思っております。今でも開業医のお医者さんあるいは古いお医者さんは良くおわかりだと思いますが、私が学生の頃は、患者さんの既往歴を聞きなさいと徹底的にたたき込まれました。つまりこれまでどういう病気をしましたかということを紋切り型で皆さん聞かれた事があると思います。あれは何だったということを考えますと、実は実際にそれが大事だという例をいくつも申し上げることが出来ます。私自身を含めてですが、しかしそれだけではないんであって、おそらく既往歴を聞くということはその人を歴史的存在として把握することであった。つまりその人がある物語を担ったものとして把握するという意味を持っていたと思います。しかし現在のお医者さんは検査を見ております。それはある時点で切った皆さんの体の状態です。それを見れば良いという風に考えるようになっております。ですからそこで消失して行っているのは、先ほどから申し上げているかけがえのない歴史性を持った、言わば物語を持った人間の身体でございます。そういう物を取り扱うのがケアでございます。

 ですからそういうものをもう少し社会的に見ますと、現在では看護婦さんの力が大変強くなっている。そしておそらく看護学校は(医学校は現在減らしていますけれど)倍増するという傾向にあります。それはある意味で当然の事ですね。医者が放棄した部分を看護婦さんが埋めざるを得なくなっている。あるいはこういう会自体もそうだと思いますが、そういう風な形で医療というものが、私は社会的にも変わって来ているのではないか、と思っております。例えば解剖学、人間の体がどういうふうになってきているか、ということを今のお医者さんに教えても仕様がない。今のお医者さんはむしろ「化け学」的に身体がどう出来ているかということをきちっと教わった方が良いのでありまして、わたしは解剖学なんて、非常に極端な言い方をすれば医学部で教える必要はない。必要な時に本を見れば良い。あるいは標本を見れば良い。ただケアというものを考えるならばそういう物を見ておく必要がある。ですから看護なんて、今までの常識ですと医者がやるもんだと思っておりましたが、私はむしろこれからはそういった看護関係の方、あるいは一般的にそういう事に関わる方、もっと極端に一般市民の方が勉強されたら良いのではないかと思っているわけであります。それは、日本というのはしばしば業界というのが成立しまして、業界の論理というものがしばしば絶対になってしまいます。ご存じのように土建屋さんには土建屋さんの論理があり、そこで談合があって周りの人がどうとかこうとか言いますがこれはなくなりません。良いとか悪いとかの問題ではありませんで、何らかの構造的な問題としてそこに成立するんだろうと思います。

 医療界も同じだろうと私は思います。ですからその中で、ちょっと誇張して申し上げましたけれど、基本的に現在の医療が追及しているのは皆さん方が日常的に感じておられる普通の自然の身体ではない。ですからお医者さんが末期医療に関して、癌の告知問題に関してあるいは脳死問題に関してしばしば万歳をしたように感じるのはそれは当然でございます。なぜならば近代医学のそういった論理の中から告知の問題にせよ、末期医療の問題にせよ、何もそういう事に対する答えが出て来ないわけでございます。それは先ほど柳田先生がおっしゃったお話の中にもそのまま実は出て来ているわけであります。いくら遺伝子を調べてもそういう事は解らないでしょうとおっしゃったのは、私は根本的に近代化の立っている立場というものを医者も意識していないし、患者さんあるいは皆さん方も意識しておられないのではないかと思ったので、余計な事だと思いましたが申し上げたんです。私はそれがいけないと言っているのではない。両面あるということを申し上げているのです。

柳田:科学というのは非常に重要で本当に多くの福音をもたらしてくれたと思うんですけれど、その科学で全てを取り仕切ろうとするところがまた間違いの元なんだろうと思うんですね。今、養老先生がデーターを見てるとおっしゃいましたけれど、丁度30年代に東大の有名な先生で緒方先生と言う方がおられて当時の医学雑誌である座談会をやって現代医療の危機についての座談会なんですが、昭和30年代ですよ。そこで緒方先生がこういう例を話してるんですね。消化器内科の先生が外来で患者が「胃の調子が悪くて困る」と、それで青ざめて来てる。顔色も悪い。ところがそのお医者さんはデーターを見てね、「あなたはどこも異常はありません」と、数字を見て、「あなたは気のせいだから今日はお帰りなさい」と言って帰した。しかし、その患者さんは依然として毎日の生活に支障をきたすほどのお腹の具合が悪くて食欲もなくて顔色も悪くて意欲もないというような、こういうことは困った事だと発言しておられて、それからすでに40年位経ってますけど、事態はもっと悪くなっているような気がします。

 最近岡山で「自分で決める自分の医療をすすめる会」という、まあ、生と死を考える会、あるいはここの会と似たような会がありました。そこでいろんな話があったので、私も行ったんですが、大阪で医療問題にからんで電話相談をやってるそこの代表の方が、最近のどういう相談が多いかというのを報告してたんですけれども、驚きました。「お医者さんが私の顔を見てくれないんです」という苦情がとっても多いんだというんです。お医者さんがコンピューターやいろいろな検査データーを見て、壁を見てしゃべっているというんですね。壁を見て「いかがですか、具合は」というんだってね。そしていろいろとあそこが悪い、ここが悪い。一向に顔を見てくれない、目も見てくれない。どうしてあの先生は私の気分なり状態なり分かるんでしょうか。で一通り問診が終わってカルテに書き込むと、「それじゃこの薬を飲んでしばらく様子を見て下さい」というので薬を渡されたけれど、ついに最後まで顔を見てくれなかった、と。それが一度や二度ではない、そういう相談が多いというんですね。私ね、医学会総会の冒頭で紹介した一枚のスライド写真があるんです。お医者さんにこれゼミナールか授業で、ここから何を読み取れるか、医療の在り方としてここに沢山の教訓があるけれどもここから何を読み取れるか、医学生だけでなく、研修医でも普通のお医者さんでも、そういう問題を出してどれくらい正解が出来るだろうか、正解というのは変ですけれど。ちょっとスライド出して下さいますか。今日持って来ました。

(スライド)これはアメリカで「死と死に行くことについて」先駆的に60年代から研究され実際にターミナルケアの先駆的取り組みをされたエリザベス・キューブラ・ロスの80年代からのあるワークショップの記録なんです。日本でもこういう「命有る限り」というタイトルで翻訳されております。カメラマンが一体になって撮った素晴らしい写真でこの左側がキューブラ・ロスですが、次ぎ、送って下さい。

(スライド)私が見せた一枚の写真というのはこれなんです。左側がキューブラ・ロスで右側がもう明日をも知れぬ患者さんです。この一枚の写真を医学生なり看護学生なりあるいは現役のお医者さんなり看護婦さんに見せてですね、ここからどれだけのことを読み取るかというレポートを書かせるんです。僕は箇条書きにして最低5つはないと点を上げない。7つか8つあげたらやっと80点か100点かそんなところではないか。本当に単純明快な写真ですがすごく大事にことを一杯物語っています。まず一つ。キューブラ・ロスが座っているということです。慌ただしく白衣を翻して患者さんのベットサイドに来て見下ろすようにして「お変わりありませんね」と言ってさっと行ってしまう。あの医者ではない。じっと横に座っている。2番目に目線の高さを患者さんと同じようにしている。3つ目。目をきちんと見ている、顔をきちんと見てそして会話をしているということですね。とても大事な事ですね。目を見るということ。日本人はちょっと目線をそらす文化的背景がありますけれど、医療の現場においてはとても大事ですね。4つ目、手を握っている。この肌の温もり、養老先生のさっきの図を沢山見せて貰った中で、脳の中の手の大きさというのはすごかったですね。つまり手というのはものすごいコミュニケイションの手段として重要なんですね。しかしその温もりのある手。どれくらいそれが患者さんにとってそのお医者さんとの精神的つながりあるいは信頼感を深めるか分からないし、また慰め、癒しにもつながるわけですけれどね。それから全身全霊で患者さんと会話をしているということ。その「慌ただしく10分間過ごすよりも、全身全霊をこめた1分間を」というのがイギリスのホスピスで一つの合言葉になっておりますけれど。他に何人患者さんを持っていようと、ある患者さんと対応する時にはその人に全てを尽くす、集中するというこの感じですね。まあ最低これ位は読み取らなければ行けない。

 もっと加えていきますと、この明日をも知れない患者さんの表情の暖かく、柔らかく笑顔が非常に良いですね。こういう笑顔が出来るような医者と患者の信頼関係というもの。この笑顔が得られるということはこれは医療者側にとってもほんとに生きがいにもなるだろうと思うんですけれど。それから7つ目位には、もう治療の方法のない、せいぜい緩和ケア程度でありますけれども、なおかつ治療方法があった時以上にお医者さんがこの患者さんの為にいろんなことをやるんだという、やることはまだまだあるんだという事、その全体の読み取りですね。まあ、少なくともそれくらいは読み取って行かないと行けないんではないか。それは何も終末期医療だけではなくて日常診療においてもみんな共通する問題ですし、こういう事は実は臓器や遺伝子を見るんじゃなくて人間を丸ごと見るという医療のあり方を象徴的に示していると思うんです。これから別の場面のスライドをお見せしますが、このスタイルが徹底的にキューブラ・ロスには身に付いていることをご覧になって下さい。

(スライド)これは椅子がなくてもこうやってベットに座り、目の高さ、そして目を見つめ、会話をする。そして患者さんの方はほとんど信頼感を持って笑みを浮かべている。

(スライド)これは床にへたりこんだ男性、そういう場合一緒に床に座って肩に手をやり手を握り、そして顔をきちんと見てその苦悩に耳を傾ける。このスタイルが本当に決まっているんですね。ありがとうございます。ここで止めておきます。で、私ね、命というものを部分的に見る傾向が強くなってきたのは一つの科学技術の時代の一つの特徴だと思うんですが、でも先程らい言っていますように二人称になりますと、別に臓器は見ていないんですよね。ですから息子が脳死状態になっている時に私は脳を開けて脳が死んでいるかどうかって、そんなところは見ていないんですよね。やっぱり髪の毛、顔、そして体、手、握る、そして清拭で拭いてやる、あるいは垂れ流しになっているお尻を拭いてやる。その全体から彼が生きて来た25年というものを考えたりいろんな事をするわけです。しかし、私は脳死を死とする人がいて良いと思います。またそれを受け入れないというひとがいて良いと思いますけれど、各々に家族の歴史というものがあると思うんですね。ほんとにいろんな宗教的背景とか人生観とか価値観から言って連れ合い同士とか親子でね、自分が脳死になったらそれはもう死としていいよ。いつでもどこでも納得出来る段階で臓器提供していいよ、ということもあり得ると思いますし、私自身はそうするかも知れません。

 だけど自分の息子を見ていた時にやはりそこで見ていたのは脳の中を見てたのではなくて、体全体を見ていました。脳死臓器提供推進の著名なドクターがあるところで書いておられたのですが、脳死の人は脳が死んでいてそれは人の死なんだから、死体なんだと。で、看護婦さんの多くはその脳死の人を見てどうしても死と考えられないという声が強いけれど、そんなだらしないのではだめだと、毅然として脳死は死なんだと、そこにあるのは死体なんだという態度を取らなければ医療者として失格なんだという事を書いてるんですね。僕はその人個人では良いと思うんですけれど、それを全ての医療なり当事者に押し付ける事自体が怖いと思うんですね。実際私自身見ていて、命というものは死んで行くときにだんだん死ぬ、という感じがしました。植物状態から脳死に移りそして心停止がやって来る。そのゆるやかな時間の流れ、全体の中で死というものが完成されていく、どこでそれをくくるかというのは正にそれは人間の選択の問題というか決める問題であって、養老先生がおっしゃいましたように死亡時刻というのはある法律的な便宜上そこで線引きをするんですけれどもそれを今臓器移植に必要で、強引に青田刈りのように早いところでばっと線引きしようとしているわけですね。ですがそれは脳だけを見ている人が三人称で言える事であって、解剖した脳を見ているんじゃなくて体全体を見ている人にとってはそうは出来ないと思うんです。

 ですが一方では移植によってかけがえのないもう一つの命が助かりそして先程言いましたように、腎提供を受けた人が人生が変わったように、素晴らしい人生をまた送れるということはそれはそれで結構な事ですし、それがお子さんの場合ですね、お母さんがなんとか肝臓病の子どもをなくしたいという気持ちも分かりますし、救われるなら救われるような医療の道が開かれればいいと思うんですが、しかし、それは亡くなる人の命についても充分考慮された上で両者がともに、後ハッピーになるような形での道というのが良いじゃないかなと思うんですね。で、先だって名古屋の医学総会がありました時に、ほんと私びっくりしたんですけれど、「国民に受け入れられる移植医療とは」というシンポジウムがありまして最後にフロアーからも発言をどうぞということを座長が言いましたらフロアーから臓器移植を熱心にやっておられるある中京地区の先生が立たれて、突然こういう発言をしたんです。こういうシンポジウムはもう意味がない。議論する時期は終わった、実行あるのみだ、とおっしゃったんですね。

 で、僕ショックを受けまして、なんか鳥肌が立つような気が致しました。私も医者ではなかったんですが、特に手を挙げましたら発言を許されまして、今の発言、大変心に傷を受けました。移植医療で命が助かることは大変素晴らしいことかも知れないけれど、誰の臓器をお使いになるんですか。その死んでいく者の命をどういう風にお考えなのか。議論はもう済んだ、こういうンンポジウムは意味がない、実行あるのみという発言があるからむしろ人々を混乱させ移植医療を遅らせるのではないですか。移植医の方々は素晴らしい技術をお持ちなんだけれど、それは技術として大事に使って下さい。しばらく黙っていた方が日本の移植医療は進むと思います、と申し上げました。ちょっと医学会としては異例の発言になりましたけれど、でもやっぱり第三人称の立場で臓器とか脳の中だけ見ているとそういうことになるのかもしれないなと思いました。これは単に脳死の問題だけでなくて今の医療全体に関わることで、養老先生がおっしゃったことにも通じることなんではないかなと思っております。

司会:ありがとうございました。先程の話にもどりますが、養老先生検診をされて肺ガンの疑いがあったようですが、結果の方はどうなっているのでしょう。

養老:一応なんでもないと言うことになっておりますけれど。

司会:先行きの不安がおありでしょうか。

養老:別にそれほど不安はございません。いずれにしても死ぬんだと思っておりますから。

司会:それから先ほど柳田先生がおっしゃられたことですが、本当に私も穴があったら入りたいようなお叱りを受けた気が致します。ぺ一パー医者と申しますか、ラボ医者と申しますか、検査のデーターがないと何も出来ない、そういう点で養老先生は体験された訳で、もう少し何か言いたいとことがおありなんではないでしょうか。

養老:私は文句は言う積もりはございません。それで良いんだと思います。良いんだと言うのは、この国は本当に曖昧なところがありまして、ここの病院ではこういう風にするんだということをはっきりおっしゃってやれば良い。今の移植の問題もそうですが、そういうところにこられる方が、そういうお医者さんのいる所なら、喜んで臓器を提供しましょうと言う方がおられればそれでよいわけであって、私はこれからはそういう一般性、普遍性とさっきから呼んでいますがそういうものと、先程から申し上げている自然の個別性というものをやっぱり皆さん方がそれぞれお考え下さらなければどうしようもない。で、もし個別性ということを中心に考えるならば私はいわゆる臓器移植という一般論は成り立たないと思っております。何故なら全ての移植のケースが二つの命を一つにするという風な行為でありまして、それはもし個々の人の人生がかけがえのない物であるならばあちらの移植はこちらの移植と違うものなんです。ですからそれについて一般論を述べることは出来ないという事になります。だけど、皆さん方が日常的にお暮らしの社会はそういうことを許さない。それはこの世の中になかった、今までなかった事をおやりになろうと思った瞬間にすぐに分かります。

 この日本という社会の中ではそういう物を徹底的に禁止する社会でありまして、私は先程もちょっとお見せしましたけれども人体解剖の標本というものを、例えば一般の方に展示をするというような事を考えますと非常に強い抵抗が起こって参ります。それはそれ自体に反対するという方がでて来るだけではなくて、そういう事をしてはいけないんじゃないかという段階で止まってしまう、という事であります。ですから私はこの社会を変えるということはそう簡単ではないなと、前から思っております。とても変わらないんじゃないかという気がするくらいで。それを私はタブーと呼んでおりますが。ご存じのようにこの社会は非常に沢山のタブーがございます。本来は学問というものはそういう物を考えて、順次壊すべき所は壊すという風にやっていくものだと思っておりましたけれど、なかなかそれは難しいということを絶えず感じております。

司会:ありがとうございました。そろそろ時間が迫って来ましたが、合目的的に私がいま考えなければならない立場にありますので、最後のしめといいますか、流れを変えさせて頂いて、最後にお二人方にいわゆる自然の死が受け入れられないようなこういう状況になってきて、ターミナルケア、ホスピスケアというものが今度逆に一般の医療を見返すという立場もあると思いますが、これからのターミナルケア、ホスピスケアはどんな風にしていったら良いかということを。今は医療者主導型みたいになっていて医療者がターミナルケア、ホスピスケアはこうあるべきだという「べき論」が先行しているように私は思っていて、ちょっとそれは筋が違うんじゃないかなと思っています。したがってむしろこれから予備軍のお二人の先生が将来ご自分が、例えば在宅ホスピスケアなり、施設のホスピスなりにもし入るようなことになったらこんな風にして欲しい、というご要望があったら一言づつ聞かせて頂いてしめにしたいと思います。

柳田:ぼくある時ね、突然死より癌死を選ぶというエッセイ書いた事があるんです。それは別に癌になりたいと書いたんではないんですけれど、すごく読者から叱られました。自分が癌になったことがないからそんな呑気こと書けるんだ。身内を亡くしたとか、自分で癌治療を受けたらそんなこと言えないはずだと。でおっしゃる通りなんですけれどね。別に経験ないわけではなくて、癌で看取った肉親あるいは友人はここ数年でも10人をくだらないです。ですけれど尚それでも私は断固として、突然死より癌死を選ぶ。何故かと言うと、やっぱり突然死は困るんですね。いろいろやり残してしまう事とか、未練がましいものですから最期は誰かの手を握りたいとかね、もう一度見ておきたいとかいろいろありまして、あるいはこういう音楽をもう一度聞きたいなとか、そういう時間が欲しい。それともう一つ裏付けとして症状緩和なり痛みの治療なりというのがまあ98%ぐらいは大丈夫だろうと。でそれをやってくれる病院と医者はあそことあそことあそこだなというのが大体取材してきてわかってきて、僕なりにリスト持ってます。(笑)それはちょっと公開出来ないんですけれど(笑)。そういう安心感があるんです。

 実際いま肝臓癌が進行していて治療中の友人がいるんですけれど、ある都内の総合病院で治療を受けていたらほんとにひどいもんでした。一力月くらい検査、検査を繰り返しやって終わったら、もう進行していてここでは何も出来ないから退院してくれと言われたんですね。で検査で結果が分かったらそれから何が始まるのかと思ったら、退院しろと言うんですね。ほんとに何なんだろうと言うこと。それで私違う病院を紹介したら天国と地獄の差だ、いや地獄から天国ですか。(笑)お医者さんはどんなに忙しくても帰りにちょっと病室覗いて声を一声掛けてくれる。看護婦さんが非常に洗練されていて水準が高いし、あたたかいし、どうして同じ病院なのに、同じ医療費なのにこんなに違うのかと。裏返して言えば、いろいろ医療界の批判的な事を申し上げましたけれど、あそこにここにいいお医者さん、いい病院あります。おそらく谷先生の病院はいいんだと思います。(笑)そういう信頼出来るところ、自分の友人知人、ネットワークの中でお捜しになっていざという時には誰に世話になろうとかね、日頃からそういう事をおやりになって行くのがいいんだと思います。

 それから先程申し上げましたように死に馴染んでおくということ。そんなことで私は癌死を選ぶと書いたんですけれど。これからはお医者さんの側に患者さんの側からの働きかけで変わってもらう時代に来ているんだと思うんです。どういう事かというと、やはり終末医療というものをどうしていいのか、方法論も分からなかったのが70年代の中頃までだったと思うんですね。それがやっとイギリスやアメリカのホスピスやらキューブラ・ロスの業績やらそんなものが導入されて先駆的に死の臨床研究会などに集まった先生方が中心になってだんだん広まってきましてこの頃はすごいです。死の臨床研究会が11月にあって、もう熱気溢れるような全国各地の医療機関からいろんなドクターやナ一スが集まったりしてね、ケースワーカーとか。そこである意味で医療をサービスする側、ケアをサービスする側の問題意識なり、方法論なりがかなり出てきました。それから痛みの治療の方法論もかなり確立してきました。今度はそこに心を入れるというのはこれは三人称の側からではなくて一人称、二人称の側から「こういう風に私は治療を受けたい」「こういう風に死にたいからこうして欲しい」とか、「こういうことはして欲しくない」とか、いうのを医療者にぶつけて行く時代。そして医療者の問題意識と対応を変えて行く時代だと思います。それによって変わらない医療者は、やはり選ばない方がいい訳で。と言っても現実には難しいんですけれど、でも私の知っているところでは患者側がきちんとこういう風な生き方をしたいと言いますと、それに対応してそれじゃ手術は止めてこういう方法で行きましょうとか、良い先生ですと言ってくれますからそういう風にして行くのがこれからはとても大事だと思うんです。でまたそうする事によって医者側も普遍性だけじゃない個別性の強い医療というものの在り方をその都度その都度、患者家族のスタイルに従って対応して行ってくれるだろうな、という期待を抱くんです。実際そういう例を何例か最近見ているものですから。

 また医学会総会の話になりますけれど、尊厳死、安楽死というテーマで話を依頼された時にちょうど東海大学の横浜地裁の判決が3月28日にあった直後だったものですから、あそこで尊厳死の4条件とかあるいは治療停止の条件とかが判決で出ましたよね。それについていろいろ医療界では批判が出たり、あるいはよくあそこまで出したとかいろんな声が在りましたけれど、一番困るのはそれをある一つの線引き作業とかあるいはマニュアル化して考えることです。あれはああいう具体的な事件があったときにそれが法に触れる犯罪行為なのかどうかを判断する上での、ある法律的線引き作業上での答えなのであって日常診療というのはもっと千差万別いろんなケースバイケースがありまして、そのなかで一緒にお医者さんが苦労して苦悩してそして考えて下さいと。

 何かマニュアルがあってここをこうすればああなると、養老先生がおっしゃったようにボタンを押せばここがこうなるとか、マニュアルがあってこの手順でやれば良いんだといって、楽するような考えじゃなくて、やはり患者やその家族が命懸けて苦労している、苦悩してるんだからそれに対してお医者さん側も苦しんで下さい、悩んで下さい。そんな中からしか答えは出せませんということを申し上げてそれが本当の意味での尊厳死の道だと申し上げたんですけれど。これから一番期待したいのはそういう個別性というものを大事にして行くそういう医療というものを実現して行くことだなと。それは先程言いましたように患者家族の側がまず自分の生き方、死に方についての要望をきちんと持って、伝える事から始まるんだろうなと思います。

司会:ありがとうございました。それでは養老先生お願い致します。

養老:私はこれでも医学部に何十年か勤めておりますので、教え子と言う程じゃないですけれど、教えた学生が二千人位になります。その中にいろんな学生がいて、いろんなお医者さんになっているはずで、いずれにせよ、そういう人の厄介になるだろうなと思います。それで自分の生き方として出来るだけ危ない事をすると。例えば私この前ブータンから帰って来たばかりなんですが、飛行機が落ちることは充分あるわけで、女房に保険掛けてあるから安心しろと。向こうもちゃんと心得ておりまして、そういう危ない所に出掛けるんだったらこれだけは済ませて行って下さいと言いますから。出来るだけ年を取ったら危ない事をしようと思っています。それから具合が悪くなって植物状態になったら、殺せと。これは私の弟子とかに言ってありまして、それは医者によく頼んでおけばですね、なんとなくいつの間にか死んじゃったというふうにしてくれるだろうとそんな事で、それ以上はあまり心配していない。肺癌です、末期ですと言われたら余計なお世話だと言い返せば良いと、ほっといてくれと。多分そんなふうになるんではないかと思っております。

司会:場合によるとプライバシーで隠しておきたいような心の部分をお二人に披露していただいて、私たちは多分普通の講演会では聞けないような対談がここで出来て、大成功だったと思います。お二方に感謝の拍手をしたいと思います。ありがとうございました。

質疑応答

参加者:ちょっと外れるかもしれませんが、脳死の問題に関係していると思うので養老先生にお伺いしたいのですが、多田富雄先生の「免疫の意味論」を読んで、その中にキメラの事がでてますよね。脳死の問題も、大脳が第一主義と言うかキメラの問題で免疫が大脳を拒否するということが書いてあったんで、大脳第一主義と言うものを考えなければならないと思っているのですが、その辺を養老先生にお聞きしたいと思っています。

養老:ご質問を完全に理解しているかどうか分からないのですが、背景を含めて簡単に説明しますと、私は生物は基本的に二つの情報系を持っていると考えます。一つの情報系は脳でありますが、もう一つの情報系は先程から申し上げている遺伝子でございます。今のキメラにおいて脳が排除されるという免疫の性格は実は遺伝子がやっている事でございます。遺伝子系と脳と言うのはどういう関係があるかと言いますと実はそういったキメラを作って実験をしているのも人間の脳であり、遺伝子と言うのはこれこれこういう物であると一生懸命記載したり、研究したりしているのも人間の脳であります。しかしその脳を作っているのは遺伝子でありますから、この二つは二匹の蛇がお互いに尻尾を食い合っている感じになっておりまして、どちらが上でどちらが下と言うことはないと私は思っております。

 脳と言うのが現代社会では非常に強くなりすぎていると申し上げましたけれど、そういう傾向があるから免疫の多田先生が例えばキメラについては、体の方が脳を追い出してしまうということが起こるのではないかと取り上げられたのであって、どちらが偉いとか偉くないとか。何か唯一の基本原理で世界を説明しようとするのはだいたい嘘だと言う立場でありまして。多分違うんだろうと思いますがその方が楽ですから。それは私が戦争中の記憶が残っているからかもしれませんが、一億玉砕とか鬼畜米英とか言っていれば割合楽ですからそれで良いのですが、実際はそうじゃないと言うことはよくお分かりだと思います。オウムを見てもそうですけれども若い人にそういう傾向が出てきたのではないかとちょっと気になっておりますが、これはそう単純に物事を考える事は出来ないと思います。遺伝子を考えているのは脳でありますが、その脳を作っているのは遺伝子であると。そういうループから我々は逃れる事は出来ないと言う事でございます。

参加者:養老先生にお伺いしたいのですが、先ほど親が家の中で亡くなったと言うのを良いような感じ、自分だったらそうするという感じでおっしゃっていたんですが、病院にも入れずに孤独とか不安とか言う状態のまま、阪神大地震のあとプレハブの中で亡くなられていたと言う、いわゆる孤独死と言うものについてどうお考えになっておられるかお伺いしたいのです。というのは近所付き合いも無く合目的のみの社会が生んだ歪という考えから、先ほど言った家の中で自然に死んでしまうという事が果たして、テーマでもある自然に生きることそして死ぬことに値するのかなという疑問があるので、その辺を教えて頂きたいと思います。

養老:これも質問をちゃんと捉えているかどうか分からないのですが、私が自然の死として捉えているのと、今のご質問とはちょっと違うと思います。何故かと言いますと明らかに今のお話は人の死を社会的な物として捉えておられる訳です。つまり他人がそういう風にして死ぬという事についてどうか、と。ご自分が孤独で亡くなるというのはこれはご自分の勝手ですから、私の知った事ではないという風に言うことが出来ますが、そういう風に孤独に死んで行った人が幸せであるか不幸せであるか、良いか悪いかということを判断するのもまた、周りの人の自由であります。ですからそれについて私は一般的な事を申し上げるつもりはないし、申し上げられるとも思わない。一番極端なケースで法医で私が知っておりますのは、北海道の田舎に小屋を建ててそこに住んでおられた方だと思いますが、この方は食事を取るのを止めると決意なさいまして餓死するまでの数カ月間、きちっと手記を残されたというのが確か法医学雑誌に載っておりました。

 人はいろんな生き方をしていろんな死に方をするもので、私はそれを自分を含めてですが、先ほど申し上げたようにもし自然の死と言う風に考えるんだったら、これを一般化することは出来ない。それからそういう物をどうしても一般化したいのであれば法律がやっているように死亡時刻とかそういう形、あるいは脳死の議論で出て来ましたようにどういう風に要件が揃えば脳死後臓器移植をしたら良いかと、言う風な考え方を取ればよろしいのです。ただ私はそういう風な考え方は賛成でないと言うことはずっと申し上げて来た通りであります。で孤独であるか孤独でないか、これは全くその人によると思います。人間一人でいても孤独でないと思っている人は、例えばイスラムとかキリスト教の人であれば当然でありまして、それは神様は遍在しておりまして至る所にいるわけですから、彼らはアメリカヘ出て行っても、オーストリアに出て行こうがですね、恐らく誰もいない所で一人で暮らしていても一人だと思っていないかもしれません。日本人の場合には孤独であるという事が何か非常に重要な事であるように考えられていますが。私はブータンに行って来ました。ブータンでもとんでもない所に人が住んでおりまして、もうここら辺までくれば人がいないだろうと思っていますと、突然家があったりしてですね、そういう考え方というのは全く文化的ないし状況的に違ってくると思います。

柳田:ちょっと私も発言させて頂いていいですか。十年ほど前に「死の医学への序章」という本を書きました時に、その主人公になってくださった西川喜作先生と言う精神科医が書き残した中に、永井荷風の死についての思いがあるんです。で、永井荷風は小説家として非常に素晴らしいと言うかユニークな人でしたけれど、最期にカツ丼食って死んだんですね。それを単に生物学的、医学的に見てね癌末期なのにカツ丼食うのは馬鹿だと言うのは簡単ですけれど、だけど逆に一人称の生き方として見た場合、最期にカツ丼位食って死にたいという。それ素晴らしいことだと思うんですね。それは人の死の評価と言うのは本当に一人称なり三人称なりによって変わる訳です。それで私こういう所で二人称の死なんていうんで、愛し合う連れ合い、親子とかの話をするのはある意味で家族の現実というものからするとあまりにも理想化したモデルかも知れないんですね。どんな家でも屋根の下では大変な家族の葛藤とか親戚の血みどろの戦いとかいろんなのがありますね。で、ある時言われました。愛する連れ合いの看取りなんて言うけれど、私は離婚寸前で家庭内離婚なんだ、こういう場合どうするんですか。

 でも僕それの答え出せないんですね。それはそう考えておられる本人の生き方と人生の問題であって、そこに一般論として第三人称で答えを出すことはちょっと不可能なんですね。ただそういう場合、あるいは既に離婚されて孤独な女性の場合、ご老人の場合、いろんな生き方がありますし、いろんなスタイルがあります。ですがそういう中でどういう死を選ぶか、どういう人生の締めくくりをするかは、第一義的には本人の生き方そのものの問題と云うしか仕方が無い。ただ、敢えて助言をするならばやはり誰かの世話になった方が良いですよ。友達でも、あるいはいいですよ60代で恋人作ったって、ほんとに悩みを語り合える相手がいるに越した事はないですからね。そういうものは自分で作って行くものだなと思うんですね。多くの場合、家族というのは逆にマイナスの場合がありますね。骨肉の争いとかあるいは遺産相続問題とかね、特に親から見た子供なんて意外と冷たい子供が多いですしね。普段は全然寄り付かないのに死にそうになると財産目当てでやってくるとかね。私もいっぱい見ています。だからあまり二人称と言って強調するのは理想論かもしれないんだけれど、しかしそこに今基本軸を置かないと話が展開しないというか物語りが作れない。その上でいろんなバリエーションをつけていく。自分の状況はそことこう違うから、こうしようとか。そういう問題になるんだろうと思うんです。

 それともう一つは社会的な死として阪神大震災のような孤独な死とかいろいろありますから、それを社会保障的な意味であるいは社会のサポート態勢としてどうするかと言うのはこれはまた別の問題でして、議論すべきことではないかと思います。たまたま私、サイコオンコロジー学会という死の臨床研究会と似たようなもう少し終末期医療を、特に癌の終末期医療を学問的にきちっとやって行こうと言うサイコオンコロジー学会を7・8年前に作りまして、発起人の一人としてずっと係わって来ました。そして今年の1O月に神戸で、世界の国際サイコオンコロジー学会第二回の国際会議をやることにしたんです。それは地震の前に企画したのでポートアイランドの国際会議場を使うのを、急遽サイコオンコロジー学会だけれど、地震の被災者の心のケアーの問題も一つの大きなテーマとして、これは癌で亡くなる人の心の支援の問題と非常にいろんな意味で刺激しあい共通しあい、大きな社会問題を含んでいるものですから、それを取り上げようということで、一日そのための一般市民公開のシンポジュームをやり、また本来の国際会議の中でも専門的な講演とシンポジュームをやるという企画をしております。そういう風に一つの社会性のある問題として、いろんな意味での被災者の心の支援と言うものをどういう風に取り組んだらいいかと言うことも一方で大事なのでやって行こうと思っています。10月19日から4日間やるんですが、19日は一般市民も自由に入れるような形で、神戸という土地柄もありますから、そこで考えて行こうと。で、私が司会進行を全部引き受けまして専門の先生方や実際に神戸あるいは西宮、芦屋などで活動されたお医者さん、看護婦さん、いろんな立場の人、精神科医の方とかですね、入って頂いてやって行こうと思っています。そんな形で取り組んでいると言うことを参考までにご報告しておきたいと思います。





アンケート

 アンケート配布総数…800名

 アンケート回収総数…541名
 回収率…67%
 (男性84名(16%)女性373名(71%)不明24名(13%)合計541名)
@これまでに自分の死について、お考えになったことがありますか。
はい469名(88%)いいえ64名(12%)(男性:はい78いいえ6)(女性:はい333いいえ46)(不明:はい58いいえ12)
A家族で自分たちの死について話し合われたことがありますか。
はい298名(56%)いいえ231名(44%)(男性:はい54いいえ30)(女性:はい214いいえ161)(不明:はい30いいえ40)
B回復困難なとき、死をどこで迎えたいと思われますか。
a:病院26名(4%)b:ホスピス232名(40%)c:自宅289名(50%)d:その他33名(6%)
C命が限られていると分かった場合、医療者に望むことは何ですか。(複数回答可)
a:徹底的に治療を行い、延命の可能性を見つけて欲しい。14名(2%)
b:痛みや、辛いことだけコントロールしてほしい。477名(51%)
c:精神的なケアを重視してほしい。380名(41%)
d:何も治療しないでほしい。31名(3%)
e:その他30名(3%)
D病名の告知をどう思われますか。
〔自分の場合〕告知して欲しい
(早期)はい503名(97%)いいえ14名(3%)
(末期)はい430名(91%)いいえ44名(9%)
〔家族の場合〕(本人に対して)告知して欲しい
(早期)はい393名(86%)いいえ62名(14%)
(末期)はい265名(64%)いいえ146名(36%)
Eこれまでホスピスをどのように理解していましたか。
a:死を待つところ。38名(6%)
b:末期癌の人が入るところ。109名(17%)
c:痛みや辛い症状をコントロールして、日常生活を送るところ。454名(71%)
d:全然知らなかった。7名(1%)
e:その他29名(5%)