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岩田利子(いわた としこ)
   (財)日本児童家庭文化協会 元相談員

  

目 次
はじめまして
私がホスピスに関心をもった訳
死は自然が人間に与えた平等
ホスピスの始まりは人権運動から  
二人のナース    
音楽の風を運ぶ人  
新しい年に考えること  
痴呆と認知とほどけ症    

【1】はじめまして

 はじめまして。私は、岩田利子と申します。ホスピスを考える横浜市民の会の世話人の一人です。私自身10年ほど前に、ガンの体験をしています。体験者の一人として、少しでも病気と闘う人々のお力になれればと思い、筆をとりました。
 まずはじめに、過日私が講演を依頼されたときに、作成しましたレジメを掲載します。そのレジメにしたがって、話を進めたいと思います。

レジメ

・ ホスピスに限らず、患者はどのような関わりを欲しがっているでしょうか。「死ぬ瞬間」の著者エリザベス.キューブラロスは「私たちはみな死ぬ。だから死は敵ではない。敵は孤独」と言っています。
 そのためには・・・・
(1)一人ぼっちにしない。(常に見放されるのではないかという不安がある)
(2)痛みからの解放。(肉体的苦痛が強いと、それだけで生きる意欲を失う)
(3)さよならを言いあえる環境づくり。(病室は密度の濃い出会いと別れの場)
 この3つの条件が調えば、病気に対する不安、死に対する不安も半減するのではないかと思います。

◇ 健康な状態の時人は・・・・
@主体性をもって、今現在を生き生きと自分で選んで生きています。
A自分や周りとのコンタクトとコントロールが保たれています。喜怒哀楽が適切で物事に感動でき、食べる、排泄する、睡眠、覚醒がはっきりしています。
B身、口、意の一致。(行動と言葉と心が一致し、統合されています)

◇不健康な状態の時人は・…
@主体性をもった適応、行動がとれず、自分の殻に閉じこもっています。
A今を生きることよりも、過去、現在、未来の中で立ち往生しているか捕らわれ、現実から逃げています。
B身、口、意の不一致(行動と言葉と心がばらばらな状態で、強い感情的混乱や情緒的危機に陥っているため、自分をコントロール出来ず、オロオロしたり、不適切に爆発したりします)
C自分の座を失って、精神的に失脚しています。いつも焦りがあります(人間にとって一番辛い病気は、最早自分の存在が、誰からも必要とされていないのではと感じた時です)
D死につての強い恐怖をもっています。
E激しい孤独感、喪失感があります。この喪失感は(a)心身の健康の喪失(b)経済的基盤の喪失(c)社会的つながりの喪失(d)生きる目的の喪失等です。

 日本の医療関係者は忙し過ぎて、殆どが患者のベッドの側に立ったまま話しかけ立ち去ります。一日1回でいいからベッドの側に座って、看取る人と看取られる人の視線が近い状態の方が患者は安心し、自分のことを大事に思ってくれてる事を実感します。ホスピス病棟の良い所は、患者一人一人の人格に添って精神的なフォローをしながら、その人らしい最後に焦点を当て、生を飾ってくれる事でしょうか。
 亡くなった作家の遠藤周作さんは、以前、新聞、雑誌を通じて、設備の完備した病院より心暖かな病院が欲しいと、たった一人のキャンペーンを展開し反響を呼びました。そして3つの条件を提示しています。
(1)患者の病気の背景にある、その人の人生を考えて欲しい。
(2)患者は普通の心理状態にないことを知って欲しい。
(3)無意味な屈辱や、苦痛をあたえないで欲しい。
 遠藤周作さんは現代の医療について、科学の面のキュア(治療)水準が高まれば高まる程、精神面のケア(看護)がおざなりにされる傾向があることを憂いていました。
 インフォームドコンセントの難しさは、その後の心のケアの取り組み方にかかっているように思われます。どうして良いか分からない状況の時は、本来の自分の精神能力が発揮できなくなって混乱しているので、そんな時は言葉よりも黙ってその人の情動に寄り添い、撫で摩るなどのスキンシップをする方が落ち着く事が多いようです。又病気の人は自分の辛さや愚痴を、誰かに聞いて欲しいという思いが強いので、先ずは確り聞くことです。つい慰めたり、励ましたりしたくなりますが、そんな時の言葉はどうしてもパワーが加わります。医者や看護側の言葉は患者にとって大きな力を持つので、相手の言いたい事を封じてしまう可能性があることを知って欲しいと思います。

 死にゆく過程を、前述のキューブラロスは、1.否認2.怒り3.取引き(神にたいして)4.抑鬱5.受容と段階的に解釈してることは有名ですが、エドウィン.シュナイトマン(カルフォルニアの自殺予防センター所長)という人は、死にゆく過程は一人一人違う、言わばタイプを異にする人々の数に見合うだけの死に方があると言ってます。
 死を真正面から描いた文学ではトルストイの「イワン・イリーチの死」が有名ですが、古今東西を問わず、死に行く自分に光りを当てたいという思いは強烈です。以下、短歌から紹介してみます。

・ 草つたう朝の蛍よみじかかる
     われのいのちを死なしむなゆめ 斎藤茂吉
・ しずかなる病の床にいつわらぬ
     我なるものを神と知るかな 山川登美子
・ 雪の上に春の木の花散り匂う
     すがしさにあらんわが死顔は 前田夕暮
・ 願わくば花の下にて春死なん
     かの如月のもちずきの頃 西行法師

 死に対する思い入れの強さを、これらの和歌からも充分感じて戴けると思います。



【2】私がホスピスに関心をもった訳

 まず最初に私がホスピスに関心を持った動機からお話しを始めましょう。
 私は心理カウンセラーの勉強を少しばかりした者です。「いのちの電話」という所で、主に自殺防止のための相談活動をしながら、財団法人児童家庭文化協会の相談員として、ここでは子育ての悩みを抱えた母親たちの相談を受けておりました。
 核家族化が言われて久しい日本では、プライバシーが優先されるあまり、地域社会でも家庭でも孤立化が進み、相談したくても相談相手がいないとの悩みを抱えている人が増えています。
 前述の2カ所の相談も、孤独である、あるいは孤独と思い込んでいる人達の悩みを受け止めるという点で共通しております。
 「死ぬ瞬間」の著書で有名なキューブラロスも、「人はみな死ぬ、だから死は敵ではない、死よりも怖いのは孤独」と言っておりますように、人は生まれてから死ぬまで、人との関係なしには生きられないのです。
 実際、カウンセラーとして電話相談を受けたり、面接の中で悩みを抱えた方たちのお話しを傾聴していると、人間というのは、生涯、ストローク(心のスキンシップ)を求め続ける愛情乞食であるということがよく理解できます。特に、病気の時、しかも死ぬかもしれないとの恐怖を抱えているとき、独りで置かれる不安は耐え難いものがあります。

 もう10年も前になりますが、私にも癌で死の恐怖と向き合った経験があります。それまで病気知らずの医者嫌い、健康だけが取り柄と思っていた私は、体が不調を訴えても、家族は心配し何とか病院へ連れだそうとしても、頑として拒み続け、癌に関する本を数冊買い込んで、食事療法と自已免疫を高めるという民間療法を実施していました。しかし、昼夜を問わず襲う痛みに耐えきれず病院を訪ねたときは、直腸癌が仙骨の周りまで広がっていました。「こんなになるまで」と叱られたのは家族の方で、私が初めて家族を悲しませていた自分の思い上がりに気がついたのです。それまでの私は相談員として、心理的、情緒的に危機的状況にある人の立場は理解しているつもりでしたが、自分が患者の立場になって、それらの一つ一つが具体性をもって迫ってくる不安は理屈を越えたものでした。それでも意地っ張りの私は弱みを見せまいと、毎朝何部かの新聞を買い込み、普段は積極的に目を通すこともなかった安楽死や尊厳死に関する記事、ホスピスに関する情報等を切り抜くことで、逆に気持ちを落ち着けようとしていました。

『 尊厳死なる 記事ひそかに切り抜きて 日記にはさみ 心やすらぐ 』

 そのころ詠んだ下手な一首です。その他、病床でやったことと言えばアイバンクと腎バンクへの登録。まるで追われるように死に急いだ行為の底流にあったのは何だったのでしょうか。勇者の死などというかっこいい死に方に憧れていたのでしょうか。実際、病気になると自分のことだけで精一杯、周囲の悲しみや思い、要望、祈りなどが目に入らなくなるのです。そのくせ、家族や医師、看護婦からは優しい言葉を期待し、自分の考えとすれ違ったりするとすねたり悲嘆したりして相手を困らせます。健康な時人は、感情のコントロールがうまくいっています。不健康な時人は、自分の感情がコントロールできず、ちょっとした事でパニックに陥り、全てにたいして喪失感だけが強くなります。患者はわがままです。わがままを言うことで、自分にかまってほしいと暗黙の要求をします。
 これら陰性の感情をどう受け止めるか、看取る側の難しいところです。患者の心理を先のキュブラーロスは5段階に分けて定義付けしていますが、 それについては次回でお話しする事にしましょう。


【3】死は自然が人間に与えた平等

   どんなに医学が進んでも人は必ず死にます。その点では「死は自然が人間に与えた平等」と言うことが出来ましょう。しかし、死が自分の問題として迫ってきた時、納得する迄には、かなりの勇気と時間が必要です。「死ぬ瞬間」のキューブラロスは、死に至る過程を次のように5段階に順序づけています。

@否認
   (例えば、あなたの寿命はあと何ヶ月です。と告知されたら、誰でも頭の中が真っ白に
   なりパニックに落ちることでしょう。その後で、そんなことはない、この医師の診断は間
   違っている。別の医師に診察してもらったら、叉違う結果が出るかも知れないという告
   知への否定です)
A怒り
   (その後に起こる感情が怒りと言われています。何で私が?。こんなに一生懸命に働き
   誰にも迷惑をかけず生きてきた私が、何故先に死ななければならないのという、運命に
   対する怒りです)
B取引き
   (人間の限界を感じた時、人は神に祈ります。この取引きとは、神にたいしてどうか助け
   てください。病気さえ治れば何んことでも致します。と奇跡への願いです)
C抑鬱
   (そして、どれも効果ないと分かった時、人は鬱状態に陥ります。過去のことを思い出し、
   残していく家族のこと、やり残しの仕事のこと、考えれば考えるほど悲観的になり、誰
   にも会いたがらず終日涙にくれています)
D諦めと別離への準備
   (長い抑鬱期を経て、ようやく死を自分のこととして受け止める準備が出来ます。親しい、
   人たちに会いたがり、自分の死後のことをためらわず話せるようになります。心のつな
   がりをより多く求め、残される家族のことなど、これまで自分中心だった関心が他者へ
   の関心に変わります)

   以上、私流の解釈も付け加えましたが、キューブラロスの、死に行くまでに辿る人間の心の変化というか、気持の流れについて書いてみました。
   勿論これが全ての人に当てはまるとは思いません。人の数だけ死にゆく形もまた様々であると言う説もあります。更に、沢山の人の死を看取ったドクターやナースの解釈の方がずっと説得力がある場合もあります。
   ただ、ここでキューブラロスが言いたかったのは、揺れ動く感情の起伏の中にある時こそ一緒に悲しみ、泣き、怒り、恨み、感情を共有し合う相手が必要だということです。
   前回ご紹介したように「人はみな死ぬ、だから死は敵ではない、死より怖いのは孤独」死と向き合った方の側にいると、私たちは何を話したらいいのか何としたらいいのかとおろおろします。そんな時は側に寄り添い、そっと手や足をさすって差し上げてもいいのではないのでしょうか。死は絶対です。遅いか早いかの違いはあっても見送る側もやがて見送られる立場になると思えば、二度と来ないこの時間の重さ。ホスピスと病院の違いは、死に行く人の尊厳を差さえ、確り寄り添えるかどうかの違いだと私は思います。


【4】ホスピスの始まりは人権運動から

 間違いでなければ、ホスピスの創始者はドクター・シシリー・ソンダースで、ロンドン郊外に1967年、聖クリストファーホスピスを創設したのが始まりと言われております。
 もっと遡ると,中世ヨーロッパの聖地巡礼の宿舎施設として、傷つき病む人達を看取り,憩う場所があり、その頃からホスピスの思想は息づいていたということが,出来ます。
 恐らく其の頃は,進んだ医薬治療があったわけではなく,患者はむしろ精神的支えによって癒されていたのではないかと思われます。
 ホスピス運動の前提には、先ず人権運動があり、一人の人間として最後まで自分らしく死にたいという、人それぞれの欲求、理念、思想、宗教、などを大事にして、暖かく支援していこうという考えから出発していることを考えれば、今、世間でいわれているような,最後にたどり着く死に場所場所という見方は早計で、最後まで充実した豊かな人生を送ることへの援助を目的としていることが解ると思います。
 激痛があると人は生きる希望を失います。又、医療モデルとして扱われていると感じた時も生きる意欲を失います。前述のドクター・ソンダースはq患者の人権を回復するには、まず苦痛からの開放こそ大切と、末期がんの患者にモルヒネを使う方法を研究,開発しました。医学のことは私には解りませんが、いまでは通説になっている,末期ガン患者にモルヒネを使用することで、どれだけの人達が苦痛から開放されたことでしょう。多分、一昔前までは、モルヒネなど、とんでもないと、医師も,患者も、家族も思い込んでいたのではないかと思います。
 末期の患者に生きる喜びを取り戻したという点で,やはり凄い人だと思わずにいられません。
 前回、キューブラロスの「死にゆく瞬間」を解説しましたが、それ以前にホスピスの人権思想として、(1)一人ぽっちにしない。(2)痛みからの開放。(3)主役はつねに患者。(4)何でも言い合える環境作り。の理念が出来ていて、キューブラロスは、むしろその理念を理解し分析し深めていったと言えそうです。
 (4)の何でも言い合える環境作り。このことも,長い間患者と医師の間ではタブー視されていました。その背景には、特に日本の場合、死を口にすることを否む習慣があったため、医療従事者も、家族も、そのことは、ひた隠しにし、患者側も聞くのをためらう雰囲気がありました。ガンの治癒率が高まったこと、終末医療への関心が高まったことも誘因となって、今でこそインフォームドコンセントという言葉が浸透,患者は知る権利、医師は説明する義務があるなどと言われますが、これもホスピス運動の高まりと切り離しては考えられないことと思います。
 死を語ることがタブーとされていた日本に、死は生の延長としてあるもので、避けるものではない。むしろ,自分らしい最後のためにと、死の準備教育を提唱されたのが,上智大学のアルフォンス・デーケン氏です。私もデーケン先生の所へは随分通いましたが、これほどまでに死をあけっぴろげで話せるようになったのも,高齢化が進んだことと、日本人の中に、これまで哲学や宗教でしか語られなかった死を、自分に引き寄せて考えるという意識改革が出来たためでしょう。
 私も「ホスピスを考える市民の会」のお手伝いをしてきましたが、70代に入った今、ホスピスはガン患者だけのものでいいのか。他の回復の見込み のない難病はどこへ行けばいいのだろう。或いは高齢者はと、新たな問題にぶっつかりました。尊厳死協会のありようも参考に,次回はこのことを考えてみたいと思います。


【5】二人のナース

人の一生は出会いと別れの繰り返しです。今回は、私の人生の後半で出会った、二人の友人についてお話したいと思います。

 このお二人は、かって私がガンで入院していた病院の看護士さんです。3カ月余りの入院生活はガン患者にとって、「大丈夫です」と言われても死を意識します。そんな患者の不安に寄り添うナースの仕事は、スキルの面以上に心の暖かさが要求されます。
 もう14年も前になりますが、 横浜市民病院での私の入院生活は、最高の出会いと人間関係を与えてくれました。私が「ホスピスを考える会」に関わるようになったのも、当時、外科部長をされていた池田先生との出会いがあったからで、その頃から池田先生は、患者の人権に光りを当て、延命治療が優先される現代医療のありように心を痛めておられました。院内の医療従事者を対象に、「ターミナルケア研究会」を作っておられたことも後日知りました。正直なところ私には、このようなお考えを持たれた偉い先生のおられる事が驚きでした。そして先生の、患者の人権を最優先される医療方針と哲学は、配下におられたDrやNsにも影響を与えていたことは如実で、外科病棟は実に暖かい雰囲気がありました。当時お世話になったNsとは今もお付き合いが続いております。

 その中のお二人(仮にIさんとFさんにしておきましょう)をご紹介致しましょう。
Iさんは「ホスピスを考える横浜市民の会」のフォーラムでも、池田先生の考案された音楽療法について発表をされました。定年後は池田先生の遺志を継いで、音楽による痛みの緩和の実践をさらに深めるため、音楽療法士の資格を取るべく人生終盤からの学生生活を経験しておられます。
 今一人のFさんは、これも池田先生との出会いがきっかけで、上智大学のアルフォンス・デーケン先生が立ち上げられた「生と死を考える会」の、ホスピスボランティア講座で知り合った方です。偶然にも横浜市立病院勤務で、ホスピスに強い関心を持たれておられることから交友を深めました。
 先日久しぶりにこのお二人に会い、60代に入ってなお、専門的知識を生かしながら社会への参加と貢献をされているお二人を、皆様にも知って頂きたく頁に載せました。

 先ず、最初のIさん。前述の通り定年後音楽療法士を目指しながら、週1回横浜の壽町にある診療所で、ホームレスと言われる路上生活者の結核の予防と治療に従事しておられます。かって港湾労働者で賑わった壽町界隈も、コンテナ輸送が中心になった今、仕事を世話する手配師の声も聞かれず、仕事にあぶれた人達が群れる路上では、一人が結核になると排菌でたちまち結核は伝染します。そういう患者を見つけ、医療保護を適用し入院させること、さらには退院しても再発しないようにケアをするというご苦労の多い仕事です。 元々、自分の健康管理どころか生きる希望さえなくし、その日、その日の運まかせの孤独な人達、治療の大部分は彼らの話を聞くこで始まり、終わるという根気のいる仕事は、人間への愛なくしては務まらないのではないでしょうか。

 もう一人のFさんは、在宅介護センターで働く看護士です。病院から見放されたり、本人の希望で在宅看護を希望されている方を訪問する役割ですが、家族に見守られている方、一人ぽっちの方、その生き方はさ様々です。Fさんはそこで一人の印象深い患者さんに出会いました。その方はALSという難病で、常に無駄な治療はしないで欲しいと、尊厳死協会の会員証を肌身はなさず持っておられたそうです。死を迎える準備は出来ていても、深層にある心の葛藤が時々頭を持ち上げると、不安をぶっつける相手はFさんに限られていました。持ち前の明るさ鷹揚さで彼女はさらりと患者さんを受け入れていたのでしょう。最後の時、Fさんに連絡が入り駆けつけた時はもう脈も止まった状態で、よくぞここまで持ったと周囲が驚く程でしたが、Fさんが手を握り締めるのを待って息を引き取ったそうです。しかも同じような体験はIさんにも何回かあると伺い、看護士という職業は、家族以上に濃密な出会いと別れを経験する仕事であることを再確認しました。

 ファイナルステージの主役は勿論患者自身ですが、演出助手としての看護士の存在は見逃せません。前回書きましたようにホスピスの始まりが人権運動であることを考える時、最後のステージはガン以外の患者にも平等にあって欲しいと、私達三人の結論と希望です。


【6】音楽の風を運ぶ人

 前回は、私の尊敬する二人のNurseのお話をしました。今回は、音楽療法士として患者さんに音楽を運び続けている、那須弓子さんをご紹介しましょう。
 那須さんとの出会いは、これも「ホスピスを考える市民の会」を通してです。さわやかなお声と、優しさの中にもしっかりとご自分を持たれた方との印象を受けました。
 現在は、渋谷にある日赤医療センターの緩和ケア病棟で、音楽の風を患者さんの心に、身体に届ける毎日です。
 先日、久しぶりにお会いする機会を得ました。かってはカウンセリング仲間でもあった那須さんですが、話す程に、私はすっかり那須さんの度量に包まれ、彼女の放つ、暖かい、そして思慮深い風の中にいました。
 既に400人近くを見送られたという那須さんにとって、そのお一人お一人が、大切な何かを残して下さったようで、励まされ勇気づけられて来たのは私の方。音楽療法士などといわれているけど、患者さんとの相互関係の中で、お互いに得るものは同等ですと謙虚に話される那須さん。その声はやはりさわやかな5月の風でした。
 那須さんのお話から、印象に残ったものを記してみましょう。患者さんの一人に喉頭癌で言葉を失い、会話はもっぱら掌に文字を書くことで意志を伝えている方がおられました。 かなり深刻な状態で見るのも痛々しく、部屋には異臭も漂い、今日を過ごせるか、明日はどうかと思われながら頑張っておられました。周りから見ると、そんなに頑張らなくても死の方が楽ではないか、死が救済ではないかと思われる程の姿で、ある日那須さんの掌に「おかしい?」と問いかけてきたそうです。どう思われようと生きたいという彼の意志でした。那須さんは首を横に振り、生きていて欲しいという願いをこめてその手をしっかり握り返しました。亡くなる寸前、彼は驚くほど力強く那須さんの手を握ったそうです。きっと、「とうとうお別れだね」と、さようならの合図だったのでしょう。 緩和ケア病棟にいて感じるのは、死へのモードに入ると、生きるモードが薄くなりがちなことだと、那須さんは顔をくもらせました。 
 もう一人、シャンソン歌手だった方のお話です。那須さんの歌を聞いて「あなたはクラシックで学んだ方なので、発声法はあるけど呼吸がない。呼吸とは生き方であり、人生の間である。たとえばパダン.パダン(心臓の音)というシャンソンでも、間があって、呼吸があって意味がある。呼吸と間を大事にしなさいと・・・最後にその方は「青い目の男がいる」というシャンソンを歌ってくれるよう那須さんに所望、那須さんが歌い出すと、彼も声にはならないけど、呼吸だけで一緒に歌われたそうです。那須さんはその時、歌は呼吸だけでも歌えるし伝わるということを学んだのです。
 死者と再生を歌ったもので「千の風になって」という詩があります。作者は不明ですが、作家の新井満さんが日本語に翻訳しヒットしています。実はこの詩が出回る前に那須さんは、既に風を意識していました。風の中にいると、自分の一番深い悲しみの所に音が入ってきて、いつか風と同体になり、それが音楽になるのだと。「だから私は療法士なんて言われるよりも、音楽の風を運ぶ運び屋でいいんです」と。いま、私は、那須さんが運んでくれた風の音を聞きながら、死と再生への祈りをこめて原稿を書いています。


【7】新しい年に考えること

 友人の一人に、年賀状に毎年八木重吉の詩を書いて下さる方がいます。深い信仰に支えられた八木重吉の詩はどれも心に迫るものがありますが、今年の詩は「どうせ/短い命であろうとも/出来るかぎり/うつくしい気持ちで/生きとおしたい」という章節でした。
 そろそろ人生の終幕に入った賀状の主は、そのままの心境をこの詩に重ねたのでしょう。最後まで穏やかで美しい気持ちで、他人も自分も受け容れることが出来たら、と思うのは万人の願いです。そして、それが可能な場所としてホスピスがあります。
 私自身出来ればホスピスで死にたいという気持ちが強いのですが、日本の場合、ホスピスで最後を送る条件として、癌という病気であることが優先されます。他にエイズのホスピスもありますが、それ以外の病気ではホスピスに入る資格がないのが現状です。病気の不平等だと嘆いた難病患者もおられます。いま成人の3人に1人は癌になる時代とか。比率からいえば圧倒的に癌は優勢ですし恐れられていますが、まずは精神面で患者の心に寄り添える場所のあることは、癌患者にとっては救いです。
 昨年私も癌の疑いで入院しました。おかしいと思いつつ病院嫌いの私は半年以上も放置、どうにもならなくなって尋ねた先が「ホスピスを考える市民の会」の高野先生の所でした。死に急いだ訳ではないけど、高野先生の所ならホスピス病棟も併設されてるという安心と、こうして「ホスピスを考える会」へ原稿を送りながら、私の書くことはすべて机上の論理、実際が伴わないという引け目がありました。年齢に不足はないし、よし今度こそ私のホスピスでの実体験を記事にという気負いもありました。
 結果は腫瘍は悪性のものではなく、良性のものと分かった時の安堵と、微かな失望。こんなことをいうと、生への希望をつないで闘病されている方に申し訳けないと思いつつ、なおも癌という病名に未練をのこす複雑な心境でした。
 そんな折り、重いリューマチの友人から賀状が届きました。「私より先に死んではだめです。リューマチの私でも入れるホスピスを作るまで頑張るといってたのをお忘れですか」 既にペンもお箸も持てないほど変形した手で書いた、暗号のような文字を読みながら、私は自分の身勝手さを恥じ入りました。
 もう一人、筋ジストロフィーが進行し、酸素吸入を手放せない状況の中で一人暮らしをしている若い友人がいます。動くのは指先だけという不自由な体ながら彼女はパソコンで、「すまいる」という個人情報誌を発行しています。そんな体で彼女は昨年パキスタンの障害者施設を訪問してきたのだそうです。
 常識から考えれば彼女は重度の身体障害者、一人では生きられないし、介添えがなければ外出も不可能です。引っ込み思案になってしまうのも当然ですが、その若い友人には、不可能という言葉も死という単語もなさそうです。車椅子で、あらゆる国の身障者を尋ね歩く彼女の写真は、どれも笑顔がこぼれています。「どうせ短い命であろうとも/出来るかぎり/美しい気持ちで/生きとおしたい」。この詩はまさに彼女のためにあるようですが、彼女に言わせれば、キリスト教的な観点から、生かし生かされての自立なんだと答えは明快でした。最後はホスピスを体験するのもいいかなと、好奇心も旺盛です。
 さて、私の残された人生、どんな病気でも受け入れてくれるホスピスの完成を目指して、今年も宿題の続きを引きずっていくことになりそうです。


【8】痴呆と認知とほどけ症 2007年5月6日

 私が「日本尊厳死協会」に入会して20年になります。こんなに生きるとは思わないまま、 70代も後半に入ってしまいました。大病をした私が元気でいられるのは、「ホスピスを考える横浜市民の会」の活動に関わったのも大きな要因ではないかと思います。人は必ず死ぬと解っていてもそれを自分の問題として考えるには、実感がないだけについその時はその時と片付けてしまいがちです。

 当時、まだ理解の薄かったターミナルケアへの関心を、 まず世論造りから始め、根気よく市民や医療現場の間に広げられた会の設立者の方々。金子先生(故人)。池田先生(故人)。そして現在も船医としてご活躍の西丸先生。高齢者ホスピスへの実現をテーマに、老人病院の改革に取り組んでおられる高野先生。病気をしたおかげで私は素晴らしい先生方と出会う幸せを戴きました。

 現在、高野先生が勤務されている病院は認知症の方が多いと伺いました。誰の世話にもならず自分らしく生き死にたいとの願望は誰しもが持っているのですが、加速する高齢者化社会は、私も含め認知症予備軍を抱えた社会ともいえましょう。この認知症という語源、辞書には「認知。ものごとをはっきり認めること」とあります。いうなれば認知とは全く主体的なもので本人の意志が決定権を持ちますが、症がつくことで本人の意志決定権は外され周りが判断することになります。痴呆よりはいいけど活字をすりかえただけで、何となく奥歯に物のはさまった感じです。だったら万人が納得するような、優しくて思いやりのある言葉はないかと思っていましたら「日本尊厳死協会」の会報でこんな記事に出会いました。

 「痴呆にかわる呼称として『ほどけ症』はどうでしょう。ほどけとは記憶力或いは分析の能力など、知的自我意識の高ぶりからくるストレスがようやくほどけてきた状態です。高齢化とともに過去のしがらみや未来を思い煩う不安など、抑圧されてきた人間性がようやく解放されてきた人達の心の状態です(中略) 子供にかえった老人に接していると多忙に追われて忘れていたもの、人間らしさ、素朴さに気分がほどけてくることがあります。そのような老人を見ると仏を感じることがあり、ほどけは仏への道を指していると思われます」と結んでいます。

 過去のしがらみからほどけた状態、何という思いやりのある解釈でしょう。私たちは痴呆というとまず人格の崩壊と結びつけます。だから痴呆にだけはなりたくないと誰しもが思います。でも長い間のしがらみがゆっくりとほどけていく上での成り行きだとしたら、本人も周囲ももっと楽に成り行きに付き合ってもいいのかも知れません。たとえ意志決定の力が無くなっても、人間らしく生き死ぬ権利は最後まで平等なんだと、私はほどけを待ってみる気持ちになりつつあります。

<続く>