はじめに
ターミナルケアに関心を持ったのは10数年前ですけれども、実際にターミナルケアの現場で奮闘してからは3
年になります。ですから、ターミナルケアの専門家でもなんでもありませんが、ホスピスの専門病棟での奮戦記と言いましょうか、こんなところをスライドを使いながらお話したいと考えています。
熱心な治療の末に東海大学安楽死事件というのが神奈川県内で91年4
月13日に起こりました。みなさんの心に深く残っていることと思います。私も同じような立場に立ってやっている者として、関心深くこの事件を見まして、朝日の論壇に投稿したという経緯があります。簡単にその事件を振り返ってみますと、中年の男性が多発性骨髄腫という悪性の病気と言ってもよろしいかと思いますが、その末期におちいって、こん睡・けいれんという状態になったときに、家族がもうみるにしのびないということで「楽にしてやってほしい」と、内科の主治医の先生に懇願してきたというのです。内科の先生は困り果ててノイローゼ気味になり、最後には塩化カリウムという、ご存じのように静注すれば心停止を来たすような薬を静注して、安楽死させたというのがこの事件の経緯であります。
私はこの事件を見まして、単なる刑事事件だという扱いに対してやや憤慨しました。この先生の弁解をさせていただければ、一般病棟では普通こういう末期の患者さんは大体のところ医者から見離されてしまいます。殆ど治療の余地もないし、興味がない患者さんは病棟のすみに追いやられているというのが現状なのです。私も外科をやっていましたから、外科医は切ることが楽しいといいますか、切って治すことだけが興味の対象ですから、切ってみてこれは駄目だとなりますと、興味の対象から外れてしまいます。臨終近くなりますと殆ど顔も出しません。顔を出してへたにつかまったら大変だということで顔も出しません。痛みがあれば、看護婦さんに「痛み止めをうて」という指示を出して逃げ回っているというのが現状であります。そういう中で、この先生は家族の願いとか、患者さんの苦痛を見るにみかねる程ベッドサイドにいたのだろうと、私は推察するのです。熱心にやったがために、ドロ沼におちいったのではないのかなというのが私の推察です。それで同情的な記事を論壇に私は書いたのです。
ホスピスの役割
私どものホスピスでもこのようなことが日常茶飯事に起っています。どこが違うかと言いますと、塩化カリウムなどは注射しません。楽にしてあげるということはこちらも思いますけれども、モルヒネを使います。
この患者さんはどういう患者さんかと言いますと、肝臓ガンでもう末期になってきました。意識もしっかりしていましたし、元気な方でしたが、突然或る日腹痛を訴え出してお腹がはってきたのです。「苦しい苦しい」と言いますから、「変だな」と、「普通の肝臓ガンの経過と違うな」と、「やぶれたな」という感じで、肝臓破裂が大体予想されました。それで、お腹を注射器で刺しましたら純血がパッと引けてきましたから、これは肝臓ガンが破裂したと分かりました。輸血をするしかないと思いました。お腹を切って出血を止めるようなことをする年齢でもないですし、ホスピスヘ入っておられますから、苦痛を止めるということを最優先しました。家族も同じように「なんとかしてほしい」と言います。ベッドの上でのたうち回るのです。向うむいたりこっちむいたりして、「苦しい苦しい」と言います。そういう時にどうしたらいいかという事で、私はモルヒネを10mg、普通の常用量をすぐに静注しました。
その後すぐ1
日24mg入るという、後でご紹介しますけれども、持続注入器というのに変えて持続注入をしました。しかし痛みは取れても苦しみは取れないのです。モルヒネを使っている先生方はお分かりでしょうが、モルヒネは痛みはとれますが、不安感など

はとれません。そこでドロレプタンという、麻酔科で使う麻酔剤、NLA
という麻酔で意識はとらないけれども、不安と痛みをとってしまうという方法です。フェンタニルとドロレプタンを使うのですが、フエンタニルも一種のモルヒネに似たものですから、モルヒネとドロレプタンというのを使ったことになります。ドロレプタンを1
時間につき4
mg、それを持続点滴しました。そうしましたら、痛みも不安感もとれ静かになりました。
家族とお話ができるようになり、家族も安心して感謝してくれました。しかし出血ですから、肝臓から出ていれば輸血をしても間に合わないということで、半日後に亡くなられました。上と下は同じような状況だったと思いますが、方法を知っていれば、塩化カリウムで殺すのではなくて、楽にしてあげてその結果亡くなられたらもう仕様がない。そのことが後で問題になることではないと私は思っています。これが一つの導入で、これからターミナルケアをみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
タ一ミナルケアとは何か
ターミナルケアとはどういうものか。まさに末期のケアということですが、類似語にポスピスケアという言い方もあります。それと日本語で緩和ケアという言い方もあります。どう違うのかがあいまいでして、はっきりとした定義の差がないのです。みんなかってに使っているというところが現状かと思いますが、私が知る範囲で「ポスピスケアは何か。緩和ケアは何か」と調べてみますと、欧米などでは各々使われ方が違っています。日本では殆どターミナルケアというのが一緒になって使われています。
私が独自に考えた図式では、ガンと診断がついたときから亡くなられるというプロセスの中で、ガンの根治が不可となったときに、先程のパリアティブメディスンやパリアティブケアという緩和ケアが始まります。その中で原因療法、たとえば外科療法、化学・放射線療法などの原因療法は全く無意味で、かえってその人のQOL
をおとすという時期のケアをターミナルケアと言う。私はいろいろ調べてこう定義したのですが、これは私の独自の図式ですから、全てこうなっているとは限りませんが、一応そのように整理しています。ホスピスケアはほぼ緩和ケア=ホスピスケアという言い方をしています。ですからターミナルケアというのは厳密に言いますと、本当に最期のターミナルの、あと何週間ということを言っています。しかし広義のターミナルケアは、ガンの根治が不可となったときから始まらなければいけないと思います。
タ一ミナルステージ
当院のホスピスで、ガンが発見されて亡くなられる迄にどの位の日数が経過するかみてみましたら、根治療法、原因療法が施行可能なのは大体1
年位の間です。治療の側面はなく、ただケアをするとか、痛みをとってあげるという側面が重視されるターミナルステージというのは、21日、約1
ヵ月位なのです。
アメリカでは大体2 週間位だと本にも書かれています。やることが何もなくなって自宅へ帰り静かに亡くなられる期間は大体2
週間と言われています。イギリスでもそのように言われていますから、先ほどお見せした私の勝手につくった図式でしたが、欧米のものとそう違いはないのではと思っています。
ケアが主体
ホスピス病棟と治療病棟がどう違うかを話したいと思います。ホスピスはケアが主体であります。それに対して治療病棟の方はキュア(治療)が主体であるということです。ケアをするのにどのようなものが必要になってくるのかといいますと、ハード面では厚生省が緩和ケア病棟の認可基準を策定しています。大臣認可を受けますと、保険で一人当り一ヵ月間75万円、1
日2.5 万円の診療報酬が出ます。
緩和ケア病棟の認可を受けるためにどういうことが必要かというのがハード面の条件となっています。たとえば部屋の大きさは1
ベッド当り8 平米なければいけません。大体6 人の大部屋を3
人で使うという感じでとらえてくださると、およその見当はつくかと思います。個室は全体のベッドの半数以上なければなりません。例えば20ベッドでしたら、10ベッド以上なければいけません。それに家族控室とか談話室が備えられている事というような、ハードの面からの規定があります。更にマニュアルがないといけないといういろいろな条件があります。
(作成者注釈:関連ファイル・ホスピスQ&Aに詳述)
みんなで茶話会
ホスピス病棟は、画廊のように壁にずっと絵が飾ってあります。絵の下には絵の題名と作者名が書いてあります。患者さんで看板を書く専門家がいましたから、ぜひ記念にと頼んで書き残してもらいました。丸い天井にとも考えたのですが、予算がなくこのような感じになりました。廊下はべ一ジュになっています。べ一ジュの縞が2
本入っていまして、雰囲気をあたたかい感じにしようと工夫をしました。デイルームにはオルガンもあります。ここでテレビを見ながら、みんなで茶話会をやったりする場です。月1
回位は踊ったりカラオケをしたりしています。このようなことは普通の病院は余りやらないと思います。
自らの思い大切に
私たちの病院では宗教を持たないことにしています。しかし、患者さんへは宗教情報を提供しましょうという考え方です。厚生省の認可したホスピスは6
施設あるのですが、その5
つはバックにはっきりと宗教がありますが、うちは宗教を持っていません。しかし患者さんの求めに応じて宗教を提供しましょう。「強制は致しませんが、どうぞ宗教も勉強して人生のしめくくりをして下さい」と、偉そうなことを言うわけです。牧師の先生がマイクに向って説教をします。誰も聞いていません。なぜ聞いていないかと言いますと、みんなを集めて強制的に聞かせるのは宗教を強制することだと考えたからです。自発的に聞きたいときはどうぞ、そうでなければベッドについているイヤホーンで聞いて下さいと言います。「今日はこれから牧師さんの説教があります。お聞きになりたい方はイヤホーンで聞いて下さい」と全館放送をしまして、聞きたい人は聞くという形です。牧師さん、お坊さんが来て、説教をします。今は二つの宗教です。
情報提供のために、いろんな宗教を提供するといいのでしょうが、今のところ人材がいないので、キリスト教・仏教という二つの宗教でやっています。本人が「これは聞いてみたい」と感じたら、「自らの思いで宗教を聞きたいというふうに感じたら、直接話を聞いてもいいし、マン・ツー・マンで宗教を受けてもよろしい」となっています。このことについてはいろいろ考えました。どのように宗教を扱おうかという我々のアイデアであります。会堂にありますステンドグラスはボランティアの方がつくってくれたもので、生命を表しているそうです。
ハードとソフト
施設のハード面は今まで話したような感じです。しかし本当はハード面よりソフト面、ホスピスマインドという言い方で表現しますが、ソフト面を大切に考えるべきだと思うのです。別にああいう施設がなくとも普通の病院でもホスピスマインドを実践することはできます。あるいは前線の診療所やいろんな所でできないことはないと思います。そのソフト面についてお話します。
ソフト面は4
つあると思います。
そのうちの一つに、まず基本的にこういう考え方を持たなくてはいけないという原則があります。それは延命への挑戦という考え方ではいけないというものです。少しでも生かそうと、今の医療は、1
分でも2 分でも、1
秒でも長く生かそうとしますが、死は敗北という発想ではいけないのです。死は決して敗北ではないのです。人間は生きて死んでいくというのが自然の摂理ですから、死も一つの摂理としてとらえようではないかという考え方を、基本に持たなくてはいけないと思うのです。そうでないと、どうしても最後になって延命延命というふうになって、あわてて気管切開したり、人工呼吸器につないでしまったりします。ですから、考え方の基本として中にいる医療者は勿論のこと、患者さん・家族にしてもそういう考えを持っていないとホスピスのケアはやっていけないと思います。
あるがままに
これは一つの例ですが、38歳の女性であります。下行結腸ガンでしたが、この人は宗教がありましたので、治療を全然しなかったのです。手術をすれば最初の時点では助かったのでしょうけれども、新興宗教でしたので特殊の考え方がありました。一切人工的なことはしたくないと言われて、時間が経つにつれて大きくなりまして、腸閉塞を起してきて最後に私どものホスピスに入院してきました。最後まで「点滴はしたくない。まさに自然に生きたい」と言われます。極端な例ですので、私の言っていることと少し違うのですけれども、ここに一例としてあげさせてもらいました。ところがだんだん衰弱してこられまして、意識がなくなりましたら、今度は家族の方が点滴をしてくれということになるのです。非常に興味深いのは、本人はいやだと言っていても、本人の意識がはっきりしなくなりますと、家族が注射をしてくれといって、最後まで本人の意志がつらぬかれないことが多いということは、現場にいる医療者のみなさんはご存知だろうと思います。
本人の意識がなくなって、家族が「もう少し生かしてくれ」、「息子が遠い所にいる、だから到着するまでなんとか生かしてほしい」と家族は言ったのです。それで家族が願うならば「そうしましょう」と、イノバンを点滴の中へいれて点滴を開始しました。そうしましたら、又血圧が上がってきまして本人の意識が返ってきたのです。本人はびっくりしまして、「何をやっているのだ。点滴はするなと言ったではないか。だから抜いてほしい」と懇願しました。その人は点滴を抜きまして、安らかに亡くなられました。極端な例ですが、私には強烈な印象として残っています。死というものを自然の摂理として、このようなとらえ方をすることもあるのだということで一つの例として、話させてもらいました。
インフォームドコンセント
ニ番目は今、新聞などで、インフォームドコンセントとか、インフォームドチョイスという言葉が報道されていますが、これは充分説明を受けた上で本人の合意を得るということ。一方的にこうしましょうというのではなくて、充分説明をして本人の合意を得た上ですべてやりましょうという意味であります。アメリカでは患者の権利意識がものすごく強いですから、インフォームドコンセントは当たり前のようになっています。日本ではこのインフォームドコンセントということがホスピスでは言われていますが、アメリカは普通の医療でも、検査でもインフォームドコンセントをしなければいけないような現状であります。それが当然と言えば当然なのですけれども、そういう一例をお話しましょう。
76歳の男性で胃ガンでありました。この方は尊厳死を希望しておられまして、「何もやってくれるな」ということでした。だんだん枯れるようになってくるのです。今は枯れるように死んでいくのがいいのではないかという事が「死の臨床」のところでは言われ始めていますが、もう少し点滴したら楽になるのではないかと思ってしまうのが医者の考え方なのです。ずっと食べられないので餓死していくような様を見るにしのびないという気持ちで、患者さんに「点滴をしたら楽になりますよ」と言うのです。しかし、この人はわりと頑固な人で「やりたくない。私は尊厳死がいいのだ」と言います。回診する度に一本の点滴をするのに3
日間本人と話し合いました。家族はいませんでしたので本人との交渉でして、一本の点滴をするのに3 日間かかりました。そうして本人がやってみる

と、「なるほどこれは楽だ。点滴をすると最後の脱水状態とか、身体のだるさの面で楽になる」ということが分かって暫くやられました。食べられるようになって点滴は中止しましたけれども、普通の治療病棟でこのような事をしていたら手遅れになりますので、ドクターの一方的な判断で点滴をやります。ホスピスケアにおいては、本人が納得して合意してくれたときに初めて点滴をするのだというので、一本の点滴をするのに3
日間本人と話し合い、説得してやるというような、非常に手間のかかると言いますか、そういうケアが必要になってきます。
私は最近、真のインフォームドコンセントというのがあるのだろうかと思っています。恐らくみなさんもそう思っておられるかもしれません。これは、もともと医療訴訟の多いアメリカで、後で訴えられないための手法として出てきたものですから、インフォームドコンセントが日本人において本当に成り立つのかどうか疑問です。なぜかと言いますと、たとえば患者さんにいろいろな治療法を説明して、「どうしますか」と言ったときに「お任かせします」、というのが殆んどなのです。「これはしてください。これはやってくれるな」といういわゆる本人の選択は日本人は殆んどしないのです。あるいはできないのかも知れません。「先生にお任かせします」というのが、殆んどの状況です。
一方インフォームを与える側のドクターはどうかと言いますと、自分の主観をどんどん出すわけです。一つの例をとりますと、胆石などは切った方がいいと外科のドクターは考えます。内科はなるべく切らないで何か悪さをしたときでいいでしょうといいます。インフォームする側にも見解の相異があります。ドクターの専門によって言う情報が違います。受ける側も又そいう状況ですから、果たして両者のところで真のインフォームドコンセントが成り立たせられるだろうかと非常に私は疑問を持っています。そこで考えたのがキュァ・アンド・ケアという方式なのです。私どものホスピス病棟ではそれを実践しています。
キュア・アンド・ケア方式
キュアはドクターの専門分野、ケアはクウォリティ・オブ・ライフ、つまり生活の質の専門家であるナースの分野だということで、両方が合意をしてやろうということです。ですから、ナースは患者の代弁者だという考え方です。
普通はどこの病院でも治療病棟ではピラミッドです。ドクターが一番トップにいて、その指示のもとにナースが動いていくわけです。ところがホスピスはケアが優先され、ケアが主体であるならばそれと同じではいけないということで、キュアとケアを平行にしてやろうと、横並びで両方の合意でやっていくことを考えたのです。患者さんにいろいろ説明しても、「お任かせします」と言うのならば、もっと医療を理解して患者さんのことをよくつかんでいるナースと話し合おうということでキュア・アンド・ケアということを考えたのです。
例えば点滴をするのに、「あの人に点滴をすべきかどうか。化学療法をするときにそのマイナス点はどうだろうか」話し合います。ナースが患者の代弁者となって、「IVH
(完全静注栄養)をすれば生活に制限がくるのではないか。外泊ができなくなるのではないか。お風呂に入りにくいのではないか」などと、生活の質の面でナースが反論をするのです。ドクターは生理学的に考えるのです。「栄養が不足してこういう状況だからやった方がいいのではないか。それをやったためにこういうことも起り得る」など、両者で議論し合い、やった方がプラスになるときにはやろうということです。これも非常にひち面倒くさいやり方なのですが、そういうことをしていくのがホスピスケアだということで現在もやっているわけです。
症状コントロール
症状コントロールはとても大切なことです。症状コントロールをしないと本当の意味で患者のホスピスケアはできません。痛み、苦しみを取ってあげるということが非常に大切ですので、このことが最初に来るべきでしょうが、話の流れとして三番目に持ってきました。
一つの症例でお話します。この方は38歳の女性です。横行結腸ガンの方です。昭和59年に病院で大腸ガンの手術を受けています。4
年後に骨盤に再発しました。イレウスを起したり水腎症を起したりしましたので、人工肛門をつくったりして症状コントロールをしてきました。そうして去年の3
月にホスピスに入って来ました。入院してからもイレウス状態でしたのでIVH
を入れたり、熱が出たときにエコーで調べたところ右の腎臓が骨盤でつまってしまい、尿が片方しか出ないためにそこに感染が起りまして、腎膿瘍を起こしました。すぐに腎臓に針をさして膿を抜きました。それで良くなりまして、5
月に退院しました。又、9
月になってから痛みが来て再入院してきました。硬膜外ブロック、背中から針をさしてその痛みをとりました。その後又イレウスを併発して、腸ろうをつけます。次に黄疸が出てきました。黄疸に対して今度はエコー下でPTCD(体壁から細いチューブを胆道に挿入する方法)を行いました。そうして最後に今年の1
月28日に腸ろうから大出血を起こし、どうしても止められなくてその時に亡くなられました。この女性は骨盤内に再発して3
年間いろいろなことをして生きてこられたのです。
ホスピスでは如何に合併症として出てくるものをコントロールする技術が必要になるかがお分かりだと思います。単に技術的なことだけ言っていますから、ホスピスというのはこんなことばかりしているかと思われるでしょうが、そうではなくて精神的なケアをやって、尚かつ技術的なことも要求されるという意味であります。ですから、ホスピスケアはただ痛みをとるだけではなくて、治療医学、最先端の技術を使いながら、しかも痛みをとっていくということがなされているということを示させてもらいました。すなわち症状コントロールをきちんとしないとホスピスケアはやれないということを私は言いたいわけであります。
ペインコントロール
症状コントロールの中心はペインコントロール(痛みのコントロール)です。ターミナルケアの中での一番の症状は痛みです。そのペインコントロールについて簡単にお話したいと思います。これは除痛ラダーと言いまして、痛みをどのように取っていくかという方法です。この辺は普通よく使われる鎮痛剤です。麻薬ではないインテバンだとか、ボルタレンだとか、そういう痛み止めをまず使ってみます。これできかないときに、次はモルヒネよりもう少し弱いブプレノルフィン、ソセゴンとかレペタンの類です。そういうものを第ニステップで使います。麻薬でないので使いやすいという利点があります。これでもダメなときに、最後にモルヒネに行くわけです。
モルヒネは当然麻薬の管理で厳しいですから、扱い方がやや面倒という欠点があります。しかし最近私が使っていて、この真ん中を抜かして、ここヘポンと飛ぶことが多いです。モルヒネは非常にいいですので、3
段階を経ずにモルヒネを初めからポンと使うことが多くなってきました。
モルヒネ効果
ある例ですが、がんセンターが満床で入れないために緊急避難でうちの病院へ入れてくれないかということで、外来で待っておられたガン患者がいました。車椅子に座りぐったりして、熱はあるし食べられない。その上がんが再発していますから、なんと言いましょうか顔は青白く、絶命してしまうのではないかという感じでした。すぐ病棟へ上げて、モルヒネの持続皮下注という、後で出てきますけれども、モルヒネをゆっくりゆっくり入れる持続皮下注を開始しました。2
時間位で痛みも苦しみもぴたっととれてラジオを聞き出したのです。ラジオを聞くというのは余裕があるから聞けるのです。それ位効くのです。午前の外来ですから12時前だと思うのですが、夕食からは食事をとりだして、次の日はデイルームヘ出て行ってテレビを見たりできる状況になりました。劇的に効きましたから私はびっくりして、それ以後私はすぐにこれを使ってしまうのです。苦しみ出したら、すぐモルヒネを持続皮下注器に入れて刺します。それでモルヒネを愛用というとおかしいですが、わりと使うようになりました。
モルヒネの使い方としては、原則として最初は経口でいきます。腸閉塞とか吐気があって経口的にとれないという時は別として、経口的にとるのがよろしいと言われています。モルヒネ水という水溶液で大体1
回5 〜10mgの投与を1 日4 〜5
回やります。つくり方は塩酸モルヒネ50mgにシロップで甘味をつけて水でうすめ50ccにします。そうしますと、10,10,10,20 と4
回に分けるのに楽ですので、そういうつくり方をしています。
私も試飲したことがあるのですが、ちょっとにがい味がしました。「患者に飲ませる以上は私も試みに飲んでみよう」と、自分はがんの末期ではないのですが、飲んでみました。ビールを2
杯位飲んだ感じです。ふあっといい気持ちだなあと感じた記憶があります。1 日4
回飲むというのは面倒です。夜中起こす必要もあります。朝・夕飲めば充分効いてくれるというロング・アクティングのMSコンチンというのが、今は出ています。塩野義製薬から出ています。
しかし長時間作用しますので、こまめなコントロールは少ししにくいきらいがあります。ですから先程のようなモルヒネの経口水でこまめにやって、1
日量がどれ位いるかというのを知ってから、それを半分にして朝・夕投与する方が理論的にはいいと言われていますが、どちらでもいいかなという感じもします。
持続皮下注というのは非常に有効です。楽ですしはっきり効果が出ます。体に完全に吸収されますし、自由にコントロールができます。この機械というのはニプロから販売されていまして、1
日微量づつ、1.2
ccを入れる機械なのです。小さく軽いですから、ショルダー・バッグのように肩にかけて、針は皮下に刺すだけなのです。はずれても怖くないし、教えれば自分でもやれます。大変便利だと思っています。それでこの辺の薬をちょちょっと使いますと、先程の外来のような、死にそうな顔でぐったりしていた人が元気になります。生き返ったようになります。奇跡のようなことが起こります。このことも小冊子に書いてありますから、ご覧になりたい方は見ていただくといいと思います。これが非常にいいですから、先程のような経口水などでやるより、入院してこられたら即これをやってしまいます。そうしますと、3
日位やっていますと、これでコントロールがつくなという1
日量が分かりますから、その時注射をやめて経口に切り替えていこうというやり方をしますと、割とコントロールが簡単にできます。
塩酸モルヒネ注射薬は1cc
が10mgという単位でつくられていますから、この人は1 日50mgが理想だというときには6
cc位をシリンジの中に入れて、ダイヤルで微調整ができるようになっています。早く入れたいときはボタンを押すと、早く入ります。1 日2
cc必要ということですと、ダイヤルに合わせてやっていきます。コントロールが非常にしやすい機械です。針の先を皮下にちょっと刺して、絆創膏ではっておけば、感染も怖くないですし、抜けても出血するわけでもありません。刺すのもそんなに痛くはありません。この辺に機械をせおって、日常的動作を障害することもなくできますので、非常に便利な機械です。みなさんのところで、そういうコントロールをされることがありましたら、これを使われると非常にいいかと思います。
三大副作用
ただ、モルヒネには副作用があります。
副作用で一番大きいのは便秘です。便秘に対してはラキソベロンなどいろいろな薬があります。そういうものを投与していかなくてはいけません。
次に吐き気が出てきます。これにはプリンペランなどの制吐剤を使います。3
番目には眠気です。この眠気には、リタリンという、カフェインのような薬を使いますとモルヒネの眠気を取ってくれます。この三つが大きい副作用です。この三つの副作用に対してはワンセットで薬を与えてしまうのです。そうしますと、ぴたっと副作用がとれて、モルヒネの効果が出てくるようになります。
このようにモルヒネとモルヒネの副作用をとってくれる薬でモルヒネを上手に使いますと、痛みのコントロールはほとんどできるということであります。
QOL
4 番目に生活の質の重視です。みなさんご存知のQOL
という言い方をします。クウォリティ・オブ・ライフの略で、生活の質、すなわち日常生活の質を重視しよう。延命という量的なものではなくて質的な側面を重視しようというのが、ターミナルケアの重要なポイントとなります。痛み、苦しみがあったりすると、それどころではない、生活の質よりもまず痛みを取ってくれという事になります。ですからペインコントロールに習熟していることが第一に必要になります。
痛みがとれると次に何かをやりたいという事になります。先程の人も、ラジオを聞いたり、テレビを見に行ったりという余裕が出て来ますから、次にはどのようにしたらその人がゆたかな生活と言いますか、生活の質の向上をさせてあげられるかが重要視されてくるわけです。私たちは原則としてQOL
はその人のものであるという考え方をしています。すなわち私は半分クリスチャン的な考え方を持っていますから、死はターミナルではないという発想をします。一つの通過点にすぎないという発想をします。それは個人の考えでありますから、QOL
そのものはその人のものであります。我々がそれを支えてあげて、如何にその人が自分のQOL
を見い出してくれるかをサポートするだけだという考えを持っています。これが原則だと思います。

有名な言葉に「人は生きてきたようにしか死んでいけない」という言葉があります。すなわち「死ぬときは、その人が生きてきた生き方と同じように死んでいくのだ」というのです。死ぬ前の1
ヵ月や2
週間で急に生き方をがらりと変えることは土台無理だということが、普通の死の臨床のところでは言われています。私はクリスチャンのはしくれです。劇的に一つの宗教の悟りにふれて死生観が大きく変わることもありますから、そういう意味では全てがそうではないのではという気持もしています。しかし大体が「生きてきたようにしか死んでいけない」ということであります。
例えばこういう人がいました。甲状腺ガンですが、その人はすごくお金に執着していまして、死ぬ1
ヵ月前には甲状腺ガンがどんどん首にくい込んできましたから、呼吸困難も出てきましたし、首の神経がおかされ四肢麻痺も起こってきました。身動きができませんから全て介助でやっています。その人が亡くなる1
ヵ月前になって、「金(きん)がほしい」と言うのです。「金を見て死にたい」。4 〜5
百万の金を神田で買いました。我々はそのお金を寄付してくれたらいいのになと思ったりもしました。娘さんに買いに行かせて、金を飾ざって亡くなられていきました。その人を非難するわけではないのですが、生きてきたように、あと1
ヵ月しか生命がないとなってもそうなのかなという思いをしました。逆に先程の宗教者で「薬はいらない」と死ぬまで貫かれていった人と反対のような気がしますが、生きてきたようにしか死んでいかないなと、私たちは死を看取っていてそういう実感をもっています。
面会・外出・外泊は自由にしています。ここから会社へ通う人もいます。外泊をしてもその人の生活に支障をきたさないように、入院であれはいけないこれはいけないということをなるべく取りはずそうということで、工夫しました。食事も自分たちでつくりたいのなら、個室の中にはミニ・キッチンがありますから、「どうぞつくってください。」「塩分をひかえましょう」とか、どうのこうのと言っているときではありませんから「食事はおいしいものをおいしく食べてください」といっています。お酒も許可しています。恐らくお酒を許可する病院、日本には4
〜5
千の病院がありますが、お酒を許可する病院はないと思います。余談ですけれども、面白い話があります。ホスピスと言いますと、よくホステスと間違えるのです。「お宅はホステスがいるのですか!」と。「いやホスピスです」という話が、本当にあるのです。まさか病院にホステスがいるわけはないのですが、お酒を許可すると、本当に看護婦さんがホステスになるのではないかという感じです。ナースセンターにボトルをキープしておき、今日は日本酒、明日はビール。きちんと管理はしています。考え方として、あれはいけないこれはいけないという、病院特有の規則づくめを取り払おうという一つのやり方です。
プライベートタイム
家族だけ、夫婦だけという時間を提供しましょう。始終回診したり、看護婦が入っていくと、プライベートな場所、時間が持てなくなってしまいます。今磁気が付いていてドアにぺたっとはれるプレートがありますから、その「ご遠慮ください」を出したら、「絶対に行きませんよ」ということにして、その人のプライベートな場所と時間を提供しています。それから、茶話会をやったり、コンサートを開いたり、ハイキングに行ったり、バーベキューをしたりしています。また10分位のところに大きい公園がありますから、公園に患者さんを連れて行きます。救急車でベッドごと行くこともあります。そのスライドがないのが残念ですが、公園に遊びに来ている人たちはみんな異様に思い、びっくりして見ています。こうしてQOL
を少しでもサポートしようとしています。
次に宗教があります。外面的なサポートに対して内面的な支えと言いましょうか、そういうものが必要ですので、宗教というものも我々は患者さんに提供しています。
次はお別れ会です。ご本人が亡くなってからですので、ご本人のQOL
とは違いますが、残される家族の方へのケアも必要です。次の遺族会もそうなのですけれども、ケアの対象は患者さんだけという見方をするといけないのです。先程の38歳の方などはお子さんが小学生です。残される方の事も重要視していかなければいけないので、こういうお別れ会、遺族会を開いています。お別れ会は花束をささげて、こちらからおくやみを申し上げて、家族の代表の方がそれに対してこたえるというような形でやっています。心理的にはそこで泣き叫ぶのがいいというのです。お別れ会でワアワア泣くと少し精神的に楽になるというようなことも考えて、お別れ会をやっています。
生きがいをもって
QOL
の具体例をこのように書いてみました。お坊さんが入院しました。この方はあるテレビで紹介されました。説教をしてもらったのです。「死とは何か、生とは何か」、自分にも目の前に迫っているテーマですが、お坊さんですから亡くなられる直前まで講話をしてもらいました。そのことがその人の非常に生きがいでして、最後は車椅子にのって、我々も人々に声をかけまわりました。続々と多くの人たちが聞きに来てくれて、気持ちよく説教なさったという例があります。
先程の看板屋さんは天理教という宗教をお持ちでした。「何か役に立ちたいのです。このまま寝ているだけでは寂しい」と言われたので、病院の絵などに一つ一つネームプレートを付けるのにはお金がかかりますので、「それでは、ちょうどいい」ということで、「やってくださいませんか」と言ったら、「それはうれしい」と言って、看板屋さんですからプレートとか、筆など家から一式を持ってこられて、全館の絵とか、ものに名前を書いてくださいました。それが一つの記念になっています。
次の方は会社の社長さんです。直腸ガンでした。最初から病名を告げました。手術しましたけれども、2
年位で再発しました。最後はホスピスヘ入られましたけれども、病院から会社へ死亡の3
日前まで通われました。息子さんになんとか仕事を教えないといけないということで死亡する3
日前まで会社に通いました。人間ってしなければならないと思ったらあそこまでできるものかという位でした。帰って来ると青白く、チアノーゼが出ているのです。肺にも転移していますから、むらさき色の顔、爪もむらさき色になっています。帰ってこられると酸素吸入をします。最後の力を振りしぼって息子さんに仕事を教えられて、3
日後に亡くなられたという方もいらっしゃいました。一つの例ですが、なるべくその人のQOL
を大事にしてなんとか支えてあげましょう。痛みをとって、その人の生活で最後に何をやったらいいだろうかを考えサポートしてあげることが、ホスピスケア、ターミナルケアの真髄ではないかと思うわけであります。
日本型ホスピス
最後にまとめとしまして、私が3
年間ホスピスをやってきましたけれども、その中で日本独特のホスピスというもの、それを日本型ホスピスと言っていますが、日本人に合ったホスピスというのが必要ではないかと感じているわけです。
その一番目でどうしてもホスピスというのが有名になればなる程、死に場所というイメージがついてきます。どこのホスピスも同じことがあるのです。数年経つと、あそこへ行くと死ぬという、死に場所という暗いイメージ。日本人にとっては死というのは非常に暗いです。「4」という番号をつけないとか、死という言葉に暗い響きがあります。死に場所というイメージがつくと、途端に生きたがらないというか、入りたがらなくなります。病院で治療を受けて、ホスピスの適用になった人自身が、そこへは行きたくないという現象が起きてくるのです。これではなんのためにホスピスをつくったのかということですので、そのイメージからどう脱却するかが課題です。死に場所でなく、健やかに最期を生きる場所だというイメージでホスピスをとらえてくれたらいいのですが。あそこへ行くと最後だから行きたくないというようなマイナスイメージからいかに脱却するかという方策が必要だと思います。日本人の考え方がそうだからだと思います。アメリカに行ってホスピスを研究している先生に話を聞いてみますと、アメリカ人というのは割とあと2
週間でダメだとなったら退院していくと言うのです。そういう人が多いようです。ドクターにしても、「あなたはもうやることありません。だから退院するか、ホスピスヘ行かれた方がいいですよ」と言って、そこへ行かせるという、割とドライなものだと聞いています。ちなみにホスピスの数は、日本でホスピスと言い得る施設は14カ所です。イギリスではその10倍位あるようです。この間の「死の臨床研究会」でたしか150
〜160 と言っていました。アメリカは1,700 カ所位です。

二番目は宗教の扱いです。宗教者の方に失礼かもしれませんが、宗教も一つの救いの手段として使ってみたいと思います。ホスピスそのものが宗教をバックにして歴史的に来ています。現在の日本でも、その6分の5の施設に宗教がバックにあります。なんとか宗教をホスピスの一つの精神的なケアに使えないだろうかというのがテーマであります。日本人の信仰は重層信仰と言うらしいです。正月は神社に参って、お盆はお墓参りをして、クリスマスではキリスト教の歌をうたっています。宗教があるのかないのか分からない。それを重層信仰と言うらしいです。そういう日本人にとっての独特の宗教観、あるいはそれをうまく利用できないだろうかというのが一つのテーマです。会堂で説教していただいて、イヤホーンで聞いて、本人が納得し興味をもって、本人が宗教をぜひ聞いてみたいとなったら、直接その説教者に話を聞くというような方法を考えたのです。私が3
年間やってきて、関心をもたれて宗教的な悟りを開かれた人はどの位いたかなと思いますと、殆んどいなかったような気がします。一人洗礼を受けたいという人がおられました。もう一人はお坊さんから話を聞いてお坊さんにみとられて亡くなられた人がおられました。その2
人位です。
この間接的な方法、これを私たちは宗教的インフォームドコンセントという言い方をしています。全てホスピスではインフォームドコンセントでいくのだから、宗教だけがインフォームドコンセントではないというのはおかしいという考え方で、あくまで情報提供して、本人の自発的な意志で宗教を本人が選ぶという、宗教もインフォームドコンセントというものをつらぬこうという考え方でやっています。しかしそれだけでは何か弱いような気がします。この3
年間で2
人位の人にしか宗教的な関心をもたれなかった。しかしスタッフの中ではそれでいいのではないかという人が多いです。日本人の信仰は、先程の重層信仰だから、日本人の死に方というのはそういうものではないでしょうかというのが、我々のスタッフのおおよその意見です。私の個人的な感じではもう少し強く、たとえばお坊さんがずっとベッドを回診するとか、僧衣を着て回ると縁起がよくなくていやだというかもしれませんから、白衣を着て回るとか。牧師さんがチャプレンとして病室をずっと回るとか。もう少し人間的ふれ合いがないと患者さんも打ちとけてくれないのではないか。イヤーホンだけで聞いていて、牧師さんに告白する気持ちが出てくるかなと思うと、少し弱い気がして、もう少し積極的にすべきではないかと今ちらっと思っています。
三番目に本人が望めば治療も行いましょう。アメリカではホスピスは本当の意味の死に場所です。治療する余地はありません。苦痛をとってケアをしてくれる所へ移りなさいという感じなのです。日本人は決してそういう所へは行きません。最後まで逆転ホームランを願うという感じがあります。最初のところで3
年間フォローした方をご紹介しましたが、あの方も、こちらがやらなくてもいいのではないかと思うくらい、「最後までやってください」という感じです。苦痛は与えてならないですし、QOL
という先程の生活の質を落としてもいけないですけれど、それが保てるのなら最後まで治療もやりましょうという考え方と言いますか、そういうふうなものでないと日本人の要求に応えられないのではないかと思います。
今一番欠落しているのは、これに関わるドクターが少ないということです。こういうことに関心を持っているドクターが非常に少ないのです。死の臨床研究会は15年の歴史がありますが、その会員、会員ですからやっているという意味でなくて、関心を持っているというドクターの数は150
〜160 人です。実際やっている人といったら、施設イコールではないでしょうが、14カ所でしたら、それに1 人〜2
人のドクターがいるとして、数十人という感じです。ドクターが少ないと、こういうところまでできませんし、日本人に合ったホスピスケアができないということになってきます。
新分野の確立をめざしてそこで私が考えますのはパリアティブメディスンというものを内科の一分野に確立していくことが重要ではないかと考えます。パリアティブメディスンというのは、先程の緩和医学と言っていろいろな症状コントロール、モルヒネを使うペインコントロールを初めとしたいろいろな手技と技術があります。それと心理的、精神的なケアというようなものを総合化した一つの医学です。今までは内科で殆どやられていました。その中の一分野でもいいと思います。緩和医学、パリアティブメディスンをきちんと確立します。そうしますと、ドクターも関心をもってくると言いますか、関心を持つ余地があると言いましょうか、最後のターミナルの場所というのは私自身がそう思うのですが、ドクターが6
年間勉強したことからすると、ドクターのすることは少なく、ナースの出番が多いのです。
ドクターは最後の臨終を言うだけとか。極端な言い方ですが、モルヒネの処方をするぐらいとか。精神科という意味ではやることが沢山あるでしょうけれども、ドクターの出番が非常に少ないのです。最後の1
ヵ月位は少ないのです。そうではなくて、もっと広いスパンの、3
年間のあいだにいろいろやって、その人のケアをしていくことになりますと関心度も変わってくると思います。そういうものを確立することがドクターを増やし、そこに関わってくる医療スタッフがどんどん増えてくると思うわけです。このままだけの状態ですと、ひょっとするとホスピスというのは日本では余りのびないのではないかという危惧を抱いています。このままでいくと日本では案外騒がれている割にはのびていかない可能性があります。まずドクターが関心をもたないといけない。それに患者さんが死に場所というイメージを持ってしまってはいけないのです。そうでなければ、騒がれる割には余りのびていかないのではという気がしています。そのためにはこういうような方策をとっていくことが必要ではないかと思っています。
(1991年12月6日)