広葉樹(白) 第六回公開講演会   

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プログラム

日時 平成9年9月13日(土曜日)
会場 横浜市市民文化会館関内ホール(大ホール)
参加者 600名

開 会 13:00〜
   会長挨拶 金子保雄
   
   テーマ 『家で死ぬということ』      
   基調講演
    演題 『うちで死にたい』
    講師 高宮有介 (昭和大学病院緩和ケアチームリーダー医師)
   パネルディスカッションー末期医療のためのネットワーク
     司会(コーディネーター) :高宮有介
     パネリスト ・竹田節〔タケダ訪問看護クリニック院長〕
            ・乙坂佳代〔港北医療センター訪問看護ステーション管理者〕
            ・伊集院一成〔ホームケアファーマシー薬剤師〕
            ・井上友子〔在宅で看取られた患者家族〕
   質疑応答 
閉会挨拶 千賀瑛一(ホスピスを考える横浜市民の会副会長)
閉 会 16:45





会長挨拶  金子保雄(元神奈川大学教授)

 皆さん、こんにちは。

 公私何かとご多用のところをお出ましいただききまして心から感謝申し上げます。皆様方のご協力で第6回の公開講演会を開催できましたことを関係者一同喜んでおります。

 医療が進歩し、高齢化がどんどん進んでおりますけれども、私たちがどうしても避けることができないのが死の問題でございます。とりわけ末期医療のことにつきましては幾多の課題を内包しております。私たち「ホスピスを考える横浜市民の会」は、これらの問題につきまして、そのときどきの話題を取り上げながら、地味な着実な啓蒙活動を続けてまいりました。

 第1回には、現在、大阪大学の教授でいらっしゃる柏木哲夫先生をお呼びいたしまして、ホスピスとは何なのかということを勉強させていただきました。

 2回目には上智大学のデーケン先生をお呼びしまして、世界的視野に立ってのホスピスのありようというものを学ばせていただきました。

 3回目には横浜市の総合保健医療センターの長でいらっしゃいます西丸與一先生に、法医学の立場から安楽死や尊厳死の問題についても学ばせていただきました。

 第4回目には評論家の柳田邦男先生、当時東大にいらっしゃった養老孟司先生の対談によりまして、生と死の問題についても思いを深くすることができたわけでございます。

 そして昨年、『病院で死ぬこと』という著書でベストセラーになりました、あの山崎先生をお呼びしまして、ホスピスの現状について、また、パネルディスカッションを通しまして、さらに私たちは思いを深くすることができたことを感謝しております。

 『病院で死ぬこと』というテーマを受けまして、今年は「家で死ぬこと」というテーマを取り上げた次第です。今、報告がありましたように、今日は第一部では高宮有介先生の基調講演を頂戴することになっております。第二部は竹田節氏、伊集院一成氏、乙坂佳代氏、井上友子氏、以上の4人の方々によって、それぞれの立場から在宅支援活動についての報告と発表があるはずです。最後に、また高宮先生にお入りいただきましてパネルディスカッションを予定しています。一部二部の今日の構成を通して皆様方のご要望に添うことができたならば幸甚の至りです。

 これからのひとときが皆様方と在宅ケア、あるいは地域医療ということにつきましてご一緒に考える時となったならば幸せと考えております。

 次に、昨年もそうでしたが、医師会の会長先生が祝辞を述べてくださることになっておりましたけれども、医師会の方からお手紙いただきましたので、代わってご披露したいと思います。

 「日頃お世話になっております。今回の講演会にお招きいただきましてありがとうございました。今回は13大都市医師会の連絡協議会(京都)と重なってしまいましたので残念ながら欠席させていただきます。第6回講演会の御盛会をお祈りいたします。先日ファックスで送信しましたメッセージをお送りいたします。今後ともよろしくお願いいたします」

 これは医師会の総務課の望月様からこういうお手紙をいただきまして、会長の内藤先生からはこのようなメッセージを頂戴しております。

 「今回は在宅での末期医療の現状と課題について、今回参加の訪問看護ステーションからも出演させていただきますが、これはとりわけ有意義なことと思います。現在各区に置いて16箇所の訪問看護ステーションを開設、1年2年中には全区に展開を予定しておりますが、在宅ケアを担う訪問看護ステーションにとりましても、まさしく末期医療は重要な課題そのものです。この機会に市民の皆様とともにホスピスから在宅まで幅広く末期医療のあり方をお考えいただきたく存じます。本日の会が多大の成果を挙げられ、ホスピスの更なる推進のために会を重ねられることを祈念いたします」

 以上、医師会の内藤先生のメッセージを紹介いたしました。





基調講演
『うちで死にたい』
講師 高宮有介 先生
    昭和大学病院緩和ケアチームリーダー医師

 ご紹介ありがとうございました。昭和大学病院外科の高宮といいます。よろしくお願いします。

 外科とは言いましても今ご紹介にありましたように、全く手術はやっておりませんで、緩和ケアチームという名前で末期の癌患者さんの痛みを癒やすということを専門でやっています。実際にはいろいろな病棟の先生から依頼があって各病棟に出かけていって、出前出張のような形でやっていますが、ほとんどの患者さんが入院でかかわっていて実際には在宅でということは少ないしそういうシステムはまだ昭和大学の中にないんですね。でも年間数人の患者さんはお家で看取るような経験をすることがあります。これはシステムはないんだけれども患者さんの「家で死にたい」、そしてご家族の「家で看取りたい」という熱い思いを聞いてそれを重ねてそれで一緒にかかわっていくというそういう経過がありました。10数年前からやってきたこの仕事の過程または今感じているいろいろな問題点について今日はスライドを混えてお話ししていきたいと思っております。

 最初にお聞きしたいのですが、たくさんの方が来られていますが、この中で実際に病院、病院でなくてもいいんですが医師や看護婦の方どのくらいいらっしゃいますか。78%ぐらいでしょうか。特に医療に携わっていらっしゃらない市民の方は?ありがとうございました。半々ぐらいでしょうか。そのつもりでお話ししたいと思います。

 早速スライドをお願いします。 在宅緩和ケアの勧めということでこれは私の造語なんですが、緩和ケアという言葉と在宅というのを一緒にしたわけなんですが、在宅ケアだけではなくて特に死の看取りの部分についてのお話をしていきたいと思います。

 私たち緩和ケアはちょっと特殊な仕事なのでまずご紹介をしたいと思っているのですが、ホスピスはよく聞かれますよね。実際に全国的にとても増えてきていますが、緩和ケアチームという名前は耳慣れない言葉だと思います。これは実際には専門病棟を持たないでいろいろな病棟に出かけていってそこの主治医や看護婦さんと一緒に仕事をしながらそこの緩和ケアをサポートしていくというシステムですが、日本でたくさんの緩和ケア病棟が増えてきていますけれどもそれでも全国的に33箇所でしょうか。1箇所のホスピスで看取れる患者さんが200人としても1年間に1万人に満たない方ですね。実際に専門病棟で亡くなっているのは。ほとんどの方は癌病棟でなくなっている。そういうふうに考えると一般病棟でどういうふうにしていくかという方法がこういう緩和ケアチームというやり方なんですけれども、次のスライドお願いします。

 所属が麻酔科、先ほど外科と言いましたけれども緩和ケア科がまだないのでそこらへん難しい立場にまだいます。将来的には緩和ケア科として独立したいと思っていますが、先ほどお話あったように1992年4月からこの活動始めていますが最初は勝手に緩和ケアチームという名札を作って病棟に出かけていってやったんですが、半年後に教授会で緩和ケアチームという形で認められました。

 メンバーは医師、カウンセラー、音楽療法士というメンバーがいます。看護婦さんはまだ独立した形では入っていません。欧米では緩和ケアチームはほとんどが看護婦さんが中心でやっていますので、そういう形で将来的にはできたら良いなと思っています。1年間に100人ほどの依頼があります。やっている仕事としては症状のコントロール、これは痛みだけではなくて、肺がんの末期の息苦しさや身体のかったるさなど、そういった依頼もあります。それから患者さんの精神的ケア、ご家族のケア、告知のコーディネートというのは医者も大分告知の率は上がっていて癌ということは言うんですけれども、癌だけれども手術をしましょうとか癌だけれども抗がん剤をやりましょうということで治療のための告知はするんですが、なかなか再発転移したときはどう話していいかわからないというあたりで私たちが一緒に関わっています。

 それからDNRというのが5番目にありますがこれは亡くなる前に心臓や呼吸が止まったときに蘇生術をどうするかということを取り決めておくということなんですが、今日のお話のお家であればそれはあまり必要のないことかも知れないですね。病院の場合はいればそこでいろいろな処置がされてしまう。それをしないで済むようにちゃんとお話し合いをしましょうということなんですが、それから私たちは実際に往診や訪問看護部はないんですが、地域の訪問看護ステーションとのコーディネートをしております。大学ですから教育や研究もやっております。次のスライドお願いします。

 実際には主治医や看護婦さんから依頼があって病棟へ出掛けていって患者さんや家族と関わるんですが、いろいろな科の先生方との仲介をしたり在宅の仲介をしたり、また、ときにはホスピスを仲介するようなこともあります。次のスライドお願いします。

 これが初期というか10年ほど前ですね。まだ訪問看護ステーションもなかったしいろいろな制度もなかったときに私たちは患者さんや家族と直接関わっていくという形でした。24時間体制、ポケットベルを持って何かあれば鳴らしていただく、何かあれば駆けつけていくというのが初期の頃のやり方だったんですけれども、次のスライドお願いします。

 この方は23歳の女性だったんですが、19歳の時に乳がんの初発がありまして初めに乳がんの手術をされてそれから再発を繰り返されて23歳の時点では両肺の転移と全身の骨の転移があったんですね。すぐに入院が必要だったんですが少し外来で診ていたんですけれども、でもこの方はこのまま外来にいたいと、在宅で診て欲しいと、実は婚約者の方と一緒にお家で過ごしていらっしゃってそのまま在宅を応援して欲しいということを言われたんですね。先ほど前のスライドでお話ししたようにまだ訪問看護ステーションもそのころなかったし、そういう制度が全くなかったんですね。でもこの方のこの思いは叶えてあげたいというふうに思いまして、ただ1人ではこれはできないなと思いましたので院内のいろいろな病棟の看護婦さんに声をかけてボランティアを募りました。そして医師も何人か一緒に診てくれるという人がいて、みんなで毎週話し合いを持ってそして何日は誰が行くと、何日の緊急の場合は誰が行くという形で1カ月決めてそういう体制でこの頃は臨みました。在宅でこの方IVHをやっています。痛みにはその頃もうMSコンチンが発売になっていましたので処方していたんですが、骨の痛みで、じっと寝ているときは痛みがなかったんですが、アパートの4階に住んでいらっしゃったんですね。4階に昇るときに痛みがあって完全には取り切れていませんでした。

 そういう状況にあったんですが、予後的には肺の転移がありましたのでだいたい3カ月くらいかなあと予想しておりました。ただ婚約者の方から、少しお家で落ち着いてきたときに延び延びになっている結婚式を挙げたいというふうに言われたんですね。予後は3カ月の方の結婚式の意味はどうだろうと、在宅ケアはみんなで応援したけれども結婚式はどうだろうかということで皆その時一緒に在宅を応援したメンバーは悩んだんですけれども、こんな話をしてはなんなんですけれども、今4人に1人が癌で亡くなるような時代ですが、ちょっと違う統計で結婚した4組に1組が離婚をしているというデータもあるんですね。結婚についてみんなでいろいろ考えたんです。

 これだけ離婚する人たちがいる時代に、新婦が結婚後3カ月で亡くなるような結婚でも意味はあるのではないか。こういう仕事に携わっていると、亡くなる前に旦那さんが患者さんで奥さんがずっとかいがいしく介護していらっしゃると、でもずっと50年間連れ添ったご夫婦なんだけれどもちょっと部屋から出てきたら奥さんがトトトッと来ていろいろ愚痴を言われるんです。その中で「実はうちの夫をずっと恨んでいたんです」とずっと添い遂げた方が言われたりとか、いろいろ聞くといろいろな結婚があるんだなというふうに考えると3カ月であっても2人が本当に愛し合ってその時間を過ごしたらそういう結婚があってもいいんじゃないかということで結婚式をみんなで応援することになりました。次のスライドお願いします。

 これは昭和大学の病棟なんですが、17階建ての病棟なんですが、1番上が会議室とレストランがあるんですが、結婚式場もすぐに見つからないですよね。それに病状がちょっと心配だったので、お家にずっといらっしゃったんですけれども病院で式と披露宴を挙げようということになりました。次のスライドお願いします。

 こういう形で牧師さんに入っていただいたんですが、最初の病状からするとここまでお元気になると思えなかったんです。この方痛みが結婚式が決まってからだんだん楽になったり、食欲が出てきたりして……、次のスライドお願いします。

 バージンロードも敷いて、実はここに点滴がIVHと言いまして首の当たりに入っているんですね。ここは止めてあるんです。私は手に痛み止めと吐き気止めを持っていつでも飛んでいけるようにして見ていたんですけれども、この日は旦那さんを引っ張るくらいお元気で、途中から私は医療者というより一参列者として式に出てました。次のスライドお願いします。

 披露宴も全く普通の披露宴と変わらなかったんですが、こちらに60人ほどの御親族の方がいらっしゃって、なぜこんな急な式になったかという話をしているところなんですが、次のスライドお願いします。

 結局この式から1カ月ほど旅行に出掛けたりして非常にお元気で在宅で過ごされていたんですが、最終的には肺転移が増悪して亡くなられました。本当にこの方から教えていただいたのは、痛いとモルヒネ増量、神経ブロックといろいろ考えるんですが、案外その方の希望を支えることによってもいろいろな痛みって変わり得るんだなと。お家に居たっていうだけでもとても良かったし、こういう式ができたということでいろいろな症状は変わり得るんだなということを教えていただいたような気がします。次のスライドお願いします。

 その後ちょっと進みまして外科の看護婦さんで非常に興味を持ってくれる方が何人かいらっしゃって、チームだけではなくてそこの看護婦さんも一緒に看てくれるということが多くなりました。次のスライドお願いします。

 昭和大学病院は大学病院のわりに地域の基幹病院みたいな性格が強くて、それだけ専門性がないというか、看板教授がいないのかも知れませんが、全国から集まるというよりはだいたい車で30分くらいのところに皆さん住んでいらっしゃって、どの方をみても品川区の旗の台に病院があるんですがカルテみても品川区どこどこ、あそこのパン屋を曲がったあのへんですねとか、中原街道から環七入ったあたりですねとか、皆よくわかるようなところに住んでいらっしゃってそういう人たちがやはり家に帰りたいと言ったら何かお手伝いしたいなという気持ちになるんですが、車で結構近いんですが電車やバスじゃちょっと不便なところの住宅街に皆さん住んでいらっる方多いので車で行くことが多いんですが、実は先ほどの結婚式を挙げた方の時は私運転免許持ってなかったんです。

 何年前でしょうか。免許取ったのは今年私40なんですが、33か34の時だと思うんですが、最初の時往診するときにやっぱり電車で行ったりその頃ジョギングをやっていたのでジョギングで行ったりとかしてましたけれども、これじゃまずいなということで免許を取ろうというふうに思ったんですが、これは余談ですが、医学生の時取らなかったのはまずかったんですが両親が絶対取るなということで医者になったら取ろうと思ったら忙しくてそれどころじゃなくなってしまったんですけれども、1度ですね、緩和ケアのこの分野で癌の痛みのことで医学博士を大学からいただいたんですが、お礼奉公というのがありましてそれをもらった人は半年くらい出張しなければいけないんですね。

 行ったのが大宮の外科医長として行ったんですが半年間、そこの病院から歩いていって2〜3分の所に教習所があったんですね。これはラストチャンスだと思いまして行ったのと、そのころちょうど家の長男が赤ん坊の頃によたよたしてハイハイしているところから一生懸命立ち上がろうとしていたんですね。歩こうとして。これは自分も何かチャレンジしなきゃいけないと思って33か34の頃に、何か免停になったのかといわれましたけれどもそういう年齢でしたから教習所の先生に頭を下げながら運転をしながら教習の先生が医者だったらわかるだろうといろいろ質問をして来るんですね。

 腰が痛いんだけれどこれはどうしたらいいだろうかとか、こういうのに答えながら結構早くに取らせていただいて、今は車でいろいろ出掛けて行くんですけれども、ただこの車も故障というのがなかなかなくて交通費もガソリン代というのは計算しにくいんですけれども、1度1時停止のところを止まらないで行こうとしたら白バイが隠れていて出てきたんですけれども白衣を着て往診だというのを一生懸命言って許していただいたことはありましたけれども、後は路上駐車、いろいろなところでポンと停めているときなど往診中と書いたりするというのがありますけれども、そういった意味でまだ制度がちゃんとしてないなと思っていますけれども。次のスライドお願いします。

 この方の場合は亡くなって御遺体があってお家でいろいろな思い出を語ってるんですけれども、外科の看護婦さんが入ってそして私たちも入ったんですが、病院から歩いていける距離の方だったんですね。奥さんがお家で看取りたいということで連れて帰られて、この方ははっきり告知はされていなかったけれどもご本人も全部奥さんにお任せということで最後はモルヒネを飲めなくなってからは持続の注入器という機械を使いながらお家で看取りをしました。で、これはお別れ会というのをしているんですが、病院ですと病棟で亡くなられて霊安室に行って、何か医療者は来るんだけれども医療者も言葉少なに「力が至りませんでどうも……」といって申し訳なさそうにお送りするんですけれども、お家ですとこうやっていろいろな思い出を語る時間がある。

 これは2つの意味があると思うんですが、1つはご家族がご遺族になったときにこんなにちゃんと看ることができたんだ、またはご本人も本当に立派な人だったというお話を一緒にする機会であり、もう1つは医療者である私たち自身も急に亡くなったり急に目の前からいなくなると非常に喪失感、ぽっかり穴が空くんですが一緒に御遺体の前でいろいろなお話ができるというのはそういう切り替えができるんですね。皆さんよく体験されると思うんですが、自分が勤務でない時に亡くなられて次の時に行ったら違う患者さんが入っていたり、白い布が掛かっていたりすると非常に喪失感がありますよね。そういう意味で私たちもお別れをするというこういう時間を持っています。次のスライドお願いします。

 この真ん中の方が患者さんで、38歳の女性だったんですが、この方がお子さんの小学校の卒業式に出られたときですね。次のスライドお願いします。

 38歳の女性で大腸癌の手術後の再発だったんです。肝臓に転移しお腹や胸の方にも転移していたと。この方ある程度告知をしてあって、病院に来れば検査、そして何か治療、もう家にいたい、入院はしたくない。病院には行きたくないと宣言をされて、お母さんがいてご主人がいてと。中学生の長女、長男がいらっしゃいました。このお子さんたちと最後の時間を過ごしたいということが強かったと思うんですが、亡くなるほんとに数日間は大きなベッドで3人くらい寝られるんですが、そこにお子さんと一緒にずっと添い寝してお子さんがほんとに痩せてしまったお母さんなんだけれども添い寝をして、そのまま同じように寝ていたんですけれども亡くなられたということで死亡の確認に行ったんですけれどもお母さんとご主人とご家族で看取ったという感じがしました。この時はお話ししましたようにまだ訪問看護ステーションがなくて外科の看護婦のボランティア的な動きと私も同じ考えで出掛けていったという状況でした。次のスライドお願いします。

 今は病院の中に外来看護相談室という在宅に行くときに相談にのってくる看護婦の場所があったり、私たちだけでなくそういうところもできてそこと連携を取り、実際には地域には訪問看護婦さんがすでにステーションがたくさんできてますね。後でパネリストで出てもらいますけれども。それから民間というのは皆さんホームセキュリティのセコムの訪問看護ステーションがあったり、民間の訪問看護婦さんたちがいらっしゃいます。それから地域の開業医の方を応援に引き入れたり、今日もホームケアファーマシーということでお話がありますが、宅配で薬剤師さんが行ってくれていろいろな薬の指導もしてくれるという形の以前に比べればいろいろな手が患者さんの家族に提供できる状況になっています。次のスライドお願いします。

 大学病院から在宅へというタイミングなんですけれども、ある程度先進医療をやってもこれ以上治療がない、そこらへんのところだいぶ医者も良心的になってきたと思うんですけれど、以前はとにかく最後まで抗がん剤やろうとか何かしら治療しようとしてたんですが、最近これ以上できないというところに関しては医者も率直にご家族にこれ以上病院でやることは……これは良心的な意味で言っている分と早く出ていって欲しいと言われる場合もあると思うんですけれども、治療がないというのは医者も率直に言うようになってきていると思います。そして家でも同じことができると。先ほどお話ししたようにお家に薬を持ってきてくれたりお家に点滴を持ってきてくれたり、または往診の医者が胸の水やお腹の水を抜くことができたりということができるようになりましたから、家でも同じことができると。そして症状緩和もその専門の知識のある医者や看護婦がいればお家でモルヒネの使い勝手もできるんだと。先ほどちょっとお話ししましたけれど、病院も末期の患者さんをなかなかずっとベッドをふさいでいて手術待ちの人が入れないということで転院を勧められているというこういったタイミングで進められることが多いようですが、次のスライドお願いします。

 ここでちょっと話が戻りますが、緩和ケア緩和ケアとずっと言ってきたんですけれども何か緩和ケアかということなんですが、ターミナルケアとかホスピスケアとか終末期医療とかいろいろな言葉がたくさんあると思うんですが、私はどれも目指すところはどれも同じだと思っています。ただ、私たちが緩和ケアチームとか緩和ケアという言葉を使うのは1つは言葉の持つイメージですね。病院の中で終末期医療チームとかホスピスケアチームという形で患者さんのところに行きますとやっぱり患者さんびっくりしてしまうので、症状を緩和するということを前面に出して関わっているわけなんです。あと緩和ケアというのは末期の患者さんだけではなくて、癌の診断を受けたときからの心の痛みまたは告知をどうするかとかまたは治療のための苦しさや手術の後の痛みやいろいろなことも含めて和らげられたらいいなと、幅広い形で私たちは考えていますが。次のスライドお願いします。

 私たちが支えてきた痛みというのはよく4つで言われるんですが、身体的、精神的、社会的、これは例えば仕事の面で壮年期の男性が仕事半ばで倒れなきゃいけないとか、または経済的に本当は入院して個室に入りたいけどそのお金がないとか、そういったことも非常に辛いことになってくる。スピリチュアル、次にお話ししますけどこういうものを皆一緒に考えていかないと痛みはよくならないし、痛みってこういう複雑なものがあると思います。次のスライドお願いします。

 スピリチュアルというのは霊的、宗教的、哲学的、思想的といろいろな訳があるんですが、どれもピッタリこないような気がしていて、私が今考えているのは、大きくは2つの括りなんですが、1つは、なぜ自分はこの世に生まれて生きて死んでいくんだろうか、自分の生きてきた意味は、役割は何だろうという人生の意味、振り返りの部分、もう1つは、死とは何だろうか、死後の世界はあるんだろうか、あるんだったらどういう所なんだろうか、これは答えがなかなかでない部分だと思いますが、そういったものがとても大きな痛みになってくる。皆さんもきっと自分の意味、役割というのは考えると思うんですが、あまり毎日考えていると頭が痛くなるので、今日元気で明日があればなんとか生きていけるやと思うけれども、死を間近に感じている患者さんはとても大きな痛みになっていくと。次のスライドお願いします。

 先ほどお話ししました4つの痛みのコントロールというのと、大きな柱としては患者さんだけでなく家族も支えていこう、それから医者や看護婦や薬剤師さん、またはヘルパーの方、いろいろな方がチームで関わっていこう、そういうものが緩和ケアの柱になると思います。次のスライドお願いします。

 ここで、常識を破れというお話をしたいんですが、8年ほど前に上尾甦生病院というホスピス病棟ができたときに私も日本のホスピスで初めて働くようになったんですけれども、今までの医療と何が違うんだろうねという話をしたときに、病院の中であれば管理される、いろいろな常識にしばられる、そういうことを1つ1つ破っていくことがホスピス運動じゃないかという話をしたことがあるんですが、たとえば、次のスライドお願いします。

 これは猫なんですけれども、猫が自分のいとおしい存在であったら病院の中で面会に来たらいいんじゃないか、ただこうやって考えてみると、ホスピスケアでいろいろこれをやってもいいよと言われたことは在宅だと当たり前のことなんですね。猫は飼っていれば家にいるのは当たり前ですので、ただ病院に面会に来るというのは大変なことなんですが、ホスピスではそれはOKにしていますけれども。次のスライドお願いします。

 47歳の女性で乳がんの手術の後だったんですが、全身の骨の転移があって下半身麻痺があって、目にも転移してどんどん視力が落ちていったんですが、この方ご主人が獣医さんだったんですね。お子さんがいらっしゃらなかったせいもあるんですが、犬が1匹と猫が3匹いたんですね、家に。犬は特に捨て犬の時に子犬で拾ってきてずっと育て上げた犬で、ぜひ会いたいということで入院中に面会しました。その犬は私の息子よりもよっぽどしつけが良かったような気がするんですけれども、待てと言ったらじっとそのまま待っているような犬でしたから。で、面会をしました。

 病院の中で。ただそれは1度きりの面会だし、ご主人もお家で看取ると、それだったらお家に帰りましょうということで、キーパーソンはご主人だったんですけれども、ご主人は獣医を、同じ敷地内に獣医院があってその奥がご自宅だったんですが、そこで亡くなられました。ご主人とはとても夫婦仲良かったんですが、ベッドがあるんですが一緒に寝るにはちょっと狭かったんですが、犬が寝るにはちょうど良かったということでご主人がいないときはずっと犬が側で寝たり状況を看てくれていて朝方呼吸止まったと思うんですが、犬が吠えてご主人が目が覚めていったら呼吸が止まっていたということで看取りをした患者さんでした。次のスライドお願いします。

 先ほどの常識を破れという流れなんですが、肺がんの末期でたばこも良いじゃないかと、お家だったら良いですよね。病院だといろいろ管理上大変なんですが、ホスピスであっても部屋には火災報知器や煙感知器があってお部屋ではなかなか吸いづらいという状況があるんですが、お家だったら自由にできると。次のスライドお願いします。

 お酒も良いじゃないかというところなんですが。これ皆さん、わかりますか。フォーカスを当てるほどじゃないかもしれないけれども、昨年講演に来られました山崎章郎先生がひげのスタイルは毎年変わりますが、ほとんど同じですね。この方がいらっしゃるんですが、この方は桜町病院のホスピス病棟、ここにはバーカウンターがあってバーテンの方がカクテルも作ってくれるということなんですけれども。この前話をしていましたらちょうどそのバーテンの方が観客の中にいらっしゃって実は自分が何時もカクテルを作っているといわれましたが、その人にあった、その日の気分にあったカクテルを作りますと言ってましたけれど。ちょっと初期の時はなんですかと聞いたら、ブルーハワイといったからあまり大したことはないかなと思ってしまいましたが。

 ともかくお酒も良いじゃないかということで、私もここにボトルを持っていったりしたんですけれども、だいたいこの人が飲んでいるようなんですけれどもね。そういう私もお酒好きで今はビールを飲んで、その後週に1回今ビハーラ病棟といいまして新潟の長岡市のホスピス病棟に行っているんですが、そこに行っているもので、日本酒を買って帰るんですね。最近日本人に生まれて良かったなあと思うんですけれども、結構家に日本酒の瓶がたくさん冷蔵庫に入っていて、最近妻に怒られて「冷蔵庫に他のものが入らなくなるからダメだ」と言われて自分用のお酒用の冷蔵庫ができてしまったくらいなんですが、そんな自分ですから夜眠れないときに睡眠薬をいろいろ足されるよりは処方箋でお銚子1本、焼き鳥3本までという形で眠れたほうがいいかなと思います。それはでも入院中であればそうですがお家だったら全然お酒はいいですよね。あんまり2日酔いになっていると変かなあ。在宅の患者さんが。まあでもお酒も良いだろうと。次のスライドお願いします。

 気持ちの悪いのが出てきたとお思いでしょうけれども、これは私なんですけれども。本の中にもありますが、あれは白黒なんで、カラーのほうが迫力あると思いますけれども。次のスライドお願いします。

 何をしているかといいますと、山本リンダ、おにゃんこクラブって知っていますかね。歌って踊っているわけなんですけれども、以前ここに講演に来られましたデーケン先生が「にもかかわらず笑う」というユーモア療法を言っていらっしゃいますけれども、辛いことが多い仕事ではありますけれども笑える瞬間があったらいいだろうということでこんなことやってるんですけれども、もともと私外科におりましたので外科は脳外科とか心臓外科とか1つの講座でほんとにたくさんの大所帯だったんですがOBも呼んで忘年会が毎年ありまして、1泊2日で熱海の旅館貸し切りという形なんですね。そこの舞台で1年目の外科医がショータイムをやらなきゃいけないというのがありまして、私が1年目の時のショータイムの責任者だったんですけれども何をやろうかということだったんですけれども、その年はやっていたのがおにゃんこクラブだったんですけれども、みんなでおぼえようということで、まず私がビデオを見て振り付けを完全に覚えてみんなに教えてという形でやったんですけれども、外科医が十数人いましたが白衣の外科医がみんなで踊っているというのはちょっと気持ち悪かったんじゃないかなと思いますが。

 その時みんなで練習をして当日このようにカツラや服を看護婦さんが準備してつつがなく盛り上がって終わったんですが、身体で自分で覚えてましたのでそれから数年たっても振り付けは何となく身体に残ってたんですね。いつもやってたわけじゃないですよ。あるホスピスでお茶の会というか歌の会があったときに何か1曲歌ってよといわれて歌ったけれどもなんか場が盛り上がらなくて、じゃあれしかないと思って場にそぐわないかなと思ったけれども山本リンダを歌って踊ったんですね。白衣のままでしたが。うけたんですね、これは。末期の患者さんにこれは、と思ったけども。実はこういう衣装やカツラがあるとお話ししたらぜひ次回はそれを持ってきて欲しいということでだんだんエスカレートしてこういうふうになってきてしまったんですけれども。最近はちょっと上品なゲームを覚えて、パントマイムの重量挙げとかいろいろやっているんですけれども、コメディータッチで。でもなんか山本リンダの方がうけるんですね。

 患者さんや家族が喜んで人の迷惑にならなければ、迷惑になっているかもしれないんですけれども、だいたい歌の会というのがあって、17階の先ほどの会議室であるんですが、この前そこでこれをやってほしいと患者さんから言われまして、やったんですけれども、やっている途中に、普通は人からは見れない所なんですけれども、ビルの窓拭きの方が上から降りてこられてずっこけそうになっていましたけれども。人の迷惑にならなければこういうことも良いだろうと。ただこんな話をするとなんか緩和ケアをする医者はなんか芸がなければできないんじゃないかと思われる方もいるんですが、その人なりのいろいろな芸で良いと思うんですけれども。次のスライドお願いします。

 67歳の女性が胃がんで肝転移、告知をされて最後はお家でということで帰られたんですけれど、長女、夫、次女夫婦、孫とたくさんのご家族に囲まれて訪問看護ステーション、開業医、そして私たちという形で往診したんですが、最後思いでの場所に行きたいと、病状悪かったんだけれども「頑張って行ってごらんよ」とポンと後押しをしたら御殿場まで行って帰ってきて、ある晩往診したときに踊ってくれと言われたんですね。何か本かなんかで見たんでしょうかね。末期の患者さんてこの次って言えないじゃないですか。それじゃやりましょうと言って、そこにあるバラか何かを口にくわえてやりました。その時ご主人いらっしゃらなくてもう1回見たいとか言ってましたけれども。それはちょっと却下しましたけれども。そういうことがあってお家で亡くなられましたが。次のスライドお願いします。

 この患者さんは肝臓癌で肝硬変もあったんですが、非常に花見を楽しみにされていたんです。その肝臓癌が破裂をしてしまったんです。非常にお元気な方で退院しようかと言っていたんですが、大出血をしてショックになってしまって死が近い感じだったんですが、お元気な人だったんで1回血を止めましょうと言ってお腹を開けて血管を縛るような処置をしたんですが、大出血もした後でしたから生命的には危険な状況だったんですね。この方がこの手術から1週間後にある花見にぜひ出たいと言われたんですね。ただ外科サイドはもう状態悪いし今動いたら出血するかもしれないからダメだと言ったんですけれども、外科が言うようにじっと待っていたら何か良いことあるかというと死を待つだけ、それだったら行ってみようやということで出掛けたとこなんですが。

 その日はこういうベッドのまま来られて花見を楽しまれました。特に何もなく帰られて自然の経過の中で亡くなられたんですが、ここでお話ししたいのは案外ご本人が希望されていることは思いきってポンと行ってみるとうまく行くと言うことをお話ししたいんですが。在宅に行く場合も痛みがあったり食欲がないという方もご本人が強くそれを望んでいらっしゃったら案外家に帰ると食欲が出てきたり痛みが楽になったりするんですね。医療者もそこら辺勇気を持って後押しが必要だしご家族も勇気を持って飛び出してみる、もちろんある程度の体制を整えるのは必要なんですが、最後の一歩は勇気を持って踏み出して良いのではないかと思っています。次のスライドお願いします。

 在宅ケアの長所短所を書いてみましたが、長所としてその人らしく過ごすことができるということですね。病院の制約から解放され自由に。先ほどの常識を破れなどといろいろあえて言わなくてもその人が好きにできるわけですね。家族との親密な時間。何時も家族が側にいる。家族の一員として存在していられる。自然な病状経過、で案外お家の方が症状が軽い場合が多い。トータルな全人的な人間としての存在。先ほど言いました4つのニード。身体的、精神的、社会的、スピリチュアル、そういったものが満たされるであろうと。短所として挙げると医療者何時も側にいるわけではない。病院ではナースコール押せば看護婦さん来ますけれども、お家にいる場合は連絡は付くにしろ、誰か来てくれるにしろ、その時間の差はありますよね。ただそれ以上に長所が勝っていることが多いのではないかと思っています。次のスライドお願いします。

 在宅緩和ケアの条件なんですが、大きく3つ挙げています。本人の意思ですね。それから介護の力。医療者のサポート体制。介護の部は誰がというマンパワーもありますし、キーパーソンが誰か、そして環境もあるでしょう。医療者のサーポート体制の中には緊急時どうするか、また症状緩和はどうするかということが入ってくると思います。次のスライドお願いします。

 本人の意思というところで病状説明の必要性が出てくると思います。次のスライドお願いします。

 移行時期としては先ほどお話ししたように積極的治療が終了したとき、そして本人が帰りたいと言ったとき。やはりご本人が自分の病状を知って在宅を望まなければ話がスタートしづらいと思うんですが。次のスライドお願いします。

 告知というお話になりますが、告知というと何か死の宣告みたいな言葉であまり好きではないのですが、欧米では「Tell the Truth」、真実を伝えると非常に自然な形です。次のスライドお願いします。

 告知は今治る可能性が高い場合、または治療の可能性がある場合の告知になるんですが、最後の頃になると可哀想だからということでお話しされない場合が多いんですが、最後自分の残された時間をどこで過ごすかということをご本人、ご自身しかわからない、または何をするかということはご自身しかわからないこの最後ほどご本人が望まれたら伝える必要があるのではないかなと思っています。次のスライドお願いします。

 在宅への移行の時に病院に入院していると患者さんはもう少し良くなってから家に帰ると言われます。実際にはこれ以上もう良くはならない、または今が1番良い時期だったりこれからは病状が進むばかりだったりという意味で病状なりを伝える必要が出てくると思うし、次のスライドお願いします。

 在宅でいる場合も告知がされていないと、患者さんや家族、特に患者さんが入院すればもっと良くなるんじゃないかと、病院に入ればもっと楽になれるんじゃないかと思われる方多いんですけれども、最後の看取りの場面ではそこのサポートしている医療機関がしっかりしていれば入院していてもお家にいてもできることは同じに症状の緩和はできるのではないかなと思います。次のスライドお願いします。

 治療の選択にもある程度病状を知らないと治療の選択もできないと思うんですが、この方は57歳の女性で子宮癌で水腎症つまり腫瘍が骨盤の中に大きくあって腎臓から膀胱に流れる途中の経路を圧迫してお小水が出ないという状況になっていたんですね。ただこの方は長女の方が看護婦さんでお家で看取ろうという形でお家に帰りましたので、水腎症に対しての処置はせずにお家で亡くなられました。これはご本人にその長所短所をお話ししてご本人が選ばれたんですね。次のスライドお願いします。

 告知を今するかどうかから、ずいぶん方法論、いやな知らせも乗り越えていくには方法論になってきているんですが、いつ、どういうタイミングでお話をするか、誰が話をするか、在宅であればご家族がお話してもいいかもしれないですね。または信頼関係のできた訪問看護婦が話しても良いかも知れません。どこでお話をするか、どのように話をするかということによってもいやな知らせを乗り越えていける、その乗り越え方は違うんだと。次のスライドお願いします。

 こういうふうに段階的告知という方法もあります。次のスライドお願いします。

 この方はお坊さんではなかったんですが仏教を良く信じていらっしゃる方で、この方はお家でやり残したことがあるのでやりたいということで病状を予後も含めてお話ししたんですが、次のスライドお願いします。

 この方がやり残した仕事というのはこういう写経だったんですね。次のスライドお願いします。

 南無阿弥陀仏というのが浮き出るような細かい作業で、これは外来でモルヒネを飲みながら1字間違えるとまた書き直しということでやり遂げられたんですけれども。次のスライドお願いします。

 告知の時に考えるんですが、患者さんは途中否認や怒りやいろいろな抑鬱の状況を乗り越えていかれますが、やはり希望がずっとあるということが大事だと思うんですけれども、人間は希望がなければ生きていけないのではないかなと思いますが、ただ治りたい希望は非現実的です。ただ予後を悟ってはいても葬式の準備をしてもやはり治りたい希望があって、免疫療法や民間療法を続けていらっしゃる方多いと思うんですが。そういった意味ではその方の現実を伝えながらもどっかで治る希望は支えるということは私たちはやっております。そういった意味では余命を伝えるにしても、医者自体どのくらいの時間が残っているかはっきり言うことはできないんですけれども、ご本人がある程度知りたいと思ったりまたは末期というお話をしてもだいたい2〜3年で考える方のが多いんですね。

 年単位でなくて月単位ですよと修正をしたりまたは言う場合でもはっきり何カ月ということは少ないですね。というのは、3カ月というとよくオリンピックまで後何日みたいな形で98、97とカウントダウンをする方がいらっしゃるとちょうど99日たったら「先生まだ死なないんですけれど」とか言う場合もあるのであまり数字ははっきり言わないんですが、月単位、週単位、ちょっと病状と違えばそういうお話をするんですけれども、でも希望は一方で支えながら、それと患者さんに伝えたいのは私もわからないけどあなたの身体で起こっていることから考えるともし今やりたいことがあったら先に延ばさないで早め早めに人生設計を考えていった方がいいですよ、という伝え方をしています。次のスライドお願いします。

 これは手紙なんですが、21歳の女性の手紙なんですが、お母さんと娘さんの2人きりのご家族で21歳の方が末期の癌と言うことで私たちに依頼がありました。痛みやいろいろなことで関わったんですが、お母さんが病気については伝えないで欲しいということで病気の話はできないままの看取りになったんですが、亡くなられた後に遺品の中から手紙が出てきたということでお母さんからご連絡をいただいて、お母さんが電話口で泣きながら読まれたんですけれども、ちょっと読んでみますと、「21年間大変お世話になりました。ことにこの1年は心配ばかりさせてしまって申し訳なく思っています。親よりも先に逝くなんて最後まで親不孝な娘でした。でもあまり泣かないでください。やっと病気の苦しみから解放されて私は楽になれるのですから。悲しんでばかりいないでください。逆に私は安心して旅立つことができません。

 それから私がいなくなったからといっていつまでも家にふさぎ込んでいたらダメだよ。まだ44歳、これからなのですから。いつも勝ち気な人でいてください。自分の幸せは自分でつかむこと、無駄なお金も時間も使わないようにね。もううるさい娘は口出しできないのだから。自分の足で歩いていってください。最後にお母さんの娘に生まれて良かったです。ありがとうございました」この手紙と日記の中に死が怖いということが書いてあったんですね。この患者さんとたくさん話をしながら本音の部分話せなかったという後悔が非常に残りました。ただこの患者さんのこの手紙を読んで他の患者さんたちを振り返ったときにみんなわかってたんじゃないかな、人間も動物ですから猫や象が死期を悟るように人間も死をわかるんじゃないかな、ただどこどこ癌とかどこに転移しているかはっきりわからなくても自分の身体がもうダメかも知れないという最後の1週間、数日というのは感じるんじゃないかと。そういった意味では患者さんからそういうそこのところで嘘をつかないで本音で語れるためには患者さんが早い時期からでも聞いてきたことには嘘をつかないで応えていきたいなということを考えるきっかけになった患者さんでした。次のスライドお願いします。

 特に入院しててもそうなんですけれども、お家の場合ずっとご家族側にいますから患者さんずっと意識がうつらうつらしててもふっと元気になったりはっきりする時間があって、その時に患者さんは別れの言葉を言われたり「ありがとう」という感謝の言葉を述べられたり、何度か私もポケットベルで急変したんじゃなくて呼ばれたことあります。家族が「先生、何か話があるっていうんです」って、行くと「ありがとう」であったり「会えて良かった」というその言葉、病院の中では見逃されているのかも知れないしお家ではその瞬間が何時も家族がいてその瞬間を一緒に聞く、または言葉を交わすことができやすいのではないかなと思います。次のスライドお願いします。

 これは私の母なんですが、乳がんの告知をしたんですけれども、今は再発というはっきりしたものはなくて元気にしてますけれども、こんな仕事をしながら案外家族でこういう話をしたことがなかったので母には手術をした年にみんなで話し合おうということで正月に家族で集まったんですが、かえって身内の方が話しづらいですね、こういうのは。お正月ですから長編ドラマか何かみんなでじっと見ていて話し出せないんですよね。12時頃寝る頃になってやっぱり話すんだって話し始めたんですが、皆さん健康なときに話したことと病気になってからと違うかもしれないですけれども、癌告知または今後いろいろなことについて愛する人と日頃から話し合っておくことが大事だと思います。次のスライドお願いします。

 ここから介護者についてお話ししたいと思いますが、1つ、自分への健康の気配り、1つ、自分の精神的安定を図る、1つ、自分1人で背負わない、だから休息、気分転換、趣味、買い物何か自分自身が休むことが何か罪悪のように感じられる方もいらっしゃいますが、こういうものは非常に大切ですし、案外告知の問題もあって家族の家にいる人には言ってあるけれども親戚には言っていない友人には言っていないということで相談ができない場合もありますが、愚痴を言う相手、協力者は募っておくことが大事だと思います。次のスライドお願いします。

 残された時間、年単位、月単位、週単位、日単位、時間単位、これにそっていろいろなケアもやり方も変わってくると思います。次のスライドお願いします。

 今日在宅についてお話しするの初めてだったものでいろいろスライド作ってきたんですが、時間の配分がごちゃごちゃになっているので今からちょっと飛ばしていく形になります。ごめんなさい。お家で食事をするのにやはり食べなきゃダメだというのがあって、末期の患者さんの状況ってだんだん必要なカロリーが変わってくるんですけれども、一般の人が風邪を引いたときと同じような感覚で食べなきゃダメだっていうのがあって、これが結構患者さんの負担になるというのを聞きますが、食べなきゃダメだ、折角作ったのにどうして食べられないの、もっと食べて、もう1口、というのがありますが、次のスライドお願いします。

 食事と同じに点滴も、点滴をやると元気になるというのは急性疾患の場合で末期の患者さんにとっては本当に少しの水とカロリーがあればいいのであって、強制的な点滴は浮腫や心不全になったり患者さん自身の害になりますし、点滴をすれば元気になるというのはある程度の量必要な場合もありますけれども、在宅の場合に何が何でもということは必要ないのではないかなと思います。ただ、入院中に常に点滴をやっていて点滴のルートがある場合にそのままお家で継続するシステムは今ありますけれども、自然に患者さんがだんだん枯れていくような中で無理に点滴をすることが苦痛になることがあるということは覚えていていいと思います。次のスライドお願いします。

 この方は69歳の女性で1人暮らし、娘さんがいらっしゃったんですがともかく迷惑をかけたくないということで1人で住まわれて在宅で過ごされた方がありました。キーパーソンが必要だと私は思うんですが、こういう方があっても良いだろうと。この方はマンションで、マンションの管理人が知り合いで迷惑がかかるからということで最後は病院で看取ってくれという希望だったんですが、最後急変されて管理人さんが救急車を呼ばれて来院から数時間で亡くなられた方もいらっしゃいました。次のスライドお願いします。

 キーパーソンなんですが、だいたい娘さんが3人いるとか、だんなさんが患者さんで元気な奥さんがいるというとホッとするんですけれども。こういう場合もあるんですね、息子さんとご主人、キーパーソンは長男。長男は仕事を辞めて看取る態勢に入ったという場合もありました。最初男3人と聞いてダメかなと思ったんですが、お母さんの前で私たちで看取りますといってしっかりと看取られましたが。次のスライドお願いします。

 81歳の男性で、おじいさんに嫁がキーパーソンと。一般的な先入観から言うと難しいかなと思ったんですが、しっかりと看取られました。それからこうあったらいいという理想的な形はありますけれども、結局はその方が家族とどういう関わりをその人生の中でしてきたかという総決算がそこで出るのかなあと思います。その関係は私たちが関わることで良いほうに変わる場合もあるし、やっぱり変わらない場合もあるし。今ここにいらっしゃる方はまだいろいろ変わる可能性があるわけですから、私自身もそうなんですけどね。あんまりこの仕事一生懸命やってて私自身が看取ってもらえないということになってはいけないんで、皆さんも今ある家族との関係が最後に出てくると考えてもらってもいいんじゃないかなと思います。次のスライドお願いします。

 医療者側のお話なんですが、やはり緊急時の連絡体制、24時間体制がやはり必要だと思いますが、また後で看護婦さんやいろいろな方たちのお話が出ますけれども、なかなかそこまではシステムできていないんですよね。その中で誰かが少し背負ったりボランティア的に頑張ったりして看取っているのが現状だと思いますが。実際24時間体制組んでしっかりしてると案外呼ばれないんですよね。昼間の内にしっかり関わりを持っておいて夜も大丈夫だよと安心感があるだけでずいぶん違うような気がするので、そしてポケットベルや携帯電話で呼んでもらうわけなんですが。ただお年の方でポケットベルに慣れていらっしゃらないようで若い方は大丈夫ですけどね。最初押して話をしてくださる方とかね、ポケットベルに。先生、先生と話ができると思ってガチャンと切るとか。それからプッシュホン回線は番号入らないんですけれどもそれで切ってしまってつながらなかったりとかがありましたが、こういうものを利用する必要があると思います。次のスライドお願いします。

 それからお家でのいろいろな準備ですね。次のスライドお願いします。

 できれば在宅でっていう場合はお家で看取りたいわけなんですが、こういった急に血を吐いてしまったとかお尻から血が出てきたとか痙攣発作とか呼吸困難が急に出てきたとかそういう場合も想定して緊急の入院の態勢は作っておいた方が良いんじゃないかなと思ってます。次のスライドお願いします。

 ここから症状緩和の痛みの話をしたいと思うんですが。次のスライドお願いします。

 痛みってとにかく主観的な感覚なんだと。次のスライドお願いします。

 そして不安や恐怖、怒り、悲しみそういったものが痛みを増強させる。次のスライドお願いします。

 この方は直腸癌で骨の転移があったんですが、入院中だったんですが散歩がしたいということで散歩に出掛けるところなんですが、次のスライドお願いします。

 車椅子にのって動き始めたら痛くなって帰ろう帰ろうと言われてたんですが、カメラ向けるとこのように無理矢理笑ってくださってるんですけれども、だんなさんが押していて帰ろうと言ってたんですけれども、次のスライドお願いします。

 大学のちょっと緑のあるところに出てさわやかな風に吹かれたらうたた寝を始めたと。痛みってこういう性格があるんだと。次のスライドお願いします。

 これは「大病人」といいましたかね、伊丹十三の作品の中で1番売れなかったと言われてがっくり来てしまったんですけれども、伊丹十三さんがやくざに襲われた直後に昭和大学にインタビューに来られまして、いろいろ聞いて行かれたんですが、そのエピソードの1つに三国連太郎さんが患者さんで役者役だったんですが、今日最後の舞台を撮りに行くというときに「モルヒネを飲み忘れたけど痛くないよ、先生」という場面があったんですが、痛みって何かやろうとしていると和らぐんだと。次のスライドお願いします。

 痛みを評価するのにこういう顔で言ってもらったりしてます。ただこれは患者さんの顔で見るんではなくて、患者さん自身がどういう痛みか、ですから患者さんがにこにこしててもこの5でも構わないわけですね。次のスライドお願いします。

 これはだんだん時間で付けていくんですが、モルヒネへの誤解としてよくあるのは麻薬であり、精神症状や中毒症状が出現する、末期だけに使用する。そうじゃないですね。早い時期でも構わないです。で、最初の使い方がしっかりしてれば精神症状や中毒症状は出ないと。一度開始すると中止できない、これは痛みが和らげば中止することもできます。1日中ぼーっとして自分らしくなくなる、これは使い方をしっかりすれば問題なくすみます。モルヒネを使うと命が短くなる、これはよくある誤解だと思うんですけれども、モルヒネを使って短くなるということはないです。反対に痛みのために苦しんでいて食欲がなかったり眠れなかったりした患者さんがモルヒネを使うことで痛みが楽になって反対に延命をしたんじゃないかと感じる方はたくさんいらっしゃいます。次のスライドお願いします。

 これは持続のモルヒネの飲めない方用の注入器なんですが、次のスライドお願いします。こうやって方からぶら下げたりします。次のスライドお願いします。

 これは在宅に持って帰っている所なんですが、注射なんですけれどもアンプルといいまして薬のまま注射は家族に渡せないんですが、注射器に入れてお家で使えるということは今やっています。次のスライドお願いします。

 モルヒネだけでも取りにくい痛みがあるんですが、次のスライドお願いします。

 いろいろな方法でやることはできます。次のスライドお願いします。

特に今こういう鎮痛補助薬といいまして、いろいろな薬がありまして、これは在宅でも使うことができます。モルヒネで取りにくい痛みも和らげることができます。次のスライドお願いします。

 これはイギリスのホスピスで言われています“Not Doing, But Being”「何かをすることではなく側にいることが痛みの治療で大事なんだ」。次のスライドお願いします。

 ただいろいろなモルヒネなどでも追いつかないいろいろなつらさ、身の置き所のなさ、息苦しさにはこういう眠るという選択も必要なのかも知れない。次のスライドお願いします。

 この方は肺がんの末期で最後の呼吸困難に対して鎮静剤を注射して眠るように逝かれました。看護婦さんにこれをお願いしてたんですが、看護婦さんはワンショットのあとに止まられたことをちょっと後悔してらしたんですけれども、というのは最後のその薬を入れることで眠って苦しみは取れますけれどももう1度目が覚めないかも知れないとはっきり言っていた方がよかったんじゃないかということを後悔されてましたけれども。少なくともいろいろな苦しみも鎮静剤を使うことによって、これは安楽死ではなくて、安楽死というのは薬を入れて心臓がぱっと止まってしまうんですが、私たちが言っているこの鎮静化っていうのは眠ることによって苦痛を緩和してということですね。もしかして状態の悪いときにはそれは死期を早めることがあるかもしれないんですけれども、あくまでそれは安楽死ではなくて症状緩和が目的であると信じています。次のスライドお願いします。

 この患者さんは78歳の女性だったんですが、最後に脳転移のための痙攣発作が起こりました。予想してなかったんですが、これは亡くなる数日前から始まったんですが、非常に家族もお家で見てて辛い状況でした。訪問看護婦が鎮静剤を持っていって薬を入れていったんですけれども、その看護婦は入れてすぐ呼吸が止まりましたが彼女はそれは患者さんの苦痛を和らげる目的でやったので、私はあれで良かったと思います、というふうに言われたんですけれども。これはご家族と相談してそういう薬の使い方をしていきました。何人かの患者さんについてはこの鎮静剤を使う必要がありますが、入院をしていたら何かできるかというと同じことをしますからその鎮静剤を使うことさえ許していただければどういう症状であってもお家で看取ることができるのではないかなと思います。次のスライドお願いします。

 臨終時は触覚や聴覚は残りますので声かけや身体に触れるということはとても良いことだと思いますし、肩呼吸、酸素を一生懸命吸おうとして顎が上がったり肩で息をしたりという、これは自然の経過なのでそういうお話をしておくことは大事なことだと思います。次のスライドお願いします。

 死亡の確認なんですが、病院のように医療者がじっと側にいることはできませんのでご家族に確認していただいたり看護婦に寄って確認していただいて医師が最後に死亡診断書、これはどうしてもドクターが必要なんですね。こういう診断書が必要になってきます。次のスライドお願いします。

 これは先ほどちょっとご紹介していただいたように平成13年4月に650床で都筑区のセンター南駅の近くに付属病院ができるんですが、一般病棟と緩和ケア病棟が25床でスタートする、全部個室でやっていくということを考えています。次のスライドお願いします。

 病棟だけではなくて、患者さんのニードとしてはお家で死にたい人もいればいろいろな状況でホスピスで死にたい人もいれば、もともとの主治医との良い関係が持てていれば一般病院で亡くなる方があっても良いかもしれない、いろいろなパターンに対応できるということを考えて今いろいろなシステムを考えているんですけれども、そういうシステムがすでにできてるところがあるということで研修に行ったんですが、カナダのモントリオールにある大学病院の付属なんですが、次のスライドお願いします。

 ここは病棟があって在宅ケアをやっている、しかも緩和ケアチームがいて遺族のケアもやっていると、教育や研究もやってるということでこういったことを私たちも横浜市の方でやっていけたらいいなというふうに思っています。次のスライドお願いします。

 今言ったチーム、コンサルテーションで一般病棟でも患者さんを看ていこう、在宅ケアや病院に来れる方があればデイケアもやっていこう、それから専門の病棟で看ていこうと、次のスライドお願いします。

 そして遺族のケアや大学病院ですから教育をしていく、研究もしていくという形で進めていけたらいいなと思っております。次のスライドお願いします。

 これはカナダの大きな緩和ケアサービスをやってる長から最後に贈ってもらった言葉なんですが、“Do not Curse Darkness but Light a Candle”「暗闇をののしるのではなく1本のろうそくに灯をともしなさい」。これからその北部病院を造っていくに当たってまだいろいろな障壁もたくさんあると思うんですけれども、あれがない、これができないと言っているばかりでなくて、これは皆さんの病院の中でもそうだと思うんですが、あれがない、これができないとそこで止まらずに本当に1本のろうそくに灯をともしそれが2本、3本になって緩和ケアが進んでいくんではないかなと思っています。次のスライドお願いします。

 これが最後になりますが、「家庭にいれば病院で死ぬときのように無名に等しい患者として扱われることはないから家族の一員であることを疑わずにすむ。家族と一緒にいれば例え役割は限られるにしろそれを果たせる限り自分は解体を待つ廃船だなどと考えない。家庭の雑事を片づけちょっとした権威を振るい孫たちのお守りもできよう」(ジョン・ヒートン「死との出会い」)。以上です。ご静聴ありがとうございました。





パネルディスカッション
『末期医療のためのネットワーク』

1.医師の体験から

タケダ訪問看護クリニック院長 竹田 節

高宮:それでは第二部のパネルディスカッション「末期医療のためのネットワーク」を始めたいと思います。先ほど講演でお話ししましたように私自身は実際には病院の中にいらっしゃる患者さん中心に看ていて、その中でどうしてもお家に帰りたいという患者さんに携わっております。これは全体の本当に数パーセントの患者さんです。今日いらっしゃった方たちは専門でお家に行って看ていらっしゃる医師であったり看護婦さんであったりまたは薬剤師さんであったり、そして実際にお家で愛するご家族を看取られたご遺族の方と言うことで反対にこれからの第二部は私自身がいろいろなお話を伺わせていただきながらという形で進めていかれたら良いなと思っています。

 それではまず最初にタケダ訪問看護クリニック院長の竹田節先生よろしくお願いします。

竹田:今ご紹介をいただきました竹田でございます。生まれは柴また葛飾の帝釈天で産湯を使いというと受けると思うんですが、実は磯子の生まれでございまして、横浜には大分ご縁が深いとそういうことで私は横浜の市立大学の医学部の第1期の卒業生でございます。ひょんなことからアメリカに行きまして30年、そこでいろいろと向こうの医療の勉強をしましたので何でアメリカにこの男は行ったのかということをちょっとお話をして、アメリカと日本の医療の非常に大きな違いとシステム上の違いと向こうの在宅ケアはどうなっているかということをお話しして最後に私の短い経験でございますけれども、2年間ですでに16人の方が亡くなっておるというところで私の経験を最後に少し述べさせていただきたいと思います。

 横浜市立大学というのは今は福浦の方にすごい立派な校舎ができましたが私たちが入った時分は非常に貧乏な大学でございまして、最後まで全国日本各地を回っても小学校を使っていた医科大学というのは横浜市立大学の医学部くらいではないか、つい最近までそうだったんですね。戦時中は全部港を接収されて使えない、税金が上がらないからお金が入らないのは無理がないんですけれども非常に貧乏な大学でしたが、非常にいい先生がいらっしゃっいましたですね。高木生馬先生という学長が私が4年の時に「ちょっと来なさい」とお呼びがありまして飛んでいきましたらば、「横浜というのは世界に門戸を開いた港なんだよ。ところが君たちのクラスは意気地がないね」とこうおっしゃるんですね。「へえ、意気地がないんですか、これは生まれつきで」とまでは言わなかったんですが、「意気地がないね、アメリカの病院でインターンをやろうというのは一人もいないじゃないか。君は総代としてクラスへ行って少し皆にハッパをかけてください」とこうおっしゃるんですね。

「はい、承りました」とすっ飛んで帰ってきて皆さんに申し上げたところがしーんとしちゃっているんですね。40人のクラスですが、「誰かやってくれませんか」って言ったらしーんとしちゃってるんです。そしたら一人が「君が言いだしたんだから君がやればいいじゃないか。そしたら僕もやるよ」という男が出ましてね、これはしめたと思ったんですね。ここで私がやると言ったらこの男は引っ込みがつかないだろう、じゃやりましょうっていったら彼がワーッと言って頭を抱えてしまいましたが、そんなことでアメリカの病院の試験を受けなきゃならなくなったんですね。この英語っていうのはご覧のようにまあ難しいですよね。その当時の我々はほとんどしゃべるということには全然縁がなかったものですから非常に困りまして何とかして英語で試験を受けるのを通過しようと思って一生懸命たったふた月でしたけれども勉強いたしましたね。

 ところがやっぱり人間というのは面白いことが起こるものですね。その医学部の2年の時に私がボーイスカウトのキャンプに佐貫湖という富士山麓に行ったことがあるんですね。医療を知っているものが誰が行っていれば父兄が心強いということで私がお供をしたことがある。そしたら風速35メートルの台風に遭っちゃいましてね、大騒ぎで山小屋に逃げ込んだところが夜中にそこの若い女の子さんが虫垂炎になりましてね、これも運がいいと言えば運がよろしい、我々がちょうど虫垂炎の講義が終わったすぐ後だったんですねえ。それでおばさんが「どうか看てくれませんか、先生方」なんていうから「いや先生なんてとんでもない、我々は医学生で患者さんは看られない」なんて言ってたんですけど、夜中に吐いて毒にも薬にもならないような薬を差し上げたらそれも吐いちゃったっていうんで、これは大変だ、すぐに看させていただきましょうか、といって伺ったらその女の子さんがもう右を下にして寝ていらして、ちょっと右足をひっぱりゃアイタってお腹を押さえるし、症状が全部揃ってるんですね。

 それだからこれは大変虫垂炎ですから手術のできる病院は近所にありますかっていったら、そのおばさんが一里下がった山の下にございます。そこに夜中に大騒ぎしてトラックを呼んで患者さんを湖を渡って送って、さあ患者さんがいなくなったから心配になりましてね。もしあれが虫垂炎でなかったらどうしよう、ずいぶんひどいお医者さんを造っている大学だっていって悪評が立つんじゃないかとそういうようなことまで心配をいたしましたが、幸いなことに次の日の朝、手術をしたら破れる寸前の立派な虫垂炎だったというふうに伺いまして、やれやれと安心したわけですが、そのアメリカの空軍病院に行きまして試験を受けましたら、試験官が「あなた虫垂炎について知っていることを言ってください」っておっしゃるんですね。だから思い出してしゃべればいいんですが、右足を下にしてこう痛い痛いっていって、足を引っ張りゃこっちがズキンとしてなんてぞろぞろ言っているうちに、「もういいよ」って試験官が「あなたの方が私よりも虫垂炎のことはくわしいからもう良いです」っておっしゃるんです。それで入っちゃったんですよね。それでまあ入っちゃってからが大変です。全国から10人来ておりましたけれども、皆さんアメリカの病院に留学なすって大変な有名なお医者さんにおなりになりました。私も一応いろいろ願書を出して、全部アメリカの大学病院から受け入れられたんですが、なんせあの当時は450ドルなんですね、片道。今とあんまり変わらないんですね、飛行機賃が。だけどもその当時はほとんど貯金というのが凍結されておりまして、一月に500円くらいしかおろせないんですね。

 そういうような時代ですから万というお金は大変なお金でフルブライトという試験を受けなければ行かれなかったんです。それで私もフルブライトの試験を受けましてちょうど産婦人科と外科と当直で1日おきですから寝られないんですね。ERというプログラムをテレビでやっておりますが、あれと同じようなもんですね、忙しくって忙しくって一月に43人赤ちゃん取り上げましたね。そんなことしてるから試験を受けたってぼーっとした頭で受けてるんですから通るはずがありませんね。見事に落っこったんですね、落っこったんでしめたと思ったんですね、これでアメリカへ行かないで済むと。こう思ったんですが何とインターンが終わった日にね、極東空軍の軍医総監がハワイから飛んできて私のために看護婦さんとお医者さんが全部募金をしてくれたんですね。それで片道の切符をくれちゃったんですね。

 もう引っ込みがつかなくなりまして、それまでやってくださるなら私行って勉強してまいりましょうというわけで、アメリカへまいりまして、フィラデルフィアというところの病院で約30年ほど頑張りました。その間に私の一時横浜へ帰ってきて横浜市立病院に検査室などを作っているときにですね、父親が肺がんになりまして、父親というのがもう頑固な人で病院が大っ嫌いなんですね、それで私の友人の外科医と一緒にどうしようか、それじゃ家で面倒見なさいよっていうんで私は訪問看護みたいな第一を私の父でやりまして、肺がんで非常に未分化小細胞癌という非常にたちの悪い癌でしたが家で看取って2年ほど生き長らえましたですね。そしてそれが私の訪問看護の第一番でございまして、そしてそれからまたアメリカに戻って癌の早期発見の仕事をしておりました。

 大きな日本とアメリカの医療の相違というのは向こうはオープンシステムというシステムなんですね。日本はクローズドシステムというシステムでございまして早い話向こうの病院には外来というのがございません。今大きな大学病院は外来をなくそうということを厚生省が打ち出しておりますが、これもアメリカの大病院のシステムを見てのことだと思うんですが、とにかくアメリカは外来がなくて、周りのその病院に登録していらっしゃる開業医が全部自分の患者さんを自分の登録した病院に連れてきてそこで検査をしてそこでレントゲン、CT、MRIなんかでどんどん写真を撮りまして診断をつけて治療をするというシステムになっておりますね。ところが日本では開業医と大病院が競争をしているような形になっておりまして、大病院に外来があってそこで拾った手術を必要とするような患者さんを入院していただいて病院の先生方が面倒を見るというシステムになっておりますね。そこいらが非常な大きなシステムの上の差です。で、この差を見ないで昔インターン制度というのを日本に導入したんですね。

 アメリカではお医者さんが自分の患者を連れてくるとした病院にそこに年中いられませんからお帰りになったあとその患者さんを看る人が誰もいないわけですね。そこでインターンというのが非常に重要な役割があったわけですね。そして呼吸停止があればすぐ心臓マッサージをしたり何かして何でもかでもやらされて、ポケットにサンドイッチを突っ込んどいてそれを食べ食べ病棟から病棟へ駆け回るというような生活を1年間したわけなんですね。それを戦後日本ではどうかといって日本の医学部に持ってきた。日本では医学教育というのを医学部のある病院でしかやりませんから他の国立病院とか総合病院では教育まで任せてもらえなかったんですね。そのためにその当時は医者でもない学生でもない人が患者さんを看ることがあまりできなかったわけですね。

 特にその当時は無給医局員というのがぞろぞろいましてインターンというものはのけ者だったわけです。それで我々が反対をして横浜市立大学入った後すぐにインターン廃止運動なんていうのを起こしたんですけれども、それがえんえんと後をひいてそれが廃止になったのはついこの10年間の4、5年前とかいうことで、昔はそれが運動はすごく昔に起こったのになかなか日本の制度は変わらないんですね。ところが、今回医療システムがいよいよアメリカと同じようにパンクしかかってきたわけですね。私は医療制度が大きく変わるのは保険制度が全部パンクしないとダメではないかと思っているんですが、とにかくアメリカでは65歳以上の、メディケアと申しまして無料の保険制度がパンクをしてしまったんです。医療の出来高払いというのは押さえが効かないんですね。ご存知のように去年は何兆の赤字だと言っていたのが、今年は10何パーセントそれに上乗せした赤字だというふうになっておりますね。押さえが効かないんです、出来高払いというのは。アメリカはとうとう65歳以上の保険がパンクしちゃったんですね。

 どうしたかといいますとダイアグノーシスリレイティンググループ(DRG)というシステムを作りまして、アメリカという国はプライスフィックスなんて言って全国津々浦々どこまで行っても同じ料金ということはやってはいけないことになっているんですね。そういう法律がある国でどうして統制をするんだろうと思っていたら、頭のいい人がいるもんですね。エール大学の誰かが考えたんだそうですが、とにかくこれしかお金が入りませんというシステムを作ったわけです。そこの地域の病院を全部調べてだいたい虫垂炎なら4日で退院できるはず、それ以上いるのはそこの病院の腕が悪いからだと。だから4日はお払いできますがそれ以上はできませんと。そういうシステムを作っちゃったんですね。そしたらたくさんの病院がつぶれるかと思ったんですが、看護婦さんがなかなか頭が良いんですね。それならば虫垂炎で手術をしても次の日はただそこのキズをちょっと見るだけですよね。だから合併症が起こっていなければとにかくお家にお帰ししてそこへ見に行けばすむんじゃないかと。そういうことで訪問看護がべらぼうに大きくなってまいりましたですね。

 訪問看護というのは100年前にアメリカで始まっておりまして、小さな看護婦さんのグループが患者さんのお家に行って面倒を見てあげると、これはいよいよ入院が必要ですねという結論が出たらば開業医に連絡をしてその人が登録している病院に入れてもらうということを100年前からしてたわけですね。ところが現在医療制度がパンクしたらばその4日まではお払いできますという虫垂炎4000ドルを1日で退院させれば、だいたいアメリカでは1日1000ドル掛かるんですね。つまらない部屋がその当時で10万円くらいかかる、だけれども退院してもらって看護婦さんが見回りに行けば1日200ドルくらいで済むわけなんです。そうすると3800ドル浮くわけですね。それはポッポにいれておいていいとおっしゃるんですね、政府が。それでアメリカでは看護婦さんがどんどん訪問看護ステーションをお始めになるようになった。レディング、ペンシルヴァニアなんていうところ、ここいらみな炭坑町なんですが、スクラントンもそうですが、だいたい看護婦さんがチーフで200人の看護婦さんをつかって2階建てのビルを持って周りに200台の駐車場を持ってすごい大企業ですね。そのチーフはプレジデントという方は看護婦さんなんですね。これがどんどんアメリカでは力を持ってまいりまして、DRGというのは期限が決まっておりますので早く出せ、早く出せという病院では長く患者さんを入院させておいてくれなくなっちゃったんですね。

 ですから開心術でも7日で退院をさせられるというシステムになってまいりましたので、重傷の患者がアメリカの訪問在宅ケアでは圧倒的に多くなってまいりました。一例を申し上げますと、その患者さんが帰ってきたんで訪問看護婦さんが行ったんです。そして、その方は開心術をやった後だったので、ドレッシングといいますが前の絆創膏をワッと取ったんですね。そしたら洗面器一杯くらいの膿がワッと出たっていうんですね。それは大分病院で院内感染をしてたようなんですが、それを看護婦さんが全部きれいにして毎日毎日包帯をしてえらい努力をして私が行ったときはだいたい収まっていましたが、そういうふうなシステムを導入したためにだいたい現在アメリカの在院日数は7日で済んでいるんですね。

 ところが日本では在院日数平均値がべらぼうに長い、私が昔いた横浜市の南部病院でも竹村院長が一生懸命努力して17日ですか、それくらいまで一人の在院日数が切り詰まってきたと論文を書いていらっしゃいますが、とにかく日本の病院は患者さんが長く長くいらっしゃると、そしてこれが出来高払いのために押さえが効かない、そして訪問看護ステーションというものを作りました暁には、これは後でお話があると思いますが、私は実はそれを持とうと思って初めから計画していたんですが、とにかく大変でございますね。二人半の看護婦さんがいなきゃならなくって、長になる方は正看でなくてはいけなくて、場所がなくてはならないんですね。問診をしたりなんかしたりする場所を持ってやってもらいたい、そういうふうなシステムになっているのでべらぼうに大変なので、とうとう私は日本ではそこまで今日ここにいらっしゃる看護婦さんなんていうのは大変偉い看護婦さんで、こういう方あまりいらっしゃらないんですね、日本では。そこまで経営の方まで敏感にやっていただけるような看護婦さんはあまりいないというようなことで、これからはその点で非常に大変になると思いますが、ここいらでちょうど時間になりました。次にバトンをお渡しいたします。(拍手)



2.訪問看護ステーションの立場から
港北医療センター訪問看護ステーション 乙坂佳代

高宮:続きまして看護婦さんにお話をしていただこうと思いますが、港北医療センター訪問看護ステーション管理者の乙坂佳代さん、お願いいたします。

乙坂:よろしくお願いいたします。乙坂と申します。先生のお話を受けてどうしようと、あまり大きな話になってしまったのでどうしようかと思っていたんですが、ちょっと触れなければいけないかなと思って最初にお話いたしますが、多分アメリカと日本の訪問看護の成り立ちは先生がおっしゃったように全く違いまして、医療も違いますが看護に関してもかわっていまして、訪問看護ステーションというのが制度化されましたのは平成4年のことになりますが、これは日本でも医療費の削減のためにということが大きな命題でありまして社会的な入院が多いということを何とか是正したいというのが今の改革の中の根本的な目的だと思うんですが、在宅医療を推進すると、そのためにはもちろん介護の手も必要、それから医療が必要だという方には看護も必要というようなことで設立をされたわけです。

 アメリカの訪問看護の成り立ちは明らかに入院日数を限定するという意味であれば高度の医療、手術後の患者さんから糸を抜いてない状態で退院してそれをお家で看護をしていくということが前提にございますけれども、日本の場合にはそういう治療が病院でありまして在宅では落ち着いた方に関して看護をするというふうな目的でスタートしました。ですから、非常に目的が違うのですが、実は訪問看護ステーションという制度ができたときには介護を主とした看護を提供するという訳のわからない主題がありまして、実はこれはお医者様と看護婦のやる仕事の違いということでの大きなアメリカと日本の違でもあり、そういうことが影響しております。

 アメリカでは医療行為もナースに認められておりますし、看護婦のやる行為自体がアメリカと日本では全く違うんですね。それは教育に基づいても違っておりますし、法律に基づいて違っておりますから、アメリカでは点滴も看護婦さんがやり手術後の管理もやりということが法律上も教育上もできるんですが、日本では法律上も教育上も教えておりませんので、この辺が在宅で今後アメリカのようにやるというふうになれば教育も法律の検討もこれから必要になってくるんだろうなということを最初に触れさせていただきます。先生はそういう意味では看護婦をやっていることが非常に責任が重たいなあというふうに振られたんですけれども、ステーションの制度自体がまだ未熟で、平成4年にスタートして医療費のこれだけ負担が掛かっているときに訪問看護ステーション、看護が単独でやるということを医療点数の中で少なくともお医者様より高くは評価できないというようなこともございますから、まだまだ厳しい現状ではあります。ですがその中で今やっていることを、今日のお話の中で触れさせていただきたいと思います。

 皆様のお手元にあります資料の中で神奈川県下の訪問看護ステーションの一覧というふうなものと今回のシンポジウムのために作りましたレジメをお配りしてございます。ご参照いただければと思います。

 今、神奈川県下ではかなりの数のステーションができてきておりまして平成4年4月に訪問看護ステーションという制度ができまして病院の中でしか看護婦が主に働く場がなかったわけですが、訪問看護ステーションという場所で初めてお医者さんと離れた場所でも行った看護に対して医療としてお金を認めようということで初めて健康保険、老人医療費を使って訪問看護ができてそれを保険証を出すことによって一部負担を戴くというふうなことでできるようになりました。今神奈川県下に78くらいのステーションができたかと思います。神奈川県はそれまでに在宅での療養していらっしゃる方への支援する制度がございましたから制度としては平成4年にスタートしましたが平成6年の7月に当港北医療訪問看護ステーションというのが前身が横浜市医師会が運営をしておりましたのでここがスタートしたのが始まりになっております。多分制度としてはご存知の方は少ないと思いますが、概要は保険証を使って訪問看護婦がお伺いをして1回30分から1時間半という限定と原則としては週に3回までという訪問看護の枠がございまして、お医者様の指示書というものを前提に皆様方から申込書というのを戴きまして訪問看護を目的に応じてするという制度になっております。

 やはり現状がさまざま変わってきておりまして最初は老人のための看護として制度ができましたが今は平成6年の10月の改正で子供さんにまでいくようになりまして今はゼロ歳児から100歳を越した方までオールマイティに看護婦がすべてやらなければいけないと厳しい現状に立たされているということが言えます。看護の内容も日常生活の食べるとか出すとかお風呂に入るとかリハビリをするとかそういう援助から高度の医療機器、呼吸器をつけたり痛みの緩和のためにチューブを入れたり点滴をする方もいます。そういうことも数としては少なくても必要になってきます。それから今日のテーマのお家で看取るという目的でお入りになる方もいらっしゃいます。そういう方の支援をさせていただいています。

 現状としてみると、例えば癌の方が多いとすれば非常に症状的にはだんだん進んできて、病院で治療できることが少ない、あるいは病院に居ても何もすることがないということでご家族からすれば一時でもお家に帰したい、あるいはご本人が帰りたいと、あるいは帰るなら今しかないという選択で帰られる方が非常に多くございます。ご自分で希望されて在宅をという方はまだそういう意味で納得されてご自分の選択なんですが、一つにはこれ以上うちの病院では入院をさせておけない、これ以上社会的入院になるとどこか他の病院を探してください、ですが次の病院を探すときは非常にお金がかかりますね、今。一般の病院では月に30万は安いですよね、と言われています、相場で。50万はかかる、毎月50万を出すということは家計的にはこれは困難と言うより無理です。そうすると、帰るところ、選ぶ手段が在宅しかないという中でお帰りになる方もたしかに多くございます。

 その中で、今日は家で死ぬということが大きなテーマですので、何例かご紹介したいと思います。

 看取る方は在宅で看取るということは非常に厳しいと私どもは受けとめています。厳しいというのはご家族の方に多大な精神的な負担、身体的な負担、経済的な負担を求めなくてはいけないという現状がございます。ですが、やはり高宮先生のお話があったように在宅だからできることが多くあります。

 一つはご家族の支えがあっての亡くなり方という中でご本人は癌ではなくて心臓病の方でだんだんに弱って寝たきりになられた、ご本人の奥様は痴呆がありまして奥様自身ではお一人ではとても判断し、生活することができない。徘徊と申しまして、ウロウロと外にも出ていってしまう。ですけど、ご本人のことだけは心配で、ご本人のところに私たちが伺うと「この人たちはおじいちゃんに何か怖いことをしてしまうんじゃないか」と思っておじいちゃんが心配で心配でそばにウロウロしているという方でした。

 お二人が住まわれていて、同じ敷地の中に娘さんがいらっしゃってこの娘さんが介抱されてますが、この娘さんに知的障害、知恵遅れの息子さんがいらっしゃって、この方もご自分では生活できない、お家に娘さんから見ればご両親お二人ともとご自分の息子さんと三人介護しなければいけない。ですが、入院という選択はしたくない。でお家で看取るということに最後まで迷われましたが、一番この娘さんを支えたのはご両親を一緒にさせてあげたいという思いでした。私たちが訪問看護したのは旦那様だったんですが、家族の方も一緒に見ますからこの旦那様とお母さまはお二人とも一時とも離れていられないんですね。

 ですから旦那様も「おまえを残して死なないよ」と言っていますし、奥様は痴呆があるんですけれども「いったいなにをするのよ。怖いことしないでね」って言ってるお二人なので引き離せないわけです。でショートステイといって短期で入所して面倒見ていただく施設もお二人一緒に入所させていただく施設を選んで、最終的にはお家で看取られました。最後まで迷っておりまして、当日の訪問の場面でもまだ入院させたらいいかどうか家族が悩んでおりました。娘さんも非常に迷われる方で、娘さんのご兄弟、お父様からしましたら息子さんもいらしたんですが、面倒見てるのは娘さんだったので、看護婦も決めかねて、今日かも知れない、入院させたいんだったら早く先生に連絡をとっておかなければいけない。その場で決められなくて帰ってきまして、夕方また電話でいろいろ話をしていました。

 でもこのままでは心配、夜中どうなるかわからない。たまたまこの方の主治医は病院の先生でいらっしゃったので往診は基本的にはやっておられない。ですからお家で看取りたいというのが限りがある。家族の力があって家族が見守ることができれば先生がそれを了解してくださっていたのですが、そこがわからないと揺れてました。電話で相談をいたしました。そのうち看護婦がどうしようか迷いまして、人の死というのは非常に重たいですから私たちがそれをどこの場で迎えるべきかなんてことを決める筋合いは私たちにはございませんで、やはりこれは家族の方に、力がなくても決めていただこうと思ったというふうに後で述べておりましたけれども、電話を切りました。

 とにかく、「お家の方で相談をしてどうしたいかを決めてね。それから先生に電話をするのよ。私たちが代わって先生にこうしたいですと代わってあげることができないから、とにかくそこでお家の方で決めてそれを直接先生に伝えてちょうだいね」って言って電話を切りまして、私たちはその後で先生に電話をかけて「やはりまだ迷っています。入院になるかどうなるかまだわかりません。先生受けてくださいますか」ということの話を裏ではしているんですが、先生はもうしょうがないと、「今日は9時までは病院に残って入院の態勢を整えておくよ」とおっしゃってくださった先生が「決まらない? しょうがない、じゃ今日は泊まるよ」ということになりまして結局お家で看取りました。先生が看取ってくださったというふうなことがあります。

 お家で看取るということにはやはりそれだけ家族の方が決めていくという大変な重荷ではあるんですが、そのプロセスがありませんとその方の死というのが、これまで生きてきたというのが誰かのものになってしまうということで、やはりご自分が決めるあるいは家族の方に決めていただくということが非常に大事なことだと思っています。そこまで私たちは本当は入院をさせたらどんなに家族が気持が楽になるだろうとは家族を見ていて思うんですが、それは私たちの思いであってお家の方の思いではないということを常に看護婦も悩みながらお手伝いさせていただいた方でした。

 あるいは在宅で看取るというときに高宮先生のお話にも出てまいりましたが、たったお一人で暮らしていらっしゃる方もいらっしゃいます。この方は軽度の痴呆がございまして何とかご自分でつかまって動いていたんですが、ちょっとそれができなくなって入院をしたんですが、これ以上やることもないし、これ以上入院しているともっと悪くなってしまうということがありまして、退院をというお話になりました。

 その時に娘さんが東京に暮らしていまして終末だけ帰ってこられて面倒を見ておられて、日常はヘルパーさんが午前中来てお手伝いして、ステーションの看護婦が週2回ないしは3回お伺いして体をふいたりとかお手伝いしてました。残された時間というのは短いだろうということがありましてお家で看取りたいという娘さんの希望がありましたから、どうしようという段になって私どもの施設に来ていただいて娘さんとお話をいたしました。その時に私たちは現実をお話しせざるを得ないですから、どうしたらいいですか、と言う話をしましたらやはり連れて帰りたいと思うと、今までの態勢で最後まで看取りたいとおっしゃいました。この方も病院の先生に掛かっていらっしゃいましたから往診ができない先生でして、お一人で暮らしていらっしゃる方ですからどうしても一人になる時間がある。朝ヘルパーさんがお伺いしたら亡くなっているということもあり得るわけですね。こういうことがあるかも知れない。

 そうなったときに非常に初対面の方には酷なことなんですが、そうなったときに司法解剖、あるいは検死という警察が入ってこの方の原因はなんだろうということを検索することになるかもしれないけれどもそれもご存知ですかと申しましたら、覚悟してますとおっしゃいました。この娘さんはご自分の旦那様のご両親と生活をされていましたからこれ以上家に母を連れてくるわけにはいかない、だからといって入院をさせてということは考えたくない。母はずっと家にいたいと言っていた人だったから最後まで居させてあげたいとおっしゃられました。わかりました。そこまで思っていらっしゃるんでしたらできる限りのお手伝いをして頑張りましょうということで退院をされて、結果的には状態がだんだん悪くなりましたから娘さんがずっと泊まっている日中に亡くなりましたので先生にも連絡が付いて確認だけはしていただきましたが、そういう形で在宅で看取ったという方もいらっしゃいます。

 離れている娘さんにも非常に親御さんへのこうしたいという思いがあって、まだ現実的には今の在宅医療がまだまだ整っておりませんで、往診してくださる先生もすべてではありませんし、病院の仕事を抱えて職場を離れてというところではできないこともたくさんあります。そこのところをお伝えするという役目も私たちには多分求められているのであろうし、お家で死ぬということ自体は非常に望ましいことだと思いますが、それを支援する態勢をもっと作っていかなければいけないだろうと、これだけの重たさを家族だけに背負わせるのはどうかなあというふうに思った方でした。たくさんのことを教えていただきました。

 ではお家で看取るためにということで考えますと、いろんな準備が必要だと思うんですね。それは例えばご本人やご家族の方がお家で看取りたいと思うまでにはいろいろプロセスがあると思うんですね。まだ亡くなると思っていない時期からもうそろそろかな、でもこの状態だったらお家で看られるかな、やっぱり病院に入院させた方がいいのかなという時期などさまざまな時期を経て最終的にはお家で看取れるかも知れないというふうに行くまでには相当準備が必要かなと思います。

 例えばこの方は42歳で悪性リンパ腫の方でした。奥様は最後までお一人で看ておられました。子供さんたちが中学生と小学生がおられましたが、最後まで迷っておられまして症状が安定しているとお家で看取りますとおっしゃって、症状が悪くなると入院できるところがあるかしら、点滴はどうかしらと看護婦に言ってくるんですね。看護婦が悩みまして、やっぱりまだ入院させたいのかしらと相談するわけです。よくよく考えますと入院させたいのではなくて今の症状が悪くなっていること、食べられなくなっていること、水が飲めなくなっていることが心配なのであって、それが解決すれば基本的にはこの方はお家で看取りたいと思っていらっしゃる方でした。

 そこのところで「奥様はお家で看取りたいのよね。でも食べれないことが心配なのよね。そのことをどうにかしたいと思っているのよね」というプロセスをやっていくことで「そうなのよ、その心配がとれればお家で看たいと思うの」というところまでやっと持っていける、じゃその心配どうしようか、食べられなくなっているのはだんだん体が受け付けなくなってきてる状態だからしょうがないんだよ、いろいろ点滴をたくさん入れることはもっともっとご本人を苦しくさせることなんだよ、というふうなことを話をしながらでもなんかしてあげたい、じゃあ、ということでこの方は往診をしてくださる先生に途中からつなぎましたので往診してくださる先生と相談しまして、「じゃ点滴1本だけしましょう。1本以上はしないよ、それも血管が出なくなったらやらないよ。これ以上痛い思いをさせるのは可哀想だよ。」ということを言いながらやっていきました。病院を退院するときは数カ月と言われたのが10カ月在宅で頑張りまして、最後も何時どうなるかわからないと言い始めて1カ月、看護婦もその間呼ばれるかも知れないという体勢を取りまして今晩は私10時までだったら大丈夫ですとか非常勤の看護婦とシフトを組みながらもしもなんかがあったら行ってもらってもいいかしら、なんていうことをやりとりをいたしまして最後までお家で看取りました。このようにして決定していくというプロセス、たくさん準備が必要かなと思っています。

 在宅を適えるためにはさまざまな条件が必要でして準備というのはその家族の意思決定、あるいはご本人の意思決定というのがまず根本にあるというふうに思っています。それを支えていくというのが非常に大事なことで、それにはまずお医者さんの協力、理解が必要だと思います。在宅で看ていくとなれば、私どもステーションで看取った方は最近の例でここ半年くらいは在宅で看取った方はすべて往診してくださる先生がいらっしゃった方です。症状が安定しているかどうかということもありますが、お家で最後まで看取りたいということであれば、痛みが出た、食欲が出てこない、どうしようという時に来ていただいて状態を見ていただいて相談ができる先生が必ず必要かと思います。看取りたいのでそのためにどなたか先生をと言った場合には信頼関係を築いていくのは難しいですよね。今まで見ていた先生でしたらこの先生に最後まで看取ってもらおうというふうに家族を納得をしておまかせできるんですけれども、看取るために、死亡の確認だけしてくださいというのをお医者さんにお願いするのはこれはお医者さんの方も非常にお困りになるだろうと思います。こういうことを段取りとして非常に大事なことだと思います。

 一人で看取った方のことをご紹介しましたが、やはり家族以外に助けてくださる方というのは必ず必要です。ご家族がたった一人でも不安なままでこれで本当に良かったんだろうかと迷いながら看取っておられるのは非常に心理的には長続きするのは難しいですからどなたか協力できるご家族の方、ご友人の方と一緒に看ている、「大丈夫だよ」「一生懸命に看ているから大丈夫だよ」と言っていただける方の協力が必要だと思います。

 それからこれは皆様もあまりイメージをされないかも知れませんが、看取るという前に終末になるといろいろなことが起こってきます。食べられなくなる、飲めなくなる、意欲がなくなる、痛みが出てくる、おしっこもでなくなる、便秘をする、床ずれができる、こういうことをどうしたらいいか、お家の方だけで抱えていたらどうしたらいいかわからない、あるいはこれから先どんなことが起こるかわからないという状態では非常に不安だと思います。こういう時に相談ができる専門職というのが必ず必要だと思います。これは看護婦であったり保健婦であったりヘルパーさんであったりいろいろな職種をぜひ使っていただきたいというふうに思います。相談をするだけでもどんなにか不安が和らいだり一生懸命やっていることが間違ったことだったんだろうかと責めを自分で負わなくても済みます。

 今訪問看護ステーションもございますけれども横浜市には各区に福祉保健サービス課という課があって、ケースワーカーと保健婦が相談を受けております。退院をさせたいというときにはまず電話でいいですからとにかく「こういうふうにしたいんだけれども、何と何が必要だろう」ということを聞いておくだけでも違います。ベッドとかポータブルトイレも65歳以上であれば補助が受けられたり、身障者手帳を持っていればさまざまな給付のサービスがあったりします。お風呂に入れてくれるサービスもあります。そういうふうなサービスも使う使わないはご本人、ご家族が決めることですが、知っているのと知らないのでは違いますからそういうふうなこともぜひ伝えていただきたいと思います。それから、苦しくなったとき、ご自分一人で抱えられないとき介護者をどのように確保するかというようなこともそういう人たちが入っていればいろいろなアイデアが出せると思います。そういうようなこともぜひ使って看取るための準備としてこんなことが起こったらという準備をぜひしていただければいいかなと思います。

 私たちは在宅で訪問看護をさせていただいていますけれども、基本的には自宅で看取ることだけがベストだとは思いません。お家で看てきてこれ以上は無理だなとお思いになったら病院で在宅と同じような死が迎えられるのがベストであろうと思います。そこまで看たのに入院させてしまって最後は可哀想だったという責めを家族の方が負わないように私たちの責務の一つとして病院でもあるいは老人ホームでも自宅でも同じようにその人らしい幕引きができるようにということはずっと言っていかなくてはいけないことだろうと思います。在宅でできる医療行為とか医療には限りがありますから最後まで手を尽くしたい、いろいろな治療を尽くして欲しいという場合には病院で看取ることもあると思います。そういう選択も悪ではなく残して行くべきですし、充実させていかなければいけないと思います。

 どっちを選んでもベストな選択だというふうに私たち援助をさせていただく側はそういう姿勢をずっと持って家族やご本人が選んだ方法について支援していく、ただしどちらを選んでもこういうリスクがあるよ、ということは専門職としてはお伝えしていかなくちゃいけないかな、ということが私たちの役割だと思っています。

 最後に看取らせていただいた方たちと出会って思いますのは、医療とか看護とか資格とかそういうことではどうにもならない人間として向き合っていてこの方の生きてきた道をたまたまその時に出会わせていただくわけですから、それを自分たちの糧にしていくという姿勢をずっと持ち続けていたいと思っています。残った方たちが後悔をしないように家族の方たちが無理をするのではなくてベストを尽くしていくこと、これは私たち看護職も無理をするのではなくてベストを尽くしていくということが非常に大事なことだと思っています。終わらせていただきます。



3.薬剤師の立場から
ホームケアファーマシーの薬剤師 伊集院一成

高宮:続きまして、私たちも今お世話になっているんですけれども、ホームケアファーマシーの薬剤師さんであります伊集院一成さん、お願いいたします。

伊集院:ホームケアファーマシーという薬局で薬剤師をしております伊集院と申します。今回は薬剤師の役割、終末期医療というテーマについてお話をさせていただきます。

 話の内容は大きく3つに分けてお話をしていきます。

 最初に皆様に薬剤師の仕事について理解していただくために薬剤師の業務についてお話しします。2番目に在宅医療での薬剤師の役割についてホームケアファーマシーの業務を紹介しながらお話しします。最後に実際に終末期医療として関わった患者さんの事例を紹介しながら今回のテーマである在宅医療のためのネットワーク、その中でも特に医療連携について説明して在宅医療の問題点についてお話しします。

 今日会場の中で薬剤師さんいらっしゃっていますか。手を挙げていただけますか。少ないですねえ。スライドお願いします。

 薬剤師の業務ということで4つ挙げてありますが、まず医療に携わる薬剤師ということでこの4つを挙げました。まず街の中にある開業薬剤師、病院の中の薬局におります病院薬剤師、学校薬剤師、その他上記以外の薬剤師ということで挙げています。今回は開業薬剤師、街の中におります薬剤師さんが在宅医療にどのように参画しているかということについてお話をいたします。スライドお願いします。

 これは現在医薬分業が行われています医療機関にかかった場合の流れを示しています。まず患者さんが具合が悪いということで医療機関を受診します。そこで医師に診察をしていただき必要な場合には患者さんに薬剤を処方します。患者さんは処方箋を受け取りまして薬局の方に出向きまして処方箋を渡します。そこで薬剤師が処方箋に基づいて薬を調剤しましてその薬剤を患者さんに交付します。患者さんはその薬剤を受け取りまして自宅に帰る。この流れを普通の医薬分業のシステムの中では行っています。ここでは中心となる患者さんが自ら動いて医療を受けるというシステムをとっています。言い方が良くないかも知れないんですがこの場合これは患者さんが病気なんですけれども元気な時しかこういう形では病院にかかれないんですね。実際に具合が悪くなってしまって動けないとなってしまった時にはもう入院をするしかないというスタイルです。スライドお願いします。

 これは在宅医療のシステムを示しています。先ほどの図は患者さんが自分で動いて医療を受けていたんですが、在宅の場合にはシステムの中心に患者さんがいます。でそれ以外を医療従事者、主治医、訪問看護婦、薬局薬剤師という三者で医療を提供していきます。主治医はまず患者さんのお宅を訪問しまして診察をします。そこで薬剤が必要になった場合には処方箋を交付する。訪問看護婦さんは主治医の指示に基づいて看護を提供するということです。薬局の薬剤師は処方箋を受け付けて調剤し薬剤を患者のお宅まで届けると、ここで服薬指導を行うというシステムです。これを見る限り、主治医は往診して診察します。看護婦さんは看護を提供する。薬剤師さんの仕事というのはただ単に処方箋に基づき調剤して薬を届けるという仕事で終わってしまうような気がするんですが、実際はそうではありません。

 在宅医療の場合には良く医療連携という言葉が使われるんですが、外側に矢印の付いた部分ですね、これが在宅医療では重要なシステムになっています。つまり、医師、看護婦、薬剤師、この三者が情報のやりとりを行いながら連携を取っていくというシステムです。より患者に適した医療を提供するためには各医療従事者が連絡を取り合っていくことが必要となります。患者さんには実際見えないんですが医療連携が上手に取れるかどうかということで在宅医療がうまく行くかどうかということが決まってしまいます。スライドお願いします。

 私が勤務しております薬局ホームケアファーマシーというところなんですが、通常の薬局と異なりまして在宅医療を専門に考えています。普通の薬局といいますと、医療機関の隣もしくは近くに薬局を構えて普通の院外処方箋を受けるという薬局になるんですが、こちらは在宅を中心に考えるということで面で考えて薬局を作っています。場所は今品川にあるんですが、品川全体、目黒、世田谷の一部という感じで考えまして在宅の患者さんのケアをしています。現在は毎月200名前後の自宅で療養される患者さんに対して薬剤の訪問指導を行っています。業務内容として簡単に言いますと、こちらの3点になります。

 まず、在宅医療における医薬品の供給管理、2番目に在宅医療で発生するさまざまな問題の発見解決、チーム医療の一員としての役割という3点なんですが、結局業務の一番の目的というのは病院などで入院されている患者さんが家に帰りたいという方がかなりいらっしゃるんですね。ただし、これがなかなか帰ることができないと。そういう患者さんを希望どおり帰してあげよう。そのためのお手伝いをしようということで在宅医療に参画してます。家に帰りたがっているんですが帰ることができない患者さんというのはかなりいらっしゃるんですけれども、帰れない理由としましては介護力がない、看護力がない、患者さんを受け入れるための物理的なスペースが不足してしまう、さらに在宅でいろいろ利用できる社会的制度があるんですがそういったものがわからないっていうことが挙げられます。これらの患者さんの帰れないという問題が解決できるものであれば解決し家に帰して挙げようということを業務の目的としています。スライドお願いします。

 終末期医療の患者さんで最後は自宅で過ごしたいと考える方が増えてきています。薬局の薬剤師の仕事は家に帰りたい患者さんのお手伝いをすることだと説明しましたが、末期医療の患者さんとの関わりの中で薬剤師がどんなことをしているかということをここにまとめてみました。末期の患者さんに対する治療の多くは痛みを取り除くことを目的としています。痛み、このコントロールには現在かなり麻薬が使用されてきています。薬剤師の業務はこの薬剤の服用意義を理解させ正確に服用させることにあります。正確に服用させることによって薬剤の効果を最大限に発揮させることを目的としています。また、医師と連携を取った上でなんですが、薬剤服用に関して起こる副作用について説明しましてそのために使用する薬剤についてもきちんと理解させることも重要な仕事です。中には食事をとることができないという患者さんもいらっしゃいますのでその場合には先ほど高宮先生もおっしゃったんですがIVH療法という方法で必要なエネルギーも補給をしています。この治療法に使用される薬剤というのは一般的に輸液と言われているんですね。これは生体に必要な糖分、ブドウ糖ですとかアミノ酸、電解質、ビタミン剤これらが入ったものの注射剤のことを呼んでます。例えばスポーツドリンクみたいなものを栄養剤として血液の中に入れてあげるということです。この輸液の供給管理というのも今後は街の中の薬局の薬剤師の仕事になってくるであろうと、さらにかなり使用する器材というのは種類がたくさんあるんですね。注射器ですとかいろんなチューブ類こういったものの管理供給も街の薬局の薬剤師の仕事になってきます。次のスライドお願いします。

 実際に関わった患者さんの治療をここで紹介しまして薬剤師がどのような仕事をしているのかということについて触れてみたいと思います。この患者さんの例なんですが、繰り返しの服薬指導を行ってみたんですが、正確に服用することができなかったという事例です。スライドお願いします。

 この方は65歳の男性で一人暮らしの方でした。親族は弟さんが近くにいたそうなんですがちょっと問題がありまして10数年来会っていない、ずっと一人で暮らしているということでした。病名としましては口腔癌の終末期、主治医が定期的に往診をしておりまして、訪問看護婦さんも終末期ということでほとんど毎日訪問してました。薬剤師はだいたい週3回前後の訪問をしてました。この方病院で癌の手術を受けてたんですが、術後の痛みがすでに何年間も続いていました。当時の主治医からは痛みが取れないのはしょうがないといことで真剣に取り合ってくれないために非常に医師に対して不信感を持っていらした。私どもの薬局が関わるようになりまして、薬剤をいままでMSコンチンという麻薬があるんですが、それは使われてなかったんですね。どうしても痛みが取れないということで麻薬を使おうということで最初にMSコンチンという錠剤のお薬を使ったんですが、いきなり最初に使ってしまったということで副作用としての吐き気がすごくきてしまったんですね。それでその薬は中止にしまして、こちらに書いてありますブロンプトンカクテルという水溶液の飲み薬に切り替えました。これはモルヒネやコカインの薬剤を水に溶かして最後に味を整えるために赤ワインを入れて作ってあります。このお薬をずっと定期的に服用してもらうようにしました。訪問を開始してしばらくの間なんですが、きちんと薬剤を服用されていまして本人痛みも取れたと、非常に満足してました。しかし何回か訪問していろいろ話をしているうちにある時点から服用することを止めてしまったんですね。お薬を。で、痛みはどうなんですかと聞いてもやはり痛みは取れない、でも薬は飲まないということでいろいろ理由を尋ねてみたんですが、はっきりしない状態が続きまして、しまいには訪問して薬剤のチェックをするんですが、その段階で飲んでないお薬を隠すような行動をとるようになってしまったんですね。これはちょっと問題じゃないかということで、医師、看護婦と連絡を取りあいながらどうしようかといろいろ試してみたんですが結局何の改善も得られなかったということです。

 この方、65歳の一人暮らしということで、生活保護の指定を受けていました。生活保護の指定を受けている方の場合には主治医の指示に基づいて訪問看護ステーションの看護婦さんが訪問する以外に保健所の保健婦さん、看護婦さんおよびヘルパーさんといった方々が定期的に訪問していました。服用拒否の理由をいろいろ調べていくうちに、保健所から来ているヘルパーさんにある一言を言われてから飲まなくなってしまったということがわかったんですね。どういうことかと聞きましたらヘルパーさんが痛み止めとして麻薬という薬剤を飲んでいるということを知ったんですね。それで患者さんに対して、麻薬なんてとんでもない、飲むのをやめた方がいいよというふうに患者さんに伝えてしまったそうなんですね。これではいくら薬局ですとか医師の方で患者さんに飲みなさい、痛みを止めるために薬ですよと勧めるんですけれども、またヘルパーさんが来て反対してしまう、で飲むのを止めてしまうということの繰り返しになってしまっていましたんで、これは麻薬の使用に関する誤解を解かなければいけないんじゃないかと考えました。

 そこで、私、薬局の薬剤師として保健所に出向きましてそこの保健婦さん、ヘルパーさん、看護婦さんに対して麻薬の使用に関する勉強会をするべきじゃないかということを考えました。実際に訪問看護をされている看護婦さんと一緒に保健所に出向きまして、そこで麻薬の使用に関する勉強会をしました。その結果保健所の方々の麻薬に対する誤解も解けまして患者さん自身の服薬状況も改善されたという事例でした。

 この患者さんの例でわかりますように、薬剤師の仕事というのは直接患者さんに対して関係する部分だけではなくて薬剤を通して患者さんと関わっている他の医療スタッフ、この場合は保健所の保健婦さん、看護婦さん、ヘルパーさんだったんですが、そういった方々にも薬剤の治療法、服用意義を正確に理解させるという部分の仕事が重要であり、言い方を換えれば医療連携を取っていくという仕事になります。次のスライドお願いします。

 在宅医療の問題点をお話ししたいんですが、これに触れる前にもう一点あるんですが、在宅医療というのはまだ制度自体が始まって間もないものですから制度上での問題点というのは非常に多くあります。特に終末期、末期の患者さんの場合にはだいたいペインコントロールには麻薬が使用されています。この麻薬の規制というのが在宅の場合には障害になってしまうことがあります。現在の保険制度におきましては、院外処方箋、街の薬局が受け付ける処方箋による調剤の中で薬の制限がものすごくあるんですね。内服薬、錠剤ですとか粉薬、外用薬、シップとか坐薬ですね。こういったものは処方箋により薬局で調剤ができるんですが、注射剤というのが一切できません。ターミナルのペインコントロールで最初麻薬の錠剤を飲まれてましてコントロールをするんですが、どうしてもコントロール不良になってしまう、どうしても薬が飲めなくなってしまうということで注射剤に切り替える場合があるんですが、その場合にはそれまで内服薬で関与してました街の薬局の薬剤師はそれ以上はタッチできないということになってしまいます。折角連携をとりながらうまく機能していた在宅のシステムがそこで断たれてしまうことになりますので、この問題は改善されるべきものだと考えています。

 ここに書いてあります在宅での終末期医療ということで告知の問題があると思うんですね。本来は医師の方がやるべきものだと思うんですが、ちょっと述べさせてもらいたいと思います。ここに挙げた言葉は他の文献からちょっと引っぱってきたんですが、病名告知と余命告知の二種類を挙げてます。私の経験からで申しわけないんですが、在宅医療においては患者に病名を告知するかどうか、病名の告知で在宅での療養を成功させるポイントになっていると考えられます。

 今までに複数の医療機関のお医者さんから処方箋を受け付けまして何名かの末期の患者さんに関わってきているんですが、病名告知をされている患者さんの方が、最後まで在宅でいく率が高いように思われます。患者さんは退院されまして住み慣れた自分の家に帰るということによって一時的に体調が良くなることがあるんですね。良くなった段階でまた悪くなる、これを繰り返していくんですが、病名告知をされていない患者さんの場合はこれを病気が治ってきているんだ、というふうに捉えてしまいまして、その後必ず状態というのが悪化して行くんですが、悪化していく状態を受け入れることができなくなってしまう。次に体調が悪くなってきた段階で病名を知らないわけですから、なぜ私だけがこんなに苦しまなければならないのかという疑問が生じてきて、最終的には介護者である家族や医療実施者の医師、看護婦に対して怒りをぶつけるような状況になっていってしまいます。その結果在宅での療養がうまくいかなくなって結果的に再入院となってしまう例がありました。ですから在宅で終末期の治療を行う場合には病名告知をされている患者さんの方が自分の置かれた状況を的確に受け入れることができ、在宅でのケアが成功する確率が高いと言えます。ただし、告知につきましては患者さんご本人や家族の意思、主治医の考えなどがありますので非常に難しい問題だとは思いますが、私の個人的な見解なんですけれども在宅でケアしていくためには病名告知が必要な条件の一つだろうと思います。スライドお願いします。

 薬剤師が在宅医療、特に終末期医療に関わることが目的ということなんですが、ここに書いてありますように患者さんの希望です。自宅へ帰りたい、家族とともに過ごしたいという思いが叶うように在宅における医療をサポートしていくということです。薬剤師は薬剤とか在宅に必要なものを供給するということで、ものを通して患者さんを看ていきます。ですから、在宅におけるサポートというのはものからみて必要なものを供給、サポートしていくというスタイルを採ります。大変おおざっぱな内容でわかりにくいところもあったと思いますが、この辺で終わりにしたいと思います。ありがとうございました。



4.家族の立場から
  井上友子

高宮:チーム医療ということでいろいろな職種があるといいながらまだ緩和ケアの中では医師と看護婦が中心となってはいるんですけれども、その中でホームケアの方たち、薬剤師さんが積極的に参加され、その姿勢としては闘う薬剤師というような感じがしているんですけれども、いろいろな問題にもぶつかってこられ、私たちに対しても患者さんに必要であればしっかり意見をくださる方達だなと思っております。また後でいろいろお話を伺おうかと思います。最後に、お家でご主人を看取られましたご遺族であります井上友子さん、よろしくお願いします。

井上:私はこの1月4日に腎臓癌で主人を亡くしまして、在宅で看取ったということで少しお話をさせていただきたいと思います。

 病院生活は手術となって3カ月、家庭生活4カ月で住み慣れた家で私の腕に抱かれて息を引き取りました。死ぬってこんなに静かであっけなく、そして、ほんとに感動的な瞬間でした。入院していたらきっとこのような感動的な看取り方はできなかったんじゃないかなあと思います。もう腎臓癌てわかってからお正月を迎えられるかどうか本当に半年の命と言われたときには、あまりにも短いのでショックを受けました。でも家に帰って主人と一緒にお正月もなんとか迎えられました。一日の日はみんなで乾杯をし、主人も一口ながらお餅を口にしました。そこまではああ良かったなあという気持でおりましたけれども、3日の日に容態が急変いたしました。宙をつかむような手の動きとか、私が見てもこれはもうだめなんじゃないかなと思いまして、往診に来てくださる先生に3日の昼間電話するのは気の毒だ、主人はまだ3日の日は無事に越せるんじゃないかという気持、夜に電話を入れまして4日の朝早く行きますということでお約束をしました。

 3日は持ちこたえました。娘も1歳になる子供もおいて泊まりに来ました。「お母さん、少し代わってあげる」と、初めてちっちゃい子を置いて看病に来ました。それから4日の朝になりまして、アルゼンチンに駐在している息子が、めったに朝なんか電話をよこして来ないんですが、その日に限って朝早くに電話を受け、もう主人は水も飲み込めないような状態に3日の日からなっておりましたけれども、息子の電話を耳元に当てると話を聞いて頷き、何か言葉にならないけれども返事をしておりました。ああよかったね、お父さん、と言って電話を切ってその後30分後に息を引き取ったんですけれども、朝起きたときに便も、本当に食べる量も少なく便もしてないのにその朝に限って大量にしたんですね。「あ、お父さん、こんなにたくさん出てよかったね。じゃちょっと体ふくからね」と、全部体拭いてあげました。ほんとにその時は2日か3日前からおむつにしていましておむつを取り替えて体を拭いて「お父さん、痛い?」「痛くない」「じゃ少し痛いんでしょ」「うん、少し痛い」「じゃ坐薬の痛み止め入れるからね」ときれいになったお尻に坐薬を入れてそして、もう前の晩は食べ物も食べられない、飲み込む力がなくなってきましたので初めて氷をガーゼにしてそれを口に当てて吸わせました。

 そうしましたらチュッチュッと吸うので「あ、まだ吸えるだけいいんだ。なんでもいいんだ、少しでも食べればいいんだ」と氷だけ吸わせていたんです。4日の朝はカロリーメイトを30cc飲んだんですよ。便をしたあとに。「良かった、こんなにたくさん飲めたじゃない、じゃもう少し時間をおいてから飲もうね」と時間をおいて少し飲ませたんです。で、息子の電話を切って30分後、「もう少し水飲もうね」とその時はほんとに10ccくらい少しでしたけれども「あ、いい、少しでものめたら。ゴクンと飲み込んでね」といいながら。そうしましたら、飲んでほんとにわずかでした、頭をあげてガバッと飲んでた水を戻した途端に静かに息を引き取りました。あ、ダメなんだな、と思って私もベッドの上に乗って一生懸命心臓マッサージもしました。でもやってもダメだということがわかってそれじゃ着物も全部取り替えようと、私の手で娘と二人で着物を取り替えて、横にしました。まだぬくもりは充分ありました。あたたかい内に手も組ませようと私も自分で主人の手も組ませて、本当に静かに主人との別れができたと、自分の手でここまでやって、気がついたときにはベッドの上で主人の横に座ってました。涙が一つも出ないんです。主人の側に座って、先生が見えてやっと我にかえりましたけれども、その時もベッドからおりていません。ほんとに悲しいというかボヤーっとしてたんですね。入院していたらこんなことはできなかったんじゃないかなと思います。

 よく冷静にこれだけできたなあと自分でも思います。それは毎日毎日一人で主人の容態を見ながら看病してきたから、「ご主人のようすどお?」と言われても「うん、よくなっているわよ」という言葉は絶対出ない、本当にどんどん悪くなって亡くなっていくということがわかっていましたからそんな冷静な態度がとれたんじゃないかなとも思います。最後の看取りかた、ここに主人のぬくもりが残っているような感じです。入院していたら命はもう少し長く残ったかも知れません。食べられなくなったら点滴をして栄養を与えられたかも知れません。でも私は後何日、お正月が持てたんだから、その日も一口しか口に入らなくてもいいわ、一口でも食べられたから、時間をおいて何回も何回も一口でもいい、食べられればいい、先ほど先生もおっしゃいましたがもっと食べなさいと無理強いをせずに自然な形で食べられなければいい、もう少ししてから食べようね、なんていう形でしておりました。自宅だから管も通さず自然のままに命をつないで死を迎えられたと思っております。

 一緒の家にいましたら一緒の部屋に寝起きをして、ちょっとした主人の動きも敏感に感じ取れどうしたかと応対もできました。会話もできました。食事も無理強いせず何回にも分けて、水一滴でもいいという気持でやりました。トイレも最後は骨にもきてしまって歩くのもやっとでしたけれどもやはりどんな歩けなくても主人はおむつはいや、ポータブルトイレもいやという感じで、肩につかまらせてセ〜ノという感じで立ち上がらせてゆっくり歩いて、できる限り自分で立つ意思があるんならと。だんだん尿も出なくなり、先生も前立腺になるかもしれないと言われたらそれが心配になりまして、10分20分トイレに行こうとし、その度にこうして行こうとしてそれで主人は満足しておりました。家でいたから自由な時間に二人だけの時間が持て、大変なことがあったんじゃないかなと思いますけれども亡くなった今、あの時つらかったという思いが一つも残ってないんです。最後癌にしては穏やかで、癌だと痛みがひどくて七転八倒するということも後から聞いたんですが、笑っているような顔でした。先生も見えてから「本当に穏やかな顔ですね」と言ってくださってほっとしました。「ほんとにこれで良かったんだなあ」と、いまだに腕の中の頭の重みとぬくもりを残してくれて逝った主人に感謝し、自宅だからこそできた悔いのない感動的な看取りかたができた、素晴らしい最後でした。自分の主人をこのように言うのも変ですけれども、素晴らしい最後を看取れて後悔することもございません。残念なことは息を引き取る前主人がどんな気持でいたのかなあ、それはわからないのが残念です。きっと頭を乗せた主人も私のぬくもりを感じてあの世でほほえんで、今日もこの話を「また、くだらないことをしゃべって」なんて聞いてるんじゃないかなと思っています。ほんとに病院に入れたらこんな看取り方はできなかった、ほんとに良かったと思っております。

 そうして家で看取りたくなったかといいますと、1年2年の命というなら考えましたけれども、ほんとにわかってから半年、お正月が迎えられるかどうかと言われましたものですから、それならば少しでも家に帰って親しいお友達とお酒を飲みながら話せる時間があったらいいなと思いまして、食べられるようになったらすぐに帰してもらおう、先生にもお願いしました。食べられるようになったら完全じゃないけど先生も帰してくださいました。

 泌尿器科に薬を貰いに行ったりしなければならないんですけれども、泌尿器科の先生にいずれは入院してもらいますから、という言葉と私も患者の家族ですからもしかしたらちょっとでも良いことを言っていただけるのかなあという気持で、「ちょっと歩くのが変ですけれども骨にきたんでしょうか」と薬を貰いに行く度に質問したんですね。そしたら「また同じ事を聞きますね。こないだも話したじゃないですか。よく聞いてください」と。主人はそこにはいませんでしたけど、それには患者じゃなくても家族の気持をわからずそういう言い方をされると主人を診察にもよこしたくないと思いまして、薬だけ出してもらう、入院もさせたくないという決心をしました。それから後はモルヒネまでは行きませんでしたけれども、最初の痛み止めの薬を貰いに行くだけにしておりました。

 そういうのがきっかけで病院なんか入れない、できるだけ自分の力でしよう。亡くなってから泌尿器科の先生には連絡するのもイヤなので未だに黙っておりますけれども外科の先生には「自宅で看取りました」とお話ししました。「良かったですね、病院に入れなくて」とそういう言葉を聞いたときはほっとしました。ですから患者だけじゃなくて家族の気持ちもわかってくださる先生だったらと思っています。

 あと、本人の気持ちというのがありますが、本人には癌も告知しておりませんでしたので最初なかなか直らないときは「病院に入れば早く直るかな」という気持でいましたが、「お父さん、ずっと辛かったら病院に行く?」と聞きましたら行きたくないというのでそのまま看取りました。

 それから一番在宅で必要なのは先生に来ていただける、かかりつけの先生もいましたけれども、そのかかりつけの先生も癌を見落として、検査してもなんでもない、これは胆石だからということで胆石の写真を渡されてそれから一月経つか経たない内にお腹が痛くなって病院に行ったら胆石じゃなくて腎臓癌だった。そこの先生とかかりつけの先生が親しかったんですぐ連絡を入れたりしておりましたが、私としては許しきれない気持だったんです。もう少し早くわかっていたら何とかできたんじゃないかという気持がありましたけれども、この際お願いに行きました。先生も悩んでらしたんだと思います、「ほんとに私で良いんですか」と。ええ、お願いしますということで、診断書を持ってきてください、家族の承諾も得てくださいと。娘も承諾してくれましたのでお願いにあがりました。家に来てくださっても薬というのもないわけです。食べられなったら弱くなるからブドウ糖くらい打ちましょうと来てくださいました。お願いしたのが11月くらいでしたので来ていただいたのは3〜4回くらい、何でもなくても来てくださいました。来てくださって私を呼んで、「ほんとに家で看取りたいんですね」とおっしゃるんで「ええ、先生がこれはどうしても入れなければいけないと言うまで私は頑張ります」としっかりした口調で言ったんだと思います。後で娘が「お母さん、あの時すごくしっかり言ったね」なんて言われました。先生もお正月ですから本当はこっちも頼むのもイヤですし先生も大変だったと思いますけれども、今は感謝しております。いらっしゃらなかったら家で看取れなかったんじゃないかな、いつまでも恨んでも仕方がない、今も私はそのお医者さんには主治医としてかかっております。

 それから介護者、訪問看護とかいろいろありましたけれども、その先生も行ったときに「訪問看護もありますし、ホスピスも紹介しますよ」とおっしゃいました。私も癌の知識もなく訪問看護という知識もなかったものですからかえってそれが良かったんじゃないかなと思います。もし訪問看護がある、ホスピスがあると知ったらそれに頼れば良いんだなという気持になったかも知れませんけれども、私一人で4カ月看て、なくなった今あの時つらかったという気持が一つも残っておりません。病院に入れなくて良かった、点滴一つ、薬も坐薬だけ、熱が出たら熱冷ましを坐薬を入れるとか、助かる見込みが少しでもあったらまた考えが変わってたと思いますけれども、末期癌のどんどん悪くなっていく患者を無理して栄養剤を与えたりして永く生きさせることがなかった、これで良かった、七転八倒もせず最後も静かに頭を上げて腕のぬくもりを感じて逝ったということに後悔もありません。まだ63歳でしたのでちょと早すぎるとは思いますけれども、自宅で看取れて良かったと思っています。

高宮:ありがとうございました。井上さんの愛情といいますかエネルギーといいますか、圧倒されて医療体制とか話し合う以前にお一人で往診の先生は見つけられて看取って来られたというお話を伺いますと、このパネルディスカッションがネットワークですが、それ以上にそのエネルギーとか思いがあれば実現できるんだというのを教えていただいたような気がしています。今のお話を締めくくりにして終わると良かったなと思いますが、少しここに出てるメンバーでお話をしていきたいと思います。

先ほどのお話の中でもう少し付け加えておきたいというのがあれば……。先生よろしいでしょうか。

竹田:今大変感動的なお話を伺いましたが、私も日本での在宅医療をやりまして、家族の方の献身というか一生懸命に患者さんを看取るという意欲には非常に感激いたしました。最初の患者さんは大動脈瘤というお腹に大きな大動脈が膨らんでしまった患者さんで、その方のところに伺ったときには何度も何度も奥様の献身というものは真似ができないというふうによくおやりになりまして、亡くなった時のその方のお顔はものすごく安らかでしたね。こちらの奥様のように親身に看病してくださるとやはりその気持はご主人に必ず伝わっていると思います。

乙坂:打ち合わせの時にもお話を伺わせていただいていてほんとに井上さんがすべての役割を、病院でしたらいろんな職種がやったりするところを、在宅でも看護婦がお手伝いしたりヘルパーがお手伝いしたりというところを全部お一人でされてきたんだなあということと、またそれはそれだけのお力がおありになったんだと思います。ですから、最後におっしゃった自分の手でやってあげられてということは私たち看護婦も心しなければいけないんですが、在宅ケア、もちろん施設ケアもそうなんですが、主役はやはりご本人とご家族なんですよね。私たちがしてあげたから、とかこれだけやったからできたということではなくて最後はそう思っていただけるようなケアをしていくのが一番私たちが目指す道かなと思っています。

 私も全く逆ですが、その方は病院で亡くなられたましたが、苦しくなって入院が2、3日先に決まっているときにご主人様だったのでひげを剃っておきまして、どうしてもひげを剃って欲しいということで、石鹸を泡立てて刷毛で石鹸を塗りまして剃ってあげて、ほんとはこれは奥様にしていただかないといけないことだわね、と言いながらやはり奥様の役割を持たせてあげることは非常に大事だと思い、そういうふうにお話をしまして奥様も介護でお疲れになっていて、やはり心配だから入院をさせたい、疲労困憊でそれどころじゃないから「あなたにやって」ということでそこだけを代わったんですが、その時にご主人はその後きれいに拭きまして、お約束があったんですね。元気になって早くいろいろ新調したのに着ていない洋服がある、非常にお洒落な方だったんですね、ひげを剃るということも私が伺って日課にしてたんですが、ひげを剃って新調した洋服を着まして私と奥様と「両手に花ですよ。散歩をしましょう」と言っていたんですね。それが約束を果たせなかったものですから「帰ってきてまた散歩しましょうよ。必ず約束を果たしましょう」と言いましたらぼそっと「ほんとは入院したくない」とおっしゃるんですね。そのひとことでした。ですが、入院されました。それはご主人なりにご家族の方への表現だったんですね。自分は入院したくないけれどもこのまま自分が家にはとてもいられない、だから自分は病院という選択を選ぶよ、だけどほんとは行きたくないんだよ、と。たった一言でした。あとの解釈は私の心の中で受け止めたことなんですが、でもそこでご本人は入院したくないと言ってるから在宅で看ましょうよということは私たちが申し上げる筋ではない。これはご主人がこの家の長として判断したんですね。そこは充分伝わったんですが、「じゃあ、帰ってきたら散歩しましょうよ、待っていますからね」と言ってお別れをいたしました。

 結局病院で亡くなりましたけれどもさまざまな決定があると思いますし、最後にはお家の方、もちろんご本人が満足されているというのが一番ですしお家の方がこうしてあげてよかったという思いをしてこれからやっていけるということが一番かなと思います。

伊集院:先ほどの井上さんの話でもあったんですが、患者さん自身は病院にかからないんですけれども家族の方が病院に薬を取りに来るということは結構あるんですね。うちの薬局で関わってきた患者さんの例でもヘルパーさんのお金でチケットもらってやるんですけれどもその方が薬を貰うためだけの仕事のために1日来てしまうという例があったんですね。これはヘルパーさんはヘルパーさんの仕事をして貰うという面から考えるととんでもないことだと。そういう部分のお手伝いを街の薬局の薬剤師がするべきだろう、薬に関する面ですね。それから在宅の往診できる主治医の問題にもなると思うんですが、患者さんのご家族ですとかご本人が大きな病院から離れたくないという気持があると思うんです。それから病院の医師にとっても街の医師が何ができるんだろうという考えが多少あると思うんですね。最終的に患者さんの家族が病院に薬を取りに行く、ドクターは話だけを聞くというスタイルを何カ月か繰り返してきて、最終的にどうしようもなくなった段階で在宅の主治医を決めましょうということが往々にしてあるんですね。そういうのが本来は街の開業医と大学病院の医師との連携が上手くいってもっと早い段階から患者さんが自宅でほんとに気持ちよく過ごせる、家族にも無理がないという形で往診スタイルをとるべきじゃないかなと思います。

高宮:ありがとうございました。井上さんのようにお一人でやってこられた方もいらっしゃると思うんですけれども、ある制度であれば、システムがあれば使っていった方がいいと思うんですけれども実際皆さんが使っていくのにずいぶん途中でお話はしていただいたんですが、その中で先立つもの、経済的なもの、コストについて少し説明をしていただこうかなと思います。医師、看護婦、薬剤師さん、実際どのくらいお金がかかるかというのを教えていただけますか。

竹田:はい、訪問いたしますとちゃんと医療費の方に保険でいくらという項目がございますので私は患者さんからいただいておりません。そして意外と皆さん往診して貰うとすごいたくさんお金がかかるんだとお思いのようなんですけれども、お探しくださればちゃんと医療費でとれるんですから往診してくださるお医者さんはいると思います。私は車代はボランティアの方に運んでいただきますのでいただいておりません。

乙坂:訪問看護ですと例えば訪問看護ステーションはやはり医療費の中で請求ができますので今老人医療も変わりましたけれども、訪問看護ステーションは老人医療であれば1回につき250円の自己負担と交通費を個々それぞれのステーションで実費相当という形で公共の交通機関を使ったお金でいただいているところもありますし、自転車で行けるところにステーションがあるところは無料というふうな場合もあります。他の健康保険を使っている方はその負担に応じてということでこれからは2割と3割ですね。その負担部分をいただく形になっています。ちなみに例えば月に1回しか行かない場合、ステーションに入る収入は1万2900円がすべて看護婦の給与も含めその中からやりくりをするわけですが、その中の1割負担でしたら1290円を負担いただくということになります。2割の方は×2ということになります。簡単に言えばそのような形が自己負担になりまして、もう一つ大きいのはガーゼを交換しなければいけないようなキズがあったり床ずれがあったりする場合にそういう実費は往診していただける先生がいればその先生の方も点数でお渡しできる場合もありますが、多くの場合なかなかうまくいきませんで、実費負担いただくことが多いかと思います。あるいは在宅で処方できるものとかその点数の中で出せるものというのは限りがあったりしますとその分が負担になっております。

高宮:先生のお話にありましたセコムさんですとかいろいろな企業が民間の会社でやっております。そういう訪問看護は私たちステーションとは違いまして介護ということではなくて、基本的には医療処置、注射をするとか痛みのコントロールのためのお薬を打つとかというためにやりますので当然それだけを専門にしますのでコストも高くしております。というのは保険で今それが認められる状態ではございませんので1回時間単価多分1万円を超えるんじゃないでしょうか。その他に契約金のような月々の管理料や付属するものをお支払いするという形でしていただいています。現状では多分24時間看護婦が看なければいけないというふうな方が在宅でやっていくには非常にそれをカバーするためのお金が非常にかかってきてしまうのが現状だろうなと思っています。

伊集院:薬局もすべて医療保険の中でできます。看護婦さんが月に1万2900円とおっしゃったんですが、薬剤師は月に1万1000円です。その中では車を使って薬剤を配達するんですが車の維持費、駐車場代も含まれています。厚生省の指導で交通費を請求しなさいと言われているんですが、家の薬局としては取る意思はありません。最初にまだ薬剤師の在宅医療というのは平成6年10月に初めて制度化されたんですね。多分今この会場にいる皆さんも在宅に薬剤師が参画して何のメリットがあるんだろう、多少疑問に持っていると思うんですね。その疑問がある段階でお金をいただいてしまうと、別に先生とか看護婦さんが薬持ってきてくれるからいいよ、ということになってしまうと思うんですね。一般的にまだ薬の専門家は薬剤師だと言われているんですけれども、まだ医師の方が薬に詳しいことがままあります。その場合には薬剤師より医師を信頼してしまうだろうと。これから在宅医療という新しい分野で薬剤師が経験を積んで本当に必要として認められるようになるためにはまだ交通費をとる段階ではないだろうということで、薬局としては取っていません。健康保険の範囲ですべてやりますので健康保険で負担した金額だけをお薬を届けたときにいただくという形をとっています。

高宮:井上さん伺ってどうですか。このくらいの金額なんですけども、高いような安いような気がしますが。

井上:私もそんなことも考えずに、訪問看護も何もありませんでしたけれども、お金がいるんだな、訪問看護をしてもらうのにはお金がいるんだなと。

高宮:お一人だとご自分に全部払った形でしょうね。

井上:自分でやる場合にはベッドとかポータブルトイレとかおむつなんか自分で買ってましたけれども、今伺って訪問看護していただくにはお金がいるというのが実感です。

高宮:どうもありがとうございました。さきほどちょっとお話があったように民間のセコムさんとかでお願いすると最後看取り結構家に何度も来ていただくと月30万から50万かかったこともあります。考えようによっては病院と考えれば最後個室に入ったり二人部屋に入ったり大学病院ですと個室1日1万円くらいするんですね。大した部屋じゃないですけど。そう考えるとお家で十分そのお金が出るなと思うし、それを特にそういう企業を使わないで訪問看護ステーションや在宅の薬剤師さんや、竹田先生のボランティアの先生はたくさんいるかどうかわからないんですけれども、そういう方を使えばもっと安く利用できると思います。

 このパネルディスカッションのテーマに沿ってないんですが、在宅医療でもネットワークというふうに考えますと緊急時どう対応していくかということがあります。実際に24時間体制、土、日そういう時間外どのようにされているか、またはどのようにしていったらいいかということをお話願えたらと思うんですけれども。

竹田:前にもお話くださいましたように、準備すると意外とないものなんですね。私も24時間いつでもお電話くださいというふうに言っておりますが、2年間で夜中に起きて行きましたのが4回くらいですか。ですからあまり神経質になるというか年中呼び出されるということはないと思います。

乙坂:訪問看護ステーションでは実は医療点数の中で評価をされるのに24時間連絡体制という携帯電話を神奈川ですと2本直接引きましてすべての医療者の方に対応するということで点数がつくようになっておりますが、まだ当ステーションではやっておりません。と申しますのは今当ステーションでは患者さん、利用する方多いですね。160から170名関わっております。病院で言いますと3つの病棟分ですが、私責任者が一人です。私自身も訪問に実際出ておりますから看護婦の役割もし、婦長の役割もし、時には事務長とか施設長の役割をしということになるわけですが、常勤の看護婦が今10月から4名になります。あとは非常勤の看護婦でやっております。その状態の中で170人にすべて24時間対応しますとアピールをするのは非常に厳しい問題がございまして、そのケース・バイ・ケースで、どうしても今の時期は不安が強くて対応する必要があるというふうなことについてはどう対応するか、夜のコールがかかったときどうするかということを別個に決めてございます。その他の場合には留守番電話にしておりますので留守番電話をポケットベルに転送しましてこちらからお電話をかけさせていただいて、いろいろな相談をしましたりそういった対応をとるという形にしています。これは大きな課題でありまして、先生のおっしゃるように夜のことが心配ということは、土、日もそうですし、現状があります。これは在宅でということを考えたときには、私たち看護婦だけが動いたのではどうしようもなくて、先生がおっしゃるように先生が動いてくださるということが前提にないといけません。私たちステーションは医師会の運営でやっておりますので、医師会と一緒に足並みを揃えて行こうということで、医師会の先生方にぜひ御協力していただきたいということを今運動しているところです。

 そこを含めることと、今土曜日、日曜日、あるいは時間外の訪問するときには、この訪問について時間外の料金は別にいただきなさいという厚生省の規定がございまして、つまりステーションから持ち出しをしても損になるよという歯止めですね。結局皆様方の負担になってしまうわけです。ですからそれを何とかして、例えば365日行って患者さんの負担にならないという形にしていけば、昼間のケアが充実すると、昼間のケアが充実すれば夜のコールが少なくなる、要するに安心が増えるということになりますからそういうための態勢にぜひ持っていきたいと思っています。

 先ほど薬剤の方は交通費も取ってはいないというふうにおっしゃっていましたが、実は訪問看護ステーションは収入源が訪問しないと収入になりません。ですから私が訪問に出ないで1日いましたら、私の人件費は訪問看護婦が稼いでくるわけです。事務職をやっておりましたらその分の人件費は訪問で稼いでくるわけです。今はそういう厳しい制度になっておりますから、1万2900円が一番高いコストなんですが、もっと回数行くと、12回以上行くと管理常用費というのが取れなくなりますのでもっと持ち出しが増えますし、回数3回以上どうしても行かなくてはいけない時には利用料はいただけないので必要があればということでやむを得ず行くという形をとっております、検討した結果ですね。そうしますと全部持ち出し、カンファレンスも持ち出しですし、相談についても持ち出しになりますから、その分を運営していくということは非常に困難になります。そういう経済的なところがバックアップを一緒に考えていきませんと、訪問看護頑張って熱心にやっていこうという看護婦達がだんだん燃え尽きていってしまうという現状になるのもまた望んだことではございませんから、そういうことも含めて一介の看護婦としての「やりたい」という思いもありつつステーションをこれからどう育てていこうかという立場で自分自身悩むところが多いんですが、現状ではそのようなところで個々の今困っていらっしゃる方についての対応はきちんと個々で対応を考えていくと、でも全体的なこれから先を見越してシステムをどう作っていくかということも一緒に考えていかなくてはいけないと思っています。

高宮:細かいことですが、訪問の回数なんですが、末期の癌患者さんについては?

乙坂:はい、限定を解いていただいています。今1週間3回までというふうな限定は原則的にでして、回数制限が解かれているのは末期の癌の患者さん、人工呼吸器をつけている方、難病といわれる中で7つの疾患になっている方、例えばパーキンソン病も新たに加えられましたが、重症筋無力症ですとか筋萎縮性側索硬化症とかなかなか耳慣れない言葉だと思うんですが、主にケアが一番大変だと家族の負担が多いと思われる病気に関しては回数制限が除外とされておりますので、その旨先生が病名のところにお書きいただければ回数をはずしていけることになりましたし、症状が一時的に悪くなった場合には特別指示書というものを書いていただいて2週間に限り毎日行けると、2週間はそれでつないでもそれではずれた分についてはしょうがないから持ち出しでも訪問するというふうなことでつないでいるのが現状です。

高宮:伊集院さん、緊急時というのは、私、土、日に処方して持っていってくださったという記憶があるんですけれども。

伊集院:普通の調剤薬局の場合ですと24時間とらないと思うんですね。5時まで営業だとして5時半に閉るということがあると思うんですけれども、在宅の場合には医療を提供するということを目的としていますので、薬局でも24時間の態勢をとってます。常時薬剤師がお店に滞在するというスタイルではなくて、やはり転送電話ですね。必ず当番の薬剤師が連絡が取れる。その時に薬剤に関する情報を伝えられるというシステムをとっています。夜間、緊急時なんかドクターが往診されて薬が必要な場合があるんですが、その場合はあらかじめ予想される薬剤というのを患者さんのお宅に届けておくんですね、先に処方箋をいただいて。それを患者さんに説明して「これは夜中に熱が出たら使ってください」とか「ちょっと悪くなったら使ってください」という形でおいておきます。だいたい薬剤師の夜間の問い合わせというのはその薬の使い方に関することがほとんどです。





質疑応答

高宮:だいぶ壇上でいろいろな話をしていたんですけれども、時間が大分過ぎてしまったのでそろそろ会場の皆さんの質問やご意見をお受けしたいと思うんですけれども。できればパネラーのどなたにどんな質問でと具体的な形で、できれば皆さんそれぞれいろんなご家族のことなどでお悩みだと思うんですが、時間が10分ほどしかないので個人的なことは終わってから聞いていただくということで、それ以外のことで質問やご意見いただけたらと思うんですけれども。

男性:緑区からまいりました65歳の男ですが、井上さんのお話には大変感動いたしました。というのは私自身がご主人と同じ癌を患っておりまして、私の場合は幸いながらかなり初期、自覚症状がない時点でわかりましたのでこうしてお話も聞けるわけですが、ご参考までにご主人の場合は自覚症状としてどういうことが出てきたのか、手術をなさったのかどうか、そういうことをお伺いしたいのですが。

井上:症状としては腎臓ですから、血尿が出たりとか。遺伝的に腎臓に嚢胞があったために川崎の大きな病院で検査してもそのせいだと。かかりつけの先生もそのせいの血尿だと。みんなが10年生きるところお宅は3年くらい早いですよ、呼び出されてそういう結果を受けているんです。尿の検査をしても腎嚢胞のせいだと安心していたしお腹が痛くなったときも胆石があるから、胆石の写真をもっていなさい、お腹が痛くなったらこれをお医者さんに見せなさい。お腹が痛くなって見せに行ったらこれは変だ、腎臓にポリープがある、手術はできましたけれども、本人は腎臓を取っちゃったからもう癌じゃない、抗がん剤も打たないから癌じゃないと思ってリハビリ一生懸命してましたけれども取った時点で十二指腸もやられ腸も癒着して、胃と腸のバイパスの手術までもしました。ですから人間ドックにも行って、会社の検診にも行ってましたが結局はこういう結果になってわからなかったんです。腎嚢胞さえなければもっと検査したんじゃないかなと後から思うことですけれども。

高宮:前の方どうぞ。

女性:私ごとですが、3カ月前19年間母を背負いまして、兄が20年前癌で亡くなりました。今燃え尽きたという感じで心の病に入りましたので、どうやら母を看取り終えましたけれども自分の最後をどう迎えるかとつくづく思いまして、どう立ち上がろうかと思っています。パネリストの方からいろんなことを学びまして、金銭的な経済的なこと、一人看取り終えまして家族もいませんのでそういう問題も絡みましてもう遺言状も書きました。やはりシンプルな自分らしい最後を迎えられたらなあと思います。今日も具体的なお話を伺ってまた深く自分の死をどう迎えるかということを改めて考えさせられました。どうもありがとうございました。母の最期は素晴らしいメッセージをくれまして私の人生の宝になりました。私の人生は19年間悔いはない、これは神様のくださったプレゼントに思えます。

高宮:ありがとうございました。その他にございませんでしょうか。

竹田:一つよろしいですか。家で良い死を迎えるということではやはり皆様誰か気の合う家庭医をお見つけになることだと思いますね。アメリカでは家庭医というのが定着しておりますけれども、日本ではあまりにも縦割りになっておりますのでどのお医者さんに行っていいのか皆さん患者さんが自分で診断をして、それから外科へ行ったり皮膚科へ行ったりしてお医者さんを選ばれるようなんですね。これはよく話のわかるお医者さんを日頃見つけておいてその方とよくお話ができるような方を見つけておくことが大事だと思います。

高宮:ありがとうございました。あちらのお一方。

女性:今、井上さんのお話を伺って、ちょうど1年前に自宅で母を見送りまして、この話も同じだと思い出しました。やはりかなり末期になりまして、家で最後は大きく一つため息をついてすうーっと静かに亡くなっていきました。実は第一部で高宮先生に家で山本リンダの踊りをさせたというのが家の母でして、最初から在宅で見送るつもりはなかったんです。突然あと半年だと言われて、私も実家から1時間半くらいのところに住んで仕事を持っていましたし、近くにいる妹も小さい子供を抱えて保母として働いていたし、父親も中小企業の経営者という一番ひどい状況で、誰が看るといっても看られないし在宅なんて言うことは頭から考えていませんでした。ただ今の病院でというのを疑問に思っていたのとかかっていたお医者さんと告知の問題と治療の問題でトラブルを起こしましてホスピスを選ぼうと思って桜町ホスピスの方にいろいろお話を聞いたりもしたんですが、とても入院するまでの間に通わなければならない、その時に来るまで1時間半とかかかるとなるとかなり体力が落ちてきている母を連れていくのが大変だということで、そんなときに高宮先生の本を偶然読みまして昭和だったら近いということでお世話になれることになったんです。

 その段階でもまだ私は最後の最後は病院でと思っていたんです。なるべくできるところまではあれだけれども最後はやはり病院に入院しなければならないだろうと思ってましたし、先生もそういう不安感がこちらにあることをわかっていらっしゃったと思うので、「ベッドは確保しました」と「いつでも大丈夫なように確保しました」と言ってくださって、その上で「もうちょっと頑張ってみましょう。もう少しいけますね」とそういうような形でなんだかわからないうちに最後まで家でいられたと、それがみんな仕事しながらとか、近くの親戚だとか含んでローテーション組んで、今日の午前中は誰とか、今日の午後は誰、今日の夜中は誰みたいなことで、誰かがすごいしんどい思いをして看るというんではなくてやっていけたと思うんですね。それと本人も最初は不安がって病院に行けばもう少しいいことをしてくれるんじゃないか、もう少し楽になるんじゃないかと言ってましたけれどもそのうち「やっぱり家にいるのがいい」と言って、周りの人間もそのほうがいいと何か自然な形で在宅というふうになれたのは運も良かったこともあるでしょうが、幸せだったと思うんです。

 翻って私自身離婚していることもあって、自分は癌で死ぬんだったら絶対ホスピスと決めて見に行っちゃったりしてたんですが、でも母を見て、もしかしたら一人でいろいろな友達に来て貰ったり訪問看護の看護婦さんやヘルパーさんに来て貰ったりすれば私もそういう状況になったら家ですごせるんじゃないかなと思うようになって、ホスピスもそれなりにいいし家の汚いところにいるよりいいと思いますが、もしかしたら私が家族のヘルプがなくても家で最後が過ごせるんじゃないかなとこの頃思うようになりました。

高宮:ありがとうございました。個人的な話はちょっと、といいながらいいお話を3人出していただいて今日の「家で死ぬということ、家で死にたい」という締めくくりのお話をしていただいたと思います。

井上:最後に私は主人を看取って思ったのは女性の方には大変申し訳ないかもしれないけれども、「私が先じゃなくてよかった」っていう気はあります。主人を先に看取ってよかったんじゃないかな、という気があります。それから亡くなってから自分のことが心配になりましたけれども、今伺っていると訪問看護はあるしホスピスはあるし少し安心いたしました。女性が男性を看取ってあげるのがいいんじゃないかなあと思いました。

高宮:妻にも聞かせたいなと……。こういう仕事をしているといろいろな生命力とか見て男性はちょっと弱めに作ってあるなあとはよく感じるんですけれども、そのようになったらいいなと思いながらいろいろな状況が皆さんその時その時あると思いますので、お話を伺ってきて在宅はいいなというのがわかったし、それでも追いつかないときには病院で過ごすときがあるかもしれないし、これからホスピスも増えてきますからお家の近くでもしホスピスができればホスピスということがあるかもしれない。そういう死に場所が選べるようにご自身も考えておく必要があるし医療者の側もそういう態勢を作っていきたいなと考えています。

 今日は本当に長い間つたない司会で、あまり皆様のご意見伺わなかった気がしますが、今日のパネルディスカッションこれで終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。





閉会挨拶
ホスピスを考える横浜市民の会副会長 千賀 瑛一

 当市民の会の千賀でございます。ご来場の皆様方にお礼申し上げます。

さて本日のテーマ、「家で死ぬ」ということ、このテーマでの基調講演、並びにシンポジウムを皆さんどういうふうに受け止められたでしょうか。このテーマは実は1年前に「病院で死ぬこと」というテーマで同じフォーラムを展開したわけで、いわばその続編というような位置づけでこの企画を打ち出したわけでございます。今回も高宮先生の基調講演、並びにその後のパネルディスカッションの司会、さらにパネラーとして竹田先生以下の皆様に感謝申し上げる次第です。

 最後に一言申し述べたいことがございます。それはたまたま先頃私が東京で見た映画のことでございます。試写会でございます。映画のタイトルは「ある老女の物語」です。オーストラリアの映画で今月末に岩波ホールで公開されることになっております。私は何もここで映画の宣伝をするつもりは毛頭ございませんが、通り一遍の御挨拶よりは一言こんな話が皆さんと共通の認識で見ることができたらということで御披露するわけですが、この映画のテーマはこのタイトルにありますように一人の肺がんの老女の最後を看取るところを主題にした映画です。非常に明るい老女でして肺がんに侵されながらたばこは吸う、おいしいものは食べる、ピクニックには出掛ける、最後まで自分の生活をエンジョイしながら亡くなるわけでございます。そしてこのもう一方の主役が実は看護婦さんです。これは当然オーストラリアの映画ですから英語ですが、コミュニティーナース、地域看護婦という表現を使っておりました。先ほど竹田先生から地域における家庭医のお話が最後にありましたが、やはり地域社会においての生と死のあり方が非常に印象深く訴えておるというふうに考える次第です。そしてなぜ今この映画のお話をしたかというと、この映画の主題そのものが本日のテーマである「家で死ぬということ」そのものだというふうに私は受け止めました。非常に地味な映画ですが、医療の関係者あるいはこういう生と死の問題で悩んだご家族の方には大変印象を与える映画ではないかと思った次第です。

 いずれにしましても、このターミナルケアの問題は技術的にもまた死生観の立場からもだんだん変化しておりますし、本日の講演会並びにパネルディスカッションでもおわかりのように今の段階で一つの結論を出すというのはとても無理なテーマであります。長い時間かけて取り組まなければならないテーマであると思いますし、今後もぜひこのテーマでしっかり考えていきたいと思っております。私たちのこの市民の会はボランティアでございます。今この医療問題以外でも各地でさまざまなボランティア、NGO活動が展開されていますが、私どもは年に1回のこの公開講演会に取り組むということで第6回まできたわけでございますが、我々の投げかけたさまざまな勉強の素材をぜひ皆さんが心に留め、これを持ち帰っていただいて考える一助にしていただけたらとこういうふうに考えるわけでございます。本日のご静聴本当にありがとうございました。