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雑感

7月10日 三浦事件上告

 今日は午前中雨が降った。おかげで昨日、一昨日に比べると涼しかった。でも暑いことには変わりがない。 冷房がなければとてもじゃないが、やっていけない。というわけで1日中クーラーのお世話に。温暖化防止の観点からはまずいのは分かってはいるのだが・・。

 勉強の方はうーん、直前期なので焦ってはいるんだが、なかなか進まない。最近は割り切って、穴とおぼしきところをとにかくつぶすことをこころがけることにしている。条文と判例の見直しが中心である。でも、穴とおぼしきところと一口にいっても結構あるんだよね、これが。あと8日、何とか間に合わせなければ。


 ところで、ロス事件に関しての東京高裁判決に対して、検察側が控訴する意向を固めたというニュースがラジオで流れていた。あれ、やっぱり。でも新たな証拠がみつかるあてもなかろうに。このままでは面子が立たないということなのだろうか。

 検察による上訴といえば、最近新聞ネタになったもので2つの事件が思い浮かぶ。

 1つめは、松本サリン事件に関わったとされるオウム真理教の富田隆被告に懲役17年の実刑判決が下されたのに対する控訴である。ちなみに第1審での求刑は無期懲役である。
 松本サリン事件は多数の被害者を出した残酷な事件であるから、有罪と認定された者に対して極刑を科すべきだというのは自然な感情かも知れない。しかし、17年というのはそんなに短くない年月である。被告は現在40歳。刑期を終えて出てくれば57歳である。仮釈放でもっと早く出てくるじゃないかという話もあるが、最低8年半は刑務所暮らしをするわけである。それでも48歳。40代の働き盛りでの8年半は長いのではないのだろうか。
 このようにいうと、被害者の感情はどうなる、という反論が出てきそうだ。でも、被害者の報復感情を満たすのに、なぜ国がしゃしゃり出てくるのだろうか。被害者の報復感情というのなら、国の手で処断するのではなく、被害者自身に報復させればいい、私はそう思っている。自力救済、私刑の禁止という基本理念からやむを得ないという考えもあるが、それは弱肉強食になるからで、裁判所の判決を経た上でならば、弊害は押さえられるのではなかろうか。日本には江戸時代、仇討ちの制度もあったことを思い起こせば、このような制度が日本の風土に合わないとは言い切れないだろう。民営化の波が押し寄せる昨今、いっそ刑罰にも自力報復の要素を取り入れてはどうか。それが無理なら、米国の州に見られるように、処刑時や服役時の犯人の姿を被害者やその親族が外から覗いて応報感情を満足できるよう、設備を整えるべきだ。そういうことをせずに「我々がきちんと処断するから安心して」というのは公権力の不遜ではないだろうか。また、国民の公権力に対する依存を助長することになり、妥当でないと思う。
 おっと話がずれた。有期懲役の最高刑は20年、刑の加重がなければ15年が最高だから、17年というのはかなり重い方に属する。あながち量刑不当のように思えない。にもかかわらず検察が控訴したのは、自らの求刑は正しいんだという面子によるもののような気がする。それとも正義感によるものなのだろうか・・。

 2つめは、いわゆる甲山(かぶとやま)事件。保母さんが幼児を殺したとして訴えられた事件である。この事件は最初嫌疑不十分で不起訴になった被告が、遺族から検察審査会への不服申立てなどを経て再度逮捕され、一審で無罪判決、第2審で差し戻し、最高裁で上告棄却の後、今年3月、差戻審で再度無罪判決を受けたというものである(神戸地裁1998年3月24日判決)。事件から24年、起訴から既に20年以上経過しているのである。はっきりいって、迅速な裁判を受ける権利(憲法37条)を害しているとして免訴にしてもいいような事件だと思う。にもかかわらず検察は控訴した。「正義は勝つ」とでもいいたいのだろうか。役人の無謬性神話は崩れているというのに。

 ところで、以上3事件のうちオウム事件を除く2件について特徴的なのは、マスコミが被告人を犯人視した報道をアラレのように浴びせかけたという点である。今回のロス殺害事件の東京高裁判決で裁判長が言っているように、マスコミの報道が被告人があたかも犯人であるかのような先入観を作り出させた面は大きい。
 甲山事件でも、再逮捕のきっかけとなった検察審査会の議決(不起訴不当)については、マスコミの犯人視報道の影響が大きかったと言われている。

 世の中の移り変わりが激しい昨今、「起訴した以上は必ず有罪」「逮捕されたら犯人扱いはあたりまえ」という慣行もいい加減見直す時期に来ているのではないだろうか。


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