SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER「里程標」第4号

マレーシアからの手紙

佐藤真紀


 ムスリムの家庭に置いていただいて2ヶ月が経ちました。

 ここへきて、不慣れからくる心配ごとが減っても、こころなしさびしいのは、イスラム教というやさしくもこわいほどに、掟がまもられている宗教を傍観しなければならないこと、にもよります。

 たとえば、たまご焼をつくるのにちょちょっといれているくらいの量でもみりん(酒)はつかえないこと、こうじのはいったみそもだめなこと、せっけんにゼラチンがはいっているとつかえないこと。女の人はかみの毛を家の外で決してみせないこと、たべるときに右手だけでたべること。ぬいぐるみはもちろん、ちいさいおひなさまもいけないこと。とり肉ならよくても、お祈りをささげながら肉にされた鳥でなければならないこと。

 これらを守っての生活の中にいると、ふつうのかっこうをして、外にでれば酒蒸みたいな料理を好んでたべ、ラマダンをともにしようという気もおこさずにいるわたしの存在をどう納得して、友達として受け入れていただいているのかが気になります。たとえば、お祈りの最中にだれかが、玄関をたたいたとしても、とんでいってドアを開けることはしないこと。電話がかかってきても、お祈り中なら、出ようとしないこと。同じ世界に生きていながら、隣の人は一日5回のお祈りを欠かさず、週一日は昼間断食をするのです(みんながするわけではなく、信心深い人だけ)。自分もしないとまずいんじゃないか、そうしなくて、どうやってこの人達に友達として受け入れてもらえるだろう、と思います。友達として扱ってもらえばもらうほど、自分もしないとまずいんじゃないかという気にかられます。

 その土地に昔からあって、人が心の拠り所としているなにかが、どこにもある、それがとてもきちんと受け継がれているのがイスラム教なのかもしれません。わたしの初めて出会った宗教は幼稚園のキリスト教でしたけれど、ここのイスラムはそんなふうにして、出会うものではなく、ムスリムの家族に生まれれば、ものごころつくまえから、良心のお祈りの詠でめざめ、一日のサイクルがアラーとともにあるのを知るのです。

 なにもしないわたしから見ると、コーランではじまり、コーランで終わる一日はうらやましいほどゆたかで平和です。そうしてアラーを思い生活することによって、ムスリムの人たちは、何かうまくいかなかったり、失敗したときに背負う荷をアラーに預けることができるのです。宗教とはこんなにいいものだったのかと思います。
 歳をとって時間的に余裕があるようになると、より一層コーランに没頭するようになるので、精神的に一層安定するのだといいます。

 だからといって、わたしはやっぱり、宗教をもちません。ムスリムがアラーを信じて生きるのと同じように、わたしは自分の育ちから自分だけのやり方で信じるわたしの神様がいるのです。それはちょうど球の中心を、皆が別々な方向から眺めるのと同じだとわたしは考えます。

 ただ、同じ宗教だということだけでホッとことばをかわしあうことのできる仲間がいないことが少し寂しく思われます。

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