●奥出雲紀行:1
a travel sketch of OkuIzumo 1

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ここでは、奥出雲地方を訪ねた旅行記録を紀行文風にまとめてみました。


斐伊川の流れ



(1)奥出雲までの道のり
私は、現在社会学を専攻するスチャラカ大学院生である。 本籍地は兵庫県にあるが、父の転勤の都合で小学生だった頃の一時期、鳥取県の米子(よなご)市に住んでいたことがある。鳥取県は、たたら製鉄の盛んな島根県に隣接しており、里帰りのついでタタラ場を訪れるには都合がよい。そこで、1997年の冬、いそいそと出かけることにした。

現地への足には、東京から松江・出雲方面へ向かう夜行バスを利用した。米子に帰るだけなら別の会社の直行便があるのだが、今回の里帰りではまず小学校の時の同級生だった旧友と松江で会うことにしたので、松江行きのバスをチョイスしたという次第である。なお、その旧友は現在松江市内に住んでいて中学校の先生をしている。

時刻表を改めて確認すると、松江到着の時刻は旧友との待ち合わせ時刻と比べていささか早すぎた。おとなしく松江で下車しても、相当の長時間待ちぼうけをくうことになる。一気に終点の出雲まで行ってJRで松江まで引き返すことも出来たので、予定を変更して終点まで乗っていくことに決めた。

乗車後、バスの運転手さんにその旨伝えて運賃の差額を払おうとしたが、何と「そのまま乗ってても大丈夫だよ」という答えが返ってきて、差額なしで出雲まで乗れることになった。運転手さんにとって行先変更の手続きは面倒だったのだろうか、大らかというか何というか、本当にいいのかなあ?

というわけで、出雲駅前に降り立つと雨だった。まだ開いている店もないし、そそくさとJRに乗って松江まで引き返すことにする。山陰線の出雲〜米子区間は電化されているが、ホームにやってきたのは電車ではなく汽車だった。冬の早朝の雨のなか、ディーゼルエンジンの音も重々しく、汽車はおもむろに動き出し、私は車中の人となる。

出雲と松江の間は6つの駅がある。同じ6駅でも、山手線の池袋から渋谷へ至るのとは事情が違う。汽車に揺られながら、のどかな田園風景を眺めていると、つい旅情をそそられる。宍道湖の神秘的な風景にも心も洗われ、単線区間での列車交換もご愛嬌。・・・かつて住んでいた所の近くに戻ってきて旅情を楽しんでしまうとは、私の東京生活もすっかり長くなってしまったということか・・・。


出雲平野

宍道湖

列車の交換風景
(2)旧友と、恩師を訪ねる
松江駅前で、久しぶりに旧友に再会した。彼はつい先日結婚したばかりで、新婚の奥さんも一緒に出迎えてくれた。年上の奥さんもまた中学校の先生をしている。こやつ、ガキの頃は私よりもオクテだったくせに、早々に姉さん女房をもらうとは! これだから人生は分からないぜ(笑)。

近況報告と昔話に花が咲いた後、所用のあった奥さんと別れ、旧友の運転する車に乗って一路米子へ向かった。さすが毎日の通勤で乗っているだけあって、旧友の運転はすこぶるうまい。ペーパードライバーの私とは大違いだ。当たり前か。

米子の街に入る。新しい建物も増えてはいるが、やはり懐かしい。旧国道の風景は、私が子供だった頃そのままである。何だか、小学生時代の自分に戻っていくようである。旧友の実家に寄った後、隣の西伯町まで足を延ばす。西伯町には、6年生の時の担任をして下さった恩師が住んでおられる。これまでも年賀状は欠かさなかったが、挨拶に赴くのは卒業以来初めてである。

恩師は既に教師を引退されているが、昔のままの元気な声で迎えてくれた。はじめのうちはさすがに緊張したが、とりあえず近況を報告し、それから懐かしい話で盛り上がった。私にとって特に懐かしいのは、正座&説教の思い出だ。

旧友は優等生であったが、私はてんで悪ガキだった。先生の言うことなどちっとも聞かなかったし、いつも先生を困らせてばかりだった。私を含む悪ガキ3人グループが特に困らせ者で、放課後に何度正座させられて説教をくらったことか数え切れない。しかも、先生の説教なんぞ全く耳に入れようともしないで、放課後の教室に差し込む夕日が次第に傾いていくのをただ眺めていたものだ。そのうちに辺りが暗くなってきて、説教がまとまらないうちに慌てて帰されることも度々であった。

今の時代、こんなに長時間正座させることは問題にされるであろう。行き過ぎた体罰としてPTAから槍玉に上げられるかもしれない。しかし、私は思う。あの時、正座と説教がなかったら、現在の私はなかったに違いないと。あの時、何も叱られることなく大人になっていたら、現在の私はもっとつまらない人間になっていたに違いないと。(今でも充分つまらない人間かもしれないが。)

最近の先生は、子供が何か悪いことをしても、罰として正座させることはもちろん厳しく叱ることさえなくなっているという。だが、成長期のある時期、叱るべき時に厳しく叱ることは絶対に必要な指導であり、不可欠な愛情でもあり、人間的成長のための条件ではないだろうか。現在、もうニュースにもならなくなってしまった学級崩壊の問題や、些細なことですぐキレてしまう子供の問題も、元を遡れば叱られるべき時に叱られなかった不幸、すなわち愛情不足に端を発するのではないかと思えてならないのだ。

それはさておき、恩師はとにもかくにも教育熱心な先生であった。そして研究熱心な先生でもあった。恩師は6年生のときの担任であるが、実は半年しか教わっていない。何故なら、恩師は高等数学の研究のため、半年間島根大学に行かれていたからである。だが、残りの半年間は、私にとって忘れ得ない大切な時期になり、この間に学びとったことは計り知れない。旧友が中学校の先生になったのも、私が社会人を経てなお大学院に戻ったのも(かなりスチャラカではあるが)、多分に恩師の影響があるものと信じている。

現在の恩師は、教職を離れて悠々自適の生活であるが、生涯現役の言葉どおり今も地域の祭りや行事に精力的に参加しておられる。末永い活躍を心より祈念している。

恩師と旧友と
(3)いざ、奥出雲へ!
夕刻遅くになって恩師宅をおいとまし、米子へと戻ってきた。そのまま駅前のホテルまで送ってもらい、私はここで一泊する。翌日は、旧友の車に乗せてもらい、奥出雲に出かける予定になっている。ここは疲れ持ち越さないよう早めに寝入るに限るのであるが、床についてもいろいろな思い出が甦ってきて、なかなか寝付くことが出来なかった。

翌朝。天気は何とか晴れになった。もっとも、山陰地方は「弁当忘れても傘忘れるな」という言い伝えもそのままに、いつ天候が変わってしまうか分からない。こればかりは運を天に任さなければならないが、まあ何とかなるさ。

駅前まで旧友が迎えに来てくれた。奥さんも一緒である。今回の奥出雲訪問は全くの私の個人的関心によるものであるが、旧友夫妻もいずれ行ってみようと思っていたとのことで、ここに奥出雲探索ツアーが実現したのである。感謝!

エンジン音も軽やかに、いよいよ奥出雲へ出発である。






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