●「耳をすませば」をみて
Impression of "Whisper of the Heart"

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共 感   by 黒猫

川の向こうからの訪問者   by 書き人知らず
〜丘の上でのある一匹の猫との出会い〜

クレモナ旅行記   by ごま

丘の街へやってきました。   by Masataka

恋物語   by 純一

丘の町を訪ねて   by ジジ

自分の心の中にしかないもの   by ひろあき

「イバラード」の街に住んで   by のこのこ  

「耳をすませば」の感想   by かなえ  

『耳をすませば』を見て   by 天野瑞木

カッコイイとは、『耳をすませば』のようなことさ。   by 星切正人
〜カラクリ時計をサカナに、解釈のお遊びを少々〜

丘の町の空   by 長坂 寛

もう一度振り返る   by LOUDNESS

忘れていたもの   by 来栖奈緒

作品のリアリティー   by いろは坂

大人への階段   by しもなかたろう

関わり合うことの大切さ   by ヒトコ

メッセージ   by KEIJI

『耳をすませば』に見る鉱物   by にしべ

The future(将来)   by 大林正典





共 感  by 黒猫

 恥ずかしながら今日(正確には昨日)10月23日の放映ではじめて、「耳をすませば」を見ました。で、何気なくここに来たので、とりあえず感想を書きます。また、今の自分の気持ちを書くために、あえて、他人の感想を読まずに書き込んでますので、ありふれた意見だとは思いますが、とりあえず書いてみます。(そう、前に進まないと何もならないと言うことをこの映画で感じた私です)

 何気なく見ていたうちに、自分が物語に引き込まれていくのがよく解りました。良い言い方をすれば「きれいな世界」で、俗な言い方をすれば「少女マンガ」にはまりこんだと思います。でも、それは、私自身のあの時代には確かにあった一面だと思います。将来どうやって糧を得るかなんて関係なく、ただ、漠然に自分の夢に向かって進んでいきたい衝動に駆られた時代でした。私の場合はこの話の登場人物達みたいに、前へ進むことはしませんでしたが、常に夢は見ていたと思います。何事もかなうような感じ、頂点へはたどり着けないかもしれないけどチャレンジしようとしたところ、共感できたところは多いです。ただ、私自身、最後に雫さんみたいに現実的に戻れなかったのは、私自身、「受験戦争」に参加しようとは全く思わず、実際参加しなかったからに違いありません。

 学生というある意味で、いい加減な身分に甘えていたんだと思います。そのつけは、今の職業になし崩し的に付いたと言うところに付いてると思うんですが。でも、あのころは良かったと思っております。夢に向かって、突き進んでいこうとする純粋な人間がこの話にはいて、理解者もいて、そして何よりも、人生の終着駅を間近に控え、それでいて、今も楽しんでいる、おじいちゃん達がいたのが、ものすごくうらやましいですね。きっと、あの人達に「人生で楽しかったときは?」と聞けば、胸を張って「今だよ」っていってくれそうなかんじです。

 と、ここまで書いて思ったんですが、この物語って、自分が生きてきたあの時代にものすごく「重ね合わせられる」のがすごいんですね。悪をやっつけるヒーローも、銃撃戦の下を敵を倒すために突き進むヒーローもいないんですね。でも、良い映画ですね。

 この映画のことを見てはじめて、好きになりました。

1998/10/24





川の向こうからの訪問者 〜丘の上でのある一匹の猫との出会い〜  by 書き人知らず

 その街は私の住んでいる街からは決して近いとは言えない所にある。なにしろその街へは、大きいものだけで江戸川、荒川、隅田川、そして多摩川と4つの川を越えなければ行くことができないのだ。

 その街へ足を運んだのは、今回が二回目である。その街を初めて訪れたのは、まだ桜の花が街の至る所に見られる頃だった。しかし、私にはその街には友人や知人がいるわけではない。そんな一見私とは全く関係のないような街を二度も訪れた背景には、ある映画との出会いがある。「耳をすませば」その映画のタイトルだ。この映画をみてひどく感動した私は、ある時、たまたま映画に描かれている街が実在することを知った。それで桜の花が街の至る所で見られる頃に初めてその街を訪れたと言う訳だ。その時、桜の花の美しさとともに街が映画そのままだったことに感動したことを覚えている。とは言え、決して近いとは言えないその街を二度も訪れるとは、その時は思いもしなかった。しかし、私はその街へ再び足を運んだ。自分でもなぜだかよくわからない。わけもなく私に足を運ばせてしまうくらい街が私にとって魅力的であったというのが、その理由かもしれない。

 再び訪れたその街を歩いていると、とても見晴らしの良い小さな公園があった。映画のモデルとなったと思われるロータリーから西へちょっと行ったところだ。私がそこで煙草に火をつけ一服していると、一匹の猫が近づいてきた。とても人なつこいので、どこかの家で飼われているのだと思った。しかし、その猫は私のとなりに座りさかんに空腹であると言うことをうったえかけてきたのだ。私はこの猫に頼られてしまったのだ。しかし、ロータリーの辺りにある店は休みだったし、近くに店のある気配もなく、何か食べさせようにもどうしようもなかった。しかし、ちょっと遠い場所ではあるがコンビニがあったことを覚えていた私は、そこまで何かを買いに行くことにした。その猫にここで待ってろよ、とだけ言い残し、私はコンビニまで行きパンと牛乳を買った。しかし、再びその公園へ戻るとその猫の姿はどこにもなかった。

 その夜、台風5号の影響で、雨が降った。あの猫のことが気になってなかなか寝付けなかった。あの猫は無事だろうか。

 夜が明け、午後になると台風が嘘だったように、空には雲一つない青空が広がっていた。そんな青空を洗濯物の隙間から見ていると二階に住む同じ大学の先輩が、「昨日出かけてたでしょう、どこ行ってたの。」と声を掛けてきた。それに対し、わたしはこう答えた。「ちょっと川の向こうまで煙草を吸いに。」

 あの街を再び訪れるの日は、そう遠くない。

1998/09/20





クレモナ旅行記  by ごま


 僕は、この作品を映画館で見ました。たしか3年前の今ごろだったと思います。その時の感動(特にラストシーン)が忘れられなくて、今でもふとした時にLDやフィルムコミックを見たりしています。

 ところで、僕は去年イタリアにいく機会があって、クレモナにも行ってきました。ミラノ中央駅から1時間半ぐらいの距離です。つくとそこはとても静かなたたずまいで町を歩いていると、バイオリンを作っている音がいたるところから聞こえてきました。僕はクレモナでドーモ(大聖堂)や、バイオリンの博物館を見てきました。博物館には、バイオリンを作る行程が非常に分かりやすく表現されていました。

 また数億円もするバイオリンも展示されていて、バイオリン職人は「こんなバイオリンが作れるようにがんばろう。」と思っているに違いないと思います。あとは土産物のお店でクレモナの名産のトローネというお菓子を買いました。そのお菓子はバイオリンの形のした白い飴のようなお菓子です。食べるととても甘くておいしかったです。というわけでクレモナは本当にバイオリン作り一色でした。本当に「見ると聞くとは大違い」でした。なぜなら、バイオリン作りの環境に最適だからです。

 ここで修行をすれば、きっと一人前のバイオリン作りになれると思いました。

1998/09/11





丘の街へやってきました。  by Masataka

 僕は8月の初めに、神奈川からこの物語の舞台となった聖蹟桜ヶ丘へ越してきました。社会人一年生である僕は、仕事場が府中本町近くなもので、小田急線での通勤に嫌気がさし、職場の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めました。この地に来たとき、どこかで見覚えのある建物や、街並み、そして坂道などが数年前にTVで見た「耳をすませば」を思い出させました。

 はっきりいって驚きました!アニメーションという言わば創作された世界がこれほど現物と似ているなんてびっくりしました。引越しが片付いてから、早速レンタルビデオに入会して、耳をすませばのビデオを借りてじっくり見てみました。

 数年前に見たときの印象は、「宮崎さんらしいさわやかな余韻の残る映画」という感想でしたが今回改めて見直してみると、ビジュアル的なリアリティを感じさせるというか、この街の躍動感がアニメを通じて伝わってくるようでした。駅前の雰囲気はまさにアニメそのものと言っていいほどです。

 この街に住んで10日間ほど経ちます。そうですねえ・・・この街の特色としては、駅前の川崎街道沿いは電信柱一つない整備された大通りで、ある種のヨーロッパ的な感じがします。また、駅ビルの京王百貨店では何でもそろえられるので、全く不便さを感じさせない「使い勝手のいい街」です。

 ちなみに、マイルームは川崎街道沿いなので、物語とは全く縁のない場所ですが、雫がムーンを追いかけたり、地球屋へ行くときに登っていた桶の上に続く坂道を部屋の窓から見渡せるので、たまには、この物語の余韻にどっぷりつかってみたいと思っています。

 何も知らずに、「便利な街」というイメージだけで、たまたまこの丘の街にやってこれた僕は非常にラッキーかもしれません。2〜3年はこの街に住みついているでしょう。転勤さえなければ・・・

1998/08/09





恋物語  by 純一

 私が感動したのは、西老人と主人公雫との心の交流です。恋愛感情や男女関係を超えた人間関係の一つのあり方を見事に描いている作品だと思います。男性が結婚して年齢を加えていくと、とてもかわいくてきれいで健気な女性に出会っても、自らその女性と恋愛感情を伴う関係に入ることはできない。でも、愛情を注ぎたくなる場合は往々にしてある。そんな時、この西老人の雫に対する接し方はとても大人を感じさせるすばらしいものじゃないかと思うのです。

 西老人の過去の女性のルイーゼの残映を、私は雫に見出しているんだと思います。夢うつつで見た彼女との想い出の最中に、雫が作品を持って地球屋を訪れ、老人が思わずルイーゼの名を呼ぶところが、その黙示であると思うのです。雫はルイーゼの生まれ変わり、ないしは化身です。「耳をすませば」は、時を超えた西とルイーゼの恋物語そのものです。

 しかしここには当然ながらラブシーンもなければ、老人自身が雫を女性としてみている場面はありません。むしろ、老人の孫である聖司を老人の化身となし、ルイーゼの生まれ代わりである雫と対面させていると見るのがいいかもしれません。見えない糸でつながれた二人は、孫の世代になって初めて結ばれようとしているのです。

 西老人は、雫が古時計に関心を示したことで、もしかしたら彼女をルイーゼと重ね合わせていたかも知れません。男爵が雫に反応したのも、長年失われた連れの残映を、雫の中に見出したかもしれないのです。

 この伏線は、雫が作品を持って夕暮れ時の地球屋を訪ねて、見事につながるのです。そしてその物語の内容で、西老人はすべてを知り、雫の中にあるルイーゼの残映を、現実のものとして眺めているのです。彼の心の中では、相当大きなインパクトがあったに違いありません。

「これは驚き。雫はルイーゼの生まれ変わりではないか。」

 しかし彼はもはや年老い、自らは身を引きつつ、後進の人々を幸せにしていくという使命感を持っていたに違いありません。

 彼は何事もなかったかのように、雫に向かって、静かに、そして優しく誉めた後、「あなたは素敵です。」と言ったことが、彼の雫に対する愛情を如実に示してます。このあと雫は、思わず泣き始めてしまうほど、心の琴線に触れているのです。西老人は、このとき、必要最小限の言葉しか言っていないと思います。多くを語らないことが、雫のためにも、自分のためにも、そして(いまは亡き?)ルイーゼのためにもいいと判断したのではないでしょうか。

 「あなたは素敵です」と言う言葉は、恋人に言うには抑制された、そして、そうでない人に対しては少し踏み込んだ、絶妙の表現です。ここに、西老人の雫に対する微妙な感情が少し表れているようで、興味深いのです。

 そして雫は運命の糸に絡まれつつ、老人の孫のプロポーズを受けます。。。たぶん、西老人は、ルイーゼとの一瞬の心の交信に興奮を覚えるとともに、彼女とのつながりは数十年たった今も、そして彼女がこの世の人ではないとしても、生き続けていると感じ、幸せだったに違いありません。この物語は、雫と聖司の恋物語であるとともに、西とルイーゼの恋物語でもあるのです。この両義性が、多くの人々を引き付けるのだと思います。

1998/06/17





丘の町を訪ねて  by ジジ

 作品の感想とは直結しませんが、物語の舞台となった聖蹟桜ヶ丘近辺に行ってきましたので、その時の感想です。

 『耳をすませば』関連のHPには、よく舞台となった聖蹟桜ヶ丘近辺の写真が載せられていて、それらを見るうちに自分も実際に行ってみたくなりました。作品の中では雫が京王線に乗ってムーンと出会い、杉の宮駅(聖蹟桜ヶ丘ですね)で降りて横断歩道を渡った所でムーンを見失いますが、その設定を再現(?)するには電車で行く必要がありますが、今回は大ざっぱにどんな所かを下見に行くという設定で、車を走らせました。

 まず現地に着いて驚かされたのが、街並が物語のそれと全くと言っていいほど同じであることでした。本来ならば、特に地元の人にとってみれば、『物語の描写が自分たちが住む街に似ている』となるはずですが、聖蹟桜ヶ丘を知らなかった私にとっては『実風景が物語に似ている』と感じられてしまったのです。まず行き着いたのが聖蹟桜ヶ丘の駅前の交差点でした。ここから丘のほうに向かって『さくら通り』が走っていますが、その時は『いろは坂』方面に向かって走ったので、バックに広がると思われる駅前風景は特には見ませんでした。

 川にかかる霞ヶ関橋を渡ってすぐに急な勾配がはじまりましたが、ちょっと登るとすぐに『いろは坂』だとわかりました。坂を一つクリアすると、ちょうど坂をショートカットするように上の道と下の道を階段で結ばれていているのが見えました。ここは写真を撮りたかったのですが、車を停める場所が全く無いのであきらめました。坂をどんどん登っていくうちに、どこからか雫が飛び出してきそうな気配を感じて、半分危険を感じ、半分飛び出してきて欲しい・・・という気持ちになりました。

 もうこの時点で物語の世界にハマってしまっています。(笑)

 地球屋のロータリーにも行きました。ここは端に車を停められたので写真を撮りました。近辺にもう一つロータリーがあるようでしたが、そちらは行きませんでした。次に、念願の『秘密の場所』へ行こうとしましたが、道が入り組んでいて少し迷ってしました。ようやくたどり着いて見た景色はビルが増えて遠くまでは望めないものの、『素晴しい』の一言に尽きました。これで朝だったらバッチリ決まりますが、ラストシーンを体で味わった感じがして、思わず鳥肌が立ってしまいました。

 秘密の場所をあとにして再び桜通りを駅方面に向かいましたが、今度は駅前交差点に差し掛かったところでムーンを見失った場所を信号待ちの車の中から写真を撮りました。といっても、雫が立ち止まった場所にあった建物が工事中で、イマイチ雰囲気に欠けていましたが・・・。でも、京王のショッピングセンターや駅の入り口などはほとんど一緒で、これは何度見ても関心します。そこに行くだけで物語の世界に入ることができる、不思議な空間でした。

 最後に、少し離れた愛宕にある団地と給水塔を見に行き、給水塔の写真を撮りました。こちらも物語の描写がとても正確で(はかったように正確というよりも同じ雰囲気の出し方がうまい)、おもわず脱帽といった感じです。

 今回は車での下見に終りましたが、次回は電車で行ってじっくり歩いてみようと思います。図書館への近道の階段も実際に登り降りしてみます。杉村がふられた神社にも行ってみたいです。ウォークマンで『サントラ』と『イメージアルバム』、『地球やにて』を聞きながら・・・。

 一番見たいのは、秘密の場所から眺める夜明けのシーンですが、これからは日の出の時刻がどんどん早まって、始発で行っても間に合わないような気がします。これを見るには、電車が動かない時間に車でまた行く必要がありそうです。

 ここまで『丘の町』に魅力を感じるのも、『耳をすませば』を心から好きだからに他ならないと自分で思います。また、実際に行ってみてさらなる感動を覚えられた事をとても幸せに思います。私は同じ東京でも大田区在住なので、聖蹟桜ヶ丘の住民がとても羨ましいです。

 今度引っ越すとしたら、『丘の町 コンクリートロード』かも・・・

1998/03/10





自分の心の中にしかないもの  by ひろあき

 僕は今19歳の大学一年生ですが、僕と同じくらいの年の人は、この映画を見てみんな一様にある種のショックを受けたのではないかと思います。特に、自分を飾ってしまう人や、どうしても周りに流されてしまいがちな人。しかも、そんな自分が嫌だなと気づいている人。誰しも、友達の中で注目されたくて、誇張してしゃべってしまったり、仲間はずれにされるのが嫌で、したくもないのに言いたくもないのに周りの友達に歩調を合わせてしまったりしたことがあるでしょう。

 僕は、自分を飾ってしまう人でした。いや、過去形にはまだなってないのかもしれない。そんな僕にとって、「耳をすませば」の登場人物達は、あまりにまぶしすぎました。みんな、とてもつよい人たちですよね。素直に自分のやりたいことをやっていて、物欲、名誉欲、と言ったものをまったく持たない。それが当然になっている。これはなかなかできないことだと思います。

 まわりを気にせず、自分を貫き通すこと自体難しいのに、その「自分」が何なのかさえ分からない人は多いと思います。それはつまり、自由が与えられた時、何をしていいか分からないということです。これって、よく考えればすごく恐いことだと思いませんか?何か、生かされてるって感じがするのは、僕だけでしょうか。僕は大学で、目的を失ってサークルに入ってぶらぶら無駄な時間を過ごす人たちをたくさん見てきました。彼らが悪いと言っているわけではありません。でも、僕は彼らが本当に笑っているのを見たことがない。何か自嘲的な笑顔しか見たことがないんです。目元を見れば、本心から笑っているかどうかが分かりますよね。そう、目が笑ってないんです。

 この映画から感じ取ったことは余りにも多く、とても言葉では表せない郷土への思いなどもありますが、僕が一番感じたのは「本当の幸せ」はなにかということです。僕が小学生の頃から、「夢」とか「幸せ」を口にする奴は、ことごとく「寒い」のひとことで片づけられ、しかも嘲笑を受けると言う風潮がありました。これがバブル時代の副産物だとか、そんなことはどうでもいいんです。ただ、その風潮が今も続いているって言う事実がある。今、心から幸せと安らぎを感じている人が果たしてどれくらいいるんでしょうか。物欲、名誉欲、優越感。全て、上を見ればきりがないものばかりです。本当の幸せは、「自分の心の中にしかないもの」だと、この映画は教えてくれた気がします。

 雫たちを見て、飾っていた自分がすごく情けなくなりました。飾っていても、一度も満たされたことはなかったのに・・・。もう一度、自分の心に正直になってみようと思えたのは、「耳をすませば」のおかげに他なりません。そうやって、素直な目でいろんな物を吸収していければ、必ず何か見つかると今は信じています。子供の頃の限りない好奇心が、今の僕の原動力です。

1998/03/01





「イバラード」の街に住んで  by のこのこ

 私も実は、京王線沿線に住んでいます。聖蹟桜ヶ丘駅から、もう少し八王子よりですが。雫の住んでいた百草団地は、私が幼いころに住んでいた団地です。ほんとに汚いんですよね。

 映画が公開されたころ、私は大坂の大学に通っていました。日本にたった一つしかなかった児童文学科に行きたかったのです。まあ、それよりも、一人暮らしというものにあこがれていたんですが。私がアパートを借りていたのは、大阪の茨木市というところでした。そう、あの「イバラード」のモデルになったところです。

 今は、大好きだった茨木の街を捨てて、東京に帰ってきてしまいました。独りで暮らして行く勇気がなくって・・・。そして、童話からも、絵本からも程遠い仕事をしています。

 この映画を見ると、大阪での楽しすぎた思い出や、友達のことを思い出して涙が出ます。いくつかの共通点を雫に見出しながら、私の方はこうして夢をイバラードに残したまま、東京という私にとっての現実に戻ってきてしまったわけです。

 物語にあまり関係ないところで思い入れが強い作品です。長々、最後まで読んでくださってありがとう。

1998/03/01





「耳をすませば」の感想   by かなえ

 初めまして、佐藤香苗です。私はこの一年、何度、この作品を見たか分かりません。それくらい、この話、イラストに惹かれています。映画館で、この作品が上映された頃、私の妹がこの映画を友達と見に行きました。そのころ、私は、原作の方でしかこの話を知らず、妹から、「だいぶ違った話になってたよ。」と言われて、何となく気になったので、ビデオが出てからしばらくして自分で借りて見てみました。その時、たまたま家には私一人しか居らず、ゆっくり見ていたのですが、このときほどこの作品にはまったことはありませんでした。

 雫ちゃんのように、私も本の大好きな子でした。しかも童話とか、魔法の本とか、妖精の本とか、そんな分野のものばかり読んでいたので(実は今もかなり好きですよ)、雫ちゃんの気持ちがとても身近に感じたのです。そして年齢的にも初めての受験という不安な時期に、小さな心の中で色々なことを考えて、悩んで、自分の答えを見つけていく、そんな、当たり前かも知れない姿がとても心に残りました。おじいさんに、自分の物語を認めてもらい、「よく頑張りました。あなたは素敵です。」と言われたときの雫ちゃんの気持ちは、きっと、言葉では言えないくらい、嬉しいものだったと思います。あのとき、私も雫ちゃんと一緒にボロボロに泣いてしまいました。

 それ以来、何度この作品を見ても、泣いてしまうのです。この作品を見る度に、自分が励まされるような気がします。去年の12月に、私の妹が、誕生日のプレゼントとしてこの映画のビデオを送ってくれました。きっと、テープがのびてしまうくらい、繰り返し見ることでしょう(笑)。ちなみに、私は、この作品の中で、雫ちゃんの次に聖司君が好きです。こんなかっこよくて、頭も良くて、優しい男の子が身近にいたらいいのになと思ってしまいます(笑)。あ、でも、このホームページの「番外編:聖司君のツッコミ」には笑いました。

 ともあれ、こんな素敵な作品を作って下さってありがとうございます。私の夢あふれる宝物にしたいと思います。

1998/02/02





『耳をすませば』を見て  by 天野瑞木

 僕がこの作品を初めて知ったのは僕が親の都合でアメリカに行っている時でした。その頃から僕は宮崎駿先生の作品が大好きで全部見ていましたが、「好きな人ができました。」というコピーを見た瞬間いかに宮崎先生の作品が好きでも恋愛モノはなあーとかってに思い見る気をなくしてしまいました。

その後、ほぼ半年経ってから僕は日本に帰国しました。僕はその頃、中3でした。そのある日、レンタルビデオ屋で不意にこの作品を見かけ、借りました。その中で僕はなんだか分からないけど胸が熱くなりました。どうしてこんなに胸が熱くなるのか、どうして心が安らぐのか、今の僕にはよく分かりませんでした。

 ビデオを見てからほぼ1年たちもうすぐ「もののけ姫」が放映されます。僕は今回の映画も見逃せません。

1997/07/02





カッコイイとは、『耳をすませば』のようなことさ。 by 星切正人
〜カラクリ時計をサカナに、解釈のお遊びを少々〜

 西老人が雫に見せた古びたカラクリ時計は、うまい小道具でした。ドワーフの採鉱は、この『耳をすませば』のテーマを明快に図解するものでしたし、それを見た雫の「ドワーフですね」のセリフは、彼女の性格を西老人に瞬時に理解させ、二人の心の結び付きを作る契機となりました。また、王子様と妖精との叶わぬ恋は、後に語られる西老人の青春物語を予告するとともに、その乙女チックなメルヒェンは、雫が味わうことになる実際の経験といい対照をなしていました。

 さらに、この時計は、その本来の時を刻むという機能を果たすことで、雫をあわてさせ、聖司との再会をおぜん立てします(時の音が人を急がせるというのは、物語の古典的手法ですね)。

 この地球屋での場面が終わると、この時計は、さっさと姿を消してしまいます。ところが、そのことが、西老人が職人であることを語り、加えて、雫、聖司と老人たちのセッションを用意するという周到さでした。

 このように、このカラクリ時計は、登場人物たちを結び付け、以降の話を予告しつつ、作品のテーマさえをも語ってしまおうという、作劇のためのカラクリでもあったわけです。見事なもんだと思いました。

 ところで、この八面六臂の活躍のカラクリ時計ですが、画面に出ているのは、ほんの短時間です。用が済めばとっとと姿を消します。小道具の分をわきまえた潔さですね。が、しかし、物語の展開の要となっている。姿は見えねど、作品を支配しているわけです。いや、はっきりと、作品を作っていると言ってしまいましょうか。そう考えるならば、その存在感は圧倒的で、物語前半においては、バロンでさえも、影が霞んでしまいそうです。

 この時計には「porco rosso」と銘がありました。『紅の豚』ではポルコは主人公として作品に出ずっぱりで、未練がましく空を飛びまわっていました。対して『耳をすませば』では、ちょい役にもかかわらず作品を支配し、しかも引き際はちゃんとわきまえている。これだけの仕事を果たしておきながら、あっという間にいなくなって、はいサヨナラ。レールは引いておいたから、後はお好きなようにってのは、キザなぐらい、カッコ良すぎるのではないでしょうか。

 爽やかな若者たちの恋物語をおぜん立てしながら、しかしあくまでも黒子に撤する。まったくシブいじゃぁありませんか。『耳をすませば』という作品は、こうして、ダンディズムの別の有り様を、「カッコイイとは、こういうこと」のいま一つの面を物語っていたのかもしれません。

 ただ、なにぶん、この時計はもう歳です。レストアに出されて、修理されつつ、ようよう生き永らえているわけです。髪の毛が真っ白になったり、腰痛に悩まされたりしながら、老体に鞭打ち、若い者が自らの物語を紡ぎ出そうとする手伝いをし、そして人知れず消えていこうとする。そのようにポルコの仮面をかぶってカッコつけるのもいいですが、お体をご自愛いただき、すばらしい次回作を見せていただくよう、心からお祈りしたいと思います。

1997/04/19





丘の町の空  by 長坂 寛

 「耳をすませば」との出逢いから四季が一巡りした。その間数えきれないほどこの映画を観かえし、また幾度となく丘の町を訪れた。

 黄昏の丘の上に佇み、いつしかここで私とともに旭日に照らされるひとはどんな女性だろうと、端から見れば馬鹿としか言いようのない惚けた顔であてどない空想に浸っては、この夕陽が沈めば今日が終わり、明日には日常に戻らねばならぬ身にふと気がついてとぼとぼと家路に就く、そんな休日を幾度もすごしてきたような気がする。

 ある日空を見上げて気がついた。それは自分が今住んでいる町に映える夕陽が、丘の町の夕陽と同じくらい美しいということ。

 7階建てマンションの最上階からは、見遥かす彼方、都心方面まで一望千里視界を遮るものはない。夕方、丹沢の山の端に沈む夕陽が眼下の町並みを橙色に塗り替え、払暁、旭日が地平線の空を紅に染めながら夜明けの音を集めて昇ってゆく。二十五年間この家に住み、昼夜の狭間の光景に心を奪われたのは、この半年来のことである。

 だが私をとらえたのは自宅の空だけではなかった。夕刻、取引先から事務所に戻る道すがら見上げる五反田の空。都心からの買い物帰り、田園都市線の車窓から見上げる多摩川の空。われ赴くところ常に空を見上げる喜びがある。丘の町でしか出会うことができないと思い込んでいた空の色にどこでも触れることができる、そのことに気がついたとき、私の魂は丘の町の幻影から解き放たれた。

 空が茜色に染まるとき、私の時間は止まる。自宅、都心、聖蹟桜ヶ丘、どこから見上げても、変わらないのは夕陽と旭日の色。照らされる町並みが違っても、照らし出される色はいつもあの橙色だろう。けれど私は再び丘の町を訪れる。映像の風景に憧れて訪れた丘の町の夕陽が、私にはじめて空の美しさを教えてくれた。その原風景との邂逅にささやかな感謝を捧げるため、また坂道を登って行こう。

1997/04/07





もう一度振り返る  by LOUDNESS

 4/1に、初めてこのぺージを知りました。

 今は「もののけ姫」で、僕の頭の中は一杯ですが、このページを見て「耳をすませば」を思い出しました。初めて見た時は、去年の春で、毎日がつまらなくて意味のない物に思えていた時でした。ぶっちゃけた話、「自殺しようかなー」などと考える日々でした。

 そんな時、テレビで「ナウシカ」が放映され、見た後、心に電気が走りました。昔見たときには全くおもしろく思えなかった「ナウシカ」だったのですが、その時は他の事が何も考えられなくなるくらい「すごい作品だ」と思いました。4日後、レンタル屋に行くと、「耳をすませば」がありました。

 「あっ、宮崎 駿がつくったやつだ!!」「ナウシカ」で気になっていた人なので、迷わず借りました。それが、その後の僕の全てを変えました。見た後、自分が情け無くなりました。。天沢 聖司は、夢が叶うかどうかが不安で、必死に動いているのに、僕はと言うと、夢も希望も探そうとせずに、毎日がつまらないと思い込み、何もしない・・。そういう自分に気付いてしまった時、愕然とし、茫然自失になりました。そして、「こうなったら、自分で自分を変えよう!」と決心しました。

 それから、宮崎 駿さんの本を読んだり、全く偶然にも宮崎 駿さんと筑紫 哲也さんの対談を見たりと、したこと・あったことが色々有るのですが、ここでは控えておきます。しかし、したこと・あったこと全てが、僕の心の栄養・喝になりました。

 こんな事があって、僕の心には「耳をすませば」が刻まれました。今では、少しはましな生き方ができていると思います。(何がましか?は、よくわからんが)このきっかけは、「耳をすませば」が作ってくれました。僕の「生きる」事を支えてくれたジブリ&宮崎 駿さんに、感謝を表しつつこのへんで・・・。(稚拙な文ですいません!!)

PS 「耳をすませば」を、うちのおやじは「よく理解できん」と言いました。やっぱり「この映画は、おじさんの若者に対する挑戦状」by宮崎 駿(「耳をすませば」のパンフレットより)なんでしょうね!

1997/04/01 広島県





忘れていたもの  by 来栖奈緒

 私が「耳をすませば」を観たのは、映画が封切になってから1ヶ月近くもたってからです。何故そんなに経つまで観に行こうとしなかったかといいますと、正直にそこまでこの作品に期待を持っていなかったからです。個人的に私は映画における「恋愛もの」が苦手でしたので、いくらジブリ作品といえども、「好きな人ができました」というコピーを聞いた瞬間「ああ、これは私好みの話ではないなあ。別に率先して観に行く必要もあるまい」とばかりに、一歩退いてしまったのです。

 そんな私を尻目に、当時小学4年生と中学3年生だった従姉達が「耳をすませば」を観に行ってきました。そして帰ってきての開口一番が「私、やっぱりあきらめないで将来小説家になるよ」だったのです。これを言ったのは中学3年生の方で、彼女は小さい時からずっと小説家になると言っていたのですが、いろいろな諸事情からいつしかその夢は消えてしまい、その職業を口にする事もなくなっていたのです。なのにいきなりそんな事を言い出したものですから、私や家族は面食らってしまいました。小学4年生の方が、「雫ちゃんがね、物語を書こうとしてがんばるお話だったんだよ」と言ったので家族はああ、なるほどね、と納得していましたが、私はそれだけじゃあないだろうと思い、次の日「耳をすませば」を観に行ってきました。

 雫も聖司もまるでもう一人の私自身だ、というのが率直な感想です。どういう事かと言うと、思春期に私が思い描いていた将来の夢−それに向かって小さな歩幅で進もうとするが、数々の障害により、その道をあきらめてしまい今に至る自分。しかしあの時、もしその小さな障害を自分なりに乗り越えていたらその時間違いなく私は「雫」や「聖司」になりえたのです。

 私がまさに障害にぶつかって右往左往していたあの時にこの映画を観ていたら、いったいどうなっていただろう、と思います。月並みな感想ですが「耳をすませば」は、大人世代にとっては忘れていた何かを思い出させ、子供世代にとってはこれからの長い人生のうちの一つの見本となり、そして子供以上大人未満の思春期世代にとっては、何かしらの道標になる素晴らしい作品だと思いました。

 蛇足ですが、いまや高校生になった従姉は数々の障害にも負けず、この作品を心のバイブルとして日々小説家になる為に努力しております。

1997/03/30





作品のリアリティー  by いろは坂

 「耳をすませば」は、そのストーリー性もさながらリアリティをも合せ持たせ、作品をより身近に感じさせてくれています。従来、ジブリ制作の作品は綿密な描き込みに定評のあるところですが、今回は「天空の城ラピュタ」や「魔女の宅急便」などといった一種、ファンタジー的な作品世界ではなく、ごくありふれた現代日本の風景を舞台としています。ファンタジー世界の作品描写であるならば、その世界を全くの白紙から創造していけるのですが、実際にある風景を描写していこうとすると、もとになる風景や物に拘束されファンタジーのものより、かなり手間が掛かると聞きます。

 この「耳をすませば」では、身近にあるニュータウンの団地や学校、図書館、電車、住宅街などといった、本当にどこにでもあるような風景を舞台にしていますが、前述の通り、絵や音などといった描写には目を見張るものがあります。まず、オープニングに夕闇迫った聖蹟桜ヶ丘付近を俯瞰的に表現されたシーンがありますが、ここでの細かな動きがすごい。多摩橋梁を渡る京王の電車、渋滞でのろのろと動く関戸橋の車の列、輝度の変化するネオン。実際に、付近を空撮でもしない限り、あそこまで臨場感のある絵は出来ないでしょう。そして、駅前にあるファミリーマート、雫の住む団地の中などにおける描写では、その色の使い方に唸ってしまいました。ファミリーマートではコンビニ的な高い照度の店内が再現されていたり、逆に雫の自宅内の生活感あふれる雑然とした雰囲気(薄暗く、くすんだ色使い)がまるで実写の如く表現されています。他に、地球屋店内の色使い、金毘羅さん境内での木漏れ日の表現(ちなみに、この場面の雫の心情の変化が顕著に表れている一挙手一投足がお気に入りです。)がいいですね。

 以上のような映像表現の他に、音響に目を向けてみますとこれまたすごい。日本の映画での使用は初という、ドルビーデジタル(6ch)を採用して、縦横無尽ともいえる音場を作り出しており、全編に渡って非常にはっきりとした音を再現しています。例えば、雫がバロンとイバラードを飛翔するシーン、風を切って進んでいく様子がまるで自分が空を飛んでいるのではないか、という錯覚を覚えます。(イバラードのシーン、映像、音ともデジタル処理の賜物ですね)

 しかし、残念ながら、この音、放映する映画館にこのドルビーデジタルの再生システムが装備されていないと、従来の2ch再生をしてしまい、本来の意図する音が聴けなかったんですね。ビデオ版やLD版?も基本的に2chしかサウンドのトラックが準備されていない為、単純計算3分の1しか表現されていないことになるのです。意図する音を鑑賞するには、多チャンネル対応をうたうDVD版の「耳をすませば」の発売を待つしかないようです。

 以上のようなギミックですが、いくら映像が描き込まれても、微妙な音を表現しても映画館でそれを認識するのには限界があるのは否めないところです。(実際、映画館では気がつかず、家庭のビデオ上で描き込みの細かさ、音の繊細さに驚くことが多い)それは承知の上で、何故、あえて表現していこうとするのか。そこに、ジブリ=宮崎監督のポリシーが貫かれているのではないでしょうか。それも、作品を追うごとに前面に押し出されていく...。

 宮崎監督自身が総指揮にあたる、次回作「もののけ姫」、今から楽しみです。

1997/03/30





大人への階段  by しもなかたろう

 「耳をすませば」という作品は、少女漫画が原作になっていますので、ともすると“ただの恋愛物語”と評価されてしまう事もあるかもしれません。 しかし、私はこの物語に、原作には希薄だった“大人への成長”というものを感じるのです。

 主人公である雫は、物語の世界を愛する、言うなれば子供じみた面を持っています。私自身、親の影響からか、昔から本を読むことが大好きでした。ですから、涙を流しながら本を読む雫を見たとき、言いようのない感慨がありました。涙を流すことのできる物語に出会えた、というのはとても貴重なことですし、私にも経験がありましたから。そんな雫に対し、聖司は夢を実現するために努力する、大人のように描かれています。

 でも実は、そんな聖司は、“雫から見た聖司”なのではないかと思うのです。その日その日をなにも考えずに生きている雫にとって、将来を見据えて行動している聖司は、大きなものに見えたことでしょう。そしてそれを知ったとき、彼女は「大人への階段」を上り始めたのだと思います。

 その証明として、雫は「物語」を創りました。

 翻って私自身を考えてみると、一体なにをやっているのだろう、と考えてしまいます。聖司や雫は中学3年にして将来を見つめているのに、自分ときたら、大学4年にもなって、未だに自分を理解できていない部分があるように思ってしまいます。まだ、本当にやりたいことが見つかってないだけなのかもしれません。しかし、見つける努力をしなければ、見つかるはずもないのです。いま、私は就職活動中ですが、今後の自分の人生を後悔することがないような、そういう仕事をしていきたいです。

 雫は、本を読むだけでなく、それを糧にして大人へと踏みだそうとしています。私も、そんな彼女を見習わなければなりません。

 せっかく、同じ「本好き」なのだから。


1997/03/30





関わり合うことの大切さ  by ヒトコ

 私は夫と小学生の息子と3人で、多摩ニュータウンに住む主婦です。
「耳をすませば」は「平成狸合戦ぽんぽこ」に続き、劇場に足を運ぶ事が出来た2作目のスタジオジブリ作品で、当時幼稚園児の息子と一緒に観に行きました。2作連続で地元が舞台というのには驚きましたが、雫たちが歌った「コンクリートロード」なんか聴くと、舞台に関してだけで言えば「ぽんぽこ」その後という感じもしました。

 「耳をすませば」の物語が心に染みてくるのは、主人公の雫が他者とのコミュニケーションを通して自分を確認し、一歩ずつ前へ進んで行く過程を、細やかに描いているからでした。大人から子どもまで、他人との関わりが稀薄になりがちな現在に、あえて理想的なまでの関わり合い方を見せつけられて、かえって新鮮な思いがしました。

 「カントリーロード」の最初の訳詞に自信の無かった雫は、夕子に批評を求めながらも、自身の迷いを茶化す様に「コンクリートロード」を披露したりしていましたが、西老人と地球屋の出会いを経て、「ダメだ!」を克服して友人達の共感を得る訳詞を完成させました。この成功体験が、聖司の「全然ダメさ!」を打ち消す様にヴァイオリン演奏を促し、自身の訳詞で歌う雫の、ちょっぴり自信に満ちた表情につながるあたりが好きです。

 その自信が、聖司に触発されて創作を始める時の土台になっていると思いました。それは、さらに自分自身と向き合う事を強いられる苦しい作業でしたが、両親の理解や西老人の励ましを得て、より大きな達成感と、今自分のすべき事を知る結果となりました。現実はそう上手く運ばないかもしれませんが、トライしてみる勇気を持ち、自分なりに結実させる努力をした雫の態度には、流され勝ちな日常を送る主婦の私も、常に前向きで生きる為に何が必要かを考えさせられました。

 そして、夕子や聖司との会話に、学校での様子に、そして神社の境内での杉村とのやり取りにも、迷い揺れながらも誠実に対応し前進する雫の姿を見ました。これには、埋もれていた懐かしい感情を思い起こされ、その時の痛々しさが自分の中に甦って来る様でした。それは、傷つくのが恐くて、正面から自分と向き合い自分を試す事から逃げていた自分や、和やかな関係を壊すのが恐くて告白出来なかった片思い、今更ながらの後悔と反省。それだけに、悩みながらもしっかり自分と向き合おうとする雫たちを、とても愛おしく見つめてしましました。

 聖司との関わりも、恋愛の対象として、自分の可能性に向かう者同士として、時に喜び時に自信を失いながらも、認め合い高め合って、お互いに自己確立への糧になっている、二人だけの世界に埋没しない、理想的なカップルになりそうな爽やかさを感じました。ラストの「結婚してくれ」も、中学生が言うかなぁ?と最初は違和感がありましたが、監督らが、これから二人で前向きに生きて行こうとする決意をも込めたセリフと知り、納得しました。

 また「結婚」を素直に口にし、素直に受け入れる二人を考えたとき、それぞれの家庭の健全を感じました。家庭にネガティブなイメージを持っていたら、たとえ異性として好意を持ち合っていても、「結婚」という言葉があんなに抵抗感なく出ないような気がしました。こんな雫たちの健やかさを思うとき、自分自身が母親として、月島夫妻や西老人の様にきちんとエールを送れる存在になれるだろうか、と言う大きな課題をも、この映画から与えられた様な気がします。「頑張ってる人に、頑張って!なんで言えないよ」 そう、「私も頑張る!」

 「耳をすませば」のもう一つの効用は、地元を見直すって事でもありました。それまで車でしか通った事が無い「いろは坂」を、息子とふたりで何度も歩きました。前から知っていた水道塔やロータリーの他に、坂の下の橋が「霞ヶ関橋」だって事も、坂の上にあんな御社があるのも、天守台(アニメでは「天守の丘」でした)も、初めて知りました。見慣れた風景も、あらためて眺めると新鮮に映るし、身近過ぎて見逃している所も沢山あるものだと思いました。

1997/03/22





メッセージ  by KEIJI

 「耳をすませば」は、何度見ても色あせない作品です。メッセージが多いため、僕の場合、見る度に耳をすませばは何を伝えたかったのかの解釈が変わります。皆さんが、この作品の感想を述べる際、文章が拡散してしまうのもそのせいだと思います。

 一言で言ってしまえばこの作品は「感じ取る」作品だと僕は思います。

 この作品を、初めて見たとき感じたことが、
「他人ごとではないような気がする。」
でした。耳をすませばに出てくる丘、坂の道、団地、そして、雫、聖司、すべてがとても近くに感じました。そのため、個人的なことですが、雫と聖司が現実にはいない人物だとは、思いたくないのです。

 物語の中で、何度かカントリーロードが流れますが、それぞれメッセージが込められているように感じました。感じたことを言葉にするのは簡単ではありませんが、できる限り伝わりやすい言葉で表わしました。

   オープニング :目標、完璧、大人、将来。
   聖司の前で歌う:始まり、開拓、希望。
   エンディング :成長、達成感、その後。

 オープニングから順に表記してみましたが、ここで一つおかしなことに気付きます。物語の中盤にでてくる、聖司のバイオリンにあわせて歌う場面ときに「始まり」を象徴する言葉がきています。そしてエンディングで「成長」に至り、何故だか「結果」を象徴するものが一番初めにきているのです。つまり、この物語は「結論」から始まっているのです。皆さんは、どう感じるでしょうか。

 雫の成長と大きく関わっていることは確かですが、僕はこれが、思春期を終えたばかりの人、もしくは迎えている人、に支持が集まる理由の一つではないかと思います。つまり、「結論」から始まるというのは「見つめ直す」「振り返る」「思春期に帰る」といった意味があるのだと思います。

 僕の場合、思春期を振り返ると同時に、何でもないような日常生活をこと細かく描写したスタジオジブリによって、あっという間に耳をすませばの物語の中(杉の宮)に引き込まれました。

 雫がカントリーロードの訳詞をしていることや、校庭のベンチ、保健室でカントリーロードを小さく歌っている場面がありましたが、これも「カントリーロードの重要性」を視聴者に根付けさせるためではないかと思いますが、どうでしょう?

 長い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。
なにか思ったことや感じたことなどありましたら、下記までメールを頂ければうれしいです。返事は必ず出します。
それでは。

1997/03/18





『耳をすませば』に見る鉱物  by にしべ

 「耳をすませば」の中ではいくつかの場面で鉱物が出てきます。それらの鉱物の由来や意味を知れば、この物語をより深く感じることが出来ると思います。

○緑柱石(エメラルド) 

 緑柱石はその名前とは少し違っていて色々な色(緑,水色,黄色,赤,無色透明など)を持つ六角柱状の結晶です。この中でエメラルドは透明感のある上品な深い緑色で古くから人々を魅了してきました。

 「地球屋」の主の西老人は、物語を書こうと思い立った雫に母岩についたエメラルドの原石を見せます。西老人が言うように、この原石は外側は価値のない石に囲まれているけれど中にもっと上等の結晶があるかも知れません。人に当てはめれば、一見つまらない様に見える自分の中にも何か磨けば光るものがあるはずです。それは才能、夢、可能性など色々な言葉で表されるでしょう。

 ただしそれを見つける、あるいは選んで磨き上げるのは自分でやらなければなりません。西老人が雫を励ますと同時に独り立ちを促すために鉱物を見せるとしたら、母岩に付いたエメラルドの原石は最もふさわしいものでしょう。

 そして西老人は、何とか物語を書き上げた雫にその原石を贈って言います。「その石はあなたにふさわしい。」と。彼は雫の中に光るものがあることを祝福し、それを磨き上げていこうとする雫にエールを送っています。原石とはいってもエメラルドは高価なものです。それはアンティーク・ショップを営む西老人自身が一番よく知っているはずです。それを惜しげもなく雫に贈った西老人には、若者を優しく見守る暖かい心を感じます。


○ラピス・ラズリ

  雫の創作する物語の中で、雫はバロンと共にラピス・ラズリの鉱脈を求めて旅立ちます。ラピスは石、ラズリは群青の意味で文字通り「青い石」です。映画の中では雫が図書館で開いた鉱石図鑑に一瞬しか出てきません。

 この石は6000年以上前から知られていて、宝飾品や顔料に利用されてきました。今でこそ宝飾店でたやすく見つけられますが、昔は非常に貴重なものでした。それはこの石が鮮やかな濃青色である事と簡単に手に入るものではなかったからです。

 ラピス・ラズリを産出する場所は地球上で数カ所に限られています。歴史的な産地はアフガニスタン北部の険しい山の中にあり、ここでは紀元前から採掘が行なわれ、ラピス・ラズリはシルクロードの長い道程を経てエジプトへ運ばれました。エジプトの王の像やツタンカーメンのマスクにはラピス・ラズリが使われています。後にこの産地にはマルコ・ポーロも訪れていますが、その時代でも「黄金と同じ」価値を持っていると言われていました。

 雫はたくさんの物語を読んでいたので、ラピス・ラズリの歴史やエピソードを知っていたのでしょう。そして雫の物語の中でラピス・ラズリは非常に貴重なもの、大切な何かを象徴していると思います。その「大切なもの」とは何でしょうか。エメラルドの原石とは違って可能性ではなく、はっきりとした目標、成果を指しているように私は思います。

 映画の中ではラピス・ラズリは見つからずに終わりますが、雫の目標、聖司の目標ははっきりとしてきます。そしてこの映画は自分にとってのラピス・ラズリは何なのかを考える機会を与えてくれるように思います。

1997/03/17






The future(将来)  by 大林正典

 私は広島の田舎に住む高校生です。私だけに限らず思春期とも青春ともいわれる時期をすごすものにとっては、「耳をすませば」は影響力を持つ作品だと思いました。

どのように?と聞かれるといろんな方向に、と私は答えます。例えていえば、小さなところでいえば私の高校の合唱祭です。映画の公開後、曲目にカントリーロードが加わるようになりました。でも一番影響を受けるのは将来の進路を考える若い人だと思います。漠然とした将来しかない人は真面目に考えるでしょうし、少し決めている人も「今の考えている進路は正しいのか?」と考え直すきっかけになると思います。私自身がそうでした。と言っても私の場合は高校進学後であったので進路を変えることができませんでしたが。

 今、あの時の選択は正しかったのかと思い直すことがあります。雫ちゃんのように背伸びをして自分の原石を見つめることもありませんでしたし、親と先生のすすめる今の学校(一応、進学校)に完全に満足はしていません。でも、そんな事を考えるようになったのは進学後、映画を見た後でした。それから今まで将来を考えるようにしています。西老人のようなアドバイスをくれる人はもちろんいませんし、聖司君のように確かな目標に向かって進んでいく輝いている人もいません。

 だから今は「いないなら自分がなればいいじゃないか」と思っています。大それた事とは分かっています。でも、自分の身近な人たちから幸せになってもらいたいと誰もが思いませんか?宮沢賢治じゃないですけど、私は将来雫ちゃんや聖司君のような純粋な心の

『ソウイウヒトニワタシハナリタイ』

そうすればきっと周りの人も幸せになってもらえると思います。

1997/03/03






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