石塔寺
(いしどうじ)
三重の石造宝塔

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塔を離れても、なお、石仏群は続きます。

果てしもなく拡がる世界を暗示し、それを埋めつくし、塔を警護するように取り巻いています。
塔の近くの五輪塔とは違って、普通人を思わせる石仏群
これは何を意味するのか?

そして、これだけの石仏群に、あたかも、かしずかれるように囲まれて
突っ立っている塔は何か?

答えに窮して、とまどうばかりです。

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塔のすぐ周りには、寄り添うように
台の上に上がれなくて、溢れたものは、そのまま地面で
だれかを慕わずにはいられないかのように、二重三重に囲む五輪塔群
秘めたエネルギーに圧倒されました。

この特別な主は誰だったのだろう。あるいは「集団のシンボル」なのか。
武蔵国の場合はどうだったのか?
疑問は深まるだけで、堂々巡りをしています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

メモ

 最も関係が深いと考えられているのは「鬼室集斯(きしつしゅうし)」とその一族のようです。付近に鬼室集斯をまつった鬼室神社があります。7世紀中頃に、百済の滅亡に伴って渡来した王家の一族集団といわれます。

 畿内に拠点を築こうとしていたようですが、日本書紀天智8年(669)に「・・・余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居・・・」の記事がありますから、この頃、蒲生野に移ったのでしょうか。
 「遷居」の言葉が使われていますので、武蔵国に移住したように、大和政権の方針で、半ば強制的な移動だったのかもしれません。もちろん日本書紀編纂者の作為との見方もあるでしょう。

 この点については、胡口靖夫氏の綿密な研究成果による、鋭い指摘があります。
 「7世紀後半に鬼室集斯を指導者とする百済亡命渡来集団が、近江国蒲生郡のかなり劣悪な条件の土地へ遷居させられ、その地の水田開発に見事成功した・・・。
 ・・・集団的強制移住と営為が、律令国家の発展過程の中で、どのような歴史的意義を持っているか・・・」
と、研究課題を提示しています。(胡口靖夫 近江朝と渡来人 百済鬼室氏を中心として 雄山閣 1996 P140)。

 なお、胡口靖夫氏は吉田東伍や坪井良平・藤沢一夫などの論旨をあげながら、この三重塔について
  「この塔に百済的要素の濃厚さと白鳳という時代相が認められるうえは、鬼室集斯ら亡命渡来人集団との脈絡を考えることも、容易に許容されるであろう。彼らが彼らの精神的紐帯として寺院を造営するにあたって、滅亡したとはいえ故国におけるごとき様式手法によって石造塔婆を造立したとしても、あえて異とすることはないであろう。」
としています。(同書 p122)

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半日陰でみると、石の色は乳白色で、とても柔らかい感じを出します。
この石材は、かって、朝鮮から持ち込まれたものでは、とも云われていましたが
近くで産する石材とわかりました。(正面左側から)

 周辺の遺跡の発掘から、当時は開発困難地であったこの地方が、水田開発に技術を持った渡来人が力を注ぎ、良田になったといわれます。鬼室集斯はそのリーダーだったのでしょうか。集斯は後に、学識頭=今で云う文部大臣になっています。 こうしてみると、あの累々と取り巻く石仏のあることもうなずけそうです。

 また、蒲生野は万葉の恋歌の世界でもあります。塔のある場所からは少し離れていますが

  あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る      額田王(巻1・20)
  紫野のにほへる妹を憎くあらば 人(嬬)妻故にあれ恋ひめやも  大海人皇子(巻1・21)

のうたわれた「紫野」も地続きです。こんな想いを馳せていると日が暮れてしまいます。後ろ髪を引かれる思いで、百済寺へ向かいました。

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今は百済寺(ひゃくさいじ)と呼ばれていますが、その字の通り、くだら寺でしょう。
山門を過ぎても、どっかとした石垣の続く、奥の深いお寺です。
塔の一団と密接な関係を持っていたのでしょう。
この付近は、渡来系史跡が濃密です。

本当に満ち足りた、いい旅でした。
 残念ながら、石塔寺へは交通の便が悪く、近江鉄道桜川駅から車で30分程度を要します。
バスの本数も数えるほどで、注意が必要です。

☆☆☆☆☆

2004年4月、五木寛之氏の「百寺巡礼」(講談社)第四巻 志賀・東海を読みました。
三十六番に「石塔寺」があって

『しだいに日が暮れてきて、いよいよ寒くなってきた。
しかし、ここにいると石の温かみが身体にしみてくるような感覚がある。
それは、これがただの石ではなく、そのなかに人びとの思いがこもっているからではないか。・・・』

そして、この寺に来る道すがら、セイタカアワダチソウとススキの共生を目にして
この現象を生物学用語では「順化(じゅんか)」とすることを紹介し

『日本には古代から、主として大陸・朝鮮半島経由で文化がはいってきた。そのとき、「順化」が必要だった。
外来の文化が、自分の文化の優勢を主張しているだけでは、根付くことができなかったのだ。
いま、生き延びている日本古来の文化というものは、そういう共生の思想に支えられてきたのだろう。・・・』

バブルの頃まではススキを駆逐しそうな勢いで繁殖していたのが
『すっかり背丈が低くなり、可憐になったセイタカアワダチソウが、ススキといっしょに風にゆれている。』

と書かれています。読み終わって、思わず自分のHPを見返しました。
(この部分、2004年4月13日記)

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