石塔寺
(いしどうじ)
三重の石造宝塔 2
なぜ、この塔は、こんな丘のてっぺんに、屋根もなく、独りで
数え切れない五輪塔や石仏に囲まれて、立っているのでしょう。
それも惚れ惚れするほど、スカッと!!
一体、誰が、どんな目的で・・・??
見れば見るほど、独特です。まぎれもなく、異国の雰囲気です。司馬さんは
「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。」
としています。(文春文庫 歴史を紀行する p66-67)
この塔は、国の重要文化財に指定されています。
指定の理由を含めて、説明板にはこう書かれています。
「・・・三重塔は、様式手法などから奈良時代前期の造立とみられ、
この地に移住してきた百済の渡来人との関連があると推測されている。
(続く)
「塔は花崗岩製で、塔身は初重が2石、二・三重を1石とし、
三重の塔身には、小さい方形孔を掘る。
・・・相輪は後補のものである。」
(右面、一番下が2枚合わせになっているのが見える。)
「この塔は、各重の逓減が大きく、総高さが7,6メートル余りの壮大な層塔で
現存の石造層塔として最大最古の遺品である。」
平成6年3月 滋賀県教育委員会
(正面左側)
どうやら、塔を作ったのは、奈良時代前期、百済の渡来人との関連が推測されています。
それに、日本には他に類似のものがなく、
朝鮮に同種のものがあることが知られています。
この地域は、百済系の渡来人が集中して住んだところでした。
滋賀県教育委員会の池内順一郎氏は、京都新聞滋賀本社編「近江史を歩く」で
「百済からの渡来人たちが、ノスタルジアのあらわれとして、
また、信仰の対象として、塔をつくった・・」と云っています。(p18)
この塔の前に立ったとき、「ついに来た」との満足ばかりでなく
何とも表現できない興奮に駆られました。
塔の姿ばかりでなく、そのそばに集まる石仏群の物言わぬ迫力との対峙です。
そして、どっと、武蔵野の渡来人へと、想いが高まりました。
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