恋ヶ窪から久米川へ 2

恋ヶ窪宿から久米川宿までの旧鎌倉街道は
道筋を変え、時には、現在の府中街道と重なりながら、小平市小川で、その姿を現します。

府中街道の東側1本目の道路です。
府中街道から、いかにもこの地域に相応しく「鷹の街道」と名付けられた道を
東へ進むと、小平第15小学校を挟んで、その道はあります。

画像は上の案内図の現在位置から、府中街道方面を見た「鷹の街道」です。
尾張徳川家の殿様が鷹狩りに来たときの道とされます。
前ページの鎌倉橋から北上すると、ここに出ます。

中央に、右に入る道路がありますが
これが、小平市の指定する「鎌倉街道」の南からの入り口です。

何の変哲もない、一方通行の直線道路です。
周囲が畑で、車が少なくて、でこぼこ路を土ほこりの赤風に追われるように歩いた時は
まさしく古道の面影がありました。

今では、質の悪い住宅開発で、法律違反になるような細道です。
しかし、これを維持することは並大抵ではない苦労と忍耐が裏打ちされているはずです。
単なる文化財ではなく、日常生活があるのですから。

 これは、南側からの入り口です。人っ子一人通らず、時間が止まったように見えますが、自動車交通が始まると写真など撮っていられないので、通学のため車の進入禁止がかかる早朝を選びました。

中程まで進むと、住宅と農地が向かい合っています。
道幅は、街道の巾2間(3メートル60センチ)に少し足してあるのでしょうか?

端から端まで見通されるようにまっすぐです。
道幅については、次の二つが二間巾であったことを伝えます。

新編武蔵風土記稿

 『・・・この辺武蔵野の曠野の所ゆえ、四方平地にて民戸二百二十軒、或は往来の左右に連住せり、林野多く水田はなく陸田のみなり、村内古道あり、道幅二間ばかり、府中より国分寺・恋ヶ窪等の数村を経てここに至る、この街道の内より北へ折れば、入間郡大岱及郡内久米川等に至れり、これ、鎌倉より陸奥への街道なりしと、・・・』(雄山閣板 第六巻 p264)

 として、これまでたどった道筋をおおまかに書き上げ、道幅は二間ばかりとしています。

高橋源一郎氏

 『古老に聞けば、この道は昔より二間幅位であつたが、敢えて道幅の制定は無かつた。故に明治九年地租改正の際二間幅に定めたという。されば今も、その定め通りの細き道である。恐らくは数百年前の昔と雖、文化のまだ開けぬ時代であるから、あまり広くはなかつた道であらう。』(武蔵野歴史地理 第三冊 p380)

ブドウが栽培され、昔ながらの蔵と垣根の家もあります。

さらに進むと、青梅街道に達します。
画像の突き当たりがそうで、青梅街道を走る車を入れたのですが・・・。

 これが北側の入り口です。画像はこれまでと逆の北から南の方向をみたものです。ここに、小平市の建てた案内板があり、次のように記されています。

 『小川村開発以前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野であった。この原野に天平の昔(730年)頃から、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道がひらけていた。この道がその後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くにおよび、鎌倉街道と呼ばれるようになった。明治にはいり廃道となったが千数百年の歴史を有するこの道筋には多くの史跡と伝説が残っている。

 小平市域の道程は、わずか2キロメートルに過ぎないが、上水本町に「二つ塚」と呼ばれる一里塚道標の跡地があり、その地から北に青梅街道を横切ったところに小川村開発発祥の地「石塔が窪」(せきとうがくぼ)の地名がある。

 これよりさらに北、東村山市と境を接するところに「九道の辻」の名所がある。その昔、九本の道が交差しており、元弘の変の時に新田義貞が鎌倉への道に迷い、この道沿いに1本の桜を植えて鎌倉街道の案内にしたという。また、道筋に場所は明らかではないが、2つの「まいまいず井戸」があったといわれている。

                          小平市教育委員会 小平郷土研究会』

 現在の関連する遺跡の発見状況からすると、問題の箇所もありますが、ここを通るたびに、スゴイもんだと活を入れられた思いが残っています。全長約500メートル、多くの努力の結果、台地の上に残された「鎌倉街道」です。

その続きは、青梅街道と交差して、さらに北進します。
この辺りの青梅街道は「馬つなぎ場」であったため、一段と道幅が広くなっています。
ここから先は旧鎌倉街道には指定されていません。

ビルが建ち、奥の地域の土地利用から、制限が無理なのでしょうか?



北に向かって直進します。
交差点を入ってまもなくのあたりを「石塔ヶ窪」(せきとうがくぼ)と呼びます。
画像では高低が出せませんが、窪と呼ばれるだけに少しばかり低地になっています。

ここは、この地域にとって極めて意義深いところで
小平市のもとになった「小川村」の新田開発の最初にクワを入れたところとされます。

「石塔ヶ窪」の名の由来は、ここに、大きな板碑があったとされることによります。
実に面白い伝承で、内容は別に書きます。

位置的には旧鎌倉街道の道筋ですが、近代の道路になっています。

さらに詰めると、緑の壁が待っています。

期待して進むと、なんと、「六小通り」の標識がガンと構えて、先がありません。
ここで、旧鎌倉街道はブリジストンタイヤの敷地に吸い込まれます。

前へ
次へ
ホームページへ