恋ヶ窪から久米川へ 3

旧鎌倉街道跡はブリジストン東京工場までたどれました。
そこで、広大な工場敷地内に吸い込まれますが、工場北側の「九道の辻」で再び顔を出します。

武蔵野の原の中、なぜ9つもの街道が集まったのか不思議です。
そこには、埼玉方面への鎌倉街道の分岐点があり、重要な課題を含んでいます。
ここから久米川宿までは3キロ程です。

ブリジストン東京工場敷地内に吸い込まれた旧鎌倉街道を後にして
やむなく、これまでの道を左折し、府中街道に出て北進します。交通戦争さながらの修羅場です。

排ガスにあえぎ、辟易して進む間に西武拝島線の踏切に着き、その先は森になっています。

自動車の比較的空く昼食時間に、信号の途切れを待つと
信じられないような空間が生ずることがあります。
津田塾大学周辺とここは、府中街道のオアシスかも知れません。

併せて、過去の景観を描くことがどれだけ慎重を要するのか実感します。
明治14年の地図では、この一帯は現在と同じように、雑木で覆われている様子が描かれています。

しかし、鎌倉時代には、荒野・曠野、広漠の原野であったように語られます。
この差は、江戸の雑木林植林の結果であったのか、それ以前からの景観であったのか
きちんと分析する手だてはないものでしょうか?

そして到達するのが「九道の辻」(くどうのつじ)です。
ここは、東村山市と小平市の行政境にもなっていて、鎌倉街道の分岐点でもありました。
明治の地図を見ると、多くの街道が集中していることが読みとれます。

画像の案内柱(小平市)には

 『ここ九道の辻は、旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉へ十八里(七十二キロメートル)、前橋へ十八里(七十二キロメートル)の地点にあった。
 江戸街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道がこの地に分岐していたことから、九道の辻という名がついた。

 この辻の付近は、野火止用水が開通するまで広漠たる原野の中にあったといわれる。
 明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変は、この辻にも例外なく、往時の九道の辻の姿は今日、全く消え失せてしまった』と書かれています。

 厄介なことには、案内柱にも書かれているように、どれが9道なのか、はっきりしなくなっていますが、それ以上に頭を悩ませることが起こります。



現在の地図で追うと、画像、中央・府中街道、左・宮寺・秩父・山口方面、右・清瀬、萩山方面
これ位はわかりますが、肝心の鎌倉街道に関する所がはっきりしません。

「九道の辻」

 「九道の辻」を、辻が所在する小平市では、次のように説明します。

 『・・・その昔、鎌倉街道、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道がこの地点で、交叉していたところから生れたもので、往時は交通の要所であった。』(小平市教育委員会 郷土こだいら p121)

 この辺を実踏した蜂谷敬啓氏は

 『・・・東村山からの府中街道を南へ、八坂神社前をすぎると"九道の辻"へ出る。いまは大小合せて道路が六叉路になっているが、かつてはさまざまな方角から集まった道が、ここからふたたび思い思いの方向へ散っていった。野口あるいは久米川から小川にかけては、広漠の原野であった。この原野を行く人々は、どこを歩いていこうが、勝手気ままであったにちがいない。そうやって歩くうちに、しだいに道ができ、たまたまこの辻が何本もの道が合流し、そしてそれぞれに分散していった。それが九道の辻のはじまりだという。

 土地の古老の話から、九すじの道を拾いだしてみると、南北に鎌倉道一奥州道、東西に江戸道一秩父道、野火止用水に沿って中神へ向う大山道一清戸・引股道、それに西北の方宮寺・飯能へ向う道と東南・西南へ向う野道があった。これを御窪道(字窪への道)と呼んだ。これが東南方柳窪への道か西南方坂窪への道か、このあたりのことは不明であるとのこと、いずれにしても現代の地図から九本の道すじを探しだすのは少々むつかしく、まさに私にとっては"苦道の辻"であった。』(鎌倉街道V実地調査 史跡編 p81−82)

☆☆☆☆☆

これからが期待の宝庫

 こうしていろいろ解釈がありますが、何よりも悩ましいのは、このページで、これまで辿ってきた旧鎌倉街道の信憑性に自信がなくなるからです。というのは、明治14年測量参謀本部陸軍測量局測量図で、小平市の鎌倉街道から、「九道の辻」に結びつけたとき、鎌倉街道自体のルートに疑問が生ずるからです。

 しかし、いいこともあります。上の画像中、左側に分岐する道が、旧鎌倉街道が埼玉県方面に分岐する出発点である事が想定されます。この正確な位置確認ができると、小手指原古戦場ルートとのつながりなど、旧鎌倉街道の未知の部分が明らかになりそうです。その解明が、ただひたすら、待ち遠しいです。

 このルートは、手に入りやすい資料としては、埼玉県教育委員会発行のパンフレット「古道を歩くー鎌倉街道歴史散歩ー」(平成12年3月31日発行 p15)で図示され、北倉庄一氏の「中世の道・鎌倉街道の探索」(テレコム・トリビューン社 平成12年3月20日発行 p189)で実踏の模様が紹介されています。

 また、栗原仲道氏は、地元で「小手指道(こてさしみち)」と呼ばれる九道の辻から入間市に達するルートを

 『・・・入間市の扇町屋・小谷田より藤沢を通り小手指原古戦場の誓詞橋にいたり、北野天神社西から椿峰を越えて山口の中氷川神社東の道にいたり、判立橋から西武遊園地駅西に出、多摩湖町・廻り田町の間を通り野口で八国山からの道と合して八坂(九道の辻)にいたっている。・・・』(栗原仲道 鎌倉街道をゆく 埼玉新聞社平成10年12月1日発行 p141)

 と魅力的に紹介しています。いずれも、地図を入れればわかりやすいのですが、HPでつくる技術がなく、申し訳ありません。

迷いの桜伝承

 個人的な疑問があっても、街道が集中していただけに、いろいろのことが起こったらしく、新田義貞にまつわる面白い伝承が生まれました。小平市では次のように紹介します。

 『昔から、この「九道の辻」の一角に、一本の桜の老樹があった。季節には見事な花をつけて、往来の人の目を楽しませてくれ、人々からは、迷いの桜の呼び名で親しまれてきたものである。

 この迷いの桜の名称について、伝えられるところによれば、その起源は古く、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞が、後醍醐天皇から、鎌倉幕府討伐の命を受け、野州(現群馬県)から兵を起こして、鎌倉に攻めのぼる途中、久米川の戦いで北条軍を破り、これを急追してこの「九道の辻」にさしかかった時、道が九筋に分れていた。

 何れが鎌倉への道であるかに迷ったのである。義貞は後日また、余と同様に迷うものがあるだろうと、鎌倉街道の一角に、一もとの桜を植え、鎌倉街道への道しるべにしたのが、この迷いの桜の起源であると伝えられる。

 その後この桜は、幾度か植え継がれたのであろう。その何代目かの桜が、大正の頃枯死して、終戦後まで大きな根株が残っていたが、今は全くその跡もない。

 この迷いの桜と並んで、樹令数百年を経たと思われる榎の大樹が、僅かに往時の名残りをとどめていたが、これも数年前枯死して、今は根株すら残っていない。

 こうした史跡と伝説に富んだこの地も、時代の変遷とともに昔のおもかげが消え失せ、「九道の辻」の地名を残すのみである。』 (小平市教育委員会 郷土こだいら p121−122)

  いかにも荒野の中の道にともなう話らしく、新田義貞びいきの地元の人のほほえましい顔が映ります。

八坂神社とまいまいず井戸

「九道の辻」(府中街道)をさらに北進すると、引きも切らせぬ自動車の疾駆の中
左手にこんもりとした森が見えてきます。

八坂神社の森です。

 八坂神社と言うよりは、地元では、「天王様」「野口の牛頭天王(ごずてんのう)(明治2年に八坂神社に改称)といった方が通りやすい神社です。創建年月は不詳ですが、正福寺(しょうふくじ=弘安元年(1272)創建説を持つ。重要文化財の千体地蔵堂がある)が別当寺であることから、ことによれば、そこまでで遡ることも考えられます。

 また、正福寺千体地蔵堂の建立棟札(応永14年=1407)をもとにすれば、その時代の建立も考えられます。しかし、正福寺とはあまりにも距離が離れ、別当関係については議論があります。それはさておいて、なぜこんな事を持ち出したかと言いますと、神社の前の鎌倉街道沿いに、まいまいず井戸があったとの伝承があるからです。

 画像は北から府中街道と右手に八坂神社を見たものです。伝承は画像左側に(現在の道路の下)まいまいず井戸があったとされます。

 伝承は、天王様を守護する人々が、近くの空堀川の水を使って生活していたが、元禄頃、空堀川の上流の森が切られ、空堀川の水量が減って生活できなくなった。そこで、全戸が引っ越した。

 というものです。一方、まいまいず井戸の方は、その跡とおもわれるものが集中して4箇所あったが、他のまいまいず井戸と比較して、どうも使われるまでにいたらず、失敗しては掘り返したのではないかとする推論です。

 この二つが結びついて、まいまいず井戸は鎌倉時代専用ではなく、江戸時代にも掘られた。 なぜ、天王様は、原の真ん中で、鎌倉街道に面してぽつんと建てられたのか、その創建はいつか、の問題に発展して、議論が拡がります。原点を探ると、とても考えさせられる伝承なので、いずれ別に書きたいと思います。

 そして、新編武蔵風土記稿はこんな記事を載せます。

 『・・・勧請の年代詳ならず、・・・神体は銅像にして手に斧を以て立てる状なり、長七寸ばかり、社地すべて松樹オウ鬱としてものさびたり・・・』(雄山閣版 第6巻 p274)とあり、社地が松の森で深く覆われていたことがわかります。江戸時代には広漠の原野でなくなっていたことは確かなようです。オウという漢字はHPでは表記できません。角川大字源p1527にあります。

 森に覆われていても水は不便だったのでしょう。天王様を守護する人々は引っ越しています。

ちなみに、その人々が引っ越した先を「天王森」と呼んだようで、現在もその地名があります。
改修された空堀川には「天王森橋」が架けられています。

府中街道を北に進むと、西武西武新宿線の踏切にさしかかります。
その左手に塚があります。すでに紹介した、鎌倉街道の一里塚説が出ている塚です。

東村山市では一帯を「平和塔公園」とし、塚については案内板で、次の説明をしています。

 『武蔵野狭山丘陵の村々は、近世中ごろにかけて広い秣(まぐさ=馬のエサ)場であったが、幕府は武蔵野原の新田開発を進めた。

 延宝・元禄年間には、入会地の開こんをめぐって幕藩領主と自立農民との対立も起こり延宝八年(一六八〇)には「境目絵図」がつくられたり、その後村々にはこのような境塚がつくられ、そのひとつといわれる。

 もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた。頂上にはご覧のように平和の女神像が建立(昭和二十六年)されている。』

旧鎌倉街道は府中街道の下になっているのでしょうか?北に進みます。

やがて、西武新宿線・東村山駅前広場を横に見ます。

西武新宿線・東村山駅を通り越すと、左手に「商工会館」があり
ビルに挟まれて小径が見えます。これが鎌倉街道跡とされ、久米川宿にのびています。
ここから先は、久米川宿に書きます。

今回の恋ヶ窪宿から久米川宿に至る、台地の道筋はこれで終わります。
十数年ぶりに、改めて歩いた結果、疑問の方が多くなりました。
知恵をお貸し下さい。(2001.5.17.記)

前へ
久米川宿へ
恋ヶ窪宿へ
ホームページへ