恋ヶ窪から久米川へ 3 旧鎌倉街道跡はブリジストン東京工場までたどれました。 武蔵野の原の中、なぜ9つもの街道が集まったのか不思議です。 ブリジストン東京工場敷地内に吸い込まれた旧鎌倉街道を後にして 排ガスにあえぎ、辟易して進む間に西武拝島線の踏切に着き、その先は森になっています。 自動車の比較的空く昼食時間に、信号の途切れを待つと 併せて、過去の景観を描くことがどれだけ慎重を要するのか実感します。 しかし、鎌倉時代には、荒野・曠野、広漠の原野であったように語られます。 そして到達するのが「九道の辻」(くどうのつじ)です。 画像の案内柱(小平市)には 『ここ九道の辻は、旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉へ十八里(七十二キロメートル)、前橋へ十八里(七十二キロメートル)の地点にあった。
「九道の辻」 「九道の辻」を、辻が所在する小平市では、次のように説明します。 『・・・その昔、鎌倉街道、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道がこの地点で、交叉していたところから生れたもので、往時は交通の要所であった。』(小平市教育委員会 郷土こだいら p121) この辺を実踏した蜂谷敬啓氏は 『・・・東村山からの府中街道を南へ、八坂神社前をすぎると"九道の辻"へ出る。いまは大小合せて道路が六叉路になっているが、かつてはさまざまな方角から集まった道が、ここからふたたび思い思いの方向へ散っていった。野口あるいは久米川から小川にかけては、広漠の原野であった。この原野を行く人々は、どこを歩いていこうが、勝手気ままであったにちがいない。そうやって歩くうちに、しだいに道ができ、たまたまこの辻が何本もの道が合流し、そしてそれぞれに分散していった。それが九道の辻のはじまりだという。 ☆☆☆☆☆ これからが期待の宝庫 こうしていろいろ解釈がありますが、何よりも悩ましいのは、このページで、これまで辿ってきた旧鎌倉街道の信憑性に自信がなくなるからです。というのは、明治14年測量参謀本部陸軍測量局測量図で、小平市の鎌倉街道から、「九道の辻」に結びつけたとき、鎌倉街道自体のルートに疑問が生ずるからです。 しかし、いいこともあります。上の画像中、左側に分岐する道が、旧鎌倉街道が埼玉県方面に分岐する出発点である事が想定されます。この正確な位置確認ができると、小手指原古戦場ルートとのつながりなど、旧鎌倉街道の未知の部分が明らかになりそうです。その解明が、ただひたすら、待ち遠しいです。 このルートは、手に入りやすい資料としては、埼玉県教育委員会発行のパンフレット「古道を歩くー鎌倉街道歴史散歩ー」(平成12年3月31日発行 p15)で図示され、北倉庄一氏の「中世の道・鎌倉街道の探索」(テレコム・トリビューン社 平成12年3月20日発行 p189)で実踏の模様が紹介されています。 迷いの桜伝承 個人的な疑問があっても、街道が集中していただけに、いろいろのことが起こったらしく、新田義貞にまつわる面白い伝承が生まれました。小平市では次のように紹介します。 『昔から、この「九道の辻」の一角に、一本の桜の老樹があった。季節には見事な花をつけて、往来の人の目を楽しませてくれ、人々からは、迷いの桜の呼び名で親しまれてきたものである。 いかにも荒野の中の道にともなう話らしく、新田義貞びいきの地元の人のほほえましい顔が映ります。 八坂神社とまいまいず井戸 「九道の辻」(府中街道)をさらに北進すると、引きも切らせぬ自動車の疾駆の中 八坂神社の森です。 八坂神社と言うよりは、地元では、「天王様」「野口の牛頭天王(ごずてんのう)」(明治2年に八坂神社に改称)といった方が通りやすい神社です。創建年月は不詳ですが、正福寺(しょうふくじ=弘安元年(1272)創建説を持つ。重要文化財の千体地蔵堂がある)が別当寺であることから、ことによれば、そこまでで遡ることも考えられます。 また、正福寺千体地蔵堂の建立棟札(応永14年=1407)をもとにすれば、その時代の建立も考えられます。しかし、正福寺とはあまりにも距離が離れ、別当関係については議論があります。それはさておいて、なぜこんな事を持ち出したかと言いますと、神社の前の鎌倉街道沿いに、まいまいず井戸があったとの伝承があるからです。 画像は北から府中街道と右手に八坂神社を見たものです。伝承は画像左側に(現在の道路の下)まいまいず井戸があったとされます。 伝承は、天王様を守護する人々が、近くの空堀川の水を使って生活していたが、元禄頃、空堀川の上流の森が切られ、空堀川の水量が減って生活できなくなった。そこで、全戸が引っ越した。 というものです。一方、まいまいず井戸の方は、その跡とおもわれるものが集中して4箇所あったが、他のまいまいず井戸と比較して、どうも使われるまでにいたらず、失敗しては掘り返したのではないかとする推論です。 そして、新編武蔵風土記稿はこんな記事を載せます。 『・・・勧請の年代詳ならず、・・・神体は銅像にして手に斧を以て立てる状なり、長七寸ばかり、社地すべて松樹オウ鬱としてものさびたり・・・』(雄山閣版 第6巻 p274)とあり、社地が松の森で深く覆われていたことがわかります。江戸時代には広漠の原野でなくなっていたことは確かなようです。オウという漢字はHPでは表記できません。角川大字源p1527にあります。 森に覆われていても水は不便だったのでしょう。天王様を守護する人々は引っ越しています。 ちなみに、その人々が引っ越した先を「天王森」と呼んだようで、現在もその地名があります。 府中街道を北に進むと、西武西武新宿線の踏切にさしかかります。 東村山市では一帯を「平和塔公園」とし、塚については案内板で、次の説明をしています。 『武蔵野狭山丘陵の村々は、近世中ごろにかけて広い秣(まぐさ=馬のエサ)場であったが、幕府は武蔵野原の新田開発を進めた。 もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた。頂上にはご覧のように平和の女神像が建立(昭和二十六年)されている。』 旧鎌倉街道は府中街道の下になっているのでしょうか?北に進みます。 やがて、西武新宿線・東村山駅前広場を横に見ます。 西武新宿線・東村山駅を通り越すと、左手に「商工会館」があり 今回の恋ヶ窪宿から久米川宿に至る、台地の道筋はこれで終わります。
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