鎌倉街道の宿
(恋ヶ窪3)

阿弥陀堂を後にして、JR中央線の線路を越すと、JR西国分寺駅に出ます。
今は、JR武蔵野線の線路になってしまっていますが、ここに「恋ヶ窪廃寺」がありました。

発掘の結果は9世紀から10世紀の創建が想定される寺院跡です。
寺院建物と火葬墓・土壙墓が発掘され、多くの板碑が建てられていたこともわかりました。
一説には、阿弥陀堂のところで紹介した鉄仏が出土したともいわれます。

寺院の性格、国分寺との関連など議論もあり、これからの研究が楽しみです。
聖護院道興准后が泊まったかも知れません。

さらに南に進むと、国分尼寺の近くに、旧鎌倉街道の姿を目にすることができる場所があります。
先に紹介した江戸名所図会の南、JR中央線の南、国分尼寺の北側で黒鐘谷公園があるところです。
貴重な景観の中に、身を置くことができます。

街道に沿って、一段高いところに「伝祥応寺跡」と呼ばれる13世紀末から15世紀末にかけての寺院跡
があります。平場になっていて、その端から見るとV字に切り開いた街道の凄さわかります。

中央に人が歩いているのですが、高さを想像下さい。鎌倉の切り通しとは比較になりませんが
切り立っていて、ここでも、この道が持つ戦いの気配を感じます。
武蔵野の原から多摩川の分倍河原古戦場に接する場所だけに、特別の意味があったのかも知れません。

街道を下から見たのでは、想像できない構造です。
国分寺市では「伝」をつけて「旧鎌倉街道跡」としています。さて、話題が一転します。

これは、国分尼寺の尼坊の復元されたところです。国分尼寺の終末、鎌倉街道の出現を考える恰好の場所です。基礎石が置かれているところを突っ切って、道路がつくられ、自動車が走っています。
左画像は北から府中国府方面を、右画像は南から切断の状況を見たものです。

国分寺市は、この状況を説明版でこの画像のように示しています。黒い点が尼坊の基礎石です。逆Y字になっているのが現在の道路で、旧鎌倉街道の残存と考えられています。
図の上の方が、先に紹介した旧鎌倉街道に接続します。

何度見ても、国分尼寺の尼坊を突っ切って、鎌倉街道がつくられたとしか考えられません。
1ページの畠山重忠が通った道がこことすれば、すでにその時
国分寺尼寺は衰退していたことになります。

武蔵国分寺は元弘3年(1333)分倍河原の合戦(新田義貞と鎌倉幕府)で焼失し
建武2年(1335)に薬師堂だけ再建されたことが伝えられます。
尼寺はこの頃には廃寺になっていたわけです。

恋ヶ窪宿を辿っている中にとんだところに来てしまいました。
まだまだ、分からないことだらけです。

これからもずっとこの続きを追って行きたいと思います。
いろいろ教えてください。

JR西国分寺駅が一番近いですが、国分寺駅からもそう遠くはありません。

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