鎌倉街道の宿
(恋ヶ窪2)

次に恋ヶ窪に足跡を残したのが聖護院道興准后(しょうごいんみちおきじゅごう)です。

 「朽ちはてぬ 名のみ残れる 恋ヶ窪
            今は た訪ふも 知記(契)り ならずや」

と、恋ヶ窪に立ち寄って、よみました。文明18年(1486)5月のことと云われます。
その歌碑が恋ヶ窪の熊野神社境内にあります。

左画像が熊野神社一帯で、左側に熊野神社、中央の道が旧鎌倉街道。
右画像は熊野神社の参道。歌碑は鳥居の向こうにある。
位置は、前ページ江戸名所絵会一番奥。

 道興は関白近衛房嗣の子で、京都聖護院(天台宗本山派修験道の総本山)の門跡でした。史料の少ない中世に東国を旅して、特に武蔵野ではこまめに地域を廻っているため、その記録が追えて大助かりです。

 越後の上杉氏、甲斐の武田氏など有力な武将を訪問し、武蔵野では、大石氏の館や修験寺院(本山派)をぬうように尋ねています。道興の旅の目的は、修験道の保護者の確保、拡張にあったのでしょう。

 国分寺市域では、2−3泊して、歌を詠んでいます。その間に、地域の有力者と交流したことが想定されますし、後に、修験と関わりの深い熊野神社に歌碑が建てられたのもうなずけます。それにしても、畠山重忠から300年後には、恋ヶ窪が「朽ちはてぬ名のみ残れる」状況であったことがわかります。

1ページで紹介した江戸名所図会の中に、「阿弥陀堂」の書き込みがありますが
画像中央の石段を上がったところに堂がありました。

ここからは、「鉄製阿弥陀如来像」が出土したとも云われます。国の重要文化財として指定され
現在は、府中市の「善明寺」に保管されています。
建長5年の銘があり、地元の作者による作品であろうとされています。
(次に紹介する「伝祥応寺跡」からの出土説もある)

いかにも東国らしい素朴なゆったりとした作品です。著作権の関係があり、画像は紹介できませんが
至文堂 日本の美術 NO252 佐藤昭夫 「鉄仏」に詳しく紹介されています。



阿弥陀堂の先はJR中央線の線路で途切れますが、旧鎌倉街道はこんな姿で残されています。

さて、面白いのは、旧鎌倉街道と古代の官道・東山道武蔵路との関係です。
この画像から左の方向になりますが
1ページで紹介した傾城・夙妻大夫
(あさづまだゆう)が身を投げたという「姿見の池」があります。

「姿見の池」の上を「東山道武蔵路」が通っていたのです。位置は左上画像の手前になります。
国分寺市の説明板には

『・・・幅員約12メートル、路面が踏み固められた道路が出土していましたが、この道路は丸太で枠を作り木枠でおさへ、アシや木の枝をしき、石を並べ、さらに赤土と黒土を交互に積み重ねた構造でした』

とあります。画像にした関連図は、その説明板から撮影しました。
驚く程良くできた説明板です。

こうしてみると、「恋ヶ窪」は古代・中世を通しての官道に面していたようです。
旧鎌倉街道は東山道武蔵路とは若干異なった位置を通過していることになります。

それにしても、傾城・夙妻大夫が身を投げた頃、東山道武蔵路はどのような状況であったのか
伝承とは全く別な興味に駆られます。宿の位置が決められないのが残念です。

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