北野天神社 江戸出開帳

江戸の目白不動尊は武蔵野の天神様と交流がありました。
埼玉県所沢市の北野天神社です。

享保7年(1722)4月1日から6月1日まで
北野天神社の御本体が目白不動尊の境内に遷り、出開帳しました。

北野天神社側からの申し込みを、人気絶頂の目白不動尊が受けたものですが
おびただしい江戸市民の参詣があったとされます。

神社側には「神体御造立そのほか本社の拝殿末社など」の修復の願いがあり
行事の取り仕切りには、江戸商人の魂胆があって
庶民の信心と揶揄の交差が、その背景を浮き彫りにします。


北野天神社

 埼玉県所沢市に「北野の天神様」と親しまれる「北野天満天神社」があります。延喜式に入間郡五座の中の一つとして登載されている古社です。

 延喜式入間郡五座
 出雲伊波比(いずもいはひ)神社、中氷川神社、広瀬神社、物部天神社
 国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)

 縁起では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征で武蔵国へ渡られたとき、櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと=物部氏の氏神)、八千矛命(やちほこのみこと)を祀り、物部天神社と国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)と称した。

 年紀不詳(一説に長徳元年(995)2月25日)京都北野の天満天神を小手指原に分祀勧請した。

 何れの年代かに、物部天神社、国渭地祇神社、天満天神社を合殿した。
 建久6年(1195)9月19日、源頼朝が鶴岡の八幡神社の分霊を合祀した。

 鎌倉末期には戦乱のため社殿はことごとく兵火にかかり一度は廃社になっていた。
 文亀元年(1501)山口城主山口平四郎が管公御一代の絹地七軸を奉納した。

 家康から8石の朱印を得、慶安2年(1649)家光から50石の加増があった。

 とするものです。


北野天神社本殿

  
 縁起には、『山口城主山口平四郎が管公御一代の絹地七軸を奉納した。』とありますが、軸木に銘文があって、そこには、元亀3年(1572)に修理が行われ、その依頼人が山口平四郎資信と嶋田右近であることが書かれているそうです。 

 既に失われていますが、新編武蔵風土記稿には大石氏の文書があったことが記されています。

 また、天文24年(1555)4月の北条氏の禁制があり、北野天神の祭礼に関し喧嘩口論、押し買いの禁止が布告されています。

 永禄10年(1567)11月、神官の栗原氏は八王子城主北条氏照から、伊賀守の国司の受領名を与えられています。

 天正18年(1590)7月5日、八王子城を攻め落とした(6月23日)前田利家から「天下之御祈祷可抽丹精者也」の書状を得ています。 

 北野天神社の神官は大石氏、後北条氏と仕え、落城後は敵方の前田利家から速くも書状を得るように、戦国の時代、困難な中を果敢に抜け切って来たことがうかがえます。

 また、北野天神社の西側に旧鎌倉街道が通り、北西には小手指ヶ原古戦場があり、足利尊氏を始め多くの伝承が残されています。このように古代、中世、近世を通じて、狭山丘陵の古社として注目される神社です。

左 日本武尊お手植えの桜「尊桜」、右 後醍醐天皇第三皇子宗良親王歌碑
正平7年(1352)の小手指ヶ原の戦いの時詠んだという

君のため世のためなにかをしからむ
すててかひある命なりせば

 が、彫られています。この神社が江戸へ出開帳をすることになりました。当然、何らかの理由があったはずです。

なぜ江戸へ

 享保6年(1721)5月9日、神官栗原主殿は北野天神社が所在する北野村に限って触れを出し、御神体の扉を開け、参詣を許可しました。

 『開扉してみると神体は「小宮之板」に元和7年(1621)神官栗原氏の先祖伊勢守綱景の自筆による書き付けが安置してあった。そこで神官は小宮を社殿におき、同年7月10より祭礼を執行した結果、遠近より夥しい参詣者がつめかけたのである。・・・

 ・・・かくして7月10日より善男善女の群参がはじまり、同月23日には社殿に飾った「神体の小宮ならびに載せ置き候高机迄へ松の葉の形生じ候」という奇跡が生じたのであった。さらに、神体やそれを載せた机にまで松葉の紋様が生じ、一層の群参が境内を賑わせたのである。』

 ことが起こって、天満天神社では、同年閏7月に、寺社奉行に報告し、発生した松葉紋様を提出して、江戸での開帳許可を求めました。(所沢市史 上 p953)

 開帳は翌年の享保7年(1722)4月1日から6月1日まで許可されました。天満天神社と小日向目白不動院長谷寺の間で交渉が行われ

 「御当地観音堂借用いたしたきむね相談申し候えば御得心の上、御貸し下され忝なく存じ奉り候」

 となって、長谷寺の観音を本堂に移し、観音堂に小屋をさしかけて、天満天神社の御神体を開帳することになりました。

開帳

 江戸市内はじめ周辺近郷に「開帳之札」が立てられ、「芝居興行」の許可願いも出されて開帳が始まりました。

 一切の取り持ちは、神田蝋燭町井上左次兵衛、水道町下野屋半四郎、西古川町鎌倉屋左兵衛、服部坂泉屋平七などが行い、「御神体造立そのほか本社の拝殿末社など」を修復するための開帳であったことを了解し、長谷寺には18両の礼金が支払われることになりました。

 『開帳のあいだ目白不動院への参詣者は夥しく、また社の由緒を問う者も多かった模様である。栗原主殿は天神信仰の拡張もはかるべく、不動院門前に「北野天神縁起大略」を記し提示した。』(所沢市史 上 p957)

 ・・・『諸大名ならびに奥方目録など数多(あまた)ささげられ参詣これあり』のように、江戸川橋辺りから護国寺或いは関口にかけての群参ぶりが思われます。


将軍社宝をみる

 開帳に当たって栗原主殿は寺社奉行松平対馬守、盗賊奉行(火賊盗賊博徒改)や御鳥見役宅を廻り礼を尽くしました。1700年代初頭の江戸のしきたりが興味を惹きます。

 開帳も半ばの4月24日、御城御用の用人が早馬で目白不動院に来て、社宝の天神御絵七幅、法華経、前田利家書状などを将軍家が見たいとの意向を告げます。天満宮では北野より取り寄せ上覧に供しました。

 『北野天満天神社にとって社宝を江戸城中に差し出すようにとの命に浴したことは、開帳行事のなかで特筆すべき出来事であったと思われる。』(所沢市史 上 p957)


江戸市民のチクリ

 評判を重ねた開帳でしたが、開帳のさなかに

 『京都より北野と見せてほうかぶり藪天神かまたは山しか』
 『京都よりきたの(来たの)・(北野)ではないむさし野にいた(居た)・(板)てん神と人はいうなり』

 といった落書があり、京都と武蔵野の北野とをかけて揶揄した批判もありました。これは北野天満天神社の開帳に地名を記載しなかったこと、栗原主殿について別当とも神主とも記載がなかったことが流言のもとになったとされます。

武蔵野の天神様

 約300年前の出来事ですが、今はなき目白不動尊の旧地に立ち、すっかり社殿も改まった北野の天神様の前に立つと、ただただ、複雑な思いに取り込まれます。

 武蔵野の村々には、小さな天神様がそこここに祀られています。それは雷や天候の神であり、収穫安定の神でした。小さければ小さいほどそのしきたりが今もって残り、かたや少し大きくなると、学問の神として、ほとんど受験のお願いの絵馬に埋もれています。

 武蔵野の天神様は、地球温暖化を怒り、排出・防止を怠る者に厳しい罰を与える神であり、最近のジコチュウや学力低下を叱り、登校拒否やひきこもりに深い深い理解を示す神であって欲しいと願うばかりです。(2001.11.11.記)

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