目白不動尊

倶利伽羅不動庚申(くりからふどうこうしん)

 金乗院の本殿前に、「倶利伽羅不動庚申」と呼ばれる庚申塔が立っています。光線が最悪の時でしたので画像がうまく撮れずに残念ですが、剣に龍(倶利伽羅大龍)が巻き付いてこちらをにらみ、下には三匹の猿が「見ざる、聞かざる、云わざる」の姿を彫りだした庚申塔です。

  親しくして頂いている住職の受け売りです。

 『倶利迦羅大龍は不動明王の化身です。不動尊はあらゆる衆生の煩悩を焼き尽くして菩提に向かわせますが、煩悩によっては自らの身体を変じてクリカラとなって剣に巻き付き忿怒の相で対処します。』 これは「倶利迦羅竜王陀羅尼経」というお経にあって

 『昔、不動明王が九十五種の外道と論争した。その時、不動明王が智火剣に変身すると、相手の代表者も智火剣に変身して対抗した。そこで不動明王はさらに倶利迦羅大竜に変身して敵を威圧して屈伏させた。』

 という話です。九十五種の外道、智火剣とは? と複雑ですが、不動尊はどんな障碍をも自ら火炎を発して焼き払う。その時の姿の一つが倶利迦羅大竜で、この像に対する人の情況に応じて、煩悩を焼き払う姿だそうです。 

 また、この竜王に祈れば雨を降らせ、病気を治すことができるという信仰もあるそうです。

 金乗院の塔は、この倶利伽羅像を、「庚申塔」に彫ったもので、とても珍しく、いくつもないようです。青面金剛に三猿が彫られるのが普通ですが、ここでは、倶利迦羅大竜が彫られています。

 人間の体内には三尸(さんし)がいて、三尸は庚申の日に天に昇って、寿命をつかさどる神様に、その人の過ちや悪事を報告して、早死させるかどうかの判断を求める、として、その日は寝ずに精進する。

 ということから、講が発生して、みんなで集まって飲食しながら夜を徹して談笑するしきたりが生まれました。大願成就を願って庚申塔を建てて供養したため、各地に庚申塔が立ちました。

 庚申の夜は徹夜して、謹慎して過ごすわけですが、特に、夫婦の同衾が禁ぜられていて、もしこれを犯せば盗人の子どもが生まれるといういい伝えがあったりして、結構煩悩が涌いたのかも知れません。

 この塔が、特に倶利伽羅像を彫り、目白不動に関連して祀られているところに、この地域の人達の気持ちが籠もって、ニッコリします。

関口の旧地

 「金乗院のしおり」に掲載されている、江戸時代の関口の目白不動堂の様子です。画面中央の右斜めに建物が並んでいますが、これが江戸川の崖に沿って営まれていた茶店とされます。早稲田の田を見渡す高台に大きな伽藍をしつらえていたことがわかります。

 現在の江戸川橋を渡って音羽通りを護国寺の方に進み、川筋の道路を越して最初の道路を左折すると、「目白坂」があり、いくつかのお寺を越して、右側に正八幡神社があります。その向かい側あたりに、目白不動尊はありました。川筋に沿ってゆけば江戸川公園のところになります。

江戸川橋からの江戸川です。目白不動堂は、この右側にありました。

 江戸川公園の裏から椿山荘に向けての道があります。左画像の右へ向かう道で、少し入ると「目白坂」と呼ばれる坂になります。

 『西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰(きたづめ)にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底へ急傾斜で下るようになる。

 この坂の何面に元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。・・・』

 との文京区教育委員会の案内表示があります。江戸切絵図では「大泉寺」「永泉寺」「東照宮養国寺」「八幡宮」があって、「八幡宮」の斜め西に「目白不動」が位置しています。現在も「大泉寺」「永泉寺」「法樹山養国寺」「八幡宮」とあります。

 八幡社の南面はすっかり住宅地化しています。そして目白不動堂があった辺りの坂は舗装されて多くの人がビルの間を上り下りしています。

目白不動堂の旧地一帯は、ずっと続く事務所かマンション群です。

 このまま進むと、椿山荘の前を通って、金乗院へ行くことになり、むしろ江戸川沿いに行こうと、思い切って下に降りることにしました。建物群の間の細い道を見当でたどると、はるか下で、公園の整備が進んでいました。関口の水曝し場があったところで、芭蕉庵があるはず、と下ります。

 関口の水曝し場(左)も芭蕉庵(右)もありました。水神社を横目で見て、一路金乗院へ向かいます。江戸川には、でっぷりと肥えた鯉が泳ぎ

  こくせうに などとほしがる お留川

 綱吉の生類哀れみによって、漁が留められた川を見て、鯉こくにしたら さぞ旨めーだろうとの江戸川柳を苦笑しながら思い出します。  

 駒塚橋(左)に馬を連想し、水神社(右)に江戸の上水を思いながら幾つかの橋を横に見て、面影橋に着きます。ここからは金乗院まで歴史の旅です。面影橋の北詰には、道灌にちなんだ「山吹の里」の碑があります。

 さしもの道灌も、看板と案内板に押しつぶされては、みの置き所もないだろうと、恥ずかしくなりますが、現代の東京では精一杯の保存でしょう。ここから、氷川社、南蔵院と続いて、現在の目白不動堂がある金乗院です。

辺り構わず寄り道して、2時間余のルート
探す面白さは、現在の不動参りの御利益かも知れません。

宿坂は魅力的

 目白不動の旧跡は開発されてビルになりましたが、金乗院のある宿坂付近は実に魅力的です。北にのぼれば鬼子母神があり、南に下れば南藏院、氷川神社、面影橋と続き、山吹の里として親しまれています。

 江戸名所図会は宿坂について
 
 『・・・同、北の方、金乗院といへる密宗の寺前を、四谷町の方へ上る坂口をいふ。同じ寺の裏門の辺りにわづかの平地あり。土人、たつてうばと呼べり(たつてうばは立丁場なるべし)。この地は昔の奥州街道にして、その頃関門のありし跡なりといへり(ある人いふ、この地に関守の八兵衛といふ者ありて、家に突棒(つくぼう)・指股(さすまた)および道中日記等を持ち伝へたるといふ)』

 とあります。

 『宿坂道は現在よりやや東寄りに鎌倉街道の道筋に当たっていたとも伝えられている。宿坂のこのあたりについては、立木が茂り、昼なお暗く、俗に“くらやみ坂”ともいわれ、古狸が化けて、歩く足元から火が燃えたり、頭の上を走り出したりしたという。もっともこの話は三〇〇年ほど前のことである。』 (豊島区史跡散歩 p111)

 と伝えられる場所でもあります。

今回は宿坂を鬼子母神に向かってのぼって帰途につきました。
面影橋の方を振り返ると
目白不動尊は高田、関跡を見守るかのように夕日を受けていました。

(2001.10.23.記 10.31.追加)

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