目黒不動尊 天台宗 泰叡山(たいえいざん) 瀧泉寺(りゅうせんじ)(目黒区下目黒3−20−26) 目黒不動尊 慈覚大師(円仁)作 左 目黒不動門前 右 仁王門 景気が悪いせいか、門前の店もシャッターを下ろして居るところが多いのが気になります。 境内の広大さにびっくりしながら、先ずはお参りと、様々ないわれのある史跡を横目に 門前町を含め、全体の位置関係は、江戸名所図会に描かれたものと変わりません。 江戸名所図会の時代とは違って、鉄筋コンクリート造りの本堂(昭和56年再建)ですが 不動講の人達の一群でしょうか 日に焼けた先達が敬虔に話し、グループの人々が肯くのでした。 瀧泉寺の開基 このお寺(瀧泉寺)の開基も、不動尊像を彫った慈覚大師(円仁=第三代天台座主)その人とされ、寺伝によれば大同3年(808)としています。そして 『・・・天安二年(八五八)ここに堂宇を造立、貞観二年(八六〇)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、この時より山号を「泰叡山」と称している。 寺号は大師が自らをとった棟牘(とうとく=文字を書く木札、縁起では棟札とする)の「大聖不動明王心身安養呪願(じゅがん)成就瀧泉長久」から瀧泉と名づけた。 その後、弘治三年(一五五七)に堂塔修理が造営されたが、元和元年(一六一五)に火災のため諸堂ことごとく烏有に帰した。本尊と本尊所持の宝剣天国は難を免れ今日に至っている。 とします。武蔵・上野・下野の多くの寺院が、象徴的に行基菩薩や弘法大師、慈覚大師を開創の縁起としますが、目黒の場合、慈覚大師(円仁)を特定して縁起とします。それは下野の仏教文化と武蔵の仏教文化の関連を示唆し、何とも興奮します。 なお、現在の本堂は戦災で焼け、再建されましたが、さらに、昭和56年に再建されています。 慈覚大師(円仁)の伝承 慈覚大師(円仁)は下野国(しもつけのくに 栃木県)都賀郡(つがぐん)に生まれています。俗姓が壬生(みぶ)氏であるため、武蔵の古代史ではとりわけ注目される人です。伝承によれば、9歳で都賀郡(現・岩舟町)の大慈寺(だいじじ)の広智(こうち=鑑真の高弟・道忠の弟子)の門に入り、15歳の時、比叡山に登って最澄の弟子となったとされます。 この年が大同3年(808)で、師広智に伴われて、比叡山に向かう途中で目黒の地に立ち寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその像を彫刻して安置したとするのが目黒不動尊の縁起です。その後、再び目黒の地に下った時、堂宇の建設に着手したとされ、その時が、天安2年(858)に当たるものと思われます。円仁の彫ったと伝えられる不動尊蔵は、秘仏として12年に一度、酉年(とりどし)に開帳されるそうです。 円仁は、838年遣唐使の船に乗って入唐し、847年帰国しました。そして、天台宗の密教化を推進し、延暦寺3代座主になりました。目黒が、栃木から東海道への交通路に当たっていたこともあるでしょうが、平安時代のこの地域の持つ社会的雰囲気がこのような伝承をもたらせているのでしょう。 家光との関係 瀧泉寺で頂く縁起には、いろいろな伝承が伝えられますが、家光との関連は次のように書かれています。 『江戸時代には、徳川三代将軍家光公がこの地で鷹狩りをした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松=たかすえのまつ)に飛び帰って来たので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。 その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。・・・それから五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、江戸随一の名所となりました。』 家光と鷹狩りの関係は後に書きますが、目黒の地は代々の将軍にとって重要な位置を占めていたようで、この伝承からもしのばれます。現在でも、仁王門をくぐって正面の石段の際に松が植えられています。 めぐろ はいつから めぐろ(目黒)の地名は、「め」が馬、「くろ」は畔を意味し、馬の牧から起こった地名とされ、目黒区「駒場(こまば)」、「駒沢」、「馬引沢」などの地名があり、いずれも古代の牧の名残とされます。 平安時代には、世田谷を含めた一帯に「菅刈荘」(すげかりのしょう)と呼ばれる荘園があり、それらを管理する集団から武蔵武士が発生したようです。一説には、小野牧を管理する横山党の庶流とされます(渡辺世祐 武蔵武士)。 鎌倉時代には、吾妻鏡(東鑑)や地元の古文書に目黒弥五郎、目黒太郎義政、目黒別所五郎左衛門義盛など「目黒氏」が活躍したことが伝えられます。 その館跡も存在が想定され、新編武蔵風土記稿には、「目黒氏館」について 『上目黒の東方渋谷村の境にあり、此辺に木立茂りて一村を為せる所あり、此地は昔何人か住せし館地と見えて今も四辺に溝堀の跡と覚しき堀残れり・・・』としています。真偽のほどは調査にまつとして、目黒高校の近くの「別所台」がそれとされます。 このように、鎌倉時代には、すでに「目黒」が地名として定着していることがわかります。こうなると五色不動の「目黒」に関しては、江戸時代に新たに付けたのではなく、古代からの伝統とその地名を生かしたことになりそうです。 江戸の繁栄 江戸時代、目黒一帯は徳川将軍家の鷹場に指定されていました。家康は東海道を利用する大大名の参勤交代の時には、鷹狩りを名目にして、目黒を廻って品川まで出迎えたとの話があります。朱引図に目黒の地域が特に出っ張って異様な感じを受けますが、このような背景があったことがうかがえます。 江戸図屏風 一番上 右 おぼろげながら32と読めるところが目黒不動 JR目黒駅を降りると権之助坂がありますが、途中から北に向かい三田春神社を過ぎると、茶屋坂の間に爺々が茶屋(じじがちゃや)跡があります。丁度、江戸から目黒に入る道筋の一つであり、この茶屋に三代将軍家光が立ち寄り、また、その話を引き継いで、歴代将軍、並びに八代将軍吉宗が鷹狩りの度に、ここに休んでは目黒不動に参詣したとする伝承があります。 こうして、目黒は独特の地位を占めました。目黒区史跡散歩(学生社)が紹介する、縁起の中に『寛永7年(1630)から上野寛永寺末となり、生順大僧正(中興の開祖)が兼務するようになった時、将軍家光の帰依を受けて、寛永11年、50余棟に及ぶ山岳寺院配置の伽監が復興完成し宏大華麗であったいう。』とあります。 この『寛永7年(1630)から上野寛永寺末となり・・・』に大きな意味がありそうです。上野の寛永寺(天台宗)は、三代将軍家光により建立されました。その際、天海が命を受けて建設に当たったことから、風水や四神の観点からの位置選定や寺の性格が語られることが多いようです。一般的な事典である平凡社大百科事典の説明でも 『1625年(寛永2)天海が幕府の命により創建。比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して,寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願した。将軍家のほかに御三家や諸大名が諸堂宇を寄進して,一山36坊の大伽藍が出現した。』 と要約しています。慈覚大師(円仁)が創建した不動堂や諸堂は、元和元年(1615)、火災によって『諸堂ことごとく烏有に帰し』てしまいます。すぐ復旧できたのかどうかは定かではありません。 その10年後、寛永2年(1625)に、上記の寛永寺が創建されています。その5年後の寛永7年(1630)に、目黒不動は寛永寺末となって、生順大僧正(中興の開祖)が兼務しています。そして、『寛永11年、50余棟に及ぶ山岳寺院配置の伽監が復興完成し宏大華麗』な寺になったと伝えられます。 武江年表には、寛永6年(1629)6月上旬より、「目黒村不動尊、諸願成就するよしにて、にわかに江戸中老若男女群集す」とあります。この間の動きを想定すると、目黒不動の復旧は、寛永寺の創建後、その後ろ盾、将軍家の援助によって行われたと考えられます。 この時、これまでの素朴な形で、目黒の台地に祀られていたであろう慈覚大師(円仁)の不動堂や諸堂は、将軍家のお墨付きを持った「目黒不動」として、改めて広く、江戸市中の参詣者を集め、隆盛する転機となったのではないでしょうか。 当然に、天海の関与があったことが考えられますので、江戸五色不動の風水による配置論はこのあたりに背景があるように思えます。 目黒の名物に「目黒の筍(たけのこ)」がありました。幕府の基礎も整い、江戸の町が発展・膨張するにつれ、住民の日常必需品として、周辺からの生鮮野菜の供給が重要視されてきました。目黒でも「菜」、「大根」、「茄子」などを出荷した様子が古文書に残されています。筍はその特産の一つでした。目黒の地は農業の面でも江戸市中と強い結びつきを持った地域でした。 目黒と将軍家を結ぶ強い絆に鷹場があります。鷹場は江戸市中の周辺に置かれ、最初の頃は、江戸から5里四方は将軍家の鷹狩りの場とし、寛永10年(1633)に、その外側に御三家の鷹場が指定されました。これこれらは、鷹狩りの場とともに、政治的・軍事的に緩衝地帯の役を果たすものとされます。 丁度、これが武蔵野にあたり、家康、秀忠、家光などは、特に地形・地域土豪・民情の視察をかねて鷹狩りをしたとされます。家光は鷹狩りに目黒へ6回来たと云われます。縁起にある、『将軍家光の帰依を受けて寛永11年、50余棟に及ぶ山岳寺院配置の伽監が復興完成し宏大華麗であった』というのが、この時期に当たります。 たまらなかったのは農民で、鷹場の維持はその所在する地域の農民の負担で維持されました。それ以外にも、日常、大きな音を立ててはいけない、鳥や獣は当然として、魚も捕ってはいけないなど、厳しい制限があって武蔵野の農民はとても苦しんだ記録が残されています。 目黒でも同じように、相当の重荷であったようです。それらを克服するためにも、生鮮野菜の出荷は生きる術であったと思われます。鷹場について書いたのは、目白不動、目赤不動が、ともに大きな関わりを持っていることを知ったからです。もしかしたら、目黄不動も房総への対処であったかも知れないと思う次第です。 そのような中で、江戸の町民は次第に力を付け、文化・文政頃(1804〜1830)には物見遊山・信仰をかねて、寺社参りが流行します。恐らく、目黒の地域でもこの兆しを受け止め、積極的な対応をしたと考えられます。将軍のテコ入れ、江戸町民のエネルギーの発散場所として、目黒は一気に燃えたのでしょう。 目黒不動を代表として、大鳥神社、金比羅神社など賑わい、門前町が連なった様子が江戸名所絵図に克明に描かれています。 目黒不動尊はこのような背景のもとに隆盛を極めたのではないでしょうか? 不動尊を前に、手を合わせて、家内安全・身心健康を祈りながら、お不動様は、随分と多くのことを見て来られたことでしょう。ほんの少しでもお話し下さいませんかと、お願いしたところです。 広重も目黒を沢山描き、その中の一つが、仁王門前の案内板に紹介されています。 さて、目黒不動には実に豊かな舞台がしつらえられています。長くなるので、次のページに書きます。
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