目赤不動尊 天台宗 大聖山 東朝院 南谷寺(なんこくじ)(文京区本駒込1−20−20) 目赤不動尊(万行律師が虚空から賜うと伝えられる) JR駒込駅下車 徒歩20分 バス「吉祥寺前」下車 徒歩3分 本郷通り(岩槻道、日光御成道)に面して、たくさんのお寺の中に南谷寺があります。 正面に南谷寺本堂 本堂の右手に不動堂が独立していて、喧噪の本郷通りから一段下がった日だまりにあります。2間四方でしょうか、かっての武蔵野の村々にあった素朴な堂の様式で、いかにも庶民的で、ほっとします。 扉は開かれていて、ろうそくが灯り、ほのかな光線の中に、厳しい御前立ちの不動尊を拝せます。この気配りに先ず心を打たれます。手前に、「縁起」と「「江戸五色不動尊」(住所や道順を記す)が置かれていて、自由に頂けます。 参拝をすませて、写真を撮り始めました。後のビルが画面に入らないように、カメラ位置に苦労していると 『お節介ごとですが、ここにしゃがむとビルがかくれますよ・・・・。江戸切絵図ですか・・・。いやー懐かしいですね。』 『はい、折角ですので雰囲気だけでもと思って・・・。お好きですか? ときに、これでは、お不動さんの故地は、道坂(どうさか)にあって、鷹匠屋敷と鷹部屋に囲まれて・・・。ここですが、百姓町屋、杉山、「石不動」と書き込みがあります。ここがそうなんでしょうか?』 と、ご住職さんのお話です。かっては、どこにあろうと、現在のお不動様はここにいらっしゃるのだから、と、無礼の許しを乞いながら、もう一度、手を合わせました。 縁起 寺の縁起を要約すれば 目赤不動尊は、 もとは赤目不動尊と言われていた。 元和年間(1615〜24) 比叡山の南谷(みなみだに)に万行律師がいて、 明王を尊信していた。ある夜、伊勢国(三重県)の赤目山に来たれとの夢見があり、赤目山に登り、 精進を重ねていた時、虚空から御声があって、一寸二部の黄金造りの不動明王像を授けられた。 赤目山を下り、比叡山南谷の庵室に安置した。しばらくして「黄土衆生の志願を起こし」関東に向かい、下駒込(いまの動坂)に庵を結んで、万民化益を祈念した。参詣の諸人は奇瑞を得て群参した。 後に、寺院を建立して、智證大師作 不動明王を御前立に安置した。以後、目赤不動尊として、 「年を超え月を重ねて利益日々に著しく参拝の諸人絶えること」がない。 としています。 江戸名所図会では 目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?〜一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624−44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ。 とあります。 いずれも将軍家光と関連し、最初は「赤目不動」であったのが、「目赤不動」になったとします。そのきっかけは、「府内五不動の因縁を以て」(縁起)、「目黒、目白に対して」(江戸名所図会)として、五色不動設定との関連を示します。堂には、上のような平成7年の大きな奉納額があり、いまもって不動信仰のなみなみならぬものを告げています。 △▽△▽△ これ以上は欲張りだと云われる程、いろいろと願い事をしていると、近くの寺で仏事でもあったのでしょうか、喪服の一団が来られたので、後ろ髪を引かれる思いで、本郷通りへと戻りました。 車の激しい本郷通りに出ると、地元の方と親切な住職の話に刺激されて、赤目不動堂の旧地に誘われて、そっちへと歩き始めていました。
赤目不動堂が最初にあったという道坂の旧地は、不忍通りと本郷通りを結ぶ間にあります。田端駅前から真っ直ぐにも来られ、文学散歩で馴染みのあるところです。 本郷通りを少し南へ下った「駒込一丁目歩道橋」の上から、駒込駅方面を写したものです。左側が本郷通りで右に入る道が道坂への道です。交差する角あたりは、ヤッチャバ(次のページに書きます)のあったところで、話題が豊富の場所です。目赤不動尊は左側道路の左中程に位置します。 「道坂」の坂上で、左側が都立駒込病院、信号を境に下るところです。 江戸末期の切絵図(嘉永7年=1854東都駒込図)、(安政3年=1856日暮里豊島辺図)では、この辺りは畑地と百姓地で、御鷹匠屋敷と御鷹部屋が大きな面積を占め、赤目不動の旧地はそれらに囲まれています。 石不動のところに不動堂があったとされます。 道坂下から見たところです。「道坂」(どうさか)の頂上の手前の平場で、画像右・柳の木と柳の木の間の建物の前が赤目不動の旧地なります。画像では、ドラム缶でも並んでいるように見えますが、現況は駐車場になっています。 後の大きなビルは都立駒込病院、その前の2階建ての建物は交番です。都立駒込病院が御鷹匠屋敷で、赤目不動堂の一帯が御鷹部屋、画像左側は杉林でした。これらの施設は吉宗の時代にここに置かれたとされます。家光の時代には、施設ではなくて、一日帰りの鷹狩りの場であったようです。赤目不動の置かれたところはこのような雰囲気の場所でした。 道坂と石不動 「江戸名所図会」は、「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。」 となっていて、「御府内備考」では「石の不動の像在り、」として、目赤不動の旧地に石の不動像があったことになっています。道坂に置かれた目赤不動は家光の時代に、現在の南谷寺に遷されたとされます。その後、寛政五年(1793)に、「日限地蔵尊」として村人に崇敬された石の地蔵像が置かれたようです。 家光が南谷寺に遷したあと、ここには、石のお不動様が祀られていたのでしょうか? これまで、何回も通り過ごしてきた「道坂」ですが 地元の人に聞くと、ここにはお地蔵さんがいた。 「徳源院」には「日限地蔵」(ひぎりじぞうそん)が祀られていました。その案内板には 『当院にまつられている「日限地蔵尊」は、寺伝によると寛政五年(1793)に近くの「道坂」に建立されたものである。以来、「道坂の日限り地蔵」として崇敬されてきた。 願いごとを日を限って祈願すれば、不思議と満願の日に先立ち霊験あらたかなることにより「日限地蔵」といわれてきた。 文京区教育委員会 平成元年十一月』 と説明されています。微笑ましくて、切絵図の書き込みはどうでもよくなりました。
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