新宿さまよい歩き 10

抜弁天通りと明治通りが交差する新宿7丁目交差点
ここから、西武新宿駅、大久保駅方面に向かいます(職安通り)。

新宿7丁目交差点を西へ渡って間もなく、画像左側に
島崎藤村の旧居跡があり、碑が立っています。

O島崎藤村旧居跡(西大久保1−405)

 島崎藤村が新宿区に住んだのは、藤村の文学活動にとって画期となる時期でした。詩から散文・本格的な小説へと方向を決めるスタートの地となったところです。当時の姿は全くなく、ビルになっていますが、新宿区教育委員会は「島崎藤村旧居跡」として旧跡に指定しています。職安通りに、碑と次のような説明板があります。

 『所在地 新宿区歌舞伎町2丁目4番

 詩人・小説家の島崎藤村(1872〜1943)は、馬込(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)「文学界」の創刊に参加。明治30年の「若菜集」にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。

 明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌39年10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。

 この頃から小説に転向した藤村は、ここで長編社会小説「破戒」を完成し、作家として名声を不動のものとした。 しかし、一方で、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。

                  平成15年3月         新宿区教委区委員会』

 破戒の執筆、完成の記念すべき場ですが、藤村は大きな犠牲を払っています。少し年譜風に当時の行動を追ってみます。

 明治32年(1899)27歳 4月、小諸義塾の教師となり、明治女学校の卒業生フユと結婚
 明治37年(1904)32歳 1月 田山花袋と小諸で会う。「破戒」準備 
                  7月、「破戒」の自費出版資金調達のため函館の妻の実家に赴く。
 明治38年(1905)33歳 3月4日、志賀村に神津猛(若い大地主)を訪ね出版資金を借用                 4月29日、小諸義塾を辞職、上京、西大久保に一家を構える。                 5月6日、三女 縫子 麻疹から急性脳膜炎のため死去
                 5月、柳田国男の土曜会に出席 国木田独歩を知る
                 11月27日、「破戒」脱稿
 明治39年(1906)34歳 3月25日、「破戒」自費出版 好評を得る
                 4月7日、次女 孝子 急性腸カタルで死去
                 6月12日、長女みどり肺結核製脳膜炎で死去
                 10月2日、浅草新片町1番地に転居
   

   三つ見えるビルの真ん中のビルが藤村旧居跡  

 「破戒」は夏目漱石その他の激賞を受け、小説家としての不動の位置を占めるもとになりました。田山花袋の「蒲団」と共に、自然主義文学の代表作として知られています。しかし、その陰で三人の子供を失い、妻も目を悪くする結果になったのは、極貧による栄養失調に起因するものとされ、当時の文学者の置かれた状況をよく物語ります。藤村自身、「芽生え」の中で次のように書いています。

 『……大久保の家はあまりに狭かった。
 ようやく家の中が少し片づいた頃、すえの子繁子は、意外な発熱のありさまに陥った。近所に医者もなく、コンデンスミルクを売る店も見当らない。
 (そして息をひきとった)
 長女のおふさは、母のまねをして「キイちゃん、いらっしゃいー」と妹を呼ぶ。妹のお菊は、
 「死んじゃったのよ。死んじゃったのよ」
 と、わけもわからず母の口まねをして棺のまわりを笑いながら踊って歩いた。
 (つぎは二女の菊)
 急激な変化があって、医師は多分夏みかんの中毒であろうという。注射をすると「痛い!」と泣き叫んだ。そして、それから二時間しかこの子は生きていなかった。

  菊子の墓
  繁子の墓

 せまい墓地に二人の子どもが、こんなふうに並んだ。だが、まだお房がいる、と思った。
 (お房にも異変が起った)
 死は一刻一刻にせまった。わたしたちの眼前にあったものは――なかば閉じた目――とがった鼻――力のない口――あおざめて石のように冷たくなったほお――うめき声も呼吸も、しまいに聞こえなかった。
 ……こうして、またわたしの家では葬式を出すことになった。お房のためには、長光寺の墓地のつごうで、ふたりの妹とわずか離れたところをえらんだ。子どもの墓は間をおいて三つ並んだ。』

 

学習研究社 現代日本文学アルバム 3 島崎藤村p145
には、破戒を書き上げた夜の神津猛宛て葉書が紹介されていますが、その文面は

草稿全部完了
十一月二十八日夜七時 長き長き労作を終える
(章数二十一、稿紙五百三十五)
無量の感謝と長き日々の追懐とに胸躍り
つつこの葉書を認
(したた)む。

となっています。子供達のことを思うと一層の感があったものと偲ばれます。

 この家を藤村に紹介したのは、画家の三宅克巳(明治学院時代の学友)で、当時のことを『思い出づるまま』の中で次のように語っています。

 『私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、其所に住まわれることになったが、藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引連れ、不安の思いで上京される。間もなく引続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋町に移転された。』 

 藤村の旧居跡を西に向かいます。左側は鬼王神社で右側には下の画像のようなビルに挟まれた小径があります。

小径を入って7〜80メートル先の右側に小泉八雲終焉の地を表す一隅があります。

P小泉八雲終焉の地(西大久保2−265)

 小泉八雲は、明治35年(1902)富久町20から、旧板倉子爵邸を買い取って、ここに転居してきました。碑の脇に家の写真が添えられています。約800坪の土地で、他の写真集などからも数多くの部屋を持つ大きな家であったことがわかります。

 ここから東京帝国大学に通っていましたが、明治36年(1903)、急に、京帝国大学から契約終了の通告があって止めることになります。あたかも夏目漱石が英国から帰国した時で、上田敏とともにその後任になると云う巡り合わせが起こります。

 八雲は大学を辞し著作に専念しますが、学生達は八雲の留任運動をします。上田敏はハーンの帝国大学時代の学生であったことからも、胸中複雑なものがあったことと推測されます。一方夏目漱石の授業は最初不評でしたが抜群の英語力でカバーしたようです。(『川島幸希「英語教師 夏目漱石」新潮選書』)

 八雲は「怪談」を執筆し、坪内逍遙の強い肝いりで、早稲田大学へ招聘されます(年俸で2000円)。明治37年(1904)4月、早稲田大学の講義に立ちますが、その年9月26日夜、心臓発作を起こし永眠(54歳)しました。

  小川未明が早稲田で学んだ時、八雲に心酔し八雲を讃える「坐ろにハーン氏を憶ふ」を書いています。

 「怪談」の中の「雪おんな」は『武蔵(むさし)の国のある村に、茂作(もさく)と巳之吉(みのきち)という、二人の木樵(きこり)が住んでいた。』という書き出しで始まります。この「武蔵の国のある村」は現在の東京都青梅市(当時調布村)千ヶ瀬とされます。

 八雲の長男「清」が生まれた時(明治32・1899年)、妻セツは身体に不調を来しました。そのため、お手伝いさんを雇い入れますが、それが、調布村の「お花」でした。お花の父は大工で、八雲の書斎の増築をすることになり、二人がセツと八雲と過ごします。この間に語られたのが、千ヶ瀬の伝承で、セツが聞き取り、八雲が物語にしたとされます。

 大久保小学校の向こう側に「小泉八雲記念公園」があります。白い柱、壁を持つギリシア風の公園です。平成元年に新宿区とハーン生誕の地ギリシア・レフガタ町が友好都市になったのを記念して作られました。 

 ハーンの銅像の右には白い壁があり、ハーンが幼少期を過ごしたアイルランドの育った家に掲げてあるプレートと同じものが駐日アイルランド大使から寄贈され掲げられています。

 小泉八雲終焉の地を戻り、鬼王神社前の交差点を新宿区役所方面に入ります。その角の一区画おいて、鬼王神社があります。

新宿のビル街とは思えない高い森に囲まれています。

Q鬼王神社(きおうじんじゃ)(将門伝承)

 繁華街のど真ん中に静かな本殿、先ず諸事無事を祈って、真っ先に「由緒」を頂きます。

 『古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応二年(一六五三年)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。

 宝歴二年(一七五二年)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から勧請し、天保二年(一八三一年)稲荷神社と合紀し、稲荷鬼王神社となりました。

 ・・・紀州熊野に於いて鬼王権現は現存せず、当社はそれ故、全国一社福授けの御名があります。(後略)

 追記 江戸時代に既に特異な『鬼王』という名の神社を勧請するのに地元に抵抗感が無かったのは、この土地が――文書では残っていませんが――平将門公(幼名、鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。』

 社家は大久保家(大久保村の神社や寺の神職・別当職)がつとめ、内藤家の信任も厚かった。病気平癒の祈祷を行った。当山派修験青山鳳凰閣寺の末寺で、不動明王を祀る三宝山大乗院泰平寺があった。と記してあります。修験が別当を勤めていたようです。

 そして、縁起の追記にあるように、将門の幼名をとって社名にすることは、この地に何らかの将門、或いは神田明神に関する背景があったものと考えられます。面白いのは神社入り口に祀られる鬼の像の手水鉢です。この地の伝承を伴い、新宿では区指定有形文化財としています。

『所在地 新宿区歌舞伎町2丁目17番5号 指定年月日 昭和63年8月5日

 文政年間(1818〜1829)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢をのせた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷の伝説を記した石碑があり、これによると

 「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。

 この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。 平成5年1月   東京都新宿区教委区委員会』

 天保5年という幕末に近い頃、大久保でこのような話が生まれていることに、この地域の雰囲気を伝えます。一歩神社を出るとがらりと雰囲気が変わります。

 鬼王神社には「豆腐断ち」(鬼王神社に豆腐を献納し、治るまで豆腐を食べるのを我慢し、「撫で守」で患部を撫でれば、湿疹・腫れ物がなおる)の御利益が伝えられます。そのため、社前に、豆腐屋さんが数軒あったそうですが、いまでは見られなくなりました。

 なお、この御利益は『今日でも広く信仰されています。』と由緒に記されています。

鈴木三重吉の旧居跡・赤い鳥社跡

 赤い鳥と聞くと

 『人魚は南の方にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。北方の海の色は青うございました。・・・』(小川未明 赤いろうそくと人魚)

 『ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中の・・・』(芥川龍之介 蜘蛛の糸)

 と幼い頃の聞き覚えが浮かんできます。淀橋区西大久保1の461、現在では地図上でしか辿りようがありません。歌舞伎町2−12・14あたりが、その「赤い鳥」社跡とされます。

 鈴木三重吉の新宿での旧居跡でもあります。三重吉は、広島市生れで、明治41年(1908)、東京帝国大学英文科卒業、在学中から夏目漱石に私淑して文学活動に入ります。

 大正7年(1918)7月、北豊島郡高田村大字巣鴨字代地3559(現・豊島区目白3−17−1付近)の自宅で赤い鳥を発行しました。以後、日本橋、目白、四谷と転々とし、昭和4(1929)年11月、西大久保410番地からこの地に転居しました。昭和11年、死去するまで住み、その間、赤い鳥社もここにありました。

 鈴木三重吉は、夏目漱石の門下生で、「千鳥」(1906)を漱石の推薦で「ホトトギス」に発表し、作家として踏み出しました。長編「小鳥の巣」(1910)、「桑の実」(1913)などの小説をのこしましたが、大正5年(1916)以後、児童文学に転じ、大正7(1918)7月、童話・童謡雑誌の「赤い鳥」を創刊しました。途中、休刊がありましたが、昭和11(1936)年8月まで発行されました。

 北原白秋、芥川龍之介、島崎藤村、泉鏡花、徳田秋声、小川未明などが賛同者でした。創刊号には芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が掲載されました。

新宿ゴールデン街

 新宿は明治の文豪の居住地でありましたが、むしろ新しい時代の作家を生む坩堝です。渡辺英綱氏が

 「新宿ゴールデン街」(1986 晶文社)
 「新編・新宿ゴールデン街」(2003 ラピュタ新書002 フュージョンプロダクト)

 に詳しく紹介していますが、独特な雰囲気を持つこのまちに、現代文学の錚々たるメンバーが常連となってたむろし、それぞれの作品を生み出しました。その顔ぶれを見るとまさにこの地が母胎となっていることがわかります。渡辺英綱氏がこのまちで出会った作家の一覧を見ると、○○賞受賞者の一覧でもあります。

 このまちは、第二次世界大戦後の混乱期、新宿駅東口(馬水槽の東)に形成された屋台街の移転から始まります。同じ時期、新宿2丁目からも多くの店が移ってきて、新たな街が産声をあげました。昭和33年に売春防止法ができるまでは、通称「青線」と呼ばれる非合法な売春宿もありました。さまざまな経過と「場」が次の文化を生む「坩堝」になりました。

 その場も、現在の大きなうねりの中で変化を余儀なくされています。渡辺英綱氏は次のように書きます。

 『ところで、「新宿ゴールデン街文化」とはなにかといえば、それはたぶん、学者、作家、詩人、映画.演劇・マスコミ関係の人たちへの開かれた「場」のかもしだすものとしてあるのではなかろうか。

 もとより、呑み屋に文化が詰まっているわけではない。ゴールデン街では昔の吉原とは違った形で二百七十軒余の呑み屋が密集することによって、文化を担う人々の憩いの「場」を提供しているということなのである。』(「新編・新宿ゴールデン街」p209〜210)

 『――二〇〇〇年の暮れ頃からゴールデン街にも世代交代の“新風”が吹き始めた。それは身内の側から見れば、私たちが一番恐れていた自然崩壊という現象であった。それは隣近所の店を不動産屋と組んで地上げをした店の経営者の高齢化とそれに伴う後継者不足と、営業者自身の「死」を意味していた。』(p302)

 『――確かに、確実に六十年代、七十年代を代表とした「新宿文化」の「文学」、「芸術」は終焉したのである。
  ――さて、稀に見る「薪宿文化」は今後、「ゴールデン街」から生まれるかどうか。どうやら後継者は出来つつある。』(p303)

 後継者に本当に次の坩堝を期待します。ゴールデン街で渡辺英綱氏が出会った作家、詩人、評論家、映画、演劇関係者の名前は数100人に及びます。

 ゴールデン街を過ぎると、四季の道です。今回の「新宿さまよい歩き」はひとまずここで終わります。追々地図を入れて行きます。(2003.11.11.記)

前 抜弁天 西向天神社 太田道灌・紅皿の碑へ

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