新宿さまよい歩き

右側ビルとビルの間の空地辺りに坪内逍遙の旧宅がありました。
その前の歩道を画面向かって左方向に歩きます。

抜弁天(ぬけべんてん)・厳島神社(義家伝承)

 坪内逍遙旧宅跡は小径をぐるっと回れます。回って出た歩道をそのまま右に進みます。地図の上では北。302号線は「抜弁天通り」と名付けられた通りと交差します。その交点に三方道路の弁天様が祀られています。

嘉永5年(1852)の絵図が案内板に表示されています。
当時の図は南北を逆にして書きますので、反転して、現在の地図と同じ向きにしました。
右端のY字型の角に抜弁天が祀られています。

 坪内逍遙旧居跡の歩道側の鳥居から入ります。澄み切った池に鯉が泳ぎ、奥に弁天様が祀られています。あまりの水の美しさに、管理にさぞ、ご苦労なさって居られることだろうと驚きです。それにしても、この地域で最も高いところと聞きますが、そこに弁天様とは、この地方の開発の経過になんらかの係わりがあるのでしょうか。現在は三方道路に囲まれ、どこからも抜けられて名前がピッタリの弁天様です。

 神社の由来に、源義家(八幡太郎)伝承が反映しています。義家が後三年の役(1083〜1087)で奥州に向かう途中ここに宿営した。遠く富士山をおがみ、戦勝を祈願した。義家は奥州の鎮定ができた。そこで、帰途、戦勝のお礼のため厳島神社を勧請して社を建てた。

 そこから難を切り抜くための神社として尊崇を集め、遂に江戸六弁天の一つになった。とするものです。道路の情況と併せて、災難を抜く御利益、義家が出てくるところが何とも云えません。江戸六弁天は、本所、須崎、滝野川、冬木、上野、東大久保の六所です。

大久保犬小屋跡

 元禄の頃、五代将軍綱吉が「生類憐みの令」(貞享4年=1687)により、動物の殺生を禁じ、特に犬を重視しました。将軍綱吉には嗣子ができませんでした。これは前世において殺生を好んだからだということから、生類の殺生を固く禁止し、特に綱吉が戌年(いぬどし)生まれであることから、犬を殺すことを厳禁せよとの、トンチンカンな定めです。

 綱吉の政策は、最初の頃は「天和・貞享の治」と呼ばれる慈悲・仁愛の法治主義を目指すものでしたが、取り巻きの側近政治も加わって、とんでもないものに様変わりしました。

 ・病気になった馬を荒れ地に捨てたため、遠流となる
 ・鳩を石で追い払ったものが江戸追放になる
 ・喧嘩している犬の喧嘩を止めなかったので、犬が死んだため閉門
 ・犬の喧嘩して怪我をするといけないので、水を引っかけて分けるため「犬分け水」を置く
 ・そのために、犬の紋の羽織を着た番人が着く
 ・犬を輿に載せて運ぶ

 等とのことが起こりました。粗相のないようにと飼い主が犬を飼うことを止めて野放しすることにもなり、大量に野犬が増えました。その犬を収容するための大がかりな犬小屋を建てることになりました。その一つがここでした。場所と広さは、抜弁天の東側付近と余丁町小学校のあたりまでになります。当時の図面を調べると、抜弁天通り南側では、出世稲荷の北側辺りから坪内逍遙旧居跡辺りまでが含まれています。

 元禄7年(1694)のことです。敷地約825アール、工 事手伝いとして越中富山の前田利通、総奉行は側衆米倉丹後守伊昌、藤堂伊予守良直が任じられました。江戸市内の野犬を収容しましたが、あっという間に10万匹以上になり、たちまち、この犬小屋は狭くなったので、中野区にさらに大がかりな犬小屋を増設した。ということです。米や魚が犬の食糧として与えられ、人間より高級なうえに費用は地元持ちと云うことで、とんだ悲劇でした。 

  

抜弁天を含め犬小屋のあった辺り

 多摩地方では、収容しきれなくなった犬を預かって、養育料を得ていましたが、綱吉が亡くなって制度が変わるやいなや、養育料を返還せよとの命令が出され、身上半潰れになるなどの踏んだり蹴ったりのことが起こります。新宿に関わるもう一つの場所は、現在の新宿駅南側につくられた「四谷犬小屋」でした。

 抜弁天から抜弁天通りを新宿駅方面に少し下ると、文化センター方面に出る道がありますが、その手前に旧鎌倉街道と伝えられる道があります。途中から、かってのカニ川が下水になって道路下に埋められています。今回のコースでは、左手に小高く台地の先端が張り出し、西向天神、大聖院が祀られています。

手前の道路が旧鎌倉街道と伝えられます。カニ川は下水となっています。
鳥居は西向き天神の参道。

西向天神(にしむきてんじん豊島氏・牛込氏が 祀る)

 江戸名所図会には「大窪天神」として紹介されています。鎌倉時代の安貞3年(1229)の建立といわれます。豊島氏や牛込氏からも尊崇を受け、三代将軍家光が家来を伴いよくここに立ち寄られ、ナツメ型の金の茶器を与えて社の修理をするよう命じたとの経歴を持ち、以来、ナツメ天神とも呼ばれています。新宿歴史博物館 江戸名所図会でたどる 新宿名所めぐり で次のように要約しています。

 『この地の鎮守。祭礼は六月二十五日。別当は梅松山大聖院といい、聖護院宮の直末、本山修験派の江.戸役所であり大先達である。棗(なつめ)の天神ともいい、または西向天神ともいう。社殿が西を向くためこう呼ばれる。棗と称する由来は不明。

 安貞年間(一二二七〜二九)に京都栂尾の明恵上人が祀ったもので、明慶、覚運らが奉祀した。後に太田道灌が田圃を寄附した。そこで天正年間(一五七三〜九二)兵火により焼失した歳、ご神体は谷間の桜の枝に移された。その桜を瑞現桜というが、今は枯れてしまった。この時青山氏某が村人とともに祠を建てた。聖護院宮道晃法親王が江戸に下った時、大僧都元信を当社の別当とした。この頃には社殿もようやく整備され、四時の祭典も怠る事が無く続けられるようになった。』(p資料8〜9)

 文人達はこぞってこの地の景観を褒め称えます。大町桂月の『東京遊行記』(明治39年)には「新宿附近唯一の眺望よき処也」と、また永井荷風の『日和下駄』(大正4年)には、「タ日の美しきを見るがために人の知る所となった」とあります。

 境内には、神社由来を刻んだ高さ約1.6メートルのりっばな「武蔵国大久保管公朝碑」があり、弘化2年(1845)築造の富士園も残っています。

 昔は、この神社の下に「カニ川」と呼ばれている小川が流れていました。『江戸名所図絵』にも出ていて、水源は、新宿二丁目の太宗寺の池で、川は戸山ハイツヘと、そして早稲田鶴巻町の方へ流れていました。今は下水管になっています。この川の流域が大きな窪地になっていたところから「大久保」という地名になったのではないかと云われます。また、このカニ川に沿って、鎌倉街道が通っていたことと、大聖院の板碑とが密接な関係があるものと考えられています。

 豊島氏や牛込氏からも尊崇を受けていたという、家康入府以前の中世の歴史があり、牛込氏の活躍の範囲を知ることができるのが何よりです。牛込の「込」という字には、多く集まるという意味があり、牛が多く集まる=牧場があったことに由来する地名とされます。牛込氏の勢力は、戸塚や大久保方面にまで及んでいたと考えられ、戸塚稲荷も牛込氏によって修理されたと伝えられています。

大聖院(だいしょういん太田道灌・紅皿の伝承)

 西向天神の別当寺でした。寛正年間(1460〜1465)に牛込八郎重次(あるいは重行か)が創建したものと伝えられます。

  宝暦元年(1751)〜明治4年(1871)に及ぶ古文書
 文政7年(1824)東大久保村地誌書上帳、紅皿縁起

 などの古文書が残されています。

 境内に「紅皿碑」があります。太田道灌と歌をたしなむ農家の娘「紅皿」の伝承を持ちます。新宿区教育委員会の説明板から、そのまま紹介します。

紅皿(べにざら)の碑

『所在地 新宿区新宿6丁目21番11号

 太田道灌山吹の里伝説に登場する紅皿の墓であると伝えられる板碑である。高さ107センチ、幅54センチ、厚さ6センチで、中央部及び下部に大きな欠損がありはっきりしないが、中央部に主尊を置き、四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。造立年代は不明であるが、十三仏板碑が盛んに造られた15世紀後半であると思われる。

 紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩りに来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、その家の娘が庭の山吹の一枝をさし出して断った。

 これが縁となり、道灌は紅皿を城にまねき歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。後年、芝居で演目とされたため、十二代守田勘弥らの寄進した石碑類が並んでいる。

           平成3年11月                  東京都新宿区教委区委員会』

 道灌は文明18年(1486)7月26日、神奈川県中郡伊勢原町の槽谷(伊勢原市)にある扇谷定正の館で殺されました(55歳)。太田道灌関係では面影橋付近の山吹の里が有名ですが、新宿区、文京区には太田道灌の伝承が濃く残り楽しませてくれます。

 新宿区教育委員会では板碑の年代を「十三仏板碑が盛んに造られた15世紀後半」として時期を合わせています。果たして板碑が紅皿の墓といえるかどうかは問題のあるところですが、史跡指定ではなく、伝承としているところが配慮のしどころです。(2003.11.10.記)

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