石川啄木函館から上京
(明治41年4月27日横浜・長野屋旅館、4月28〜5月3日、東京新詩社)

東京の啄木の軌跡を追うページであるため、各地での啄木の足跡は省略します。

啄木は、明治39年(1906)6月12日上京、父の宝徳寺復帰、小説への新たな転機を期して、22日 帰郷
「雲は天才である」「葬列」を書き、小説の世界に入ります。

明治40年1月、長女「京子」をもうけ、家庭も安定するかに見えますが
3月、怠納した宗費が納められないことなどから、宝徳寺復帰に失敗して父が家出します。

啄木は、渋民小学校で校長排斥運動を起こし、村内騒然となり、校長は転出、啄木は免職となります。
これを契機に、5月、一家離散
啄木は函館に渡り、代用教員、函館日々新聞の遊軍記者をして過ごします。
しかし、新聞社が焼け、北門新報社に移ります。

やがて、札幌に新設された小樽日報社に移ることを薦められ、野口雨情らと活動します。
社の内紛があり、啄木は事務長からの暴力もあって、12月21日、退社します。

明治41年(1908)1月、啄木23歳、単身で釧路新聞社に移ります。
小樽日報社長の白石氏の尽力とされます。

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

と後にうたっていますが、啄木は総編集を買って出て、新聞作りに取り組みます。
然し、上司への不満と上京しての創作活動への憧れが交差し、夜の町を徘徊し
料亭や下宿に多額の借金を重ねます。

小奴といひし女の
やわらかき
耳朶(みみたぶ)なども忘れがたかり

と「一握の砂」でうたう、芸者・小奴と出会います。

こんな時(3月8日)、明星の与謝野寛・鉄幹から上京の誘いが来ました。
自然主義の流行を告げ、詩は小説と違い叙事詩が正宗だと訴え
『東上の御計画はいまだ御著き被遊不申や、万事お察し致し同情に不堪候』とあります。

啄木は3月17日にこの手紙を読んでいます。特に感想は書かれていませんが
3月21日から釧路を去るまで、病気欠勤が続いたことからすると相当のショックがあったのだと思えます。

上京への憧れと現実の狭間に悶々として過ごしたのでしょう。3月23日の日記には
『何という不愉快な日であろう。何を見ても何を聞いても唯不愉快である。・・・』 と書き、翌、24日には
『釧路へ来て酒を飲み習った事、歌妓小奴の事。胸の不平のありツたけを。』
与謝野寛・鉄幹に長い手紙で書き送ったと記しています。

3月28日、世話になった白石社長から“ビョウキナヲセヌカへ、シライシ”との電報を受け
『自分の心は決した。啄木釧路を去るべし。正にさるべし。』とし、ついに、4月5日、釧路を去ります。

海路上京

 釧路を去った啄木は 「先ず、函館に行って、日々新聞社に入らんと考えた」(3月28日日記)としていますが、心の底では早くも東京への想いが沸々としていたようです。函館で宮崎郁雨らと再会します。 自分の思いを打ち明けられないのを察した宮崎郁雨の気遣いに、明治41年(1908)4月8日、9日の日記はジーンと胸を打ちます。

 四月八日
  吉野君が朝早く来てくれた。鼻の下に、あるか無いかの、髭を蓄へて居る。
  岩崎君、今日は仮病して郵便局を休む。午前、相携へて公園を散歩する。
  目に触るるもの何れか思出の種ならぬはない。
  午后、旭町に宮崎君を訪ふ。相見て暫し語なし。
  夜、吉野君が宿直なので、東川小学校の宿直室で四人で飲む。
  宮崎君と寝る。
  ああ、友の情!

 四月九日
  十時起床。湯に行つて来て、東京行の話が纏まる。
  自分は、初め東京行を相談しようと思つて函館へ来た。    
  来て、そして云ひ出しかねて居た。今朝、それが却つて郁雨君の口から持出されたので、
  異議のあらう訳が無い。
  家族を函館へ置いて郁雨兄に頼んで、二三ケ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作的生活の
  基礎を築かうといふのだ。
  一時頃から郁兄と二人で公園から谷地頭まで散歩。断片的生活といふ事が話題に上つた。
  さうだ、自分の今更の生活は実に断片的だ。・・・

 さっそく啄木は与謝野寛に手紙を書いたのでしょう。4月11日、与謝野寛から手紙が来ます。

 『御状拝見仕候
 元気よき文字を見て甚だうれしく感じ申候。
 先日御選歌甚だ結構に存じ候。御礼申上候。
 御東上の事何よりの好音に候。必ず御決行被下度候。
 おなじく苦闘被遊候ならば北海道のはてより東京がよろしく侯。
 堅実なる文学的生涯に入らむ事を希望此事に候。
 下宿はどうにか考へておくべく候。さしづめ拙宅へ御出被下度候。・・・』

 こうして、啄木は宮崎郁雨に全面的に世話になり、家族を函館に残して単身、4月24日、午後9時、函館から郵船三河丸に乗船、横浜に向かいました。4月27日、午後6時に横浜港に着きました。この夜は横浜の 正金銀行前の『長野屋』に宿泊し ています。

横浜で烏水小島久太と会う

 明治41年4月28日、前夜『長野屋』に宿泊し た啄木は、新詩社同人の小島烏水と昼食を共にしています。小島烏水は、すでに文集「扇頭小景」を出版し、評論家、山岳文学者としても名を成しており、横浜正金銀行の預金課長をしていました。啄木は上京の第一歩として、文壇の状況を聞きたかったのでしょう。28日の日記には次のように興奮してその様子を書いています。

 『正金銀行の預金課長、紀行文に名を成して、評論にも筆をとる此山岳文学者は、山又山を踏破する人と思へぬ程、華車な姿をして居た。痩せた中背の、色が白くて髭黒く、目の玉が機敏に動く人で、煙草は飲まぬ。

 名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかつた。話題の中心は詩が散文に圧倒されてゆく傾向と自然主義の問題であつた。有明集が六百部しか売れぬと聞いた。二葉亭の作に文芸を玩弄する傾向の見えるのは、氏の年齢と性格によるので、今の文壇、氏の位頭の新らしい人はあるまいと評した。

 “然し乍ら、遠からず自然主義の反動として新ロマンチシズムが勃興するに違ひない。小川未明など云ふ人は、頻りにそれを目がけて居る様だが、まだ路が見つからぬらしい。”・・・』

 と、新ロマンチシズムの勃興を予測しています。これから向かう与謝野寛・晶子との関係をどのように置くかを、あらかじめ胸にしまい込んだのかも知れません。また、5月2日、宮崎大四郎宛手紙では

 『船中の感想は態と申上げず、二十七日の夜は長野屋といふに夢を結び、翌日は一洋食店に小嶋君と会食して快談いたし候、誠によい紳士にて、今後若し小生が職でも求める際は出来る限りの助力をすると申居り候、・・・』

 として、啄木の就職の話も出たことがわかります。

午後2時新橋から千駄ヶ谷へ

 小島烏水との会談後、啄木は横浜から新橋まで汽車に乗りました。久しぶりの人混みと都会の雑踏に疲れたらしく、新橋から千駄ヶ谷までは人力車を走らせています。4月28日の日記です。

 『午后二時発の汽車は予を載せて都門に向かった。車窓の右左、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍したい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却って此緑の色の中に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。

  三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待つて居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ケ谷まで走らせた。四時すぎて新詩社につく。

 お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新らしい顔であつたのが目についた。

 本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋緋
とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。

 一つ少なからず驚かされたのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎(どう)しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は総て此人の詩に現はれて居ると思つた。

 そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新らしく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。』

 着くや早々厳しい観察をします。呼び寄せた与謝野寛と啄木の間には相当の距離が生まれていることがわかります。啄木が泊まった千駄ヶ谷の新詩社

  啄木は与謝野家の生活振りを目の当たりにして、このまま居候をする状況ではないことを知り、5 月4日に金田一京助のもとに同宿することになりますが、その間の出来事を追ってみます。

 4月28日 千駄ヶ谷の新詩社着
  与謝野寛 師・落合直文の遺著 「言の泉」増補の校正に忙しい
  1日発行予定の明星は原稿がまだできていない 950部印刷するが、月、30円の赤字
  寛は藤村の春を口を極めて罵倒 漱石を激賞、小栗氏の作をほめる
    晶子が小説に転ずる。寛も来年あたりから書いてみようという

 4月29日
  四谷大番町に小泉奇峰を訪ねる
  須田町で釧路から上京してきた看護婦の梅川と出会う
  梅川と上野に遊ぶ
  菊坂の赤心館に金田一京助を訪ねる
  金田一の下宿に泊まる

 4月30日
  12時に千駄ヶ谷に帰る
  与謝野寛 師・落合直文の遺著 「言の泉」増補の校正に忙殺
  森鴎外から5月2日の観潮楼歌会の招待を受ける
  市ヶ谷本村町に並木武雄(函館「紅苜蓿(べにまごやし)」の同人、この時は外国語学校に通学)を訪ねる
  漱石の虞美人草を読んで寝る

 5月1日
  隣の生田長江を訪ねる
  午後、金田一京助(本郷菊坂町82 赤心館)を訪ねる
  千駄ヶ谷に戻り、午後8時頃、2週間前に平塚明子と日光で心中未遂した森田白楊(草平)が来る

 5月2日
  晶子と明星や新詩社のことを話し合う 明星や新詩社が晶子の筆一本で支えられていることを知る
  午後2時 寛とお茶の水の明星の印刷所へ行き校正を手伝う
  夕刻、森鴎外の観潮楼歌会に出席する 鴎外から作品をほめられる
  吉井勇、北原白秋と道坂の平野万里の家に泊まる

 5月3日
  平野万里の家で文学論を戦わす
  12時、千駄ヶ谷に帰る
  午後4時、並木武雄を訪ね、金田一京助の下宿に泊まる
  金田一の下宿に空き間ができ、引っ越すことに決める

 5月4日
  12時千駄ヶ谷に帰る
  3時、本郷菊坂町82 赤心館に引っ越す

 ざっと、日記から拾い出しましたが、金田一京助のもとに入り浸り、ついに金田一の下宿・赤心館に引っ越すことになります。この間、 吉井勇、北原白秋、平野万里らと交流し、文壇の流れを直接に知り、与謝野寛への批判の目が高まります。呼び寄せてくれたことと、文壇の動きと自分のなすべき事に戸惑いを隠せない日々が続いたようです。

観潮楼歌会へ(5月2日)

 この数日の間に、啄木の心を捉えた出来事は多々あったでしょうが、ここでは、森鴎外の観潮楼歌会を追ってみます。 その空気を啄木は日記(5月2日)に次のように記しています。

 『お茶の水から悼をとばして、かねて案内をうけて居た 森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、 平野万里、吉井勇、北原白秋に予ら二人、主人を合せて八 人であつた。

 平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏 は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍 医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女 弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所 謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出した が、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカし い男だ。年は三十七八にもならう。

  角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運 座。
 御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、 鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十 二点、白秋七点、信綱五点、左千夫四点、親譲りの歌の先 生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。

  鴎外氏は、“御馳走のキキメが現れたやうだね。”と哄笑せ られた。次の題は、赤、切る、塗物の三題。
 九時半になつ て散会。出て来る時、鴎外氏は、“石川君の詩を最も愛読 した事があつたもんだ。”・・・』

 観潮楼歌会は、森鴎外が主宰して、自宅・観潮楼で、明治40年(1907)3月から、毎月一回、第一土曜日に開かれました。夕方から夜にかけて啄木が書くように題を決めて歌を詠み会う形式で行われています。鴎外肝いりの洋食が出され、若い参加者には評判だったようです。明治43年6月頃まで続けられています。

 この歌会は、当時対立関係にあった「竹柏会」の佐佐木信綱、「新詩社」の与謝野寛・鉄幹、「根岸派」の正岡子規 ・伊藤左千夫などに代表される諸派の融合・交流・革新を願った鴎外が、各派の代表歌人を招いて歌会を催した事に始まるとされます。

 また、明治41年1月、新詩社の有力同人である、吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦などが7人揃って明星、新詩社を脱会する事件がありましたが、歌会に吉井勇、北原白秋らの参加を促し、疎遠となることを防いだともされます。啄木が招待された明治41年5月2日は丁度その最中でありました。

 啄木は鴎外に評価されて、晩年を除く、深い交流のきっかけとなったようです。 北原白秋ともこれが最初の出会いで、急速に交流を深めます。歌会が終わった後、動坂に住んでいた平野万里の家に吉井勇、北原白秋と共に泊まって、翌日の朝、パンをかじりながら西洋の「春情本」を取り出して平野がその面白さを説いたことが5月3日の日記に記されています。

 さんざん北海道で遊んだ啄木に比べ、当時の白秋は純情無垢な青年で、その受け取り方などもさぞ落差があり、両者それぞれに不思議な魅力を持たせ会ったのではないかと推測します。

鴎外記念図書館・観潮楼跡

地下鉄千代田線千駄木駅から団子坂でも、根津神社から藪下通り・汐見坂を登っても
観潮楼跡へは間違うことなくつけます。

散歩好きの鴎外は気分に合わせてこれらの道を行き来したようです。
与謝野寛・鉄幹と啄木は恐らく、藪下通り・汐見坂を登って来たと思います。

会が終わって、白秋達と 動坂の平野万里宅へは団子坂上からまっすぐ行ったのか
或いは根津の遊郭をぶらついて、不忍通りを遠回りしたのでしょうか?

本郷菊坂町赤心館へ

 明治41(1908)年5月4日、啄木は金田一京助の下宿先「赤心館」に移りました。与謝野家に迷惑をかけたくなかったのと、老いた鉄幹の元を離れて自分の目指す新しい世界へ飛び立ちたかったのでしょう。
(2005.05.24.記)

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