新詩社最盛・白秋他の脱会・明星廃刊 与謝野鉄幹と晶子、新詩社は 徹宵歌会が開かれ、同人は増加し 与謝野晶子、山川登美子、増田雅子3人の共著による詩集「恋衣」が発刊され 寛は寡黙となり、北原白秋など、「明星」同人の連袂退社となり 約4年間にわたり、明治を象徴する文学活動が行われた場所を ランプの家 明治37年(1904)11月3日、中渋谷341番地から転居してきたこの家は、明治書院所有の貸家でした。与謝野光 「晶子と寛の思い出」では
『明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家へ移った。安くで住めるからそれで移ったんです(笑)。千駄ケ谷村に引っ越したわけですね。 としています。藤田佳世「大正・渋谷道玄坂」では しかし、千駄ヶ谷では、晶子、山川登美子、増田雅子3人共著の「恋衣」、晶子の「舞姫」「夢の華」「常夏」と相次ぐ歌集の発刊、「小集会」「徹宵歌会」・・・など新詩社の最盛期を迎え ました。これらからすれば、外圧、手元不如意の中に、心機一転を期しての転居であった と思われます。 ところが、やがて、台頭する自然主義の前に、鉄幹は対応に追われ、雅号を廃して、本名「寛」に戻りますが、北原白秋などの有力同人の連袂退社が起き、 明星は100号で廃刊となります。 国立能楽堂の南 「千駄ヶ谷村・字大通549番地・第四荻の家」の家は 国立能楽堂の南東、比較的わかりやすい場所にありました。
明治37年頃の地図を復元して見ました。破線が現在の道路で、駅の位置も左にずれ、高速道路が走って景観は大きく変わっていますが、市街地の方は古い道路がそのまま生かされて現在の路になっています。 JR・千駄ヶ谷駅を「東京体育館方面」に出ます。東京体育館を左に見て鉄道と高速道路に沿って右の道を進み、「津田塾会」のホールの前を通り越すと、佐々木病院があります。その角を左に入り、図の破線の路を真っ直ぐに進むと、T字路となり、角が駐車場になっています。そこに、渋谷区が建てた「東京新詩社跡」の標柱が立っています。
最初は左画像のような姿で駐車場が目に入りますが、角を右に曲がると右画像のようになっています。
ご近所の人は 最初に、与謝野光 「晶子と寛の思い出」に書かれた状況を紹介しましたが、千駄ヶ谷の駅は明治37年(1904)8月21日に開業して、当時の駅広は北口しかなかったようです。そこから図のような経路で、鳩森八幡神社の近くまで来て、現在、商店街になっている路を通って家に達するわけですから、相当に遠かったと実感します。 この家で、新詩社、明星は最盛期を迎え、やがて明星の廃刊という事態を迎えます。その間のことをいろいろ思い浮かべると、実に複雑な気持ちに陥ります。そして、大勢の人々がこの家には関係しました。大所だけ抽出してみます。
「恋衣」の発刊 詩人薄田泣菫の君に捧げまつる として、「みだれ髪」と同じ三六判(縦長)で、表紙は中沢弘光がかざりました。 内容は
白百合 山川登美子 131首
で、評判が良く、2月に再版、10月に3版が出されました。
増田まさ子は
与謝野晶子は 各々最初の2首をあげました。批評は賛否でしたが、晶子の歌中にある 鎌倉や 御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな をめぐっては、大仏は「釈迦牟尼」ではなくて「阿弥陀如来」である、仏を美男とは何事ぞ、など議論が交わされました。「君死ぬたまふことなかれ」を散々非難した、大町桂月が今度は擁護に回っています。根岸派の伊藤左千夫は徹底して厳しい批判をしました。 新詩社「一夜百首会」「徹宵歌会」 千駄ヶ谷では、新詩社の集まりがあると「一夜百首会」「徹宵歌会」 に発展しました。出席者一人一人が一晩に百首詠んで批評し合ったと云われます。与謝野光 「晶子と寛の思い出」では 『・・・一人一人が百首詠むんだけど、そうすると朝になっちゃうんですよ。それは実は、夜遅くなると帰れないからだったんです。 お腹がすくから、お団子とかその程度は出してましたね。「おなか団子」という団子屋さんがあったんです。近衛四連隊の下、今は住宅公団のアパートがあるんですけど、その裏あたりです。今暗渠になってますけど渋谷川という川があって、その川沿いだった。 母が買いに行くのに僕も連れて行かれました。・・・母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それをしょって帰るわけ。・・・。
『一昨五日は新詩社の新年会、めづらしくも上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明・石井柏亭などの面々も出席、女子大学よりは「恋衣」の山川登美子・増田まさ子のお二方見え侯ひき。 席上にて公開したる女詩人達よりのお年玉、贈られる人の歌に因んだものにて、平野万里君へは「み膝に置かむ恋しくばつけ」にて美しい手毬一つ。川上桜翠君へは「み手を知りしは夢かあらぬか」にて、うす紅の手袋。蒼梧君へは「……夜殿に出づる蚊ともなり綾羅の快玉の手に死なむ」にて淡紅色の木綿にて縫ひ上げたる長い袂一つ。鉄幹氏へは「ひすゐ十六我れ二十八」を判じ物的にやりたるには満座拍手致候。
これに奮慨して男の方の平出露花・川上桜翠・大井蒼梧等の数君、急案急製、やがて女詩人方へ、矢張り公開の御年玉をやる事と相成り候処、奇想天外。登美子女史へ「……たまたま燭は百にも増さむ」にて燭台へ蝋燭十本許りを一束に立て上火を点じたるを出したるなど、就中一座を驚かし申候。 「一夜百首会」「徹宵歌会」 では、文字を中に詠み込むことにして、歌を作り合ったようで、鉄幹は啄木の歌が生まれた様子を次のように伝えます。 『其頃 私の千駄ケ谷の宅で催した談話会に、鴎外、上田敏、
島崎藤村、馬場孤蝶の諸家と若い諸友とが集られ、席上で
字を出して歌を詠んだが、其時「蟹」という字を結んで啄
木君の詠んだのが其後人ロに膾炙している このような会が何回も持たれたようで、当時の新詩社の勢いを感じます。 鉄幹の雅号を廃し「寛」へ 明治38年、鉄幹はそれまで使っていた「鉄幹」の雅号を廃して、本名「寛」に戻りました。何故なのか興味があります。河井酔茗は 『鐵幹時代の与謝野氏と寛時代の与謝野氏とは全く別人の観がある。氏の詩人的性格は鐵幹時代に先づ現はれ、詩人として歌人としてまた國文學者としての与謝野氏は、寛時代即ち『明星』以後に於て漸く圓熟の域に達成したのである。 彼自身も鐵幹時代には詩人を以て自ら任じ敢て歌人とは言はなかつた。明治二十年代では詩人といへば新しく聞えるが、歌人といへば古く聞える掛念もあつて、彼は當初自分の歌を『小生の詩』と称してゐた。事實また鐵幹は詩人曲存在としてわれわれの眼にも映つてゐた。』(筑摩書房 明治文学全集51 p357「明星」以前の鉄幹) といいます。その起点が明治38年・明星第5号からでした。自筆年譜で、前年(明治37年)秋にすでに決めているようですが、この頃から、鉄幹自身期することがあったと思われます。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では 『まずなによりも気になるのは、この数年、着実に勢いを増してきた自然主義派の台頭である。彼等はもともとは子規などを中心に、自然観照を唱え、写生を第一として生まれてきた流派であるが、いまやその流れは俳句から歌にまでおよび、伊藤左千夫の率いる「馬酔木」などがその拠点となっている。この流れは次第に小説にまでおよび、西欧の文学界でも主流となりつつあるようである。 としています。千駄ヶ谷時代は鉄幹・晶子・新詩社にとって、最盛期と転換の時期が重なった実に微妙なときであったことを知らせてくれます。 晶子の羽織と浴衣 いかに新詩社が最盛期を迎えたとはいえ、与謝野一家は経済的に厳しい状況が続いていたようで、明治41年11月2日のことです。晶子は子供らを連れて上野の文部省展覧会に行きます。そこで、ぱったり金田一京助と 石川啄木に出会いました。啄木はその日の日記に 『・・・さて、日本画館の中で、晶子さんと其子らに逢つた。薄小豆地の縮緬の羽織がモウ大分古い――予は晶子さんにそれ一枚しかないことを知つてゐた。そして襟の汚れの見える衣服を着てゐた。満都の子女が装をこらして集つた公苑の、画堂の中の人の中で、この当代一の女詩人を発見した時、予は言ふべからざる感慨にうたれた。・・・』 と書いています。そのような中で、鉄幹・晶子の心遣いは止みません。4ヶ月程さかのぼる、8月のことです。菅沼宗四郎が「鉄幹と晶子」の中で
「明治四十一年、啄木二十三歳のとき、釧路をたって海路四月二十七日横濱着、四月二十八日千駄ケ谷の興謝野寛氏を訪ふ。四月二十九日木郷菊坂町の赤心館といふ下宿に金田一京助を訪ねた。手荷物一つなく着のみ着のまま、瓦斯縞の綿入に紡績飛白の羽繊を着て、ステツキを持つてゐたばかり。「荷物一つないから知らぬ下宿屋では置くまいから」と云って、そのまま同室に入る。七月十六日、新詩社の歌会へ七月の半ばといふのに、まだ北海道から着て來たその綿入を着て出かけた。 と紹介しています。 千駄ヶ谷時代の寛と晶子
千駄ヶ谷時代の寛と晶子は仕事の上では充実していましたが、二人の間には、「恋衣」の発刊を契機とした、色艶のある葛藤があったようです。寛と山川登美子、増田雅子を巡って
の恋の再燃で、
この頃の歌が集約された晶子の第三歌集・舞姫の中に、晶子の怨念のような歌が目に付きます。歌集に登載された順番に気になる次の5首を選んでみました。 恐らく、直接の対象は山川登美子と考えられますが、相次いで子供を産み、育児と生活に追われる中で、髪ふり乱して仕事して、今や、寛を追い抜く勢いで世に待たれている日々、清楚な姿の女性に心を奪われて、なおも両方愛することを許せと、最愛の寛に乞われる晶子の心痛は思いやれれます。 山川登美子も寛に向けての籠もる気持ちを詠っていますが、この年11月5日、夫から感染した呼吸器の病で駿河台鈴木町の高田病院に入院し、以後、病と闘い、翌・明治39年には、東京を離れ、京都で療養するようになりました。 北原白秋など7名が新詩社を連袂退会 明治40年末から、「寛」・新詩社に向けての内部からの批判が起こってきました。有力同人 である、吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦などで ・相変わらずこだわる「反自然主義宣言」(明星を刷新するに就いて=明星明治40年12月号)への反発 などがきっかけとなっていることが伝えられます。そして、明治41年1月、遂に7人揃っての脱会となりました。 大きな背景は「鉄幹」の雅号を廃して、本名「寛」に戻るところで渡辺淳一の解説を紹介しました。直接の模様は伊藤整 日本文壇史が次のように書きます。 『一月十一日、白秋、吉井勇、太田正雄、深井天川、長田秀雄、幹彦兄弟 等は、神樂坂の紀之善といふ鮨屋の二階へ集まつた。そしてそこで新詩社脱退の相談がはじめられ た。その晩は更に長田家で酒宴があり、そこには蒲原有明と「中央公論」の編輯者瀧田樗蔭が來て加はつてゐた。 瀧田樗蔭は長田兄弟の父なる長田足穂医師がかかりつけであつたので、この青年詩
人たちに同情し、その作品を「中央公論」に発表する機会を與へると約束した。これが青年詩人た
ちを勇氣づけた。 七人の脱退は、「明星」二月號で六號活字の「社中消息」欄に次のやうに報ぜられた。 この集中した脱会は寛にとって打撃だったようで、新しい文芸の潮流を前にして、自らのよりどころであった明星の廃刊を決めました。この当時の様子、寛の印象を、約3ヶ月後 に上京してき石川啄木が次のように伝えています。明治41年4月28日の日記 『四時すぎて新詩社につく。 本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣 さらに、印刷所か ら送つて来た明星の校正を見ると、1頁から12頁までで、とうてい一日の発刊に間に合わず、5〜6日は延びるであろうこと、印刷部数は「九百五十部しか刷らない 」こと、経費がかさみ、「月に三十円以上の損にな」ること、「外の人なら モウとうにやめて居るんですがね」と寛が語ったことなどを記しています。 啄木は、ほとんど無一文に近い状況で上京し、寛・晶子に面倒をかけながら、1週間ばかり新詩社に泊まり込んでいました。ありのままの姿を見、直接に空気を知っただけに、『与謝野氏は既に老いたのか?予は唯悲しかつた。(千駄ケ谷新詩社にて)』と結ぶ啄木の心情も身にしみます。 明星100号で廃刊 廃刊の理由は様々に伝えられます。中 晧「与謝野鉄幹」(p105〜107)では 『「明星」は明治四十一年十一月、ついに百号をもって終刊となった。終刊の理由、きっかけに就いては、既に言い旧されているように、明治三十年末からの自然主義文学の拾頭と、四十一年一月、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、その他四人の脱退とに因るようであるが、何よりも経済的困難が一番大きな理由である。』 としています。同じように、石川啄木が、明治41年5月2日の日記で、次のように伝えています。 『五月二日
それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。どうせ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。 寛は最後の号で次のように謝辞を述べています。 『 ・・・雑誌本来の主張を支持し、新詩の開拓と、泰西文芸の移植と、兼ねて版画の推奨とを以て終始し得たるは、先輩諸先生、畏友諸君、読者諸氏及び、社中同人諸君が熱烈なる助成のたまものとして、ここに深く感謝を表する所なり。・・・・・ 本号を以て「明星」を廃刊せむとするに、二の所因あり。経費の償はざること一、予が之に要する心労を自己の修養に移さむとすること一。之を三四の先輩畏友諸氏と同社の諸君とに諮(はか)りて、今やその協賛を得たり。但し
「明星」は廃刊すと雖(いえども)、予が詩人としての志は、既往より当来に渉(わた)り、宛(さなが)ら一条の鉄のみ、更に十年の後、製作の上に何等かの効果あらむことを期
し、以て大方より受けたる高義の万一に報ぜむと欲す。 明星に関わった人々は多く、平子恭子編著、年表「与謝野晶子」(河出書房新社)では次のように名前を列記しています。(p72) 『終刊号には同人あるいはその他の人の作品を一挙に掲載して記念碑とした。次にその人々を掲げておく。 (以下五名は絵画担当)、三宅克己、中沢弘光、石井柏亭、和田英作、伊上凡骨(木版彫刻)などである。』 石川啄木は最終巻の発送を手伝い、次のように日記に書いています。 『十一月六日 明星の廃刊だけが目立ちますが、渡辺淳一が『理由に多少の違いはあるが、この一年だけで、まず伊藤左千夫が主宰していた「馬酔木」が廃刊に追いこまれ、続いて小山内薫の「新思潮」(第一次)が、さらに五月には河井酔茗が関わっていた「詩人」が消えていた。』とするように、出版界全体の経済状況が大きく作用していたこと が否めないでしょう。 明星の売り上げは振るわなかったようで、伊藤整は日本文壇史で、 『十一月二十日になつて、「明星」の第百號は、千部刷つたうち、八百部しか売れず、印刷費を払えないそうもないことが分かった。新詩社の経済を支へてゐるのは與謝野晶子であつた。晶子はこの頃、「萬朝報」へ「不覚」といふ題の連載小説を書くことになつてゐたが、その印刷費の残りを払ふため、その小説を五十回分をまとめて書き、それを金にしてすぐ印刷屋へまはした。それで無理をしたせゐか晶子は二日ほど右の半身が不随になつた。・・・』(13 p193) と書いています。晶子は最後まで無理をして後始末を付けたのでした。 スバル創刊 明星の廃刊が決った明治41年夏には、次の手だてが講じられたらしく、新しい雑誌の題名が話題になっています。平野万里、石川啄木、吉井勇の三人がいくつかの候補名を森鴎外の所へ以て行き、鴎外が「昴」を選んだとされます。伊藤整は日本文壇史で 『・・・しかしこの雑誌の名を森鴎外が決定したといふことは、與謝野寛が一歩退かねばならなかつた内部事情とともに、この新難誌の指導が鴎外の手にゆだねられたことを語るものであつた。』 『間も無く私達が経済上の事情から「明墨」を百号で止め ようと云い出して、その相談会を同人相寄って開いた時に、 極力不賛成を唱えた人は啄木君であったが、私を解放して 自由に読書の人とさせたい考から平野万里君其他の多数が 廃刊説に賛成されたので、私の希望が通った。 その代りに、 森鵬外先生や上田敏先生はじめ木下杢太郎、北原白秋、 吉井勇、茅野諦々、長田秀雄、石井柏亭、高村光太郎、平 野万里、平出修、石川啄木、江南文三、私達夫婦が新たに 「スバル」という雑誌を出し、経済上の責任を平出君が担 当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当する ことになった。』(筑摩書房 啄木全集8 p35) こうして、明治42年(1909) 1月新しい雑誌「スバル」が発刊されました。しかし、寛は編集には一切タッチしなくなりました。手持ちぶさたの寛の淋しげな顔が浮かびます。 神田区駿河台紅梅町2番地(千代田区駿河台)へ転居 明星最終巻が売れ残り、新しい雑誌「スバル」が誕生する中を、明治42年(1909) 1月31日、鉄幹と晶子は神田区駿河台東紅梅町2番地へ転居します。長男・光の通学問題がその理由とも云われますが、やはり、明星の廃刊は相当の痛手だったようです。
駐車場となった一隅に立つ、案内柱を覆い隠すような大きな交通安全標識、そこだけ取り残されたような空地を目にして、目の前にひたひたと自然主義を基調とする時代が迫る中、鉄幹・晶子は次の時代へと、どのような気持ちで立ち向かったのか、云いようのない寂しさが重なるばかりでした。 この間の出来事 千駄ヶ谷時代には次のような様々な活動がされています。いずれ別に 書き込んで行きたいと思います。 明治38年(1905)鉄幹32才 晶子27才 1月10日 新詩社小集 1月 新雑誌「スバル」発刊
|