新詩社最盛・白秋他の脱会・明星廃刊
明治37年11月〜明治42年1月
(千駄ヶ谷村大通549番地)

与謝野鉄幹と晶子、新詩社は
明治37年(1904)11月3日 中渋谷341番地から
東京府豊多摩郡 千駄ヶ谷村 字大通549番地 第四荻の家へ転居してきました。

徹宵歌会が開かれ、同人は増加し
この地で、「新詩社」・「明星」は最盛期を迎えます。

与謝野晶子、山川登美子、増田雅子3人の共著による詩集「恋衣」が発刊され
晶子は、歌集「舞姫」「夢の華」「常夏」などを相次いで発刊します。

長女・八峰 二女・七瀬(双生児)を出産
山川登美子が病で東京を去る中、晶子は嫉妬の歌を歌い続けます。

寛は寡黙となり、北原白秋など、「明星」同人の連袂退社となり
明星は100号で廃刊となります。

約4年間にわたり、明治を象徴する文学活動が行われた場所を
訪ねてみました。

ランプの家

 明治37年(1904)11月3日、中渋谷341番地から転居してきたこの家は、明治書院所有の貸家でした。与謝野光 「晶子と寛の思い出」では

 『明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家へ移った。安くで住めるからそれで移ったんです(笑)。千駄ケ谷村に引っ越したわけですね。

 駅からかなり遠かった。今の津田塾あたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけど、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした。

 千駄ケ谷時代っていうのは、まだランプなんですよ。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど、子供にはたいへんだった(笑)。』(p33〜34)

 としています。藤田佳世「大正・渋谷道玄坂」では

 『付記するならば与謝野家が大和田三四一番に五月に移って来て十一月に引っ越したということは、晶子の『君死に給ふことなかれ』により、大町桂月から乱臣賊子とよばれ、それに雷同する人々の非難、投石などから逃げるように急いで、ここを立ち退いたのではあるまいか。』としています。

 しかし、千駄ヶ谷では、晶子、山川登美子、増田雅子3人共著の「恋衣」、晶子の「舞姫」「夢の華」「常夏」と相次ぐ歌集の発刊、「小集会」「徹宵歌会」・・・など新詩社の最盛期を迎え ました。これらからすれば、外圧、手元不如意の中に、心機一転を期しての転居であった と思われます。

 ところが、やがて、台頭する自然主義の前に、鉄幹は対応に追われ、雅号を廃して、本名「寛」に戻りますが、北原白秋などの有力同人の連袂退社が起き、 明星は100号で廃刊となります。

国立能楽堂の南

 「千駄ヶ谷村・字大通549番地・第四荻の家」の家は 国立能楽堂の南東、比較的わかりやすい場所にありました。

 明治37年頃の地図を復元して見ました。破線が現在の道路で、駅の位置も左にずれ、高速道路が走って景観は大きく変わっていますが、市街地の方は古い道路がそのまま生かされて現在の路になっています。

 JR・千駄ヶ谷駅を「東京体育館方面」に出ます。東京体育館を左に見て鉄道と高速道路に沿って右の道を進み、「津田塾会」のホールの前を通り越すと、佐々木病院があります。その角を左に入り、図の破線の路を真っ直ぐに進むと、字路となり、角が駐車場になっています。そこに、渋谷区が建てた「東京新詩社跡」の標柱が立っています。

最初は左画像のような姿で駐車場が目に入りますが、角を右に曲がると右画像のようになっています。
相当注意していても、前の交通安全柱が人間の背丈よりも大きくて、標柱を見落とします。
仮に、国立能楽堂の横を通ってきた場合には、ほぼ見落としてしまいます。

ご近所の人は
「こんなになっちゃってねー」「前には洋館の角にあったんですよ」
「その内、なくなっちゃうね。与謝野さんも気の毒にねー」
などと、気さくに話しかけて下さいます。

 最初に、与謝野光 「晶子と寛の思い出」に書かれた状況を紹介しましたが、千駄ヶ谷の駅は明治37年(1904)8月21日に開業して、当時の駅広は北口しかなかったようです。そこから図のような経路で、鳩森八幡神社の近くまで来て、現在、商店街になっている路を通って家に達するわけですから、相当に遠かったと実感します。

 この家で、新詩社、明星は最盛期を迎え、やがて明星の廃刊という事態を迎えます。その間のことをいろいろ思い浮かべると、実に複雑な気持ちに陥ります。そして、大勢の人々がこの家には関係しました。大所だけ抽出してみます。

「恋衣」の発刊

 明治38年1月1日、 与謝野晶子、山川登美子、増田雅子3人の共著による詩集「恋衣」が本郷書院から刊行されました。前年から準備が進んでいましたが、日本女子大学で学ぶ、山川登美子、増田雅子の停学処分などで、発刊が遅れていたものでした。

 詩人薄田泣菫の君に捧げまつる

として、「みだれ髪」と同じ三六判(縦長)で、表紙は中沢弘光がかざりました。 内容は

     白百合   山川登美子 131首
     みをつくし  増田まさ子  114首
     曙  染   与謝野晶子 148首と「君死ぬたまふことなかれ」他詩5篇

 で、評判が良く、2月に再版、10月に3版が出されました。
 
 山川登美子は
   髪ながき 乙女とうまれ しろ百合に 額(ぬか)は伏せつつ 君をこそ思へ
   聖壇に このうらわかき 贄(にえ)を見よ しばしは燭(しょく)を 百にもまさむ

 増田まさ子は
   しら梅の 衣(きぬ)にかをると 見しまでよ 君とは云はじ 春の夜の夢
   恋やさだめ 歌やさだめと わづらいぬ おぼろごごちの 春の夜の人

 与謝野晶子は
   春曙抄(しゅんじょうしょう)に 伊勢をかさねて かさ足らぬ 枕はやがて くづれけるかな
   ああ野の路(みち) 君とわかれて 三十歩 また見ぬ顔に 似る秋の花

 各々最初の2首をあげました。批評は賛否でしたが、晶子の歌中にある

   鎌倉や 御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな

 をめぐっては、大仏は「釈迦牟尼」ではなくて「阿弥陀如来」である、仏を美男とは何事ぞ、など議論が交わされました。「君死ぬたまふことなかれ」を散々非難した、大町桂月が今度は擁護に回っています。根岸派の伊藤左千夫は徹底して厳しい批判をしました。

新詩社「一夜百首会」「徹宵歌会」

 千駄ヶ谷では、新詩社の集まりがあると「一夜百首会」「徹宵歌会」 に発展しました。出席者一人一人が一晩に百首詠んで批評し合ったと云われます。与謝野光 「晶子と寛の思い出」では

 『・・・一人一人が百首詠むんだけど、そうすると朝になっちゃうんですよ。それは実は、夜遅くなると帰れないからだったんです。

 当時は、中央線の電車は御茶の水から中野までしかなかったんです。中野まで電化してあったけど、そこから甲府までは汽車だったんです、・・・。だから十時で電車が止まっちゃうんですよ、・・・、自動車がない時代ですし。それだもんで、いっそ百首詠んで朝帰るっていう・・・・、当時の交通事情から来てるんですよ。

 お腹がすくから、お団子とかその程度は出してましたね。「おなか団子」という団子屋さんがあったんです。近衛四連隊の下、今は住宅公団のアパートがあるんですけど、その裏あたりです。今暗渠になってますけど渋谷川という川があって、その川沿いだった。

 母が買いに行くのに僕も連れて行かれました。・・・母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それをしょって帰るわけ。・・・。

 吉井勇さんなんてお酒好きだったからねえ(笑)……。夜が明けてからみんな帰られるんでたいへんだったと思います。』(p35〜36)と紹介されています。 明治38年1月5日、出席した石川啄木は余程感激したと見えて金田一京助に次のような長い手紙を書いています。その日の様子がわかるので長くなりますが引用します。

 『一昨五日は新詩社の新年会、めづらしくも上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明・石井柏亭などの面々も出席、女子大学よりは「恋衣」の山川登美子・増田まさ子のお二方見え侯ひき。

 早天より終日気焔の共進会と云つた様な痛快のあつまりにて、又文壇への謀反も二つ三つ共議に上り申候。合計にて二十七八名も有之候。・・・

 席上にて公開したる女詩人達よりのお年玉、贈られる人の歌に因んだものにて、平野万里君へは「み膝に置かむ恋しくばつけ」にて美しい手毬一つ。川上桜翠君へは「み手を知りしは夢かあらぬか」にて、うす紅の手袋。蒼梧君へは「……夜殿に出づる蚊ともなり綾羅の快玉の手に死なむ」にて淡紅色の木綿にて縫ひ上げたる長い袂一つ。鉄幹氏へは「ひすゐ十六我れ二十八」を判じ物的にやりたるには満座拍手致候。

 これに奮慨して男の方の平出露花・川上桜翠・大井蒼梧等の数君、急案急製、やがて女詩人方へ、矢張り公開の御年玉をやる事と相成り候処、奇想天外。登美子女史へ「……たまたま燭は百にも増さむ」にて燭台へ蝋燭十本許りを一束に立て上火を点じたるを出したるなど、就中一座を驚かし申候。

 夜に入りて大方は散会。残つたる主人夫妻と、山川・増田の二女史、蒼梧・万里・茅野蕭々と小生と八人にて徹宵吟会を催し、皆々多少作有之候ひしが、小生は十六行の一詩と外に未完の長詩一章を得申候。

 但し二時頃より、終日の舌戦の労ありたるためか、蕭々先づたふれ、主人たふれ、蒼梧たふれ、隣室の秀様泣き出したるに晶子女史も座を立たれて残れるは四人、それも暁に一時間許りは息ひ申候。昨朝は女詩人達のお手料理あつさりしたるはお歌に似合はぬを却つて趣味ある事に舌を鼓し候。・・・』(筑摩版 啄木全集 第七巻 p84)

 「一夜百首会」「徹宵歌会」 では、文字を中に詠み込むことにして、歌を作り合ったようで、鉄幹は啄木の歌が生まれた様子を次のように伝えます。

 『其頃 私の千駄ケ谷の宅で催した談話会に、鴎外、上田敏、 島崎藤村、馬場孤蝶の諸家と若い諸友とが集られ、席上で 字を出して歌を詠んだが、其時「蟹」という字を結んで啄 木君の詠んだのが其後人ロに膾炙している
   東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
   蟹とたはむる

という歌であった。是れは北海道に於ける無柳な生活の実 感から生れた歌であろう。』(「啄木君の思い出」 筑摩版 啄木全集 第八巻 p35)

 このような会が何回も持たれたようで、当時の新詩社の勢いを感じます。

鉄幹の雅号を廃し「寛」へ

 明治38年、鉄幹はそれまで使っていた「鉄幹」の雅号を廃して、本名「寛」に戻りました。何故なのか興味があります。河井酔茗は

 『鐵幹時代の与謝野氏と寛時代の与謝野氏とは全く別人の観がある。氏の詩人的性格は鐵幹時代に先づ現はれ、詩人として歌人としてまた國文學者としての与謝野氏は、寛時代即ち『明星』以後に於て漸く圓熟の域に達成したのである。

 彼自身も鐵幹時代には詩人を以て自ら任じ敢て歌人とは言はなかつた。明治二十年代では詩人といへば新しく聞えるが、歌人といへば古く聞える掛念もあつて、彼は當初自分の歌を『小生の詩』と称してゐた。事實また鐵幹は詩人曲存在としてわれわれの眼にも映つてゐた。』(筑摩書房 明治文学全集51 p357「明星」以前の鉄幹)

 といいます。その起点が明治38年・明星第5号からでした。自筆年譜で、前年(明治37年)秋にすでに決めているようですが、この頃から、鉄幹自身期することがあったと思われます。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『まずなによりも気になるのは、この数年、着実に勢いを増してきた自然主義派の台頭である。彼等はもともとは子規などを中心に、自然観照を唱え、写生を第一として生まれてきた流派であるが、いまやその流れは俳句から歌にまでおよび、伊藤左千夫の率いる「馬酔木」などがその拠点となっている。この流れは次第に小説にまでおよび、西欧の文学界でも主流となりつつあるようである。

 もしこのまま自然主義が広まっていけば、「明星」が創刊のときから掲げていた浪漫主義は次第に色褪せたものとなり、やがては文壇の片隅に追いやられることになるかもしれない。このところ、鉄幹が象徴詩を「明星」で積極的にとりあげてきたのも、もとをただせば、自然主義の流れに対抗しうるものへの模索であったが、すでにこの程度のものでは、自然主義の奔流をとどめることはできないのかもしれない。

 機を見るに敏なだけに、鉄幹には自然主義の跫音が徐々に近付き、やがて「明星」の地位を脅かす存在になることに、同人の誰よりも危機感を抱いていた。なんとかこのあたりで歯止めを打つか、それが不可能なら、自然主義の流れが襲ってきても呑み込まれず、生き残る方策を立てておかなければならない。

 考えれば考えるほど、鉄幹などという雅号は古くさく、無意味なものに思えてくる。もはや、そんな大時代的な名前は捨て、親からもらった自然の名に戻るときなのかもしれない。・・・』(文春文庫 下 p62)

 としています。千駄ヶ谷時代は鉄幹・晶子・新詩社にとって、最盛期と転換の時期が重なった実に微妙なときであったことを知らせてくれます。

晶子の羽織と浴衣

 いかに新詩社が最盛期を迎えたとはいえ、与謝野一家は経済的に厳しい状況が続いていたようで、明治41年11月2日のことです。晶子は子供らを連れて上野の文部省展覧会に行きます。そこで、ぱったり金田一京助と 石川啄木に出会いました。啄木はその日の日記に

 『・・・さて、日本画館の中で、晶子さんと其子らに逢つた。薄小豆地の縮緬の羽織がモウ大分古い――予は晶子さんにそれ一枚しかないことを知つてゐた。そして襟の汚れの見える衣服を着てゐた。満都の子女が装をこらして集つた公苑の、画堂の中の人の中で、この当代一の女詩人を発見した時、予は言ふべからざる感慨にうたれた。・・・』

 と書いています。そのような中で、鉄幹・晶子の心遣いは止みません。4ヶ月程さかのぼる、8月のことです。菅沼宗四郎が「鉄幹と晶子」の中で 

 「明治四十一年、啄木二十三歳のとき、釧路をたって海路四月二十七日横濱着、四月二十八日千駄ケ谷の興謝野寛氏を訪ふ。四月二十九日木郷菊坂町の赤心館といふ下宿に金田一京助を訪ねた。手荷物一つなく着のみ着のまま、瓦斯縞の綿入に紡績飛白の羽繊を着て、ステツキを持つてゐたばかり。「荷物一つないから知らぬ下宿屋では置くまいから」と云って、そのまま同室に入る。七月十六日、新詩社の歌会へ七月の半ばといふのに、まだ北海道から着て來たその綿入を着て出かけた。

 この日、自ら発議して一夜百首会をやった。八月七日、八月といふに 尚(なお)例の綿入を着て新詩杜を訪ねた。晶子夫人の恵みで、帰りにはその綿入は風呂敷に包んで、白地のせいせいした浴衣を着て帰って來た。金田一と二人でよく見ると、やっぱり女柄だった。多分夫人が、自分のに取って置かれたのを君の爲めに男物に仕立てて着せて下すったのだと判断して、二人で感泣した。」

 『これは金田一京助著の「石川啄木」から探録したのだが、或る日のこと、先生、右のことは事實誤りのないことですかと聞くと、「そりや事實だよ。當時啄木も東京で生活が出來なくなつて、明日は郷里へ婦るといふから、二十圓小遣ひを呉れてやったら、郷里へは帰らずに、ヴァヰォリンを買って了った。そんな呑氣な男でね―」と、寛先生が話されたことがあつた。』(p7)

 と紹介しています。

千駄ヶ谷時代の寛と晶子

 千駄ヶ谷時代の寛と晶子は仕事の上では充実していましたが、二人の間には、「恋衣」の発刊を契機とした、色艶のある葛藤があったようです。寛と山川登美子、増田雅子を巡って の恋の再燃で、 この頃の歌が集約された晶子の第三歌集・舞姫の中に、晶子の怨念のような歌が目に付きます。歌集に登載された順番に気になる次の5首を選んでみました。

 罪(つみ)したまへ めしひと知ると 今日を書き 明日は知らずと 日記(にき)する人を
 ゆるしたまえ 二人を恋ふと 君泣くや 聖母にあらぬ おのれの前に

 ものいはぬ つれなきかたの おん耳を 啄木鳥(きつつき)(は)めと のろふ秋の日

 君かへらぬ この家(や)ひと夜に 寺とせよ 紅梅どもは 根(ね)こじて放(はふ)
 君が妻 いとま(暇)たま(賜)はば 京に往(い)なむ 袂(たもと)かへして 舞はむと思へば
 
 2首めでは、どうしても二人(登美子と晶子)を恋して、どうにもならないと許しを求める寛に対し、晶子は聖母ではないともがいています。3首めでは、黙ってしまう寛に対して、キツツキに 耳を突っつけと頼みます。4首めでは、寛を帰さない紅梅どもは、根こそぎ放り出せと念じます。5首めはこのままならば家出する決心を伝えます。

  恐らく、直接の対象は山川登美子と考えられますが、相次いで子供を産み、育児と生活に追われる中で、髪ふり乱して仕事して、今や、寛を追い抜く勢いで世に待たれている日々、清楚な姿の女性に心を奪われて、なおも両方愛することを許せと、最愛の寛に乞われる晶子の心痛は思いやれれます。

 山川登美子も寛に向けての籠もる気持ちを詠っていますが、この年11月5日、夫から感染した呼吸器の病で駿河台鈴木町の高田病院に入院し、以後、病と闘い、翌・明治39年には、東京を離れ、京都で療養するようになりました。

北原白秋など7名が新詩社を連袂退会

 明治40年末から、「寛」・新詩社に向けての内部からの批判が起こってきました。有力同人 である、吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦などで

 ・相変わらずこだわる「反自然主義宣言」(明星を刷新するに就いて=明星明治40年12月号)への反発
 ・自分たちの作品の急所が与謝野寛の作品に流用されることが目立ってきた
 ・投書家や自分たちの原稿が新詩社の便所の落し紙に使われている
 ・明星を巡って様々な面で興謝野寛の俗物性があらはになってきた
 ・「明星」、明治41年1月号の作品の扱い方に納得できないものがあった
   蒲原有明、薄田泣董、上田敏等の作品は大きな四号活字で1 段に立派に組まれ
   白秋、長田秀雄、長田幹彦、吉井勇等の作品は、五号活字で2段に組まれていた

 などがきっかけとなっていることが伝えられます。そして、明治41年1月、遂に7人揃っての脱会となりました。 大きな背景は「鉄幹」の雅号を廃して、本名「寛」に戻るところで渡辺淳一の解説を紹介しました。直接の模様は伊藤整 日本文壇史が次のように書きます。

 『一月十一日、白秋、吉井勇、太田正雄、深井天川、長田秀雄、幹彦兄弟 等は、神樂坂の紀之善といふ鮨屋の二階へ集まつた。そしてそこで新詩社脱退の相談がはじめられ た。その晩は更に長田家で酒宴があり、そこには蒲原有明と「中央公論」の編輯者瀧田樗蔭が來て加はつてゐた。

 瀧田樗蔭は長田兄弟の父なる長田足穂医師がかかりつけであつたので、この青年詩 人たちに同情し、その作品を「中央公論」に発表する機会を與へると約束した。これが青年詩人た ちを勇氣づけた。

 一月十三日、彼等は新詩社に押しかけ、與謝野寛に逢つて、脱退の意志を傳へた。・・・

 七人の脱退は、「明星」二月號で六號活字の「社中消息」欄に次のやうに報ぜられた。
  「吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦の諸氏は、各独立して 文界に行動するを便なりとし其旨申出の上退社せられ候。」(伊藤整 日本文壇史 12 p30)

 この集中した脱会は寛にとって打撃だったようで、新しい文芸の潮流を前にして、自らのよりどころであった明星の廃刊を決めました。この当時の様子、寛の印象を、約3ヶ月後 に上京してき石川啄木が次のように伝えています。明治41年4月28日の日記

 『四時すぎて新詩社につく。
 お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾(峰)・七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新らしい顔であつたのが目についた。

 本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣
とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。

 一つ少なからず驚かされたのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎(どう)しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は総て此人の詩に現はれて居ると思つた。そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新らしく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。

 茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。・・・ 』

 さらに、印刷所か ら送つて来た明星の校正を見ると、1頁から12頁までで、とうてい一日の発刊に間に合わず、5〜6日は延びるであろうこと、印刷部数は「九百五十部しか刷らない 」こと、経費がかさみ、「月に三十円以上の損にな」ること、「外の人なら モウとうにやめて居るんですがね」と寛が語ったことなどを記しています。

 啄木は、ほとんど無一文に近い状況で上京し、寛・晶子に面倒をかけながら、1週間ばかり新詩社に泊まり込んでいました。ありのままの姿を見、直接に空気を知っただけに、『与謝野氏は既に老いたのか?予は唯悲しかつた。(千駄ケ谷新詩社にて)』と結ぶ啄木の心情も身にしみます。

明星100号で廃刊

 廃刊の理由は様々に伝えられます。中 晧「与謝野鉄幹」(p105〜107)では 

 『「明星」は明治四十一年十一月、ついに百号をもって終刊となった。終刊の理由、きっかけに就いては、既に言い旧されているように、明治三十年末からの自然主義文学の拾頭と、四十一年一月、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、その他四人の脱退とに因るようであるが、何よりも経済的困難が一番大きな理由である。』

 としています。同じように、石川啄木が、明治41年5月2日の日記で、次のように伝えています。

『五月二日

 与謝野氏は外出した。晶子夫人と色々な事を語る。生活費が月々九十円かかつて、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るので取れるとの事。明星は去年から段々売れなくなつて此頃は毎月九百しか(三年前は千二百であつた。)刷らぬとの事。(昨日本屋の店に塵をあびて、月初めの号が一軒に七部も残つて居た事を思出した。)

 それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。どうせ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。

 予は、殆んど答ふる事を知らなかつた。噫、明星は其昔寛氏が杜会に向つて自己を発表し、且つ杜会と戦ふ唯一の城壁であつた。然して今は、明星の編輯は与謝野氏にとつて重荷である、苦痛を与へて居る。新詩社並びに与謝野家は、唯晶子女史の筆一本で支へられて居る。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編輯長に雇はれて居るやうなものだ!』

 寛は最後の号で次のように謝辞を述べています。

 『 ・・・雑誌本来の主張を支持し、新詩の開拓と、泰西文芸の移植と、兼ねて版画の推奨とを以て終始し得たるは、先輩諸先生、畏友諸君、読者諸氏及び、社中同人諸君が熱烈なる助成のたまものとして、ここに深く感謝を表する所なり。・・・・・

 本号を以て「明星」を廃刊せむとするに、二の所因あり。経費の償はざること一、予が之に要する心労を自己の修養に移さむとすること一。之を三四の先輩畏友諸氏と同社の諸君とに諮(はか)りて、今やその協賛を得たり。但し 「明星」は廃刊すと雖(いえども)、予が詩人としての志は、既往より当来に渉(わた)り、宛(さなが)ら一条の鉄のみ、更に十年の後、製作の上に何等かの効果あらむことを期 し、以て大方より受けたる高義の万一に報ぜむと欲す。 
                        明治四十一年十一月、東京に於いて、 与謝野寛識す』

 明星に関わった人々は多く、平子恭子編著、年表「与謝野晶子」(河出書房新社)では次のように名前を列記しています。(p72)

 『終刊号には同人あるいはその他の人の作品を一挙に掲載して記念碑とした。次にその人々を掲げておく。

 寛、晶子、森鴎外、蒲原有明、島崎藤村、大塚楠緒子、吉井勇、千葉掬香、平野万里、木下杢太郎、北原白秋、尾上柴舟、高安月郊、野口米次郎、厨川白村、薄田泣董、粟原古城、田村黄昏、茅野蕭々、久保猪之吉、茅野雅子、須磨六郎、大谷繞石、栗山茂、林田春湖、平木白星、前田林外、成瀬無極、大井蒼梧、石井柏亭、高村経徳、木村鷹太郎、恒川石村、戸川秋骨、平出修、太田水穂、河井酔茗、小林愛雄、松原正光、相馬御風、内海信之、堀内正巳、石川啄木、大島あいぬ、大貫かの子、角田浩々、藤岡玉骨、山崎紫紅、磯萍水、生田長江、平塚明子、江南文三、長原止水

 (以下五名は絵画担当)、三宅克己、中沢弘光、石井柏亭、和田英作、伊上凡骨(木版彫刻)などである。』

 石川啄木は最終巻の発送を手伝い、次のように日記に書いています。

 『十一月六日
 今日”明星”終刊号の発送するから、暇なら手助つてくれぬかといふ与謝野氏の葉書があつたので、八時半頃から小川町の明治書院に行つた。程なくして与謝野氏も来た。

 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。・・・』

 明星の廃刊だけが目立ちますが、渡辺淳一が『理由に多少の違いはあるが、この一年だけで、まず伊藤左千夫が主宰していた「馬酔木」が廃刊に追いこまれ、続いて小山内薫の「新思潮」(第一次)が、さらに五月には河井酔茗が関わっていた「詩人」が消えていた。』とするように、出版界全体の経済状況が大きく作用していたこと が否めないでしょう。

 明星の売り上げは振るわなかったようで、伊藤整は日本文壇史で、

 『十一月二十日になつて、「明星」の第百號は、千部刷つたうち、八百部しか売れず、印刷費を払えないそうもないことが分かった。新詩社の経済を支へてゐるのは與謝野晶子であつた。晶子はこの頃、「萬朝報」へ「不覚」といふ題の連載小説を書くことになつてゐたが、その印刷費の残りを払ふため、その小説を五十回分をまとめて書き、それを金にしてすぐ印刷屋へまはした。それで無理をしたせゐか晶子は二日ほど右の半身が不随になつた。・・・』(13 p193)

 と書いています。晶子は最後まで無理をして後始末を付けたのでした。

スバル創刊

 明星の廃刊が決った明治41年夏には、次の手だてが講じられたらしく、新しい雑誌の題名が話題になっています。平野万里、石川啄木、吉井勇の三人がいくつかの候補名を森鴎外の所へ以て行き、鴎外が「昴」を選んだとされます。伊藤整は日本文壇史で

 『・・・しかしこの雑誌の名を森鴎外が決定したといふことは、與謝野寛が一歩退かねばならなかつた内部事情とともに、この新難誌の指導が鴎外の手にゆだねられたことを語るものであつた。』

 としています(13 p192)。一方、鉄幹・寛は、「啄木君の思い出」で次のように云っています。

 『間も無く私達が経済上の事情から「明墨」を百号で止め ようと云い出して、その相談会を同人相寄って開いた時に、 極力不賛成を唱えた人は啄木君であったが、私を解放して 自由に読書の人とさせたい考から平野万里君其他の多数が 廃刊説に賛成されたので、私の希望が通った。

 その代りに、 森鵬外先生や上田敏先生はじめ木下杢太郎、北原白秋、 吉井勇、茅野諦々、長田秀雄、石井柏亭、高村光太郎、平 野万里、平出修、石川啄木、江南文三、私達夫婦が新たに 「スバル」という雑誌を出し、経済上の責任を平出君が担 当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当する ことになった。』(筑摩書房 啄木全集8 p35)

 こうして、明治42年(1909) 1月新しい雑誌「スバル」が発刊されました。しかし、寛は編集には一切タッチしなくなりました。手持ちぶさたの寛の淋しげな顔が浮かびます。

神田区駿河台紅梅町2番地(千代田区駿河台)へ転居

 明星最終巻が売れ残り、新しい雑誌「スバル」が誕生する中を、明治42年(1909) 1月31日、鉄幹と晶子は神田区駿河台東紅梅町2番地へ転居します。長男・光の通学問題がその理由とも云われますが、やはり、明星の廃刊は相当の痛手だったようです。

 駐車場となった一隅に立つ、案内柱を覆い隠すような大きな交通安全標識、そこだけ取り残されたような空地を目にして、目の前にひたひたと自然主義を基調とする時代が迫る中、鉄幹・晶子は次の時代へと、どのような気持ちで立ち向かったのか、云いようのない寂しさが重なるばかりでした。

この間の出来事

 千駄ヶ谷時代には次のような様々な活動がされています。いずれ別に 書き込んで行きたいと思います。  

明治38年(1905)鉄幹32才 晶子27才

1月1日 「恋衣」発刊
1月5日 新詩社新年会(徹宵歌会)
4月5日 新詩社第一小集 「源氏物語」
4月11日 上野花月亭で新詩社演劇会稽古会 
4月15日 新詩社演劇会 第二小集会
5月頃から、鉄幹は「鉄幹」の雅号を廃し「寛」を名乗る 
5月3日 石川啄木詩集「あこがれ」刊行(実際は10日か?)
5月7日 新詩社第一小集
5月14日 第二小集会
 以下毎月新詩社の集まりあり
10月 上田敏「海潮音」刊行
11月5日 山川登美子高田病院に入院

明治39年(1906)鉄幹33才 晶子28才

1月5日 歌集「舞姫」(如山堂書店)刊行
1月27日 森鴎外 観潮楼に上田敏、小山内薫を招く
2月1日 寛 順天堂に入院
2月11日 新詩社小集
3月上旬から4月2日まで 寛 入院 
5月6日 新詩社小集
6月12日〜22日 石川啄木上京 新詩社に泊 宝徳寺再住運動 第二詩集発刊延期 小説への転機 
8月5日 新詩社小集 
9月5日 歌集「夢の華」を刊行(金尾文淵堂)
9月 山川登美子 京都で療養
10月14日 新詩社小集
明星12月号に「明星を刷新するに就いて」を掲載

明治40年(1907)鉄幹34才 晶子29才

1月5日 新詩社新年集会
  選歌集「黒髪」を編集刊行(金尾文淵堂)
2月10日 新詩社小集
3月3日 双生児出産(長女八峰 二女七瀬) 命名は森鴎外の
  「聟(むこ)きませ ひとりは 山の八峰(やつお)こえ ひとりは 川の七瀬(なつせ)わたりて」による
3月10日 新詩社小集
3月30日 森鴎外邸で第一回観潮楼歌会が開かれ出席
4月6日 観潮楼で第二回歌会(千駄木短歌会)
4月7日 新詩社小集
5月2日 石川啄木日記に
  『枕上、今日つきし「明星」五号を読む、詩も歌も、さして心にとむべきなし、ただ深井天川の小説「月光」
   注目すべき作也』とあり、啄木に明星批判の芽が生まれていることに注目です。
6月14日 閨秀文学界成立
7月26日 茅野蕭々と増田雅子結婚
9月 茅野蕭々宅で新詩社小集(豊多摩郡柏木村)
10月13日 新詩社小集
11月20日 新詩社小集
12月 北原白秋など7名新詩社退会を決意
12月31日 晶子脳溢血で倒れる

明治41年(1908)鉄幹35才 晶子30才

1月10日 新詩社小集
1月11日 神楽坂の紀之善、長田秀雄方で北原白秋など新詩社退会を相談
1月13日 北原白秋など新詩社連袂退会
4月28日 石川啄木上京 新詩社を訪ねる
  今回の上京は、与謝野寛の誘いが啄木をその気にしたようです。明治41年3月8日、寛の啄木宛書簡。
  寛は熱烈な支持者として啄木を理解していたのかも知れませんが、啄木はまた別の考えを持っていたよ
  うで、皮肉なものです。
5月2日 観潮楼歌会開かれる
6月6日 石川啄木 新詩社を訪ねる
6月28日 同上
7月10日 晶子歌集「常夏」(大倉書店)刊行
7月16日 新詩社徹宵歌会 啄木出席 綿入れを着てくる
7月28日 啄木と晶子話し合う 啄木日記 新詩社解散のこと
8月7日 啄木日記に「昌平橋にて与謝野氏に逢ひ、共に明治書院にゆき、十一時頃千駄ヶ谷に至る。
  夏草の路、蜥蜴(せきえき=とかげ)を見て郷を思ふ。
  庭の萩 風に折れたり。杉垣の下なる向日葵の花、白と鹿の子の百合の花、風情あり。
  晶子さんは夏に疲せてベツドの上にあり。」とあります。

8月8日 新詩社短歌会徹宵会 晶子の浴衣
  啄木日記に「八日、千駄ケ谷歌会の日なり。午前明星の歌をなほし、一時頃ゆく。
  珍らしきは大井蒼梧川上桜翠二君なりき。先づ明星を百号に〔て〕やめる件、についての相談あり。
  平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに
  与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。
  予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。」とあります。

8月29日 新詩社徹宵歌会
      茅野蕭々の京都第三高等学校の赴任送別会
9月12日 平野万里宅で新詩社徹宵歌会
  この日は「晶子さんが、光さんをつれて来ている。与謝野氏は家にいて子守をするのだという。」と啄木日
  記にあります。
10月10日 新詩社短歌会
10月歌誌 アララギ創刊
10月30日 晶子啄木と話し合う
11月2日 上野の文部省展覧会 啄木と会う 
11月21日 石川啄木来訪
11月 明星100号で終刊
12月下旬 鉄幹 第一回文学講演会出席(京都)薄田泣菫と韻文の講演をする

明治42年(1909)鉄幹36才 晶子31才

1月 新雑誌「スバル」発刊
1月19日 太田正雄、北原白秋、石川啄木訪問 晶子 啄木に脚本「損害」を渡す。
1月31日 神田区駿河台紅梅町2番地(千代田区駿河台)に転居

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