赤駒 

現代人にも惻々として通ずる気持ちを詠んだ歌ですが
時代は8世紀、1200年も前のことです。

 「黒女」はどこの人?      
 

 作者「黒女(くろめ)」はどこの人なのでしょう?
 
 「豊島郡(としまぐん)」に住んでいて、「椋椅部(くらはしべ)」という部に属する「荒虫」の妻であること、「宇遅部(うじべ)」を名乗っていますから、宇遅部から嫁いできたことがわかります。
 馬を持っていますから、夫の「荒虫」との生活はある程度豊かであったようです。    

 当時の豊島郡は、東京都豊島区、北区、荒川区、台東区、板橋区、練馬区、文京区に、新宿区と千代田区の一部が含まれる広大な地域でした。 
 その中で、「椋椅部」と「宇遅部」がどの地域に住んでいたかがわかれば、黒女の出身地も見当が付きます。
 幸いなことに、鍵がありました。面白いものです。武蔵国分寺に残された瓦に、豊島郡に関わるものが85枚あって、その中に、人の名前が記されたものがあり、そこからの推理です。豊島区史が見事に解明しています。

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国分寺瓦 これを焼くとき「荒墓郷戸主宇遅部結女」などとヘラで書いた
(国分寺市)

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多摩郡の「多」が浮き出ている例(稲城市)

 瓦には「日頭戸主宇遅部・・・」や「白方郷土師角麻・・・」「荒墓郷戸主宇遅部結女」などと書かれています。多分税として瓦を納めた時に記した郷と名前でしょう。郷が不明のものもあります。「戸主宇遅部白喰太」「宇遅部里栖」などです。これらの瓦をもとに、豊島区史は次のように分類して、郷と部の関係を明らかにしました。

 『このような人名瓦から、豊島郡に貫属された人々の姓と、居住地の関係を知ることもできる。それを図に示すと次の通りである。

   日頭郷   (6)     宇遅部(2)
                三寸部(1)
                鳥取部(1ないし2)
                不明 (2)

       白方郷   (8)   土師部(3)
                                     倉(椋)椅部(2)
                                     大伴部(1)
                                     物部(1)
                                     不明(1)

   荒墓郷   (8)  宇遅(治)部(5)
                                     若田部(1)
                                     長谷部(1)
                                     不明(1)

   湯嶋    (5)   刑部(2)
                                     若奉部(1)
                                     占部(1)
                                     不明(1)

   郷不明(58)

 すなわち、85例におよぶ豊島郡居住者のうち、その居郷の明らかなものは計27例である。・・・』

としています。  

 これで、「黒女」の宇遅(治)部は「日頭郷」か「荒墓郷」、夫「荒虫」は白方郷に居住することがわかりました。それでは、「日頭郷」とか「荒墓郷」「白方郷」はどこにあったかです。各区の区史がそれぞれに記していますが、豊島区史は次のように整理しています。

『 平安末期に編募された『倭名類聚抄』によれば、平安時代の豊島には
・日頭(ひのと=文京区小日向周辺)
・占方(うらかた=神田駿河台方面)
・荒墓(あらはか=台東区上野公園周辺)
・湯嶋(ゆしま=文京区本郷周辺)
・広岡(ひろおか=後述) の5郷が存在したとされている(カッコ内はその推定地)。』
  (豊島区史 通史編一 昭和56年 P84〜P94 )

 問題は倭名類聚抄には、「白方」がなくて「占方」となっていることです。人名瓦では「白方」があります。どちらかの書き間違いとも言われますが、はっきりした解明を待ちたいものです。 最近では、これらの瓦を焼いた窯まで見当がつくようになりました。漆紙か木簡できちんとした「文字」が見つかることを期待します。

 豊島区史は『「占方」は「白方」の誤りであり、また「湯嶋」も「吉嶋」の訛伝ではないかと考えられる。』としています。そして、赤駒のうたに関して

 『・・・おそらく夫の荒虫は白方郷の人物であり、また妻の黒女は日頭ないしは荒墓郷の出身者であろう。このような異なる郷、異なる集団間の通婚は、その背後にこれら二つの集団の日常的交流が存在したことを物語っている。』 (豊島区史 通史編一 昭和56年 P95 )

と紹介しています。 黒女は文京区小日向周辺か台東区上野公園周辺で生まれて、神田駿河台方面に住む荒虫のところへ嫁いできたことになります。

注 宇遅部は「宇治部」と書いて「うちべ」とすることもあります。


 さて、この夫婦は“一緒に”夫の白方郷に住んでいたのでしょうか? 

 夫も妻もそれぞれの「部」を名乗っています。「当時の家族がどうなっていたか?」のとても基本的な問題です。
 一緒に住んでいたとなれば、神田駿河台方面の世界となります。
 どんな家だったのでしょう?
 「上丁」という夫の仕事は何をしていたのでしょう?

 幸い、隣の「葛飾郡」で作られた当時の戸籍(養老5年=721 下総国葛飾郡大嶋郷)が正倉院に残されています。それによれば、1戸の平均が20人を超えています。戸主と妻は当然として、妾や父母、子供、兄弟一緒の大家族制であったことがわかります。

 ここから、吉野 裕氏が言うように

 『・・・年たけても妻がなく、いな妻があっても夫妻別居という事態が一般的であったようないわゆる「大家族生活の時代」であること、・・・』(防人歌の基礎構造 筑摩叢書 p55)

 であったかもしれません。

 家は、地面を掘り込んでその上に屋根をかける竪穴式の住居で、かまど付きの1辺が2〜4メートルといわれます。間取りがあったこともうかがえ、掘立柱の建物への移行の時期でしょうか。
 とうてい全家族は入り切れません。せいぜい、4〜5人でしょう。家族がどんな分かれ方をして住んでいたのか、所属の「部(べ)」との関係など、まだまだわからないことだらけです。

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掘り出される住居跡


 「上丁(かみつよぼろ)」についても

 『軍防令をはじめ諸令をひもとき見ると、その位置をはじめ上丁そのものについて具体的にふれているものは一つもない。それどころか、法令のどこをみても「上丁」の二字を見いだすことが出来ない。そのため先学諸者も苦慮され・・・ 』(星野五彦 防人歌研究U 株式会社教育出版社 p227)

 の状況で、多くの方が考えを述べています。

 『丁とは脚のことで、脚力優秀な者ということであるから、防人はいかに歩き回らなければならなかったかを示している』(芳賀善次郎 武蔵野の万葉を歩く 埼玉出版会 p24)

 『おそらく豊島地区の豪族の一員であるので・・・』(桜井正信 文学と風土武蔵野 社会思想社 p78)

 また、吉野 裕氏は『この順序は、地位の上位から下位に階層をもって流れゆき、うたいだされてゆくところの順序にほかならない。』として、国造(国造の丁)・主張(主張丁)・助丁・上丁の順序をあげています。(防人歌の基礎構造 筑摩叢書 p118)

 ということで、この解釈も今後にまたれるようです。当時の家族の問題については、最近(1998年11月) 関 和彦著 「古代農民忍羽を訪ねて」(中央公論社 中公新書)が出版され、家族の問題とともに葛飾をえがいて、 防人にも言及されています。

 馬はどこで放し飼いにしていた?

 「黒女」がこんなに心遣いをしながら、捕まえられない赤駒はどこで飼っていたのでしょう?  
 武蔵野には公営の牧場がありました。黒女の近所で有名なのは「檜前(ひのくま)馬牧」と「神崎(かんざき)牛牧」です。檜前馬牧は浅草に、神崎牛牧は牛込あるいは東京湾沿岸にあったとする想定もありますが、埼玉県の美里村方面がそうだとする考えもあります。

 この歌の場合、違う立場で考えた方が良さそうです。芳賀善次郎氏はこういいます。官牧の場合、『「厩牧令(きゅうまきりょう)」では、11月上旬から乾草で、4月上旬からは青草で飼うことを規定している。』  この歌の場合、冬の2月だから 『放牧地は官の牧場ではなく集落近くの原野に作った簡単な集落共同か自家用の牧場での放牧であったろう』(武蔵野の万葉を歩く さきたま出版会 昭和60年 P97)としています。

 また、北区史もこの歌にふれながら、こう推測します。
   『・・・板橋区舟渡(ふなと)遺跡や葛飾区柴又帝釈天遺跡では、溝内から馬歯が出土することからも、山や河川などを境界とした自然環境を利用した放牧が行われていたことが推測できる。』
                                            (北区史 通史編 原始古代 平成8年 P259)    
 

 だんだん具体的になって、黒女と“トラ”さんとの出会いもありそうです。 
 

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