多摩川に・・・ 2
(手作り)

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多摩の横山をバックに、地形はそんなに変わらないのだろうけれど、調布の里の多摩川は
水がゆっくり流れ、曝す手作の風景は想像もできない。


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わずかに活動的なのは水鳥だけのようだが
その波紋を追うと、いつの間にか古代に引き込まれている。

「手作」って何?

  さて、人気のある「この児」が多摩川に曝している「手作」って何でしょう?
 議論が分かれます。やれ麻の布だ、いや絹だ!! なぜ川に曝すのか?

 高校の歴史の時間ではありませんが、ちょっとばかりお付き合い下さい。この時代、まだ貨幣が一般的に流通していませんから、税は物で納めました。いわゆる現物貢納です。そして、大まかに「租(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」に分かれていました。

 「租」は、口分田からとれる稲などの収穫の一部(建前上ですが)を納めるものでした。
 「庸」は、国の土木仕事などに一定(基準は年に10日間)の労役を提供するものです。
       労役の代わりに、布(約8メートル)を納めて、すますこともできました。
 「調」は、土地の特産物を納めるものです。武蔵国では圧倒的に布が多かったようです。
       中には鮒の背開きをした物を納めたところもあります。
 (参考 その他の負担=雑徭(ぞうよう)、出挙(すいこ)、兵士(ひょうじ)、防人(さきもり)、衛士・仕丁などがあります)

 延喜式では武蔵国の調について、織物に関しては、次のように定められています。
 @絹織物=「帛(はく)」・・・緋(ひ=あか)60疋、紺60疋、黄100疋、橡(つるばみ=トチの木の色)25疋
 A麻織物=「布(ふ)」・・・・紺90端、縹(はなだ=薄い藍色)50端、黄40端
 Bその他=あしぎぬ(JISでは漢字が打ち出せません=粗い絹糸で織ったもの)、色の付かない布

色つきの絹織物と麻織物

 ややこしくなるのでこれ以上は省略しますが、びっくりするほどの多品種です。「この児」が曝していたのは、
  「染料で染めた色つきの絹織物」や「色つきの麻織物」。
  「色のつかない あしぎぬ」、「色のつかない麻布」
 などだったようです。染料は武蔵野でとれた植物質のものでした。

 友禅流しや縮(ちぢみ)流しの様子が現在も、特産・名産として報道されて、目にすることが出来ます。風景としてはそう変わりがないと思われます。ところが、中身が大違いでした。

 「この児」たちが扱う絹織物は蚕糸が上・中・下と区分されました。粗い絹糸で織ったものは、品落ち、その他に分類されて、貢納する量が増やされたようです。(蚕はもう飼っていたのでしょうか?)
 麻織物は武蔵国の場合、楮(こうぞ)や苧麻(からむし)の木からとりだした繊維を織って、砧(きぬた)でついて柔らかくし、水に曝して漂白しました。その工程は驚くほど根気と長い時間を必要とするものでした。(これらの技術はどのようにして身につけたのでしょう?)

 歌はおおらかに愛を歌い上げていますが、実際の生活は相当に厳しかったように思われます。逃亡する農民が出たり、逃亡した農民を囲い込んで、有力者が使用人とする動きが出始めたと想定されるのがこの時期です。

 織り上げた麻布も、武蔵野の農民は大事に大事に貴重な衣服として使ったのでしょう。それが、都では用途も広く、屏風をしまう袋や屏風の下張りに使われている現物が残されています。律令制社会の実像を見る思いです。

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馬場遺跡出土の糸を紹介する
多摩のあゆみ31号

炭化した「糸」

 布の材料になった糸は精巧なものであったことがわかりました。1982年、青梅市の馬場遺跡で焼けた住居址から、炭化した「糸」の固まりが発見されたのです。青梅市立郷土博物館の学芸員である久保田正寿さんは、この糸について
 『非常に細い繊条を右方向に撚り合わせ、・・・0.2ミリの直径を有している。材質については・・・麻(苧麻からむし)である可能性は大きいが、民族例からみると山藤等も考慮する必要がある。』 (多摩のあゆみ31号 多摩中央信用金庫 昭和58年 P63)

 としています。細心の気をつかった絹織物、息詰まるほどの緊張と技術で生み出した、0.2ミリの上質の麻布。技術は高度であったようです。しかし、品質のよいものは貢納品で、久保田さんが言うように、農民の日常品は山藤や苧麻でつくったごわごわの物だったのではないでしょうか。

長尺を曝した

 「この児」が曝した「手作」は、随分と長い物であったようです。養老元年(717)の決まりでは
 「調布は長さ4丈2尺 幅2尺4寸」
とされていますから、約72センチ幅、長さ12メートル余の布を水の流れの中で、操っていたことになります。
それこそ、手さばきは見事でなければ、絡まるし、流されるで、男どもの賛辞が飛ぶのも当たり前です。

実物は正倉院に

 当時の実物が正倉院に残されて、写真を見るだけでも感激します。ちゃんと納めた人の名前や、関係者の名前が書き込まれ、ハンコが押されています。制度の仕組みがそのまま目に浮かびます。特に武蔵野の歴史で面白そうなものを拾ってみると

 武蔵国男衾郡猟倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布1端
 武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直牛麻呂戸口大伴直荒当庸布1段
 以下省略

などです。上は「調」で納めた物。下は「庸」で納めた物。男衾郡には猟倉郷があって、笠原里があります。古代の地方行政の仕組みがそっくり揃っています。また、飛鳥部が置かれたこともわかります。
なんと面白いことを含む書き物(墨書銘)でしょう。

どんな道具で?

 
これがよくわかっていません。当然に機織機(はたおりき)はあったはずですし、どこかで発掘されていると思いますが、私はまだ見る機会に恵まれていません。早く、知りたいものです。木製の砧杵(きぬたぎね)は、先ほど紹介した青梅市の馬場遺跡で発見されています。(青梅市史 上巻 p222)
 糸作りの方は、伝統的だけに、明らかになっています。道具として、よく見受けられるのが、糸を紡ぐための紡錘車(ぼうすいしゃ)です。

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調布市内で発見された紡錘車
調布市郷土博物館及び分室に展示されている。

 真ん中の穴に棒を通し、そこに繊維を巻き付け、紡錘車(これは石製)をおもりにして、回転させて撚りをつけ、糸にするものです。鉄製のものも発見されています。形も縦に細長いものもあって、様々です。信貴山縁起や石山寺縁起の絵巻物に使っている姿が描かれています。

 これらの技術を伝えたのが渡来人との指摘があります。確かに調布の里は渡来人の里でもあります。手際よくまとめられるか疑問ですが、次のページでそれをやってみます。

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