多摩川に・・・

(調布の里を追うと武蔵野の8世紀が見える)

各地から「布」が「税」として納められました
多摩川沿いは特に布づくりが盛んであったといわれます
何か特殊な要件があるのでしょうか?


kariyaueiseki2.jpg (18680 バイト)

東京都 国立市で
「武蔵国 多磨 羊」の文字を刻んだ紡錘車が
発見されたことを伝える
(1985年4月13日 毎日新聞)

国立市に渡来系の軌跡があった

 この新聞発表を目にしたときは、まさにショックでした。目を疑ったといってもオーバーではない思いでした。
 東京都国立市で、文字を刻んだ紡錘車が発見され、その上渡来系の人名が彫られていたというのです。
 「仮屋上(かりやうえ)遺跡」とよばれます。

 4.3メートル四方の竪穴住居のカマドの近くから見つかった紡錘車には「武蔵国」「多磨」「羊」の文字が刻まれていました。表面に「武蔵国 多磨」側面に「羊」と読める文字です。時代は、一緒に発掘された土器(須恵器)から、8世紀後半とされています。

 「羊」という字は、人名、地名、方角などいろいろに解釈されましたが、正倉院文書や群馬県の多胡建郡の碑に同様な字があり、人名とされました。言うまでもなく、渡来系の人名です。

 8世紀の多摩で、すでに文字を使用していたことがわかります。これまでは、有名な万葉研究者からも、東歌だ防人歌だといったって、庶民(ただし、羊は指導者だったかも知れません)は字が読めない、書けないのではないか、と言われていました。それが見直されるでしょう。

 さらに注目されるのは、渡来系の「羊」という人名が多摩川の中流域に具体的に出てきたことです。
 調布市や狛江市、あきる野市に加えて、やがて「羊」から武蔵国以外の国との関係、渡来系の集団や出自国も判断されてくるでしょう。国府に近いことから、さらに話題が広がる可能性を持っています。

 仮屋上遺跡はJR南武線谷保駅に近接する遺跡で、現在の多摩川まで約2キロの位置にあります。当然に下流、上流との交流があったでしょう。すごいのは、さらに範囲が広がって、ここから出土する土器から、北武蔵との関係が推測されています。

 『仮屋上遺跡から出土する須恵器は坏(つき)が多く、ほかに大型の甕(かめ)・長頸壺(ながくびつぼ)などがあるが、その多くは北武蔵、中でも南比企窯址群の製品であることが調査団によって指摘されていることから、当時北武蔵と仮屋上遺跡を含む南武蔵との間で交易が行われていたことも推測できる』 (国立市史 上巻 p794-797)

 土器の形や特徴が紹介できなくて、問題提示だけで残念です。いずれ、別のページで扱いたいと考えています。

otikawaiseki2.jpg (21300 バイト)

東京都日野市で
「和銅7年11月2日 鳥取部直六手縄」

の文字を刻んだ紡錘車が発見されたことを伝える。
(1995年8月4日 朝日新聞)

時代はさらに遡り、朝鮮半島製と見られる「アイロン」が見つかった

 今度はお隣の日野市での話題です。多摩川の南側にある「落川遺跡」です。これまでは、遺跡があろうとは想定できなかった、多摩川と多摩丘陵(多摩の横山)に挟まれた、沖積低地の遺跡です。
 日野市と多摩市にまたがっています。

 まれにみる複合遺跡で、興味ある問題をたくさん提供しますが、今回は布にピントを合わせます。見つかったのは、奈良時代初期の竪穴住居から火山岩製の紡錘車で、何と「和銅7年11月2日 鳥取部直六手縄」の文字が刻まれているそうです。

 国立市のものは8世紀後半でしたが、これは和銅7年、つまり717年と年代が確定(国内最古とされる)しています。さらに、鳥取部(ととりべ)という部があります。同新聞報道では「ハクチョウを捕獲し、朝廷に献上する人々を意味するという」としています。
 持ち主は直(あたい)という位の六手縄(むてなわ)という名前です。どんな位置で、何をする人だったのでしょう?

 この遺跡は7世紀から12世紀までの変遷がたどれる遺跡です。特に、7世紀から8・9世紀にかけては、次に紹介する調布市の染地遺跡と関連して、多摩の「私寺」の発生、「郷家」、「在地豪族」の誕生が解き明かされる可能性を持っています。

 特筆すべきは、古代のアイロンと考えられる「火熨斗(ひのし)」が発見されていることです。まだ、全国で6例といわれます。東京都文化課の学芸員福田健司さんは
 「現在、国立文化財研究所に製作地を調べるため分析を依頼している最中ですが、恐らく半島製の物と考えられる。・・・非常に朝鮮半島色の強い渡来系の人々の持ち物と考えられる。・・・」(東京の文化財 50 p3)

 としています。
 もう一つ、この遺跡で注目されるのは、調布市の染地遺跡から出ているものと同じ「軒丸瓦」「土」という文字を書いた土器が発見されていることです。

banndo2.jpg (11626 バイト)

調布市内で発見された役人が締めたと推定されるベルト
染地遺跡、上布田遺跡、上石原遺跡、飛田給遺跡などで発見されている。
調布市郷土博物館分室


役人が締めた「バンド」や小さな「私寺」の瓦が見つかった

 それは、調布市の「染地遺跡」です。前の日野市の落川遺跡と同じように、多摩川の沖積低地で発見されました。いっそう多摩川に近くなっています。調布市のもっとも南側で、狛江市と接する場所です。
 今は東京都住宅供給公社の集合住宅「多摩川住宅」が建っていますが、かっては一面の水田で千町耕地と呼ばれていました。

 古墳時代中期末から平安時代に続く遺跡だそうですが、大集落のあったことが想定されています。時代を画するとは大げさですが、多摩地方にその兆しを告げる発見として「ベルトの金具」「軒丸瓦」の発見は大きな意義を持つものだと思います。

 ベルトの使用は、着用が細かく規制されていたことから、普通の遺跡では出てきません。この遺跡から出土するのは、府中市にあった国府に近いこともあって、それとの関連も含めて、様々に考えられています。軒丸瓦になるとさらに特殊です。染地遺跡はこの二つがセットになっているのですから、興味津々です。


地方豪族が生まれた証拠


 この遺跡から出土した軒丸瓦は長い名前が付いています。「鋸歯文縁素弁八葉(又は剣菱状単弁)蓮華文(きょしもんえん そべんはちよう れんげもん)」といわれるもので、まだ小さい欠片が一片発見されているだけです。建物の礎石や付帯物があるわけではありません。ただ、発見の状況から、現地で使用されていたものと判断されています。
(拓本、実測図、復元図は調布市埋蔵文化財調査報告7 調布市染地遺跡 p62にあります)

 心が躍るのは、同じ文様を持つ軒丸瓦が次の所から発見されていることです。
 
 川崎市菅の寺尾台
 調布市染地遺跡
 日野市落川遺跡
 府中市京所
 多摩市中和田
 稲城市大丸遺跡
 国分寺市仁王門東
  (ただし、多摩市中和田、国分寺市仁王門東は地表面の採集されたものといわれます)

nokimarugawara2.jpg (15613 バイト)

染地遺跡の軒丸瓦についての記事
多摩の歩み 31巻 (多摩中央信用金庫 昭和58年)

 これをどう考え、判断するかはこれからのことのようです。二つの見解を紹介します。

 東京都文化課学芸員福田健司さん
 『この(国分寺造営)の大事業をのりきるために国分寺周辺の多摩川流域右左岸の郷長たちに一方的な援助を願ったと思われる。国は・・・一方的な援助を願っただけでなくいろいろな見返りを与えている事がわかっている。
 そのひとつに一時期禁止されていた私寺(公の寺でなく個人的な寺)を造ってもよいという許可を与えていることである。これは信心深いから寺を造るのではなく、寺を作ると、その所有者は、寺田として百町歩の墾田が許される。
 ・・・そのような寺は、見返りとして郷長クラスが造るが、国分寺とは比べようもなく小さく、寺と呼べないような一壁一伽藍(小さな御堂をひとつ建てるだけの寺)的なものであった。
 つまり、郷長が瓦葺きの小さな御堂をひとつ建てれば、政府の役人はそれを寺として認め、定額寺(国が認めた一定の寺)に列し、開墾を許可し、免税措置がとられたと考えられる。』・・・『剣菱状単弁蓮華文の軒丸瓦は、このような御堂に葺かれたものと思われる』 (東京の文化財 55 p3)
 として、さらに
 『5カ所の遺跡は、非常に密接な関係があったと思われる・・・これらの寺とも呼べないような寺は、武蔵国分寺が完成した直後頃のものと推測される』 (東京の文化財 51 p3)
 としています。

日本考古学協会会員で東京都教育庁の青木一美さん
 平安時代初期(9世紀初頭)から後は、一般的に竪穴住居跡が激減することを紹介した上で

 『・・・郡司・郷長等の階層の在地豪族の拠点である可能性を持つ染地遺跡は、右の時期に、逆に住居跡数を増加させる傾向にあることである。
 これは、右にみた浮浪逃亡農民を吸収し、自己の墾田の経営に駆使したのがまさにこの豪族層であるから、他郷の逃亡農民等をその傘下に入れた結果、集落規模が拡大した結果であるかもしれない。沖積低地に位置するこの村落の前代からの拡大は、おそらく、周辺の多摩川氾濫原を、豪族の財力により、堤を造り、用水を引くなどして徐々に耕地としていったことを基盤としていると思われる。』 (多摩の歩み 31 調布の平安時代をさぐる p61)

 としています。
 高らかに愛を歌った万葉の若者たちが生きた次の時代の風景です。残念ながら万葉の時代は終わってしまい、しばらく歌のない時代が続いたようです。多摩の中世を「この児」や「ここだ愛しき」と称えた若者たちはどのように導き出したのでしょう。

watasibune2.jpg (15167 バイト)

かっての「調布・管の渡し船」は貸しボートの営業所に変わり
鉄橋には京王線の電車が走ります。

万葉の若者たちだったら、どう歌うのでしょう。


多摩川沿岸・調布・狛江は夢の宝庫

 青梅市を始め、多摩川の上流から「布」に関する遺跡をたどってきました。低地遺跡の発見や発掘はまだ数少なく、むしろこれからで、新しい発掘とともに内容が豊かになり、武蔵野の歴史を深めるものと期待されます。
 多摩川沿岸を上流から通して、また時代を区切って地域を見ると、ますます面白さが増しそうです。ここは夢の宝庫です。狛江と調布の関係、渡来文化の跡を紹介したいのですがホームページの限界を超えるようです。
 次の機会にゆずります。


前へ(手作)
ホームページへ