崩岸(あず)の上に 歌碑のある地は、霊亀2年(716)5月16日 とする、高麗郡建郡の際、上総郷となったところです。 万葉の時代、人が活動していた痕跡を求める略図です。 高麗郡には2つの郷が置かれた 江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」は『按(あん)ずるに霊亀の前、此の郡を置かざる時は草昧(そうまい=未開で暗い)茫々たる間地なるか』と記しています。そこへ、関東の各地に分散していた高麗人1799人が集まって、新しくつくられた郡のもとに、荒野を開墾し集落を形成したことになります。 その区域も、建郡の経過も、その後の様子もはっきりしません。ただ、承平年間(931〜938)に編集されたと考えられる和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には「高麗郷」と「上総郷」の2郷が置かれたことが書かれています。 建郡の時の区域は不明で、江戸時代の正保年中改訂図、元禄年中改訂図で追うと、現在も地名でほぼ追うことができる次のような区域が高麗郡とされています。 これからすると、相当に大きな地域でした。さらに、隣接するところによっては、入間郡の中でも高麗郡の名前が、また高麗郡の中でも入間郡の名前が使われる地域があったりする情況でした。明治になって「高麗郡」が廃止されたことと、その後の市町村合併で市町村の境界も変わってしまい、古代「高麗郡」の区域がどこまでであったか、さらにはっきりしなくなりました。郷の区域も不明です。 飯能市の地域は上総郷 歌碑の地はさらに厄介なことに、上総郷と入間郡の郡境にあたります。新編武蔵風土記稿では「佛子村・阿須村の辺は山を界とし、・・・」としています。従って、江戸時代末には、加治丘陵の北面は高麗郡としていたことがわかります。しかし、古代にはどのようになっていたのかはっきりしません。 気になるのが万葉の時代、この地にはたして人が住んでいただろうかと云うことです。 芦苅場(入間川北側)から建郡期の遺跡がでた また、隣接して こうしてみると、飯能市の平松から芦苅場にかけて、万葉の時代、移住してきた人々が住んでいたことがはっきりします。ただし、歌碑のある場所とは相当の距離があります(直線で約5キロ)。 一方、入間川の南側、歌碑があるところ、略図の下の方ですが、加治丘陵の麓を入間川が流れていて、アズを形成しています。そして、この地続きに古代窯業の集中地があります。現在は入間市に属していますが、C「東金子窯跡群」がそれです。 とりわけ、隣接するB前内出窯跡は注目で、8世紀中頃の操業開始が想定され、女影廃寺への瓦の供給が考えられています。女影廃寺周辺は「高麗郡衙」の存在が推定されているところです。略図には、北側にはみ出し、入れられませんでした。 こうして、万葉の時代、入間川の南、加治丘陵とその麓には瓦や須恵器を焼く工人達のグループが家族と共に住んでいたことは確認出来そうです。いずれ画像を付けて紹介しますが、東金子窯跡群から現在のアズが見られる飯能市体育館・球場へは意外に近く、細い路を抜けてアズの上に立つと、アッと驚くような光景が目に入ります。 歌碑の歌はアズの下からよんだのか、上からよんだのか 歌碑の歌は 崩岸(あず)の上に
駒をつなぎて 危(あや)ほかと で、アズの上に繋がれた馬がうたわれ、歌碑はそれを見上げる低地にあります。ところが入間市側から見ると、繋がれたアズが足下にあって、そこから入間川を見るため、その崩れの脆さ、危うさの実感は倍加します。位置によってこうも歌の実感が異なるかの見本のようです。 もし、東金子窯跡の窯で、瓦や須恵器を焼く工人が、入間川越しの飯能台地に住む人妻を恋して、この歌をよんだとすると、危うさと思い込みの深さがドンと胸に響きます。それが、新たに移ってきた渡来の人妻と武蔵土着の入間の若者であったとしたら、その心象はさらに複雑です。 何故アズを? 万葉も14巻の編者はよくもしたりで、この歌の前後は愛や恋の前に立ちはだかるものをこまめに集めています。それは 浜の砂(3533)、門(3534)、監視(3535)、鞭と手綱(3536)、柵(3537)、廣橋(3538)、アズ(3539)、足の早過ぎる馬(3540)、アズ(3541)、細石(3542)、堤(3543)・・・などです。 各遺跡は現在も継続して調査中で、新しい発見が続くものと思われます。これまでに調査された遺跡の内容は飯能市発行「飯能の遺跡」に詳細が報告されています。(2003.8.8.記)
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