崩岸(あず)の上に
(2)
(万葉集 東歌 14-3539)

歌碑のある地は、霊亀2年(716)5月16日
甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国の高麗人1799人を集めて
武蔵国に移し、高麗郡を置く。(続日本紀)

とする、高麗郡建郡の際、上総郷となったところです。

万葉の時代、人が活動していた痕跡を求める略図です。
国土地理院5万分の一に落としました。

略図左上に高麗川が流れ、高麗本郷があります。「崩岸(あず)の上に」の歌碑は略図下に位置します。

高麗郡には2つの郷が置かれた
 
 霊亀2年(716)に、新たに設けられた高麗郡は、入間郡の一部を割いて西側に置かれました。最近隣接地でいくつか古墳が発見されているようですが、入間郡の中でも、弥生時代、古墳時代の遺跡がほとんど見られず、おおむね未開発の地域であったようです。

 江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」は『按(あん)ずるに霊亀の前、此の郡を置かざる時は草昧(そうまい=未開で暗い)茫々たる間地なるか』と記しています。そこへ、関東の各地に分散していた高麗人1799人が集まって、新しくつくられた郡のもとに、荒野を開墾し集落を形成したことになります。

 その区域も、建郡の経過も、その後の様子もはっきりしません。ただ、承平年間(931〜938)に編集されたと考えられる和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には「高麗郷」と「上総郷」の2郷が置かれたことが書かれています。

 建郡の時の区域は不明で、江戸時代の正保年中改訂図、元禄年中改訂図で追うと、現在も地名でほぼ追うことができる次のような区域が高麗郡とされています。

 日高市  全域
 飯能市  旧吾野村を除いて全域
 入間市  仏子、野田
 狭山市  根岸、笹井、上広瀬、下広瀬、柏原
 鶴ヶ島市 全域
 川越市  笠幡、的場、安比奈新田、鯨井、下戸、小堤、下小坂、平塚、平塚新田、吉田、天沼新田、下広谷

 これからすると、相当に大きな地域でした。さらに、隣接するところによっては、入間郡の中でも高麗郡の名前が、また高麗郡の中でも入間郡の名前が使われる地域があったりする情況でした。明治になって「高麗郡」が廃止されたことと、その後の市町村合併で市町村の境界も変わってしまい、古代「高麗郡」の区域がどこまでであったか、さらにはっきりしなくなりました。郷の区域も不明です。

飯能市の地域は上総郷

 現在の行政区域では、概ね日高市が高麗郷、飯能市が上総郷と分けているようです。それも明確な基準があるわけではないらしく、現在発見されている遺跡の分布が高麗川以北、小畔川、下小畔川、南小畔川、入間川流域などに集まるところから、この流域によって区分する考え方も出されています。

 歌碑の地はさらに厄介なことに、上総郷と入間郡の郡境にあたります。新編武蔵風土記稿では「佛子村・阿須村の辺は山を界とし、・・・」としています。従って、江戸時代末には、加治丘陵の北面は高麗郡としていたことがわかります。しかし、古代にはどのようになっていたのかはっきりしません。

 気になるのが万葉の時代、この地にはたして人が住んでいただろうかと云うことです。

芦苅場(入間川北側)から建郡期の遺跡がでた

 幸いに、近年、遺跡の発掘調査が進み、その大所がわかってきました。略図中央やや上の飯能市芦苅場には、
 @「堂の根遺跡」(10万平方メートル)があります。ここからは8世紀の第一四半期と想定される常陸産の須恵器が発見されています。丁度、高麗郡の建郡期にあたるため、その時の移住者が住んだところであろうと推定されています。

 また、隣接して
 A張摩久保遺跡(45万平方メートル)があります。非常に大きな遺跡で、ここからは、奈良・平安時代の集落と共に掘立柱建物群が発掘され、その並び方や文字の書かれた土器などから通常の集落ではない様相を示すと云われます。ここからも、常陸新治窯産の須恵器が発見されています。

 こうしてみると、飯能市の平松から芦苅場にかけて、万葉の時代、移住してきた人々が住んでいたことがはっきりします。ただし、歌碑のある場所とは相当の距離があります(直線で約5キロ)。

加治丘陵(入間川の南側・アズ)には多くの窯跡

 一方、入間川の南側、歌碑があるところ、略図の下の方ですが、加治丘陵の麓を入間川が流れていて、アズを形成しています。そして、この地続きに古代窯業の集中地があります。現在は入間市に属していますが、C「東金子窯跡群」がそれです。

 国分寺瓦をはじめとする主要な施設の瓦や須恵器を焼いたところで、国分寺の創建瓦(8世紀中頃)を焼き、再建時(9世紀)に最盛期を迎えているとされます。いずれも高麗郡の人々との関連が注目されるところです。

 とりわけ、隣接するB前内出窯跡は注目で、8世紀中頃の操業開始が想定され、女影廃寺への瓦の供給が考えられています。女影廃寺周辺は「高麗郡衙」の存在が推定されているところです。略図には、北側にはみ出し、入れられませんでした。

 こうして、万葉の時代、入間川の南、加治丘陵とその麓には瓦や須恵器を焼く工人達のグループが家族と共に住んでいたことは確認出来そうです。いずれ画像を付けて紹介しますが、東金子窯跡群から現在のアズが見られる飯能市体育館・球場へは意外に近く、細い路を抜けてアズの上に立つと、アッと驚くような光景が目に入ります。

歌碑の歌はアズの下からよんだのか、上からよんだのか

 歌碑の歌は

 崩岸(あず)の上に 駒をつなぎて 危(あや)ほかと
       
人妻児
(ひとづまこ)ろを 息(いき)にわがする

 で、アズの上に繋がれた馬がうたわれ、歌碑はそれを見上げる低地にあります。ところが入間市側から見ると、繋がれたアズが足下にあって、そこから入間川を見るため、その崩れの脆さ、危うさの実感は倍加します。位置によってこうも歌の実感が異なるかの見本のようです。

 もし、東金子窯跡の窯で、瓦や須恵器を焼く工人が、入間川越しの飯能台地に住む人妻を恋して、この歌をよんだとすると、危うさと思い込みの深さがドンと胸に響きます。それが、新たに移ってきた渡来の人妻と武蔵土着の入間の若者であったとしたら、その心象はさらに複雑です。

何故アズを?

 万葉も14巻の編者はよくもしたりで、この歌の前後は愛や恋の前に立ちはだかるものをこまめに集めています。それは

 浜の砂(3533)、門(3534)、監視(3535)、鞭と手綱(3536)、柵(3537)、廣橋(3538)、アズ(3539)、足の早過ぎる馬(3540)、アズ(3541)、細石(3542)、堤(3543)・・・などです。

 中でもアズをもって、崩落、崩壊、危うさを象徴するように挟み込んだやり口は拍手喝采ものでしょう。そして、この歌は歌の故郷が特定されないものでした。アズのあるさまざまな地域で歌われたのでしょうか? まだ歌碑は設置されていませんが、同じような舞台が、いくつもあり、代表格として東京都の稲城地方を紹介します。

 各遺跡は現在も継続して調査中で、新しい発見が続くものと思われます。これまでに調査された遺跡の内容は飯能市発行「飯能の遺跡」に詳細が報告されています。(2003.8.8.記)

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