崩岸(あず)の上に(1)
(万葉集 東歌 14-3539)

崩岸(あず)の上に 駒をつなぎて 危(あや)ほかと
  
人妻児
(ひとづまこ)ろを 息(いき)にわがする

崩れ岸に駒をつないで 危ういように 危ないけれど
私は 人妻のあなたに心をひかれて、嘆息しています。
(岩波古典文学大系万葉集 三 p449) 

崩れた崖の上に馬を繋いだように危ないけれど
人妻のあなたを命がけで思っている

(いき)にわがする=命をかけてと、その想いの強さと深さを独特に言い回しますが
いかにも東歌らしく、切なさが一気に伝わります。

砂や陽炎(かげろう)ではなく、もろく崩れそうな崖=「アズ」をもって
制限された愛の崩れやすさ、危うさを訴えるところに、万葉の時代の東国の人々の感情が強烈です。

この歌碑が、埼玉県飯能市に建てられています。入間川が加治丘陵にぶつかって大きく曲流し
丘陵を削って崩れそうな崖をつくり、その地名も「阿須」(あず)と名付けられたところです。
(飯能市の南限、入間市との境の地域)

歌碑はアズに向かって、建てられています。

歌碑の正面から向かって左側の碑(上画像では右)に
「飯能市万葉の歌碑を建てる会」が歌碑を建立した趣旨を次のように刻んでいます。

『万葉集の東歌二首に歌われている安受(阿須)は後方の崖である。
前方に入間川、また遠く山並みを望む景勝の地である。
万葉の詩心が永く受け継がれることを願い、ここに歌碑を建立した。
平成8年3月』

歌碑の視線からは、あいにく夏草に隠れて、遠くの山並みはかすかにしか見えませんが
隣に場所を変えれば、入間川を前に、飯能の山々がぐるっと続いて
この地方の穏やかな空間の構成を伝えます。


歌碑の場所に行くのには、徒歩の場合、時間と体力が必要です。
西武池袋線・元加治駅下車、円照寺の門前を通って「上橋」を渡るのが最も近いのですが
全くの自動車道で、騒音と排ガスに辟易です。約20分。




元加治駅下車、円照寺の門前を通って「上橋」を渡らず、橋の手前の大欅の並木を経て
入間川縁へ出て歩くと、入間川を挟んで加治丘陵が横たわり、アズが見えて雰囲気がいいです。
しかし、略図中央やや左よりの阿岩橋を渡るまで渡河の方法が無く
50分程度かかります。飯能駅からはタクシーでしょうか。

今回は北側を歩いて阿岩橋を渡るルートをご紹介します。

入間川の北側(下流に向かって左側)からの加治丘陵です。
古代の高麗郡と入間郡の郡境はどこだったのか、川・・・? それとも、尾根・・・?
何とも興味ある問題が包まれている地域です。

それにしても、万葉の時代、はたしてこの地域に人が居たのだろうか?
基本的な疑問が後から後から湧いてきます。

現在でも、加治丘陵からの細流が入間川に流れ込み、周囲に肥沃な堆積をしています。
最初の入植者は、どこに生産、生活の基盤を置いたのでしょうか?

駿河台大学は、アズの中に建てられています。
大学の建物の後側に小高く加治丘陵が見えますが、大学建設前はアズそのものが露出していました。

阿岩橋の上からの全景です。左側が加治東小学校、入間川を隔てて右側が駿河台大学です。
飯能駅から加治東小学校・入間川までやや傾斜した台地が続き、アズは見られません。
現在の地名も、左側は笠縫、岩沢で右側一帯が「阿須」となっています。

阿岩橋の上流に八高線の鉄橋があります。
この一帯は明治まで入間川の渡河場で、渡船がでていました。

また、中世には鎌倉街道として鎌倉へ
後北条氏の時代には、多摩の八王子方面と直結する道筋でした。

阿岩橋を渡りきると、入間川の河川敷を利用した飯能市の阿須運動公園です。
前方が加治丘陵で、現在のアズが見えます。

入間川は万葉の時代から幾度も流路を変えてきて
この辺りから見ると、直角かと錯覚するほどで、運動公園分の敷地が陸化しています。
突き当たり辺りに歌碑があります。

歌碑の周辺は「万葉広場」として整備されています。
面をアズに向けているため、河川敷から上がってくると碑を後ろから見ることになり
オヤッと思いますが、案内板で「飯能市万葉の歌碑を建てる会」の意気込みを知ると、頷けます。

『万葉集「安受」の二首

崩岸(あず)の上に 駒をつなぎて 危(あや)ほかと
   人妻児
(ひとづまこ)ろを 息(いき)にわがする

あず辺(へ)から 駒の行(ゆ)ごのす 危(あや)はとも
人妻児ろを目(ま)ゆかせらふも

 「あず」は江戸時代までは葦のことであると解釈されていましたが、現在「安受」とは飯能市阿須というのがほぼ定説となっています。

 一首目は「崩れそうな崖の上につながれている馬が危ないように、私は人妻であるあなたを恋してしまった。もし止めようとすれば、ただちに命を失うほかはない」

 二首目は「がけっぷちを行く馬のように危ないことだけれど人妻であるあなたに目くばせして誘ってみよう」という意味でしょう。

 後方に見える崖が万葉の舞台です。いずれも約千三百年前の人々の思いと生活の一部が伝わってくる作品です。

         平成八年三月
                         飯能市万葉の歌碑を建てる会』

となっています。歌碑には一首目だけが彫られていますが、飯能市万葉の歌碑を建てる会では、二首目の歌もこの地を舞台としています。

略図の飯能市市民体育館、市民球場、あけぼの子供の森公園がある一角に
見上げると首が痛くなる程の崖をつくって、現在のアズが見られます。

まさに、その頂きに馬をつないだ情況が万葉の世界と重なって浮かんできます。
舞台としての条件は揃っているようです。

歴史的にはどうだったのでしょうか? 
それを追ってみたいと思います。
(2003.8.8.記)


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