武蔵野夫人

 『土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。・・・・・  
 中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下り
となる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高い
のは、これがかって古い地質時代に・・・古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面は
その途中作った最も古い段丘の一つだからである。・・・』

大岡昇平「武蔵野夫人」の書き出しです。
武蔵野の地理の案内かと間違えるばかりの詳細な背景のもとに
独歩や蘆花とは全く違った武蔵野の物語が展開します。  

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右側が大岡昇平が一時寄寓した富永次郎宅 
(東京都小金井市中町1丁目)


「突然下りとなる」坂は、多摩川が削った名残の国分寺崖線 
かって、両側は山林で、暗くなると化かされるからと「むじな坂」と名付けられている。


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坂を下ると、その付け根に
台地をくぐってきた自然水が、全てを濾過されたように清水となって湧き出て
大小の泉をつくっている。
これが「はけ」である。

 精密な背景描写のもとに書かれた 大岡昇平 「武蔵野夫人」の舞台を通じて、武蔵野の特徴である

  国分寺崖線
  「はけ」

 をご案内します。 大岡昇平は昭和23(1948)年1月から11月まで、小金井市の富永次郎宅に寄寓して、この小説を書きました。 現在もその舞台装置が残っています。

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小金井市が「武蔵野夫人」の舞台になった場所として保全している緑地・公園
中村研一美術館横から入る。

 物語は 「はけ」の象徴とも思わせる女主人公「道子」と戦火をくぐって復員してきた幼なじみ「勉」との間のクラシカルな波紋を描きます。 「はけ」の家には、そこで生まれ育った「道子」と婿取りの夫で、私立大学のフランス語の教師「秋山」が住んでいます。そこへ、第二次世界大戦後間もない頃、払い下げの航空服を着た、従兄弟の「勉」が訪ねてきます。
 
 隣り合って、もう一組の主人公がいます。道子の父親の甥に当たり、事業家で金儲けのうまい「大野」とその妻でおきゃんな「富子」です。
 小説は、この4人の「恋愛の平行四辺形」(埴谷雄高)が武蔵野と重なって語られます。発表されたのは昭和25(1950)年で、ベストセラーになり、映画化されました。

 「はけ」の家では、勉が大野夫妻の子供の家庭教師になって、道子の家に住み込んだことによって、二組の夫婦にさざ波が立ち始めます。そんなある日、勉が道子を『古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである』野川の源流探索に誘います。

 「はけ」の水がそれぞれに集まって、川となってできたのが「野川」です。富永次郎宅からわずか数十メートルのところに流れています。

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手前が「野川」、向こう側の林中央に富永次郎宅

当時とは護岸や流路、周囲の情景などすっかり変化して、面影もないようだ。


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しかし、根気よく探すと、まだこんなところにも出会う。

 二人は野川に沿って、国分寺まで歩きます。
 『道は正確に川に沿ってはいなかったが、勉のつもりでは斜面から流れ出る湧水の量を調べればよいのであるから、斜面の裾を伝う道をたどって行くことにした』 と、「はけの道」を歩きます。


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主人公達も通った「はけの道」

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「はけの道」に面する富永家の門(1998年11月)

 道子と勉がはけの道を行くと、やがて、
 『水が道を横切るのが繁くなった。あるいは竹藪の陰、石垣の根方などから突然流れ出て、道に平行した道に沿って流れた。』

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再現された「はけの小径」
「はけ」から「野川」までの姿を偲ぶことができる。

 『流水の形と音のリズムに伴奏されて、二人の足は自然に合った。・・・道を隔てた山側には神社があり、石段に沿って水が落ちていた。』 として、神社に着きます。

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貫井神社の入り口には今も水が落ちている。拝殿前の池には「はけ」からの清水が満たされている。

 『水の源を訪ねて神社の奥まで進んだ。流れは崖に馬蹄形に囲まれた拝殿の裏までたどれた。そこぬは「はけ」の湧泉と同じく、草の生えた崖の黒土が敷地の平面と交わるところから、一面に水が這い出るように湧いて、拝殿の縁の下まで拡がり、両側の低い崖に沿って、自然に溝を作って流れ落ちていた。』

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神社の裏には、現在も、その姿を彷彿とさせるかのように水が湧き出て流れている。

 貫井神社から、野川の水源は間もなくです。ここで作者は、読者に対して、ある言葉の装置を仕掛けます。
 『勉は、

 「何だ、水源は線路の向こうらしいや」
 といって笑ったが、道子は笑顔を返すこともできなかった。彼女はさっき神社の後ろで勉を抱きたいと思って以来、どうして自分がそんなことを思ったのだろうと、そのことばかり考えていたのである。彼女は結局自分に告白しようと欲しない一字のまわりを廻っていた。』  

 自分に告白しようと欲しない一字をめぐる、道子の苦悶は、武蔵野夫人のテーマとも思えます。その一字は水源に到着して一挙に現実の言葉と心理の綾の効果を高めます。

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