阿佐ヶ谷界隈の文士達(2) 阿佐ヶ谷駅北口から、横光利一、上林暁と訪ねてきましたが、 三好達治は、昭和4年6月から、昭和5年にかけて、短期間ですが、杉並に住みました。大学卒業後の創作意欲満々に満ちている反面で、失恋、発病にあうという、生涯でも転換期です。 三好達治はこの「天沼八幡」の後あたりに住んだという。 三好が杉並に住んだ時は、まさしく自身にとっての転換期でした。知己、尊敬、憧れ、恋、失恋、自立と一緒くたに押し寄せた2〜3年の間の怒濤の時でした。少しばかり追ってみます。 「(生活の安定しない)文士は朔太郎一人でたくさん、就職を・・・」 との意向が強く、三好は就職先として「アルス」書肆を選んで給料取りになることを決心します。ところが、アルス社が営業不振で、三好は離職をして、アイとの結婚を断念することになります。 これを契機に、三好は文筆生活を目指す決心がつきました。窮乏の中、翻訳に専念します。丁度この時期、阿佐ヶ谷に転居してきたことになります。フアーブルの昆虫記を翻訳したのもこの時でした。その後は、三好は一ヶ所に留まれない気質らしく、信州や京都で仕事をしたようです。 思潮社 現代詩読本 三好達治 表紙 再度阿佐ヶ谷へ 一度離れた阿佐ヶ谷ですが、昭和7年、ひょんなことから再度阿佐ヶ谷に住みます。友人が借りた家での病気治療です。窮乏を極めた三好は「青空」の同人中、特に、中谷孝雄、淀野隆三におんぶにだっこでした。 『中谷一家は高円寺に住んでいたが、病人を受け入れるには、家が狭すぎた。そこで八畳と四畳半二間に玄関つきの阿佐ケ谷の借家に引っ越す。その八畳に病人の三好を入れたのである。そのあたりのことは、看護役となった平林英子が,青空の人たち』の中に詳しく書いている。ここでは、三好が阿佐ケ谷の中谷家に運びこまれる一節を引用してみよう。 病人よりも世話する方の心労がひどかった。そんなある日、名医といわれる安田徳太郎博士に往診を頼んだ。そこで三好は診察されるのだが、博士は病人に、どこも悪くない、ときっぱり言いわたしたという。 三好はこれまで寝たっきりで、一歩も動けなかった。いや、動こうとしなかったむきもあるが、博士はそれを許さず、一人で手洗いにも行かせた。すると不承不承ながら、一人で歩けるではないか。博士は食べものも特別にかまう必要はない、といった。そこで家 春陽堂 村上護 阿佐ヶ谷文士村 表紙 族と同じ麦飯にすると、三好は二杯も食べたという。 あるいは仮病であったかのごとく、三好の病気は快方に向かった。三好は中谷家での三ヶ月間の療養後、ひとりで大阪に帰っていった。その結末はあっけない。三好が去った後、中谷家は、また家賃の安い家を捜して、高円寺に転居した。』(村上護 「阿佐ヶ谷文士村」 p100−101) 極貧の三好には医療費が支払えず、それを肩代わりしたのは淀野隆三などの友達と言われます。その後も、岸田国士の媒酌で佐藤春夫の姪である佐藤智恵子と結婚しますが、三好の性格による離婚、佐藤春夫との不仲などが続きました。 大御所として大成する前の阿佐ヶ谷時代はこんな状況で、三好の作品に接する時、この時代を思うと、じっとしていられないくらい愛おしくなります。 三好達治が住んだと言われる地域はすっかり近代建築に埋まり 略年譜 明治33年(1900)大阪市東区南久宝寺町1丁目番外22番地で誕生 昭和4年(1929)29歳 新潮社でゾラの「ナナ」翻訳発刊。 作品 三好が住んだところから、太宰治が井伏鱒二にあこがれて、金木から迫って来たところまではもうすぐです。 多くの文士達が朝夕親しんだ「弁天池」は私企業のクラブとなり 徳川夢声、伊馬春部 荻窪には、作家ばかりでなく、俳優や劇作家も住んだ。徳川夢声や伊馬春部は、青梅街道から少し奥まったところに住み、文士・作家と交わった。文士・作家と酒を飲み、将棋を指した。文士・作家は夢声や伊馬の舞台に出向き、応援した。 青梅街道沿いの表通りは近代的店舗で埋まっているが(左) 当時のことを、井伏鱒二は「荻窪風土記」に次のように書く。 『阿佐ヶ谷将棋会の人たちのうち、はつきりとまだ文学青年婁(やつ)れしてゐなかつたのは、大学生であつた津島修治(後に太宰治と改名)伊馬鵜平(後に伊馬春部と改名)中村治兵衛(後に地平と改名)それから、学生生活を切りあげて新婚生活に入りたての神戸雄一であつた。 この四人の青年は、偶然だらうが天沼の弁天通りといふ狭い横丁に移つて来た。現在の教会通りで、荻窪駅前の第一勧銀の脇に続く横丁である。伊馬鵜平は昭和四年頃、まだ在学中に今の荻窪税務署(まだ麦畑であつた)の筋向うに建つた畑のなかの借家に移つて来て、翌年、弁天通りに引越した。太宰治は昭和五年に青森から東京に出て、昭和八年、弁天通りに新居を持つた東京日日新聞記者、飛島定城方の二階に移つて来た。神戸雄一は昭和六年、この横丁と相沢堀用水が交叉する地点に出来た借家に引越して来た。 (中略) 伊馬君の「閣下よ静脈が」といふ新作が、築地小劇場で村山知義演出で上演されたとき、大変な評判だつたから私は見物に行つた。阿佐ヶ谷ピノチオの常連のうちで、外村繁、太宰治、小田嶽夫などと一緒に総見した。昭和九年、劃期的な大入り満員を取つた芝居「桐の木横丁」も、ピノチオ常連たちと総見した。長谷川如是閑が絶讃したのはこの作品である。現在の天沼三丁目二番地、三番地あたり、伊馬君のうちや太宰君たちのうちには、家主が一軒に一株づつ桐の木の苗を植ゑるのが作法だとされてゐた。・・・ (中略) 伊馬君のゐた露路の突当りには高い板塀があつて、塀の向側にお湯屋と徳川夢声の家があつた。これは表通りの青梅街道に小道で通じてゐた。 夢声さんはお湯屋から聞える女湯の桶の音と裸女の話し声が煩いと言つて、斬新奇抜な設備と言はれてゐた防音装置を取附けた。それを聞き伝へた阿佐ケ谷の青柳瑞穂は、防音装置を見せてもらひに行かうと私を誘ひに来た。そのころ夢声さんは陶器に凝つて、古九谷の皿か何か凄い名品を手に入れたといふ噂があつた。 青柳君も陶器や骨董に凝つてゐたので(青柳は生涯、骨董に凝つてゐた)防音装置を見るよりも、古九谷を見たいのが本心であつたらう。 「骨董品を見せてもらふときには、口のききかたに気をつけなくつちやいけない。見せて下さいなんて言つちや、駄目。その道の人なら、眼福の栄にあづからして頂きたいと言ふ。それが作法だ。」 青柳はさう言つた。こんな既成の言ひかたがあつたとは初めて知つた。 私は夢声さんのことをまだよく知らなかつた。ただ新宿武蔵野館で聞いた映画説明の名調子だけは知つてゐた。そのほかには一度だけ、どこかで飲んだ帰りと見える夢声さんが、荻窪駅前の福助といふ鮨屋で梯子酒してゐるところを見た。 夢声さんは酒落を連発して、鮨屋の主人を笑はせてゐた。次から次に当意即妙の酒落が出て、すばらしい話術であつた。コップ酒を飲みながらのお喋りだが、酒を飲むのでなくて、口に流し込んで噛むのである。口から酒が流れ落ちる。飲みたいのでなくて、もう飲めないのに噛んで無理やり咽に入れようとした。 その後、夢声さんが禁酒するやうになつてから言つてゐたが、酔つぱらつて人を笑はしてゐるときの自分を宿酔の朝になつて思ひ出すと、何とも恥づかしくて遣りきれない気持を味はつたものであつたさうだ。宿酔のときには誰でも気力が消耗してしまつてゐる。だから自己嫌悪の情が何倍にも廓大されるのだと言つてゐた。 (井伏鱒二 荻窪風土記 p75〜85) 銭湯は「リラックス・アンド・コミュニティ広場」となっている。 伊馬春部と太宰の交流は深く、伊馬は、太宰の死後、戯曲「桜桃の記」を著している。阿佐ヶ谷文士の掛け値なしの交流は、路地路地に積み重ねられたようで、タイルに耳をあてれば、深夜の徘徊、夜明けの帰還の様子が聞こえてくるようだ。
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