阿佐ヶ谷界隈の文士達(2)

阿佐ヶ谷駅北口から、横光利一、上林暁と訪ねてきましたが、
さらに西に進むと、三好達治、太宰治、伊馬春部、徳川夢声、井伏鱒二の住んだ地域に達します。

三好達治(みよしたつじ)1900‐1964(明治33‐昭和39)

 三好達治は、昭和4年6月から、昭和5年にかけて、短期間ですが、杉並に住みました。大学卒業後の創作意欲満々に満ちている反面で、失恋、発病にあうという、生涯でも転換期です。
 ここで、処女詩集《測量船》のまとめに励み、その後、世田谷に移り住んでも、杉並居住の文士・作家と交流は変わりませんでした。

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 「弁天池」からの水路はそっくり煉瓦に覆われた遊歩道となり、文士の誰もが親しんだ「天沼八幡」はビルに囲まれた。
 三好達治はこの「天沼八幡」の後あたりに住んだという。

 三好が杉並に住んだ時は、まさしく自身にとっての転換期でした。知己、尊敬、憧れ、恋、失恋、自立と一緒くたに押し寄せた2〜3年の間の怒濤の時でした。少しばかり追ってみます。

 昭和2年3月、伊豆湯ヶ島に大好きな梶井基次郎を見舞い、そこで、川端康成、萩原朔太郎、広津和郎、宇野千代と知り合いました。
 昭和2年5月、横光の結婚披露宴に出席のため、川端康成は伊豆湯ヶ島から上京して、横光と一緒に借家を探し、そのまま杉並の馬橋に居着きます。伊豆に残った面々は、やりきれません。川端を追うように上京し、多くが大森の馬込方面に転居してきました。

 三好も、萩原朔太郎のすすめで、萩原の近くの大森新井宿126番地寿館に住みました。ここで、朔太郎の妹「アイ」に逢って、ひとたまりもなく恋をしたのです。そして、翌、昭和3年、東大仏文科を卒業し、さっそく「アイ」に結婚を申し込みます。ところが、朔太郎の母は

 「(生活の安定しない)文士は朔太郎一人でたくさん、就職を・・・」

 との意向が強く、三好は就職先として「アルス」書肆を選んで給料取りになることを決心します。ところが、アルス社が営業不振で、三好は離職をして、アイとの結婚を断念することになります。

 これを契機に、三好は文筆生活を目指す決心がつきました。窮乏の中、翻訳に専念します。丁度この時期、阿佐ヶ谷に転居してきたことになります。フアーブルの昆虫記を翻訳したのもこの時でした。その後は、三好は一ヶ所に留まれない気質らしく、信州や京都で仕事をしたようです。miyositatujigazou.jpg (4297 バイト)         思潮社 現代詩読本 三好達治 表紙         
再度阿佐ヶ谷へ

 一度離れた阿佐ヶ谷ですが、昭和7年、ひょんなことから再度阿佐ヶ谷に住みます。友人が借りた家での病気治療です。窮乏を極めた三好は「青空」の同人中、特に、中谷孝雄、淀野隆三におんぶにだっこでした。

 昭和7年、三好は胸部疾患、心臓神経症で病にすさみます。動悸が激しくなり、看護婦を呼ぶことが出来なくて物を投げつけては窓ガラスを割り、病院が困り切って退院を言い渡した際、三好を受け入れたのは中谷孝雄でした。

 高円寺に住んでいた中谷は家が狭すぎ、わざわざ病人を受け入れるため、新しく家を借りて看病したと言われます。この時の様子を村上護は「阿佐ヶ谷文士村」に次のように書いています。三好の一面を知ることが出来るので長くなりますが紹介します。

『中谷一家は高円寺に住んでいたが、病人を受け入れるには、家が狭すぎた。そこで八畳と四畳半二間に玄関つきの阿佐ケ谷の借家に引っ越す。その八畳に病人の三好を入れたのである。そのあたりのことは、看護役となった平林英子が,青空の人たち』の中に詳しく書いている。ここでは、三好が阿佐ケ谷の中谷家に運びこまれる一節を引用してみよう。

 用意がととのって、三好さんが退院する日は、朝から少し曇っていて、何となく肌寒さを覚えたが、午後三時すぎ頃、徐行した車が表の私道で止った時、、私たちはみんなで車のところへ駈けよった。車の中には大岡昇平さんと佐藤正彰さんがつき添って見えた。三好さんはもう、ぐつたりとなっていたので、皆で抱えながら車から下して、家の中へ入れるのが大仕事であった。やっと玄関の畳の上まで連れこんだら、三好さんはそのまま畳の上に伸びるように伏して、呼吸も絶えんばかりなので、しばらくはそのままにしておき、いくらか呼吸のおさまるのを見て、やっと座敷の布団の上へ寝かせることが出来た。

 その日からニケ月あまり、私たちは三好さんを中心の生活を始めたわけで、わがままな病人の三好さんと、不馴れな看護役の私との間には、不調和の調和とでもいうような、奇妙な毎日が繰返された。

 貧乏な三好達治には、これまでの入院費用を支払う能力はない。すべては親友を頼りにしたわけだが、三好自身が肩身の狭い思いをするというようなことはなかったようだ。むしろ暴君的にふるまい、周囲は迷惑を強いられた。中谷一家は、昼も夜もなく病人にふりまわされ、氷嚢をとりかえる一秒間も待ちきれないように、「早く、早く、死んでしまう!」と三好にわめかれた。

 三好は食べるものにもうるさく、新宿の二幸へ行って生きた飽を買ってこいとか、あれが食べたい、これが食べたい、と周囲の人を困らせた。といって中谷も貧乏ぐらし、そんな金があろうはずがない。中谷は仕方なく、三好の親友たちのところを回り、金を工面して来たこともあったらしい。

 病人よりも世話する方の心労がひどかった。そんなある日、名医といわれる安田徳太郎博士に往診を頼んだ。そこで三好は診察されるのだが、博士は病人に、どこも悪くない、ときっぱり言いわたしたという。
 三好はこれまで寝たっきりで、一歩も動けなかった。いや、動こうとしなかったむきもあるが、博士はそれを許さず、一人で手洗いにも行かせた。すると不承不承ながら、一人で歩けるではないか。博士は食べものも特別にかまう必要はない、といった。そこで家 
春陽堂 村上護 阿佐ヶ谷文士村 表紙  族と同じ麦飯にすると、三好は二杯も食べたという。

 あるいは仮病であったかのごとく、三好の病気は快方に向かった。三好は中谷家での三ヶ月間の療養後、ひとりで大阪に帰っていった。その結末はあっけない。三好が去った後、中谷家は、また家賃の安い家を捜して、高円寺に転居した。』(村上護 「阿佐ヶ谷文士村」 p100−101)

 
極貧の三好には医療費が支払えず、それを肩代わりしたのは淀野隆三などの友達と言われます。その後も、岸田国士の媒酌で佐藤春夫の姪である佐藤智恵子と結婚しますが、三好の性格による離婚、佐藤春夫との不仲などが続きました。

 大御所として大成する前の阿佐ヶ谷時代はこんな状況で、三好の作品に接する時、この時代を思うと、じっとしていられないくらい愛おしくなります。

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三好達治が住んだと言われる地域はすっかり近代建築に埋まり
今日も工事が進んでいる。

略年譜

明治33年(1900)大阪市東区南久宝寺町1丁目番外22番地で誕生
明治38年(1905)5歳 養子に出るが、病弱のため祖母の元に引き取られる。
大正4年(1915)15歳 大阪陸軍幼年学校入学。大正7年卒業、東京陸軍中央幼年学校本科に進学。大正8年 士官候補生。9年 士官学校入学。
大正10年(1921)21歳 実家倒産、陸軍士官学校中退。
大正11年(1922)22歳 京都第三高等学校文科丙類入学
 桑原武夫、梶井基次郎、河盛好蔵、吉川幸次郎、村正一郎、丸山薫、貝塚茂樹と親交。
大正14年(1925)25歳 第三高等学校卒業、東京帝国大学文学部仏文科入学
 小林秀雄、中島健蔵、今日出海(ひでみ)、淀野隆三、堀辰雄らと親しむ。
 梶井らの《青空》、安西冬衛、北川冬彦らの《亜》、百田宗治の《椎の木》などに参加。室生犀星、萩原朔太郎にあこがれる。
大正15年・昭和元年(1926)4月、「青空」の同人となる。三高出身の東大生、梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁淀野隆三などと親交。「椎の木」同人となり、伊藤整を知る。
昭和2年(1927)27歳 伊豆湯ヶ島に梶井基次郎を見舞う。
 川端康成、萩原朔太郎、広津和郎、宇野千代と親しむ。
 萩原朔太郎のすすめで馬込に住む。朔太郎の妹「アイ」に逢う。
昭和3年(1928)28歳 東大仏文科卒業
 アイとの結婚を望むが、朔太郎の母の「文士は朔太郎一人でたくさん、就職を・・・」との意向で「アルス」書店に就職。アルス倒産、離職、アイとの結婚破談。

昭和4年(1929)29歳 新潮社でゾラの「ナナ」翻訳発刊。
 6月、岸田国士の紹介で、杉並町天沼2162(2ー30ー11)ジャンヌ・滋野夫人方に止宿
、以後旅を続け、発病・入院を繰り返す。 

昭和5年(1930)
30歳 雑誌「作品」同人となり、井伏鱒二、川上徹太郎と親交を結ぶ。処女詩集《測量船》を発表。フアーブルの昆虫記を翻訳。
 11月、中野町上ノ原759番地東中野荘に転居。
昭和7年(1932)32歳 3月2日、喀血、東京女子医大付属病院へ入院。6月退院、杉並町阿佐ヶ谷1−676番地中谷孝雄宅に滞在して静養。詩集「南窗集」刊行(椎の木社)。
昭和8年(1933)33歳 7月、志賀高原へ転地療養。上林温泉に滞在。12月、結婚のため上京、杉並区東田町、淀野方に滞在。 堀辰雄、丸山薫と共同編集で《四季》を創刊。昭和10年代中心的な存在となる。
昭和9年(1934)34歳 1月、佐藤春夫の姪である佐藤智恵子と結婚。仲人岸田国士。その夜のうちに上林温泉に戻る。昭和19年離別。この間、和歌山県下里町の妻の実家、小田原、伊豆、伊東に滞在。
昭和11年(1936)36歳 5月、小石川関口町206番地に初めて一家を構える。
昭和24年(1949)49歳 2月、世田谷区代田1−313岩崎方に転居、終生暮らす。
昭和39年(1964)64歳 4月4日、狭心症で田園調布中央病院へ入院、5日、死去。

作品
 第一詩集《測量船》(1930)、《南窗(なんそう)集》(1932),《間花集》(1934),《山果集》(1935)《艸(くさ)千里》(1939)、《一点鐘》(1941)、《捷報(しようほう)いたる》(1942)、《寒柝(かんたく)》(1943)、《花筐(はながたみ)》(1944)、《駱駝の瘤にまたがって》(1952)、《百たびののち》(1962)など

 三好が住んだところから、太宰治が井伏鱒二にあこがれて、金木から迫って来たところまではもうすぐです。

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多くの文士達が朝夕親しんだ「弁天池」は私企業のクラブとなり
誰もが目印にした「天沼教会」は東京衛生病院の駐車場の奥に爽やかにある。

徳川夢声、伊馬春部

 荻窪には、作家ばかりでなく、俳優や劇作家も住んだ。徳川夢声や伊馬春部は、青梅街道から少し奥まったところに住み、文士・作家と交わった。文士・作家と酒を飲み、将棋を指した。文士・作家は夢声や伊馬の舞台に出向き、応援した。

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  青梅街道沿いの表通りは近代的店舗で埋まっているが(左)
一路地入ると別天地のような住宅街になる。(右)
青梅街道と路地でつながる、天沼3丁目に、徳川夢声や伊馬春部が住んだ。

 当時のことを、井伏鱒二は「荻窪風土記」に次のように書く。

  『阿佐ヶ谷将棋会の人たちのうち、はつきりとまだ文学青年婁(やつ)れしてゐなかつたのは、大学生であつた津島修治(後に太宰治と改名)伊馬鵜平(後に伊馬春部と改名)中村治兵衛(後に地平と改名)それから、学生生活を切りあげて新婚生活に入りたての神戸雄一であつた。

 この四人の青年は、偶然だらうが天沼の弁天通りといふ狭い横丁に移つて来た。現在の教会通りで、荻窪駅前の第一勧銀の脇に続く横丁である。伊馬鵜平は昭和四年頃、まだ在学中に今の荻窪税務署(まだ麦畑であつた)の筋向うに建つた畑のなかの借家に移つて来て、翌年、弁天通りに引越した。太宰治は昭和五年に青森から東京に出て、昭和八年、弁天通りに新居を持つた東京日日新聞記者、飛島定城方の二階に移つて来た。神戸雄一は昭和六年、この横丁と相沢堀用水が交叉する地点に出来た借家に引越して来た。

(中略)

 伊馬君の「閣下よ静脈が」といふ新作が、築地小劇場で村山知義演出で上演されたとき、大変な評判だつたから私は見物に行つた。阿佐ヶ谷ピノチオの常連のうちで、外村繁、太宰治、小田嶽夫などと一緒に総見した。昭和九年、劃期的な大入り満員を取つた芝居「桐の木横丁」も、ピノチオ常連たちと総見した。長谷川如是閑が絶讃したのはこの作品である。現在の天沼三丁目二番地、三番地あたり、伊馬君のうちや太宰君たちのうちには、家主が一軒に一株づつ桐の木の苗を植ゑるのが作法だとされてゐた。・・・

(中略)

 伊馬君のゐた露路の突当りには高い板塀があつて、塀の向側にお湯屋と徳川夢声の家があつた。これは表通りの青梅街道に小道で通じてゐた。

 夢声さんはお湯屋から聞える女湯の桶の音と裸女の話し声が煩いと言つて、斬新奇抜な設備と言はれてゐた防音装置を取附けた。それを聞き伝へた阿佐ケ谷の青柳瑞穂は、防音装置を見せてもらひに行かうと私を誘ひに来た。そのころ夢声さんは陶器に凝つて、古九谷の皿か何か凄い名品を手に入れたといふ噂があつた。

 青柳君も陶器や骨董に凝つてゐたので(青柳は生涯、骨董に凝つてゐた)防音装置を見るよりも、古九谷を見たいのが本心であつたらう。

 「骨董品を見せてもらふときには、口のききかたに気をつけなくつちやいけない。見せて下さいなんて言つちや、駄目。その道の人なら、眼福の栄にあづからして頂きたいと言ふ。それが作法だ。」  

 青柳はさう言つた。こんな既成の言ひかたがあつたとは初めて知つた。 

 私は夢声さんのことをまだよく知らなかつた。ただ新宿武蔵野館で聞いた映画説明の名調子だけは知つてゐた。そのほかには一度だけ、どこかで飲んだ帰りと見える夢声さんが、荻窪駅前の福助といふ鮨屋で梯子酒してゐるところを見た。

 夢声さんは酒落を連発して、鮨屋の主人を笑はせてゐた。次から次に当意即妙の酒落が出て、すばらしい話術であつた。コップ酒を飲みながらのお喋りだが、酒を飲むのでなくて、口に流し込んで噛むのである。口から酒が流れ落ちる。飲みたいのでなくて、もう飲めないのに噛んで無理やり咽に入れようとした。 

 その後、夢声さんが禁酒するやうになつてから言つてゐたが、酔つぱらつて人を笑はしてゐるときの自分を宿酔の朝になつて思ひ出すと、何とも恥づかしくて遣りきれない気持を味はつたものであつたさうだ。宿酔のときには誰でも気力が消耗してしまつてゐる。だから自己嫌悪の情が何倍にも廓大されるのだと言つてゐた。

(井伏鱒二 荻窪風土記 p75〜85)

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銭湯は「リラックス・アンド・コミュニティ広場」となっている。

 伊馬春部と太宰の交流は深く、伊馬は、太宰の死後、戯曲「桜桃の記」を著している。阿佐ヶ谷文士の掛け値なしの交流は、路地路地に積み重ねられたようで、タイルに耳をあてれば、深夜の徘徊、夜明けの帰還の様子が聞こえてくるようだ。

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