7世紀 武蔵野の原風景
7世紀、武蔵野の原風景ってどんなものだったのでしょう?
現在も欲しいくらいの、幅12メートル、溝を付けた道路が一筋走る
どれだけの人が、この道を使ったのでしょう?
どんな物が移動したのでしょう?
道中には、水が乏しく、やっと「堀兼の井(ほりかねのい)」と呼ばれる井戸
で渇をいやしました。
羽村の「まいまいず井戸」東京都指定史跡
カタツムリ=マイマイの殻ように
堀下げてある。
国府や国分寺建設がすすめられ、そのための瓦を焼いた窯跡や
今は、影も形もない「廃寺」の跡
が残されているだけで
人の密集した跡はあまり見つかっていないようです。
原のカランとした空間が想定されます。
1993年、埼玉県川越市的場の「八幡前・若宮遺跡」から
「駅長」と墨で書かれた土器(土師器)が発見されました。
官道の要所に設けられた「駅家」の跡ではないかと推定されています。
役人のための馬と休憩所・宿舎の施設です。
天長10年(833)には
「武蔵国は広大な地域で、旅行にも苦難が多く、飢えたり、病気になって苦しむものが少なくない
多摩郡と入間郡の境に、「悲田処」(緊急救難所)をつくり
家5軒を建てて救済したい」と
当時の役人が申し立てて、許可になっています。
場所はまだわかっていませんが、必要な経費は自分たちの給与の一部を出し合って
基金をつくって運営するということでした。
実態はともかく、その精神を煎じて飲みたいものです・・・。
旅人は行き倒れの危機にさらされていたことがわかります。
当然、追い剥ぎや強盗の危険もあったでしょう。
武蔵野の中でも狭山丘陵の麓に近い所では川や水田が見られた。
久米川村の江戸時代の様子(斉藤鶴磯 武蔵夜話から)
この付近に「悲田処」が置かれたのか。
このような厳しい環境の中での、「官道」としての道です。
住民の日常との関わり合いは、どのようになっていたのか知りたいです。
労役の提供が主だったとも思えます。
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さて、道路には溝が付けられていました。
この溝が何を目的とし、どのようにして機能したのか、まだ明らかにされていません。
雨水の排水を目的とするものではないとしたら
根切り溝で、道路に草や木の根が入り込むのを防いだ
いや、道路と原の区切りだ
などさまざまに言われます。
問題は、これだけの大土木工事をどのように施行したのでしょうか?
技術もさりながら、誰が実際に掘ったのでしょうか?
その社会的背景も当時の原風景のように思えます。
威信をかけて、原の真ん中に直線道路をつくる政府
国家権力に徴用されて、重い苦役に耐えながら掘ったであろう
まだ、多くはいなかった「住民」の苦衷
これらを思うと、改めて、武蔵野の台地を刻んだ歴史への想いが重なって
複雑な気持ちになります。
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堀兼の井・マイマイズ井戸
水位が深いため、カタツムリの殻を逆さにしたようにして掘り下げて、ようよう水場まで達した。
羽村のマイマイズ井戸はかたつむりのように円形に掘り進められているが
狭山市の七曲がりの井戸は稲妻のように折り曲がっている。
一筋の道
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