阪神淡路大震災と私 NO.07
1995年2月8日

声掛け隊

 この日の2日前、僕の仕事場に六甲小のボランティア詰め所から電話があった。炊き出しのボランティアが多く来てくれているのだが避難者の方々は食器もなく鍋や釜で食事をもらっている。食器が手配できたら持ってきてほしいとのことだった。心当たりを探すと社長(親父)の知り合いに樹脂成形のメーカーをしている人がいるとのことで、早速伺い事情を説明した。当初はいくらかでも安く譲ってもらえればと思いいったのだが、なんと2000個の樹脂成形丼を無償で提供してくれた。お礼を言い、車に積み込む。

 2回目の訪問である。今度は最初から越え掛け隊に配属される。学校内の各教室を何名かで分担し避難者の方々の話し相手になる役割だ。専門的なケアが必要と思われる方については、派遣されている2名のケースワーカーの人に引き継ぐという事だが、声をかけるといっても最初はなかなかむつかしい。気軽に話をしてくれる人もあるが、ほっといてくれという人もいる。ここでは「頑張ってください」という言葉も安易に口に出せない。みんな十分に分かり切っていることなのだ。

 それでも何人かの人たちとじっくり話をすることができた。大阪から毎週ボランティアに来ているのだというとみんな一様に感謝の言葉を口に出してくれる。でも自分としては説明上ボランティアと言う言葉を使ったが自分の行為がボランティアであるという意識は実のところあまりなかった。それまで自分は「ボランティア」なんてとこには全く縁のない人間だったのだ。なんとかせずにおれない気持ちが自然に行動に現れただけのことだ。現地に応援に来ていた他の人たちも多くはそんな気持ちがあったように思う。

 午後になり物資の仕訳作業のところで人手が不足しているという事でそちらのほうを手伝うことになった。市の対策本部から連絡のあったリストをもとに、トラックから降ろされる物資を次々と運び込んでゆく。衣料、タオル、携帯懐炉など様々な物がある。梱包の段ボールに激励の言葉が書かれてある物も多くあった。仕訳された物資は夕食の配給前に配られるわけだが、この段階でも避難者の数は1000人以上あった。と言うことは、中身がばらせないようなものが人数分以下の数量しかない場合配ることができない。たとえばバスタオル800枚なんていうのもあったのだが、個々に配るとかえって混乱を来すということで、配給されずに山積みになってしまう。結局これは他の小さいタオルと混ぜ合わせることで無駄にならずにはなったのだが現場での対応の難しさをかいま見たような気がした。


目次へ戻る 次に進む