偶然の旅行者 ★★☆
(The Accidental Tourist)

1988 US
監督:ローレンス・カスダン
出演:ウイリアム・ハート、ジーナ・デイビス、キャスリン・ターナー、ビル・プルマン



<一口プロット解説>
息子を失って失意に暮れている旅行ガイド書ライターのメーコン(ウイリアム・ハート)は、妻(キャスリン・ターナー)にも離婚されてしまうが、旅行期間中に自分の飼っている犬エドワードを預けているミュリエル(ジーナ・デイビス)と知り合うようになる。
<雷小僧のコメント>
ウイリアム・ハート演じる主人公のメーコンは、ビジネスマンの為の旅行ガイド書を執筆しているのですが、その内容はたとえば適度に厚い本を携帯していかにすれば飛行機内で隣の座席の見知らぬ乗客から話かけられないで済むかといったような、要するに如何にすれば自宅のアームチェアに座っているのと同じ状態で旅行が出来るかというようなことを書いている訳です。まあ要するに自閉の薦めなのですが、このメーコンの家族も又いくらなんでもこれはないのではないかというような自閉的家族で、まもなく40にならんとしている妹が40過ぎの兄達(ハートを含めて3人)の面倒を見ていて、電話は鳴らし放し、食後にはみょうちきりんなトランプゲームを必ずやるという、簡潔に言えばかなり近親相姦的な家族として描かれています。この兄弟の外部拒否的側面が最もよく現れているシーンは、ハートがつきあい始めたミュリエル(ジーナ・デイビス)という女性についてハートの兄が彼に忠告する時に、この女性をミュリエルパーソンと呼ぶところでしょう。ちょっと日本語字幕や吹替えではどのように訳されていた分からないのですが、勿論パーソンとは「人物」という意味であり、ハートがまさか犬や猫とつきあっているはずはないので、パーソンという語を付加するのはいわば冗長になるわけです。つまり、ハートの兄は内部と外部を区別するためにわざとパーソンという接尾語を付加して外部の人間を差別しているんですね。この映画を見ているとこういうような心理機制がうまく表現されているように思われる箇所がいくつかあります。先程述べたトランプゲームにしても、普通なら一家団欒を表現しているように思えるはずなのですが、40才を越えた人々が一心不乱に打ち興ずるようなたぐいのことではないわけであり、これも言わば家族内部の平衡状態を保つ為の儀式のようなものに見えてくるのですね。また当のハートも、自分の息子を失ってからは極端に内省的になっており、おそらく自分の力のみではこの陥穽から逃れるすべがないような状態にあるわけです。たとえば、死んだ自分の息子が可愛がっていたエドワードという犬は、この息子の身代わりであり、自己のアイデンティティの一部として深く組み込まれているが故に絶対に失うことの出来ない存在になっているわけです。要するにエドワードを失うことは、自分の息子をもう一度失うことに等しいわけです。こういう状況下にある時、都合よく現れる(そうでないとストーリーが進展しませんからね)のが、ミュリエルとその息子であり、如何にこの外部の人間をハートが紆余曲折を経て受け入れていくかがこの映画の主題となっているわけです。この映画でアカデミー助演女優賞を得たジーナ・デービスがこのミュリエルを演じているのですが、少し奇矯な雰囲気のある彼女故、この現実的にも象徴的にも(ハートから見て)外部的な刻印を持つ人物を演じるにはうってつけだったかもしれません。また、その息子が病弱であるというのも、ストーリー的には定型的かもしれませんが、まさにそれしかないが故に定型的なのですね。
さて、このように書いているとかなり深刻なドラマのように聞こえるかもしれませんが、どうもこのハートの家族の所作がなかなか傑作であり、又エドワードというハートの飼っている犬が非常に愛敬があるのでコメディ的雰囲気すら漂っていると言えます(実際、ビデオのパッケージにはコメディと表記されていますが(ワーナーのビデオのパッケージにはコメディだとかアクションだとかいう分類が記されています)、敢えて分類するならばやはりこの映画はドラマでありコメディ的な雰囲気が所々にあるとはいえちょっとさすがに映画自体をコメディというカテゴリーに含めることは出来ないように思います)。きっと猫好きな人が「ティファニーで朝食を」(1961)を好きであるように、犬好きの人はこの映画が気に入るのではないかとさえ思われます。それから、ハートの妹が買ってきた日曜雑貨品を家族揃って戸棚にアルファベット順にしまうシーンがあるのですが、そんなことをするのは脅迫神経症の人々しかいないでしょう。でも見ていると可笑しいのですね、これが。真似してみようかと思いましたが、日曜雑貨品などほとんど買ったことがないのでやめました。
付け加えて言えば、この映画はドラマとして非常に80年代的90年代的な要素が濃いのですね。典型的であると言ってもいいかもしれません。というのは、ほとんど扱っている対象が一或は二家族内に限られており、のみならずテーマ的にもこの範囲を敢えて超え出ようとはしないということが言えるからです。勿論、70年代以前の映画にこういう家族という狭い範囲を対象とした映画がないかというとそういうわけではありません。ただ、そういう場合でも昔の映画の場合には、テーマとしては常に家族というレンジを越えていることが多かったように思います。たとえば、先日レビューを書いたダグラス・サークの「悲しみは空の彼方に」(1959)も一家族の推移を描いた映画ですが、そのテーマの中には常に共同体的なコノテーションを含んでいたということが出来ます(詳細はそちらを参照して下さい)。そういうわけで、ドラマとしてこの二つの映画を見比べて見ると非常に面白いものがあるように私目には思われます。時代の遷移が実によく分かるような気がするのですがいかがなものでしょう。
ところでこの映画の主演のウイリアム・ハートですが、私目はこの人の出演している映画は最近のものを除けばほとんど見ていますが、まずどうしようもないというような映画には出演していませんね。どんな名優と呼ばれる人でも1本や2本はなんじゃこりゃというような映画に必ず出演しているものですが、ハートは「アルタード・ステーツ」(1980)から「スモーク」(1995)迄(それ以後はよく知りませんが)、確かにこれはという決定的な一本がないというのも確かなのですが、常に水準以上(私目がそう思っているだけかもしれませんが)の映画に出演しているというのはかなり驚くべきことではないでしょうか。元々、どちらかというと抑えた雰囲気のある人であり、その点が、この人が多く出演しているドラマというジャンルによくマッチしていると言えるのかもしれませんね。今後も、期待したいところです(頭が、かなりオバQ化してきたようですが)。

2000/06/23 by 雷小僧
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