メイム叔母さん ★★★
(Auntie Mame)

1958 US
監督:モートン・ダコスタ
出演:ロザリンド・ラッセル、フォレスト・タッカー、コーラル・ブラウン、フレッド・クラーク



<一口プロット解説>
父親を失ったある坊やが、ボヘミアン的生活を送るメイム叔母さん(ロザリンド・ラッセル)の家で育てられることになる。
<雷小僧のコメント>
この映画は舞台劇の映画化で、70年代にもジーン・サックス+ルシル・ボールによる映画化があります。ルシル・ボールバージョンは見たことがないのでよく分からないのですが、こちらのロザリンド・ラッセルバージョンは、展開的にはエピソードを繋げただけなのでやや単純過ぎる感があるのは否めないとはいえ、内容的には実に面白い映画になっています。事実、作品賞や主演女優賞を含め多くのカテゴリーでオスカーにノミネートされています(残念ながらいずれも受賞には至っていないようですが)。面白さの要因の第一は、ロザリンド・ラッセルでしょう。まさにこの役を演じる為に生れてきたのではないかと思われる程、ピタリと役柄にマッチしています。ラッセルは、この「メイム叔母さん」の前には「ピクニック」(1956)で極めて意地の悪いおばさん役を演じていて、彼女のモダンでスタイリッシュな感覚とは随分ほど遠いところへ沈んでしまったなと思わせたのですが、この映画ではまさにその穴を補って余りある程、スタイリッシュ且つモダンなボヘミアンレディを演じています。それから、脇役陣が実に素晴らしい。意地の悪い銀行のマネージャーを演じるフレッド・クラーク、南部の億万長者を演じるフォレスト・タッカー、ラッセルの親友且つ酔っ払いのレディを演じるコーラル・ブラウン、ラッセルの甥っ子のフィアンセを演じる小生意気なジョアンナ・バーンズ、その母親を演じるリー・パトリック等次々に曲者達が登場するのですが、極めつけは、アカデミー助演女優賞にもノミネートされたペギー・キャスでしょう。この人は、舞台バージョンでも同じ役を演じていたそうですが、ラッセルのド近眼のけったいな秘書を実にけったいに演じていて愉快です。
それから、この映画を魅力的にしている大きな要因の1つとして、主人公のラッセル演じるメイム叔母さんというボヘミアン的キャラクターが、自分もああいうような生活を送ってみたいという我々の心の奥底にある願望に実によくマッチしているからなのではないかと思います。「Life is a banquet(人生とは饗宴である)」と口グセのように言うメイム叔母さんは、何やら我々の潜在的願望を実に見事に表現しているように思えますし、それを映画の中で実践してみせるこのメイム叔母さんに感情移入するのは実に容易なことであるように思います。そういう意味でこの映画には麻薬的な魅力があるように思います。但し、こういう役柄を下手な役者が演じると、逆に嫌味になる場合が多々あります。何故ならば、このメイム叔母さんが実践しているような種類のボヘミアン的生活は、たとえば毎日のようにわけのわからない芸術家達を招いてパーティを主催したりなどというように、お金がないと出来ないわけであり、極めて上流階級的なコノテーションがそこかしこに現われざるを得ないからです。ただ、この映画はそういう上流階級的スノッブをうまくコメディに転化することに成功しており、その潤滑油として機能しているのがロザリンド・ラッセルという女優さんの持つ瀟洒さとスタイリッシュさなのですね。
それから1つ注意する必要があるのは、この映画でロザリンド・ラッセルが演じているような種類のボヘミアン的ライフスタイルというのは、60年代に出現したカウンターカルチャー(ヒッピー)的なボヘミアンとは全然意味合いが違うということです。カウンターカルチャーというのはまさに現在支配的なカルチャーにカウンター(対抗)するカルチャーのいいであり、要するに一種のプロテスト(反抗)的な運動なのです。たとえば、もし彼らがドラッグに意味を見出したとすると、それはドラッグそのものの価値というよりもその時点で支配的であったカルチャーの中で占めるドラッグというものの位置が極めてマージナルである(というより非合法である)という構造的な図式により関心があるからなのですね。これが60年代的なカウンターカルチャーが一時的な現象で終った要因の1つであるように思います。つまり、カウンターカルチャーの存在というのはカウンターする対象となる支配的なカルチャーの存在を必然的に前提とするが故に、その支配的なカルチャーの一挙手一投足に依存せざるを得ないという構造的特質があり、カウターカルチャーという1つの運動を長期間持続させる為に必要とされるであろう一貫性であるとか強固さとは、そういう依存性という要素は全く相容れないものであったということです。少し話が映画から逸れてしまいましたが、そのようなカウターカルチャー的ボヘミアンとは違って、この映画でのボヘミアン的生活というのは、何かに対抗してのボヘミアン的生活ではないのですね。というよりも上流階級的なコノテーションがあるという意味において、この映画のボヘミアン的生活というのは支配的なカルチャーの上澄みの方に存在するものであり、現行の支配的なカルチャーに最もうまく適合した人々だけに許されるようなその支配的カルチャー自身からの一種の逸脱なのですね。これ故に、このテーマを下手に演じると嫌味になると前段で言ったわけです。「Life is a banquet, and most poor suckers are starving to death(人生とは饗宴であり、それにありつけない哀れな奴等は、(それに)飢えて死んでゆく)」というメイム叔母さんの言葉は、下手なコンテクストの中で語られたら高慢ちき且つエゴイスティックな暴言としてしか取られないかもしれないのですが、この映画ではそのセリフが実に小気味よく響くのですね。一種のスタイリッシュな魅力がこの映画を支配している証拠であると言っても過言ではないでしょう。

2000/10/28 by 雷小僧
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