お茶と同情 ★★☆
(Tea and Sympathy)

1956 US
監督:ビンセント・ミネリ
出演:デボラ・カー、ジョン・カー、エドワード・アンドリュース、レイフ・エリクソン



<一口プロット解説>
ギターを弾き音楽を聞くのが趣味のジョン・カーは、彼の所属するハイスクールの先生達の奥さん連中と編み物をしているところを仲間に見られて以来、軽蔑的にシスター・ボーイと呼ばれるようになってしまう。同じ寮の一階に住むデボラ・カーはそういうジョン・カーのセンシティブな面に気が付いて次第に彼を気遣うようになる。
<雷小僧のコメント>
デボラ・カーとジョン・カーというカー+カーコンビによる映画ですが、別に夫婦であるとか親戚関係にあるとかいうわけでは全然ありません。デボラ・カーは勿論この頃は既に押しも押されぬ大スターであったわけですが、ジョン・カーの方はまだ数作目でこの映画で知られるようになったと言ってもよいのではないでしょうか。但し、彼はこの映画の中で呼ばれる「シスターボーイ」というイメージが定着してしまった為か、どうもその後がいまいちでテレビ出演がメインになってしまいますので、名前すら聞いたこともないという人も結構いるかもしれませんね。またこの映画の監督はビンセント・ミネリで、この頃ミネリの作品はミュージカルが多かったわけですが、この映画は勿論ミュージカルではありません。ミネリは、まさにカラー映画の申し子とも言える人で、1950年代に入るとほとんどの彼の映画はカラーであり(40年代の作品も結構カラーのものがあります)、50年代と言えば未だ白黒作品の方が多かったことを考えると、彼の映画の本質がカラー的(妙な言い方ですね)であったと言ってもいいのではないでしょうか。また彼の映画はただのカラー映画というだけではなく、色を惜しげも無く使用する豪華絢爛たるカラーであり、ひょっとすると、彼の生れるのがもう少し前であっても後であってもあれ程の名声は得られなかったのかもしれないような気がします。何故ならばもう少し前であればカラー映画は技術的に撮れなかったわけであり、もう少し後であればカラー映画であるというインパクトは薄くなっていたであろうしまたカラー映画とは何かというイディオムが固定してしまった後ではそう自由奔放なカラー表現が出来たか否かには疑問符がつくからです。いずれにしても、この「お茶と同情」にはそういうミネリの豪華絢爛たるカラーという印象とは違ってかなり抑制された感があるのは、この映画のテーマ故のことかもしれません。実はこの映画のテーマとしては、ジョン・カーの青年期(この辺の日本語が微妙で少年期というべきかすなわち高校生くらいということで、英語であればadolescenceがピッタリです)から成人へのイニシエーションという側面、及びジェンダーの違いについての人々の見方に関する側面という2つを挙げることが出来るように思うのですが、このレビューではその内の後者を主に取り上げてみたいと思います。
まず、ジェンダーの違いについての人々の見方という言い方はかなり分かりにくいように思われますのでこれを言い換えてみますと、男らしさ女らしさとはどうあるべきかということに対する世間の見方がどうであるかということと、そういう見方が当の本人たち(すなわち男性或は女性である個人)にどう影響するかということです。実を言えばどんな社会であろうとも(とはいえども後述するように現代社会というのは若干その例外になりつつあるように思われるのですが)、男性としての役割、女性としての役割というものをある種の基本的なマトリックスのように機能させて社会全体の役割分担が決定されているということは、多くの未開部族の社会的な構成に関する研究をものしている人類学者マーガレット・ミード等も述べているところです。ここで気を付ける必要があるのは、必ずしも男性的な役割は男性のみによって果たされる或は女性的な役割は女性のみによって果たされるということが意味されているわけではなく、より象徴的な意味においてそのように言われているわけであり、場合によっては男性的な役割を女性が果たしたりまたその逆であったりすることもあり得るわけです。但しもしそういうことが発生した場合は、それは男性らしさとは何か女性らしさとは何かということを規定しているその社会の規定の中ではアノマリー(通常ではないこと)を構成するわけであり、そこには別の特別な意味合いが発生してくるわけです。たとえば、この「お茶と同情」の始めの方のシーンで、ジョン・カーは彼が所属するハイスクールの先生達の奥さん連中が浜辺で編み物をしているところへやって来て一緒に編み物を始めるわけですが、それを仲間(勿論野郎ども)に見られて以後彼は「シスターボーイ」と呼ばれるようになります。この「シスターボーイ」というレッテルが何を意味するかと言うと、あたり前のことのように聞こえるかもしれませんが、その社会で男とはどうであるべきかという規定からははずれたいわばアノマリーな位置に彼がいるということをいわば座標指定しているということになります。また男性としての役割、女性としての役割がどういうものであるべきかという規定は、社会的役割分担ということに関して非常に基本的な部分を構成するが故に、たとえそれが男性としての役割、女性としての役割ということに表面上は関係ないことがらに関してまでも、「シスターボーイ」というレッテルは(彼の占める社会的な位置をアノマリーとして)決定付けてしまうことになるわけです。
さてこの映画を見ていると、当時男らしさとはどういうものであると考えられていたかがよく分かるシーンが結構あります。たとえば、ジョン・カーはギターを弾き音楽を聞くのが彼の1つの趣味なのですが、彼が男らしくあることを望む彼の父親(エドワード・アンドリュース)にはこれが気に入らないのですね。要するに音楽など女子供のやることであり一人前の男がすることではないとこの親父は考えているわけであり、彼が望むのは自分の息子が男らしくフットボールや野球の選手になることであるわけです。この映画が製作されたのは1950年代の半ばなのですが、これより10年もたてばビートルズの時代であり、男が音楽をやろうがそれを男らしくないなどとは誰も言わなくなるわけであり、こういうシーンを見ているとこの時代(1950年代半ば)のアメリカで男らしさとはどういうことであると考えられていたかが何となく分かるような気がします。つまり、この映画の中でもジョン・カーがいみじくも自分で述べているように、男らしさとは男らしいところを自分で他人に証明しなければならないことなのですね。これは、かなり同語反復的に聞こえるかもしれませんが、たとえば前出のマーガレット・ミードなどもこの点を指摘していて、野郎の場合には女の子と違って生れた時の受動的な様態(当然のことながら赤ん坊が自分で晩メシを準備したりは出来ないわけです)を成長の過程を通じてどこかで能動的様態に転換していく必要があり、要するに自分で自分をアクティブに証明するようなメンタル構造に変えていく必要があると述べています(尚、ミードは未開社会の観察事実としてこれを述べているのであり、モラル的観点から述べているわけでは必ずしもないということに注意する必要があるでしょう)。このような文脈にのみおかれると、音楽活動というのはパッシブな活動であると見做し得るわけであり(と少なくともこの頃は考えられていたのではないでしょうか)、それでは男らしさを証明することが出来ないわけです。この映画のあるシーンに、ジョン・カーが馴染みのレストランのウエイトレスと彼女の部屋にしけ込んだまではよかったのですが、彼女にシスターボーイとなじられ逆上し包丁で自殺しようとして警察沙汰になったのを、真相(シスターボーイとなじられて自殺しようとしたこと)を知らない彼の親父が聞きつけていかにも誇らしげにしているシーンがあります。警察沙汰になったにもかかわらず彼が自分の息子を誇らしげに思うのは、アグレッシブにアタックしていわば戦利品のように女性を獲得するのが男であることの証明であるかのように彼が考えているからであり、まさにその規範通りに自分の息子が行動したのだと思ったからです。ところが真相を知るやいなやこの親父は意気消沈してしまうのです。何故ならば獲得すべき戦利品になじられて自殺を企てたというのであっては、彼の定義する男らしさとは全く逆になってしまうからです。
他にもこの映画には、そういうことに関する当時の考え方がよく分かるシーンが色々とあるのですが、翻って今日ではどうであるかを考えてみましょう。今やホモセクシャルが当たり前のように映画に登場する時代なのですが、今の世の中で男らしいとはどういうことかなどと大上段に語っていたら恐らく時代錯誤的に響くことは間違いないのではないでしょうか。これには2つの理由があるように思われます。1つは、男性としての役割、女性としての役割というのは、一方がなければ他方もないというようなこの2つの役割間の相関的相補的な関係であり(すなわち他方が変化すればもう一方も嫌でも変化せざるを得ないということ)、この映画が製作されて以降の女性の社会的地位の変化がこの両役割間の相関的関係そのものを大きく変えてしまったことにあるように思います。実は女性の社会的地位というものが爾来なかなか変化しなかった理由の1つには、それがただ単に女性の地位に関することだけではなく、社会的構造全般に関することが故だったのではないのでしょうか。このポイントを取り逃がしてしまうと、ウーマンリブ的運動も失敗せざるを得なくなってしまうわけです。それからそれよりももっと大きな理由が、男性としての役割、女性としての役割というマトリックスを通じての社会的役割の分配というあり方そのものが、現代社会では薄れつつあるのではないかということがあるように思われます。それは第一の側面の結果であるとも言えるのかもしれませんが、いわばパワーの多寡に基いて男性的なものを正、女性的なものを負として分配するような分配方式が、もはや最近の情報社会では通用しなくなっているのではないかということです。いわば役割分配のマトリックスそのものが変化してしまえば、たとえば俺は男だぞえへん!と勇んでみてもそこには何の社会的価値も付着してはいないが故にほとんど誰も相手にしてくれないということになってしまうという結果になり、単に時代錯誤であるとしか見做されなくなるわけです。かくして、そういう面から考えてみると、現時点でこの映画を見るとかなり時代錯誤的に思われても何の不思議はないのかもしれません。けれども、逆に言えば当時の考え方がどうであったかということについて、今現在見た方がこの当時この映画を見るよりももっとはっきりとよく分かるということにもなるように思います。まあそのように考えてみると、現在撮られている映画もひょっとすると数十年後になった方がよく理解出来るのではないかということにもなりますね。
とここまで書いてきて、あれれこの映画の主演且つ私目の大好きなデボラ・カーについてほとんど何も書いていないなということに気が付いてしまいました。この映画の「お茶と同情」(原題同様)というタイトルも、そのようにして自分の仲間達から白い目で見られているシスターボーイに対してデボラ・カーがそれをもって気遣うもののことを指しているのですが(お茶というのはかなりイギリス的なのですが、これは主演が英国出身のデボラ・カーだからかな?)、彼女はこの映画では転回的な位置にいて、このシスターボーイをいわばボーイフッドからアダルトフッドへ導いていくわけです(たとえば「おもいでの夏」(1971)のような映画をなにやら思い出させますね。勿論「お茶と同情」の方がかなり古い映画なのですが)。これがこのレビューの冒頭で述べた青年期から成人へのイニシエーションという側面なのですが、さてこのシスターボーイはいかなる成人になったのでしょうか。彼の親父(エドワード・アンドリュース)のようになったのでしょうか。それは、是非この映画を見て確認してみて下さい。

2001/03/25 by 雷小僧
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