地上最大のショウ ★★☆
(The Greatest Show on Earth)

1952 US
監督:セシル・B・デミル
出演:チャールトン・ヘストン、ベティ・ハットン、ジェームズ・スチュワート、コーネル・ワイルド


<一口プロット解説>
チャールトン・ヘストン率いるサーカス一座の興業を描く。
<入間洋のコメント>
 最初に述べておきたいことは、最近このタイトルのDVD版(海外版)を取り寄せてさっそく鑑賞してみたが、画像のシャープさ及び色彩の鮮やかさが実に素晴らしいことである。勿論DVDの画像はかつてのVHSビデオテープに比べれば一般的には遥かにシャープであることに違いはないが、1950年代前半以前のカラー映画に関してはいかにDVDとはいえども画像クオリティはそれ以後のものに比べるとどうしても大幅に落ちるという印象をそれまでは持っていた。これは、1950年代前半以前のカラー映画のクオリティがそれ以後のものと比べるともとからかなり低かったということか、それとも製作されてからの歳月が長くなるにつれて画像リストレーションによるクリーンアップの効果が減退するからなのか、はたまたその両方か、その年代の映画をナマで見たことがない自分には疑問に思われ、或る意味で仕方のないことであるものと考えていた。ところがこのDVD版の「地上最大のショウ」を見て驚いたことに、1952年に製作されたこの作品の画像が1960年代の作品のDVDと比べてもそれ程遜色がない程にシャープなことである。何故わざわざこのようなことを述べたかと言うと、クリアなカラー画像を通して華やかなサーカス世界を見ることが出来るという事実は、殊にこの作品にとっては極めて重要なことだからである。後述するようにこの作品の最大のウリは、オーディエンスを日常的な空間とは異なる絢爛豪華な空間にいざなうことにあり、それには画像のシャープさが必須要件になる。実はDVD版を手にするまで、個人的にはあまりこの作品に注目したことはなかったが、それはビデオやこれまで放映されていたテレビ放映による画像ではそのような意図を把握することが極めて困難であったからである。DVDで見るまでは、この作品に対してはセシル・B・デミル一流の巨大化された(或いはスポーツ紙の見出し的書き方をすれば虚大化された)、また実際にどうであったかは別として中身が空虚に見える作品の1つであるという印象を払拭することは困難であったが、日常とは異なる非日常空間を提示することが実はこの作品の1つの大きなテーマであり、その要素の1つとして巨大且つ絢爛豪華なイメージが提示されているということを、DVDのシャープな映像を見て初めて納得出来た。細部が大雑把な画像で巨大化されたイメージを見せられれば輪郭だけが際立ち空洞化された印象が残らざるを得ないのに対し、絢爛豪華さを細部までクリアに見ることが出来る画像でそのようなイメージが提示されれば空虚であるという印象は雲散霧消するからである。

 このようなサーカスの持つ非日常空間の提示というテーマに関しては、「ラオ博士の7つの顔」で詳しく述べたが、要するにサーカステントの外にある日常世界とサーカステントの中に広がる世界は次元が異なるという点に大きなポイントがある。従って、サーカスを題材とした「地上最大のショウ」の出来の如何は、非日常空間の提示というサーカスの持つ最大の魅力がいかに巧みに再現されているかに大きく依存する。そのような物差しでこの作品を見直してみると、サーカスを扱った作品の中ではベストであることが納得出来るだろう。サーカスを扱ったメジャーな作品というと、1950年代以降では「空中ブランコ」(1956)や「サーカスの世界」(1964)等が思い浮かぶが、サーカスの持つ非日常空間を説得的に再現することに成功している作品は、見た限りではサーカスというよりもカーニバルショーを扱った「ラオ博士の7つの顔」は別にするとこの「地上最大のショウ」のみである。たとえば、「サーカスの世界」が豪華キャストにも関わらず少なくとも小生には全く魅力がないように見えるのは、サーカスの持つ非日常空間の再現に完全に失敗しているからである。そもそも、キャストそのものにも難があり、ジョン・ウエインが主演しているとどうにもタイトルが示すようなサーカスの世界という印象からは掛け離れてしまう。しかも冒頭で彼が「駅馬車」(1939)のセルフパロディのようなスタントを披露しているのは、それが余興としていかに面白かったとしても、最初からこの作品があらぬ方向に走っていることを示しているようなものである。監督のヘンリー・ハサウェイ自身が、非日常空間の提示という特殊なテーマを手際よく処理することを得意としていたとはとても見えないところがあり、幻想的とも言うべき巨大なスペクタクルを手がけることにおいては当時右に出る者は誰もいなかったセシル・B・デミルとは明らかに資質が異なる監督であった。

 それでは、サーカスを題材とした映画として「地上最大のショウ」のどのような点が優れているかについて考えてみよう。この映画をじっくり見ていると、ストーリー展開とは全く関係のないサーカスパフォーマンスシーンがふんだんに取り入れられていることに気付くことが出来るはずである。たとえば、開始後45分あたりから約7分半に渡って仮装行列シーンが延々と流される。他にもメインキャストが誰一人として登場しないサーカスパフォーマンスシーンがかなりある。これはかなり破格であり、フィクションとしての映画が持つコンテクストを破る限界までそれが徹底されており、アーヴィング・ゴフマン流に言えば一種のフレームブレークがここでは行われている。より常識的な監督であるヘンリー・ハサウェイであれば、自分が撮っているのはサーカスではなくフィクションとしての映画であるという点をわきまえて、映画というコンテクストを破る程までにサーカスパフォーマンスや仮想行列を延々と撮影し続けることは決してなかったが、デミルはこれでもかこれでもかと本来のストーリーとはあまり関係のないシーンを挿入する。この点においてもデミルとハサウェイの間に大きなスタンスの違いがあることが分かる。では、サーカスの世界の持つ非日常性を効果的に捉えるならばどちらが有効であるかというと、結果から判断すると映画としてはいかにも余計なシーンが多い「地上最大のショウ」に軍配が挙がることは、「サーカスの世界」と見比べてみれば一目瞭然になる。但しこれには仕方のない面があったのかもしれない。というのも、そもそも「地上最大のショウ」のようないかにもカネのかかりそうな映画で、延々と仮装行列シーンを撮影しても誰からも文句を言われることがない名声と自信を持った監督は、デミル以外に多くはいなかったはずだからである。

 それに関連して言えば、この映画を見ているとデミルがいかに自信に溢れていたかが窺えるシーンがある。それは、サーカスを見ている個々の観客にカメラの焦点を当て、見ているサーカスに関してコメントをさせたり、驚きの表情をさせたりするシーンであり、一度や二度ならず何度もそのようなシーンが挿入されている。これらのシーンを見ていると現代的な観点から言えばどうにも胡散臭い印象を免れないが、それは何故かというとそのようなシーンが挿入されると、表面上は確かにそれらのコメントや表情は映画中のサーカスパフォーマンスに向けられていることに違いはないとしても、映画を見ているオーディエンスからすると、それらはそれらが向けられているシーンを提供するこの映画の製作者、すなわちセシル・B・デミルその人に対する賛辞であるようにも見えてしまうからである。すなわち見ようによっては自画自賛のコメントや自己満足の表情であるようにも受け取れるということである。セシル・B・デミル程の御仁であれば、そのような印象を与えてしまうことにまさか気付いていなかったということはなかろうから、それが分かっていながら、というよりもそれが分かっていてわざとそのようなシーンを挿入したのではないかと考えられる。いわば過剰な自信の為せるわざであり、裏を返せばそれがあってこそこのような作品を製作することが出来たと言えるかもしれない。当時の大スター、ジェームズ・スチュワートを、素顔を一度も見せることなく起用するなどというような配役を思い付く監督などそうざらにはいなかったのは確かだろう。勿論ベティ・ハットンとコーネル・ワイルドの何度見ても手に汗握る意地の空中ブランコパフォーマンス合戦、道化師のマスクの下に自らの過去をひた隠すジェームズ・スチュワート演ずる道化師キャラクター、或いは列車の衝突シーンなどのドラマ的要素もふんだんにあるが、「地上最大のショウ」は、何はともあれセシル・B・デミルの名声と自信が生んだ、デミルだからこそ製作が可能であったサーカス映画の傑作であるというべきだろう。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2004/09/18 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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