刑事 ★★☆
(The Detective)

1968 US
監督:ゴードン・ダグラス
出演:フランク・シナトラ、リー・レミック、ラルフ・ミーカー、ジャクリーン・ビセット



<一口プロット解説>
フランク・シナトラ演ずるオネストな刑事ジョーは、残忍なホモセクシャル殺人事件を担当し、見事に犯人をつきとめこの犯人を電気椅子に送るが、最初は全くそれとは無関係に思われる自殺事件が発生し、その捜査を開始する。
<雷小僧のコメント>
刑事物映画が頻繁に製作されるようになったのは、主に70年代以降ではないかと思われますが、「刑事」は60年代に製作されています。それまでは、ギャング映画や探偵映画は星の数ほどあれ、警察官(刑事)を主人公にした映画はそれ程なかったように思われます。何故でしょうか。この疑問に回答するのはかなり難しいのですが、1つには公務員たる警察官を映画でハンドリングする為のそのハンドリングの仕方が全く確立されていなかったということが挙げられるのではないでしょうか。そもそも、警察官の職務を忠実に描いたとしても、映画的にそれ程面白い設定にはならないであろうと思われていたのかもしれませんし、それは現代においてもそれ程変わってはいないでしょう。ギャング映画が星の数程あるのは、ギャングという存在が映画的なテーマに非常にうまくマッチしていたからであるし、探偵映画がこれまた星の数程あるのも、探偵という存在が映画的なテーマに非常にうまくマッチしていたからではないでしょうか。たとえば、ギャングのボスを扱った映画「ゴッドファーザー」が大ヒットしても、警察のボスを扱った映画が大ヒットするとはそれがどのような時代であってもとても思えないのですね。いわば、国家公務員たる法の番人をそのまま描いても、映画的な美学の範疇にはとても合わないのではないかということは火を見るよりも明らかなのです。ところで、探偵が映画になるのならば、似たり寄ったりの刑事が映画にならないはずはないではないかと思われるかもしれませんが、そもそも探偵という存在は虚構的な存在なのですね。勿論実際に私立探偵のような職業はありますが、小説や映画の世界に登場する探偵は、最初から小説的な或いは映画的な範疇内で語られる探偵であり、エルキュール・ポワロやサム・スペードのような私立探偵が実際にいるわけではないでしょう。それに対しもともといやでも国家の下僕たらざるを得ない警官や刑事(そうでなければ、彼らは警官や刑事であるとは言えないわけであり、警察や刑事が持つ権力の源は国家権力に存在するわけです)に関しては、そのようなリアリスティックなパワー相関抜きには語れない面が存在するわけです。要するに、探偵の場合にはこのリアリスティックなパワー相関という側面が語の定義そのものに付着しているわけではないので、小説或いは映画的虚構内に取り込むことが容易に可能であるのに対し、ある意味で警官や刑事を映画に取り込もうとするとこの国家権力というリアルな側面を抜きにして語ることは困難であるが故に、リアリズム的な視点を投入しない限り映画の持つ虚構性とどうしても矛盾してしまうという側面があるわけです。
それならば、映画の範疇内でどうすれば刑事という存在がうまくハンドリング出来るかということになりますが、それは70年代以降頻繁に出現し始めた刑事物映画を見てみれば一目瞭然になるでしょう。70年代初頭に出現した最も有名な刑事物映画として、クリント・イーストウッド主演の「ダーティハリー」(1971)とジーン・ハックマン主演の「フレンチ・コネクション」(1971)を挙げることが出来ますが、これらの映画で、クリント・イーストウッド演ずるダーティハリーやジーン・ハックマン演ずるポパイ刑事は、犯人を逮捕するというポジティブな側面よりもむしろ従来的に考えれば本来犯人側の人物が持っているはずのアウトロー的なパーソナリティを持っている輩としてネガティブな側面が誇張して描かれています。確かにこれらの映画で主人公のデカ達は、悪人達を追いかけてはいるのですが、追いかけるデカ達の方がむしろ悪人的なキャラクターを持っていたりするわけです。それから、警察全体の汚職というようなテーマを扱った映画も出現し始めます。言ってみれば、70年代以降に現れ始めた刑事物映画は、相当にネガティブなコノテーションを孕んでいたと言えるように思われますが、いわば視点を巧妙に変えることによって、というよりも刑事が本来有しているはずのパワー相関を意図的に逆転させることによって刑事(警察)物映画というジャンルがようやく成立し得るようになってきたとも言えるかもしれません。ここで注意すべきことは、ダーティハリーやポパイ刑事のようなアンチヒーロー的な刑事について映画内で語ることが出来るようになったのは、これらの映画では刑事と国家権力とのパワー相関というリアリスティックな側面を雲散霧消させることに成功したからであるわけでは決してなく、実は全く逆であり、これらのパワー相関が厳として存在しているが故にアンチヒーローとしてのアウトロー刑事について語ることが出来るようになったわけなのです。それに対し、それ以前の刑事物映画が敢えて製作されたとしてもどのようなものになりがちであったかというと、たとえばジェームズ・スチュワート主演の「連邦警察」(1959)のように何やら警察(この映画の場合はFBI或いはひょっとするとエドガー・フーバーその人か)の宣伝映画のような或いはより極端な言い方をすれば現状のパワー相関として成立しているステータスクオを再確認するような映画になってしまっていたのであり、いかにもエピソードの羅列のようなこの種の映画が、独自のシンタックスを有する刑事物映画という1つのジャンルを発展確立させていくことは決してなかったわけです。また別の見方をすれば、1950年代当時はまだ、スクリーン上でギャングを暴れさせることは出来ても良俗の鏡とならなければならないはずの警察官を悪人のように或いは汚職警官として描くことは、モラル的な観点からも出来なかった或いは思いもよらなかったとも言えるのではないかと思われます。
ところで、この「刑事」という映画は、「ブリット」(1968)等と並んでそれらの時代の過渡期に製作された映画であるということが出来るのですが、両方の時代の傾向をものの見事に体現しているという点においては、「刑事」はその最も典型的な例であると言うことが出来るでしょう。良俗の鏡たる警察官というアスペクトは、この映画ではフランク・シナトラ演ずる刑事によって体現されています。しかしながら実を言えば、良俗の鏡たる警察官という観念はフランク・シナトラ演ずる刑事の主観としては存在するのですが、映画自体は彼を単に良俗の鏡としては描いてないのです。というのも、フランク・シナトラ演ずる刑事は、映画の冒頭で発生するホモセクシャル殺人事件の犯人と思しき容疑者を見事逮捕し、その容疑者(精神異常のその容疑者は、自分が犯してもいない殺人を告白してしまい死刑になる)を電気椅子に送って一躍有名になるのですが、最後にこの逮捕は誤認逮捕であったことが判明するからです。シナトラが世の為人の為を考えて行動することが、実は結果的に無実の人間を電気椅子に送ってしまうことになるのですが、これは主人公の主観レベルでは良俗の鏡たる警察官という観念を温存しておいて、映画自身としては誤認逮捕というネガティブな要素を持ち込んでいることになり、モラリスティックな観念に支配されていた時代にも70年代以降のダーティハリーやポパイ刑事の時代にも属さないこの映画の複雑性がそれによって見事に示されているということが出来るように思われます。またこの「刑事」では、ロバート・デュバルやアル・フリーマン・ジュニア演ずる刑事達が、容疑者達に暴力を振るう様が描かれていて、いわば権威をかさにきた警察の横暴という側面がクローズアップされています(何しろアル・フリーマン・ジュニア演ずる刑事など、ナチスに関する書物から学んだとか何とか言いながら、抵抗力を弱める目的で老婆を裸にして尋問したりするのです)。これは、シナトラ演ずるオネストな刑事の主観として存在しているモラリスティックな側面が映画自体の客観性によってひっくり返されているのとは対照的に、シナトラ以外の汚職警官達の主観として存在する警察の横暴性が、(それを敢えて描く)映画自体の客観性によって弾劾されているとも言えるでしょう。またこのことは、たとえばダーティハリーやポパイ刑事のアウトロー的横暴性が映画自体の持つ客観性で弾劾されているかというとそうとは言えない(彼らはこれらの映画でむしろ(アンチ)ヒーローとして描かれているのです)のとは対照的であると言えるでしょう。それからシナトラ演ずる刑事の持つモラリスティックな性格は、リー・レミック演ずるニンフォマニアックな奥さんに彼が振り回されることでより一層鮮明化されています。このようにして、たとえば先程挙げた「連邦警察」或いは「ダーティハリー」、「フレンチ・コネクション」が、それぞれの時代の特徴に合わせて図式としては非常にストレートに把握することが出来るのに対し、二つの傾向が交錯したこの「刑事」という映画は非常にアンビバレントな印象を見る者に与え、その点が他の刑事物映画にはないこの映画の独特な雰囲気の醸成に繋がっているように思われます。
ということで非常に微妙な側面の多いこの映画なのですが、その意味で言うと(またシリアスな映画であるという点において)フランク・シナトラ主演というキャスティングは誰でも意外に思うのではないかと思われます。当時シナトラは、「トニー・ローム/殺しの追跡」(1967)や「セメントの女」(1968)のようなライトな私立探偵物映画に出演していましたし、第一にニンフォマニアックな妻に振り回されるオネストな警官などというイメージは、かつての遊び人=シナトラというイメージとはまるで正反対であると言えます。しかしながらこれが意外に悪くはなく、シリアスな印象がもともと強い俳優さんが演ずるよりはかえってアンビバレントな雰囲気がうまく醸出されているような印象があります。そもそもシナトラは、遊び人の印象はあっても悪人の印象はなかった人であり、その意味で言えばこの役柄にそれ程矛盾するパーソナリティを持っていたわけではなかったと言えるかもしれませんね。それから、彼の奥さんを演ずるリー・レミックですが、外見のみから言えばこの人、本当にお人形さんなのではないかと思えてしまうのですが、「或る殺人」(1959)や「酒とバラの日々」(1962)での彼女を見れば分かるように、お人形さんにあるまじき役を演じさせてもこれがよくマッチするのですね。一種倦怠的なムードを醸成するのがうまい人で、この「刑事」でもいかんなくその才能を発揮しています。このレミックと対照的なのが清新な印象を与えるジャクリーン・ビセットで、レミックがシナトラ演ずる刑事と対照的なパーソナリティを演じているのに対し、ビセットはいわば彼の良心を支える小さなアリアドネ的な存在を演じています。この時点でビセットが70年代を代表する女優さんの一人になると思った人はあまりいなかったのかもしれませんが、古典的な美人タイプとは違った清新なイメージを与える彼女がこの映画においても新しい時代の到来を象徴していたと言えるかもしれません(さすがにこれは言い過ぎたかな?)。

2002/11/10 by 雷小僧
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