欲望 ★☆☆
(Blow-Up)

1966 UK
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:デビッド・ヘミングス、バネッサ・レッドグレーブサラ・マイルズ、ジェーン・バーキン



<一口プロット解説>
ロンドンに住むファッション写真家のデビッド・ヘミングスは、公園で撮影した写真を現像している途中で、殺人事件が発生したのではないかという兆候を発見する。
<雷小僧のコメント>
うーーん出してしまいました。この難解な映画を。多分この映画を見て、よしわかった!と思った人はあまりいないのではないかと思います。そこで今回は、いつもと趣向を変えてあちらのプロの批評家達(と言ってもシカゴ・サンタイムズ紙のロジャー・エバート氏のような人でもこの映画については書いていないようで、ほとんど映画ガイドの解説から抜き出した寸評に過ぎませんが)が、この映画についてどのように書いているかを比べてみたいと思います。そうした後で、私目自身の解釈(というか実は解釈することの停止なのですが)を提示してみたいと思います。尚、以下の各映画ガイドからの抜粋は全て私目雷小僧自身が訳しました。それでは、Video Movie GuideのMick Martin氏から。

Mick Martin (Video Movie Guide)
「このミケランジェロ・アントニオーニ監督の最初の英語作品は、何が現実で何がそうではないかについての刺激的な探求である。表面的なプロットとしては、ある写真家(デビッド・ヘミングス)が、殺人現場のスナップショットを撮影してしまったと思込む。バネッサ・レッドグレーブが彼のスタジオに現れ、写真を彼の手から取り戻そうとする。」
Leonard Maltin氏 (Leonard Maltin's Movie & Video Guide)
「アントニオーニの受動的なライフスタイルに捕らわれたある写真家についての催眠術的効果を有する寓話である。印象的且つ挑発的な映画で、色のシンボリズムに富み、幾層もの意味の階層を持つ。」
Blockbuster Video Guide to Movie and Videos
「ロンドンのあるファッション写真家の目的意識がなく且つ退廃的なライフスタイルが、撮影した写真のネガのイメージが殺人の証拠かもしれないという疑いを抱いた時に撹乱される。このアントニオーニの換喩的な実存主義的ドラマには、セックスや裸体がショッキングなものであった当時持っていたようなトレンディさは今はもうない。しかしそれでも尚、この映画には「いったい何が起こったのか」というような健康的な議論を惹起するには十分なパワーは残存している。」
TimeOut Film Guide
「アントニオーニの映画にしばしば見られるように、卓越的な一瞬一瞬で充たされてはいるが見る者を激怒させるような衒いと長たらしさに充ちたこの映画は、(60年代カルチャーに)揺れるロンドンのポートレートとしても、誠意に充ちたスリラーとしても成功してはいない。しかし、ヘミングス演ずる空虚なほどにトレンディな写真家が、殺人が発生したかもしれないことを示す写真を拡大調査する時に人生への意味を見出すというような仕方でこの映画が形而上学的な謎を確立していくにつれて、映画は徐々に魅惑的になり、カメラは決して嘘をつかないという公理に疑問符を打ちつつ、主観性と知覚に関する抽象的な探索へと我々見る者を誘っていく。深い意味を有するが、セックスやファッションやロックンロールといった無数の汚い浮きカスで包まれたこの作品を見るには、かなりの努力が必要とされるであろう。しかし少なくともCarlo de Palmaのカメラワークは、品のよい醸造酒を紡ぎ出すことに成功している。」
TV Times Film & Video Guide
「殺人を撮影してしまったと信じるようになるあるトレンディな写真家に関する今迄随分と論議を呼んできたミケランジェロ・アントニオーニの映画である。バネッサ・レッドグレーブによって演じられる大胆にもセクシャルな役、若いモデル達による陽気なヌードシーケンス、ロックとモダンジャズの手法をミックスした音楽、これらを含む多くの要素が、この映画の成功の要因であった。ストーリーをどう解釈するかも、この映画の魅力の一部分である。」
Variety Movie Guide
「この映画のクリエーターであるイタリア人監督ミケランジェロ・アントニオーニの心の中に閉じ込められている全てを越えて、何らかの意味、人生とはゲームであることについての何らかのコメントがここにはあるのだろう。とはいえ、一般の観客がこの映画のメッセージを読取ることが出来るであろうとは疑わざるを得ない。現代のヒューマニティのさもしく混乱した側面についてのコメントとして、この映画は、失敗である。イギリスで撮影されたアントニオーニの最初の英語作品だが、バックグラウンドとして当時のロンドンの様相が興味深く利用されている。また、観客はストーリーの意味(?そんなものあるのか)を何とか汲み取ろうとして、時にある種の興味を掻き立てられることにもなろう。ストーリーは、公園で抱擁しあっていたカップルを密かに撮影することにより殺人の発生を知ったロンドンのファッション写真家を中心として展開する。撮影したネガの現像過程で殺人の兆候を嗅ぎ取り、撮影が行われた公園を再度訪れくだんの死体を発見する。公園で撮影の対象となったバネッサ・レッドグレーブや色々なギャル達にスタジオに乱入されるデビッド・ヘミングスからも、興味深く且つ鮮やかな印象を受けとることが出来る。」
というわけでその評価もまちまちであるし、全体的に混乱している印象が強いですね。この映画には一体何が語られているかが議論され始めると途端に混乱が生じるようです。では次に、私目はどのようにこの映画を捉えているかを述べてみたいと思いますが、実はそれ程自信を持って述べているわけではないのです(と情けないことを言っておきます)。
たとえば、Leonard Maltin氏等はこの映画の意味の多層性或はシンボリズムについて語っていますが、私目はこれは少し違うのではないかと思います。何故ならまず第一に、この映画はストーリー自体を捉えようとすると非常に曖昧そのものなのですが、登場してくる事物に関しては非常にストレートなものが多いのであり、そこに比喩性であるとか象徴性であるとかいうような解釈を持ち込むことは極めて困難であろうと思われるからです。私目は、逆にこの映画は後に説明するようにある特定のコードやお約束の下で機能する意味作用を停止させようという意図があるように思います。最初の方で、デビッド・ヘミングスが笑えと言っても笑わないモデル達が登場しますが、それと同様に表情(表現)をわざと押し殺したような何かを劇的に表現することを自ら拒否したような印象がこの映画にはあるのです。ある意味で、意味作用であるとか象徴作用或は価値形成作用というのは、それを了解する人が、その理解を可能にする共通のコンテクストを共犯的に共有していることを要請するのですが、この映画はその不在によってそういう共犯的な意味構成作用の暴露及びその解体が目指されているのではないかという予感があります。たとえばこの映画の1シーンにその分かり易い例があります。それは、次のようなシーンです。ロックミュージックがライブ演奏されているスタジオで演奏者が機械がうまく作動しないので自分の持っていたギターを目茶苦茶に壊してしまうのですが、その破片を頂こうとして我先にと観客が殺到します。ところがそれをせしめたデビッド・ヘミングスが楽屋を出て路上を暫く歩いて道端にその破片を捨ててしまうのですが、道ゆく人は誰もそんなガラクタに見向きもしないのです。要するに、ロックミュージックが演じられていた楽屋というコンテクストの中では、大きな価値や意味合いを有していたオブジェクトも、そのコンテクストからはずれると全く意味も価値もないものへと変質してしまうわけです。まさに意味であるとか価値であるとかいうものは、あるコンテクストを共犯的に共有するレンジを超え出たところでは、全くその意味とか価値を維持することが出来なくなるわけです。
このことは、実は我々の映画を見る時(或は小説を読む時)の態度にも現れているのではないでしょうか。一例を挙げてみましょう。ロバート・アルトマンは、よく相互に無関係な出来事を並行的に並べるというような構成を持つ映画を撮りますが、それを見てもし違和感を感ずるとすると、それは何故なのでしょう。その回答は、我々は普段映画を見る時や小説を読む時には、ストーリーは常にリニアに進行すべきであるという一つのコードを無意識的に受け入れているからなのではないでしょうか。よく考えて見れば、実生活では物事が単純にリニアに進行することなどまずないはずです(だから事実は小説よりも奇なりと言えるわけです)。それを敢えて映画を見る時にはそういうリニアな図式を投影してしまうのは、映画を見る時のコードとしてそういう見方が我々の体に染み付いているからではないでしょうか。社会学者のピエール・ブルデューは、社会的なコンテクストという1つの要因がいかに我々の物を見る見方或は生き方に大きな影響を与えているかを詳説していますが、そういうコンテクストの存在というのはそれ自身が我々の物の見方を構成しているが故に把握が困難なものであると言えましょう。この「欲望」を例に挙げると、公園に死体が転がっていたり、それが次の日にはいつのまにかなくなっていたりします。そうすると、見ている我々はBlockbuster Video Guideのコメントにもあるように「何が起きたんだ?」という疑問符を発生させて、それに対する回答が得られないとこの映画は不条理映画だというような解釈を下すことになるわけです。しかし、たとえば現実にはある日突然公園に死体が転がっていて次の日には誰かがそれを片付けてなくなっているということは十分に発生し得るわけであり、ある特定の個人にはその理由が分からなくてもそれは不条理でもなんでもないわけです。けれども、それを映画に持ち込むと途端にそれが不条理であるように思えてくるのは、我々映画を見る観客は、もし映画の中に死体が出てくるのなら、その理由が少なくともその映画が終る迄には、明らかにされねばならないというような1つのコードを暗黙の前提としているからではないでしょうか。何故、映画に何の脈絡もない死体が転がっていてはいけないのでしょうか?それは、そういうことを禁ずるコードを共犯的に共有することによって、映画を見る(或は小説を読む)という行為自体が成立しているからではないでしょうか。そして、そういうコードを如何に多く意識的にしろ無意識的にしろ所有しているかが、映画通であることの証になるという構図を形成しているのではないでしょうか。この映画には、敢えてそういうコードに逆らうことによって、そういうコードの存在の暴露及び脱構築が目指されているように私目には思えます。また従って最後の見えないテニスのシーンも、あれは何が描かれていたかというと、まさにパントマイム師達がテニスをする真似をしているのが描かれているだけであって、そこにたとえばVariety紙のような人生とはゲームであるというようなメッセージを読取ることは行き過ぎなような気がしてきます(でも最後にテニスをする音が実体化するのは私目にもどういうことかよく分かりません)。つまり、映画の中でパントマイム師達がテニスをプレイする振りをするシーンがあるとするならばその裏には何かの意味があるに違いないと解釈したくなるのも、我々観衆がそういう解釈を要請するようなコードに従って映画を見ているからであり、この映画は逆にその解釈の不在を通じて我々の心の中に持っている見えざるコードに気付かせてくれるのではないでしょうか。昔私目は京都の同志社大学に通っていたので、西陣地区に住んでいたのですが、両隣が機織り業を営んでいて昼間はずっと機織りの機械の音が鳴りっぱなしでした。最初の内は、それが一日中気になっていたのですが、慣れてしまうと今度は、夜になって機織りの機械が停止した時に始めてそれ迄ずっと機織り機が稼動していたことに気が付くようになったものでした。この機織り機の音が、映画を見る時に我々が前提としているコードであり、その停止というのが丁度この映画の存在に相当するのではないでしょうか。ある1つのコード体系に機織り機の音のように無意識的に順応してしまうと、それをブレークするのは機織り機なら誰かが夜になれば停止させるからいいのですが、映画を見る時の我々の見方というようなものでは、まさに「欲望」のような映画の存在が必要になってくるのだと言っても過言ではないでしょう。最後にまとめとして述べますと、もしこの映画に何かメッセージが存在するとするならば、それは象徴であるとか意味の重層性であるとかいうような内容レベルでのものではなく、今迄述べたように我々が暗黙了解しているコードのブレークといったようなもっとマクロレベルで機能するメッセージなのではないでしょうか。

2000/10/21 by 雷小僧
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