何かが道をやってくる ★☆☆
(Something Wicked This Way Comes)

1983 US
監督:ジャック・クレイトン
出演:ジェーソン・ロバーズ、ジョナサン・プライス、ダイアン・ラッド、パム・グリア

先頭:ジョナサン・プライス

寡作な映画監督ジャック・クレイトンの「華麗なるギャツビー」(1974)以来の作品で、ディズニーがプロデュースした(プロデュースと言い方は少し違うかもしれませんが)映画です。一種のホラー映画であるという点では、クレイトンはヘンリー・ジェームズの有名な「ねじの回転」に基いた「回転」(1961)を既に20年程前に撮っています。ではどちらの作品が優れているかと問われれば、私目は迷わず「回転」の方であると答えるのですが、しかしながらこの「何かが道をやってくる」の方にも良い点は勿論あります(でなければ最初から取り上げないでしょう)。「回転」のレビューにも書いたのですが、この「何かが道をやってくる」は、ディズニーサイドの意向がかなりクレイトンの意図を曲げたとも言われていて、もしこちらの映画でも「回転」の持つ心理劇的側面が反映されていればもっと素晴らしい映画になっていたのかもしれません。ストーリーは実に単純で、ある田舎町にある日突然ジョナサン・プライス率いる怪しげなカーニバル集団がやってくるのですが、町に住む二人の少年達がこのカーニバルの本当の意図を知ってしまいこのカーニバルの首領ジョナサン・プライスに追われるというようなものです。この映画の最も良い点は、カーニバルという祝祭的なイベントの持つ異形的な側面が実に良く表現されている点にあるのですが、この点においてジョナサン・プライスの異形的なキャラクターはこの映画のテーマにピタリとマッチしています。けれどもこの映画の残念な点は、ラスト近くの展開において折角そうして確立した異形性を怪物性と等値化してしまうところです。ある意味で異形性というのは日常性の裏返しであり、何故人々はカーニバルに熱狂するかと言うとそこに日常にはない異形性を垣間見るからである(たとえばリオのカーニバルで死人が出ようが毎年再びカーニバルが行われるのは、カーニバルという時空間が日常の時空間とは別であると考えられているからでしょう。同じことが日常の時空間内で発生すれば大問題になるはずです)とはいえども、異形性が異形たり得るのも日常性があってこそであり、カーニバルには必ずエンドがあり再び元の日常が再開されるわけです。従ってカーニバルの持つ異形性というのは決して怪物性ではないのですね。この点において「回転」が如何に巧妙であったかは、デボラ・カーが死んだ少年の口にキスをするラストシーンで明白になります。何故ならば、このラストシーンによって実はこのストーリー全体がカーの妄想に過ぎなかったのではないかとも思われることになり、見る人を決定的な形で不安定な心理状態に陥れるからです。勿論「回転」の方はカーニバルがテーマであるような映画ではないのですが、単なる化け物或は怪物映画では怖さは単に外面的なものに由来するのみということになり(怪物映画にはどうしても怪物=悪という等式があり、その怪物を倒せば目出度し目出度しということになってしまうわけです)、上記のような心理的基軸を持つ「回転」の方が遥かに作品としては優れているように思えてしまうわけです。まあでもこちらの「何かが道をやってくる」はディズニーの映画であり、ターゲットは恐らくガキンチョであったと思われるのでガキンチョを脅かすのにはこの程度でも十分かなとでもディズニーのお偉いさんは思ったのか、或はモラル上の見地から最後は勧善懲悪のストーリーにせざるを得なかったということなのかもしれませんね。


2002/01/14 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp