捜索者 ★☆☆
(Searchers)

1956 US
監督:ジョン・フォード
出演:ジョン・ウエイン、ジェフリー・ハンター、ベラ・マイルズナタリー・ウッド

左:ジョン・ウエイン、右:ジェフリー・ハンター

個人的には、他の分野の作品と比べると西部劇はミュージカルと共に見る機会が多くはないので、これまでのレビューでもこの2つのジャンルに属する作品はほとんど取り上げてきませんでした。1960年代以後の内容的にもかなりヨレてきた頃の作品はいくつか取り上げましたが、全盛期は過ぎていたとしてもまだまだ西部劇が数多く製作されていた1950年代半ばのしかもジョン・フォード−ジョン・ウエインといういわばこれぞ西部劇と云っても良い強力コンビによる正統的な作品を取り上げるのは、これが始めてのはずです。しかし、実を云えば今になってこの作品を取り上げたのには1つ理由があります。それは、もともとこの作品に関するあちらのいくつかのコメントに述べられていることにはいささか疑問を持っていましたが、DVDの音声解説で知られるドルー・キャスパー氏の「Postwar Hollywood 1946-1962」を最近読んで、この作品に関してまたもや同様な見解が開陳されれているのを見てブルータスよお前もかと思ったからです。キャスパー氏の著書に書かれている内容には全体としては同感できるところですが、細かい点すなわち個別的な作品に対する見解に関しては少なからずうーーん?と思われる例も多々あり、この作品に関する彼の見解もその1つです。大雑把に云うとキャスパー氏も含めたあちらの評者は、この作品を従来的なフロンティア時代のマッチョ的ヒーローが活躍する大いなる西部を描いた正統的な西部劇とは異なり、心理面を含め曖昧で錯綜した側面を多分に含む新しいタイプの作品と見なしており、すなわちまるで1960年代以後出現する新しいタイプの西部劇を既に予兆しているかのような見方がされています。確かにこれから述べるように、プロット上はそのような傾向が見受けられますが、しかし果たして骨の髄まで本当にそうなのでしょうか。それを考える前に、まずこれらの評者のコメントを以下に記しておきます。

そのような点を最も明瞭に語っているのはキャスパー氏ですが、まずは、ミック・マーティン&マーシャ・ポーター氏の「Video & DVD Guide」から取り上げてみましょう。

◎This thouhtful film follows Ethan Edwards, an embittered Indian-hating, ex-Confederate soldier as he leads the search for his niece, who was kidnapped years earlier by Indians. As time goes on, we begin to wonder whether Edwards is out to save the girl or kill her.
(この思慮に富んだ作品は、憤激したインディアン嫌いの元南軍兵士である主人公のイーサン・エドワーズが、何年か前にインディアンに誘拐された姪の捜索隊を率いる様子を描く。時が経つに従って、我々オーディエンスは、エドワーズが彼女を救助する為に出かけたのか、彼女を殺す為に出かけたのか分らなくなる。)


確かにストーリー展開から云えば、ジョン・ウエイン演ずるイーサン・エドワーズは、ナタリー・ウッド演ずる姪のデビーを殺そうとします。しかし、見ているオーディエンスは、本当に彼が彼女を射殺すると思うでしょうか。ジョン・ウエイン主演の映画を一本も見ていなければ話は別かもしれませんが、ほとんど誰もそのような展開になると真面目には思わないはずであり、またオーディエンスがそうは思わないであろうことを見越してジョン・フォードもジョン・ウエインも安心してそのようなシーンを挿入することが出来たと考える方が正解なのではないでしょうか。個人的にも、最初にこの作品を見た時ですら、いくらインディアン嫌いであったとしてもジョン・ウエインがナタリー・ウッドを殺すはずがないことは全編を通じて一瞬も疑いませんでしたし、恐らく多くのオーディエンスも同様なのではないかと個人的には考えています。もし本当に主人公が自分の姪を殺す可能性が少しでもあるとオーディエンスに思わせたいとするならば、最初からジョン・ウエインではなくたとえばリチャード・ウイドマークなどの新しいタイプの役者を主演に起用しなければならなかったはずです。後で紹介するドルー・キャスパー氏は、この作品について書かれた箇所ではありませんが、リチャード・ウイドマークはワーナーで活躍していたウエインの仕事のいくばくかを奪ってFoxに赴かしめたと書いていますが、新米のウイドマークが当時既にスーパースターであったウエインに少しでも冷や飯を食わせることができたのは、まさにキャスパー氏が述べるように戦後新しいタイプの複雑な男性像が求められるようになったからであり、それには明快に過ぎるウエインのマッチョ的男性像は向かなかったからでもあります。従って、もし「捜索者」の意図が、従来にないタイプの人間像を描くことにあったとしたならば、ジョン・ウエインの起用はそもそもの間違いであったということになります。そのような新しい男性像が浸透してきた1960年代後半以後、いかに自分を時代にフィットさせようとして彼が苦心惨憺としたかはよく知られたところではないでしょうか。しかしながら、まさしく「捜索者」はそのような新しいタイプのパーソナリティが要求される映画ではないからこそ、リチャード・ウイドマークではなくジョン・ウエインが主演するのが正解だったわけです。

その他の例でも、ミック・マーティン&マーシャ・ポーター氏と同様な考え方から以下のようなコメントが出てくるものと思われます。まずは、「TimeOut Film Guide」では、

◎There is perhaps some discrepancy in the play between Wayne's heroic image and pathological outsider he plays here(forever excluded from home, as door way shots at beginning and end suggest.
(恐らくウエインのヒロイックなイメージと彼がここで演じている病的なよそ者の間には矛盾がある(開始時とラストの出入口のショットが示すように家庭から永久に除外され))


「Times Film & Video Guide」では、

◎You'll find the ending haunting, or over-melodramatic according to your taste.
(オーディエンスは、ラストシーンを脳裏に焼き付けられるように感ずるか、過剰にメロドラマ的に感ずるかのどちらかであろう)


更に「Variety Movie Guide」では

◎Wayne is fine in the role of hard-bitten, misunderstood, and misterious searcher.
(ウエインは、誤解されミステリアスな捜索者の役を見事に演じている)


と述べられています。まず家庭から除外されたとありますが、確かに冒頭とラストのシーンで家庭から疎外された彼のシチュエーションを暗示するかのようなショットが映し出されるとはいえ、そもそもジョン・ウエインは家庭人というような役廻りを演じたことはほとんどないのではないでしょうか。むしろ、勿論悪役ではないとしても、内部よりはかなりアウトローに近い立場に位置する人物を演ずる方が多く、それが彼の魅力ではなかったのではないでしょうか。法律に常に従い、家庭に縛られ奥さんの尻に敷かれた(時々女傑モーリン・オハラにそのように扱われそうになることもありますが、彼女自体が既に家庭人のイメージを遥かに超越しています)ジョン・ウエイン像などそもそもありえず、個人的な考えではこの作品においても、仮に多少なりともいつもと違うところがあったとしても、本質的な面では彼のいつものヒロイックなイメージと大きく矛盾するような側面はほとんど見られないのではないかと考えています。たとえば退却するインディアンを執拗に銃撃するシーンやインディアンの死体を鞭打つかのように拳銃で両目を撃つシーンは確かにいつもの彼とはやや異なって偏執的で了見が狭いようにも見えますが、これはインディアン嫌いであることを強調せんが為であり、成る程病的であるという言い方は当たらずとも遠からずですが、決してミステリアスではなく、ましてや後述するキャスパー氏のコメントのように主人公の男性としての危ういアイデンティティを示すものでは全くないでしょう。そもそも、白人を皆殺しにし女性の頭の皮ですら剥ぐ極悪なインディアン、それに対する白人の復讐という図式から逸脱することは全くなく、ジェフリー・ハンターが知らずに嫁さんにしてしまったインディアンの女性のお尻を蹴っ飛ばして丘から転がり落とし、横でウエインがヘラヘラ笑っているなどという今日では人種差別のそしりを免れないようなシーンすら平然と挿入されています(それからフェミニストもこのシーンには黙ってはいないでしょう)。そのくせ騎兵隊に彼女が殺されると、「彼女は何もしていないのに」などと一瞬悲嘆にくれる様子を見せてそれはそれでおしまいなどといういかにも取ってつけたようなシーンがそれに続きます。要するに、そのような面においてはこの作品には5年以上前に製作された「折れた矢」(1950)程度の新しさも意図されてはいないのであり、従って彼が一瞬ナタリー・ウッド演ずる姪を殺すかに見えて抱き上げ故郷へと帰るラストシーンも、わざわざ指摘する程脳裏に焼き付けられることでも、過剰にメロドラマティックでもなく、普通にジョン・ウエイン流に振舞っているだけであるように見え、更に云えばミステリアスなのはプロット上そう見せかけられているだけのことであって本質的にミステリアスなところは全くないというのが個人的な印象です。ジョン・ウエインの保守タカ派的傾向は敢えて云うまでもありませんが、そもそもジョン・フォードは、保守反動的な1950年代にあって極めて保守的な「長い灰色の線」(1955)のような作品を撮っていた頃でもあり、一年たらずの間にアメリカの伝統的且つ保守的な考え方を捨てるとも思えず、従ってわざわざジョン・ウエインという切り札を使って古き良き強きアメリカという信念をこの作品によってミステリアスに曇らせたなどとはどうしても考えられないところです。しかしこれまで挙げてきたコメントは全て、ビデオ/DVDガイドのような短文のコメントでしかなく、評者の考え方も十分に展開されているというわけではないことも十分に考えられます。けれども、最近読んだドルー・カスパー氏の著書でも似たような見解が書かれているのを見てうーーむ???と思ってしまったわけです。次にこのドルー・キャスパー氏の見解を紹介しましょう。「捜索者」に関してはあらすじなども含めかなり長く取り上げられていますが、長くなるのでポイントだけ以下に抜書きしました。

◎The film was vibrant metaphor for the postwar transition and the precarious state of its males.
(この作品は、戦後の男性像の変遷とその危ういステータスで響き渡るメタファーであった)
◎As Ethan, he conveyed an absolutizing instinct that was borderline pathlogical, holding us in fear about the character's next move and the next.
(主人公のイーサンとして、彼は病的境界にある絶対的な直感性を体現し、人物の次の行動や展開に関してオーディエンスを不安な状態に置いた)

◎The character's violation of the traditional Wayne persona disturbed.
(従来のジョン・ウエインの持つペルソナとは反する性格付けは、[見る者を]不安にさせた


この後彼は、「Times Film & Video Guide」でも指摘されていた開始とエンドの出入口のシーンや基本的にはダークなこの作品に散りばめられるコミックなシーン、或いはベラ・マイルズが手紙を読んでストーリーが進行するそれまでにない技法などを取り上げて、この作品が技法的にも普通ではない(unusual)ことを述べています。過去形で述べられているので、もしかすると彼は当時のオーディエンスにとってはそうであったとしても、現在の自分はそうではないと云いたい可能性は無きにしもあらずかもしれません。とはいえ、ドルー・カスパー氏は、戦後期の男性像の変遷を1つのテーマとしており、その考え方そのものについては個人的にも大賛成であることは認めたとしても(彼は「Postwar Hollywood 1946-1962」でもDVDの音声解説などでもよく「男性(male)メロドラマ」という用語を使用していますが、なかなか興味深いところです)、しかしながら、その考え方をジョン・フォード−ジョン・ウエインの無敵コンビによるこの作品にまで適用することは、牽強付会、我田引水に過ぎるように個人的には思われます。インディアン嫌いのイーサンが、インディアンに育てられた姪のデビーを殺そうとして殺さないのはほとんど予定の行動であり、オーディエンスは不安になるどころか安心して見ていられるのではないでしょうか。前述したように、むしろオーディエンスは安心して見ていられるであろうということを意識的であれ無意識的にであれ製作者側は見越しているからこそ、イーサンが姪のデビーをあたかも殺そうとするシーンを挿入することができたと見る方が正しいのではないでしょうか。また、手紙によるストーリーの進行に関してはなる程少し変わっていますが、この作品が基本的にダークであるか否かはともかくコミックなシーンの挿入などは、unusualであるどころか、その根底には従来的な安定した基盤があるからこそ挿入可能となるのであり、むしろそのような基盤を磐石にするとすら考えられます。要するに、ストーリーの表面上はどうであれ、本質的な面では決してジョン・フォード、ジョン・ウエインが代表するような従来のアメリカのモラルが突き崩されていないどころか、むしろルネ・ジラールの云う神話的なメカニズムによりそれが強化されていると考えられるべきではないかというのが、アメリカ人ではない私めの率直な印象です。ジョン・ウエイン演ずる主人公がミステリアスなのではなく、この作品自体が従来的な価値観を補強する為に、神話的に機能しているのであり、この意味では確かにミステリアスと呼べるかもしれません。しかしながら、冒頭で西部劇は見る機会が少ないと述べたように、この作品は3回より多くは見ていないはずであり、論点を明確する為にある程度極端な書き方をしましたが、いつになるかは分りませんがもう何度か見ればまた印象が変わるかもしれません。いずれにせよ、アメリカの評者が皆ルネ・ジラール的な神話に影響されてお目々が曇らされているのか、私めの印象の方が間違っているのかは各自で見て確かめて下さい。個人的にこの作品で最も素晴らしいと思うのは、やはり西部劇特有の西部の大自然描写ですね。因みに、あまり西部劇は好んで見ないということもあって個人評価は★☆☆としてそれ程高い評価を与えてはいませんが、公平を期しておくと、この作品は一般的にはクラシックと見なされている場合も多く、たとえばミック・マーティン&マーシャ・ポーター氏は満点の5つ★をつけて多くのファンにマスターピースと見なされていると記しており、また「TimeOut Film Guide」では、オールタイムベスト100の中の一本として挙げられています。


2007/11/09 by Hiroshi Iruma
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