野のユリ ★★☆
(Lillies of the Field)

1963 US
監督:ラルフ・ネルソン
出演:シドニー・ポワチエ、リリア・スカラ、スタンリー・アダムス、リサ・マン

左:シドニー・ポワチエ、右:リリア・スカラ

シドニー・ポワチエがアカデミー主演男優賞に輝いた作品です。ポワチエといえば、今でこそ全く珍しくはなくなった黒人スターの第1号的な存在でしたが、50年代から60年代にかけての彼の出演作は、スタンリー・クレイマーの「招かれざる客」(1967)を筆頭として、人種(差別)的なコノテーションが少なからず含まれているとどうしても見なさざるを得ないものが多かったのも事実です。すぐに思いつくものでは、「手錠のままの脱獄」(1958)、「いつか見た青い空」(1965)、「夜の大捜査線」(1967)などが挙げられます。しかしながら、ここに取り上げる「野のユリ」に関して云えば、そのようなコノテーションはほとんど見出されません。敢えて捜せば、一箇所だけ、ドイツからはるばるやってきた尼さん達に英語を教える為に、彼自身が「My skin is black」と口にするシーンが挙げられるかもしれません。しかし、このシーンにしても、むしろ客観的な事実のみを述べただけとも見なせます。そもそも、「招かれざる客」や「夜の大捜査線」などの作品では、黒人俳優が主演或いは準主演する必要性があったのに対し、「野のユリ」の主演は必ずしも黒人俳優である必要はなく、ある意味ではそのような作品であったからこそ、60年代であるにも関わらず彼がオスカーを受賞し得たのかもしれません。というのも、公民権運動の時代であった60年代に、黒人を何らかの形でテーマとして扱う作品に出演している黒人俳優がオスカーを受賞すれば、オスカーが政治的文脈で解釈される恐れがあるからです。いずれにせよ、そのような政治性とは全く無縁の「野のユリ」は、60年代前半に製作されたノンシャラントでのどかな雰囲気に満ち溢れた作品であり、オスカーを受賞しただけあってシドニー・ポワチエ本来のカジュアルなパーソナリティが最大限に活かされているように見えます。何しろ、ドイツ人の尼さん達が暮らすみすぼらしい修道院に、主人公(シドニー・ポワチエ)がふらりとやってきてチャペルを建て、それが完成すると再び気ままに旅立つというストーリーが淡々と語られ、ドラマチックな出来事は何も起こりません。また、そのような風来坊が主人公であると、60年代後半であればカウンターカルチャー的な色彩が表面化したり、或いは70年代に入ればロードムービー風の人生哲学が前面化したりする傾向が現われることが十分に予想されますが、60年代前半に公開された「野のユリ」には、そのような傾向は全く存在せず、権力に対する反抗であるとか、世間に対する絶望であるとか、或いはジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ式の遊牧民的な思考などとは全く無縁なのです。天下国家やお上に逆らうわけでもなく、世捨て人になるわけでもなく、はたまた遊牧民的戦争機械になるわけでもなく、着のみ着のまま実にノンシャラントで肩の力が抜けていて、主人公の振る舞いはいかにもナチュラルです。そのような作品であるからこそ、公民権運動が頂点を迎える60年代の作品で、黒人が主演しているにも関わらず、ポジティブにしろネガティブにしろ、或いは明示的にしろ暗示的にしろ、「黒人」が1つのメッセージとして語られたりは絶対にしないのです。従って、シドニー・ポワチエは、「黒人俳優」としてではなく「俳優」としてオスカーを受賞したのであり、その事実は彼の役者としての偉大さをも示しているのです。ドラマティックな展開が全くないこと、メッセージや思想がどこにもないこと、それらに鑑みると、見方によっては物足りなさを覚えて当然の作品であることも確かです。しかしながら、日本で云えば高度経済成長時代突入前の60年代前半の牧歌的な雰囲気が作品全体から滲み出ており、慌てず騒がずゆるりと見れば、ヒーリング効果すら得られる優れた作品であることには間違いがありません。


2003/10/04 by 雷小僧
(2008/10/22 revised by Hiroshi Iruma)
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