9レターズ
竹内真
真夜中過ぎに電話が鳴った。
布団にもぐり込んで目を閉じていたので、すぐに受話器を取る気にはなれなかった。
ようやく布団も温まりかけてきたのだ。こんな時間に電話してくるなんて誰だろうと
思った。
咄嗟に頭に浮かんだのは彼女のことだった。夜中に電話をかけてくるのは彼女くら
いのものだったからだ。
だけど彼女とは、もうお互い電話をかけないことに決めていた。二ヵ月も前のこと
だ。彼女の方からそれを破るなんて考えられない。そういう点ではものすごく意地っ
張りなのだ。
しばらくたっても、電話は鳴りやまなかった。僕は諦めて布団から抜け出し、寒さ
に身を縮こまらせて机の上の電話を取った。聞こえてきたのはブンガの声だった。
「よう。明けましておめでとう」
ブンガは明るい声で言った。ブンガというのはもちろんあだ名だ。高校時代からの
友達で、今は遠くの町に住んでいる。
「──おめでたいって時期は、過ぎてるんじゃないか?」
僕は部屋の明かりをつけながら答えた。壁に貼ったカレンダーを見れば、もう一月
も残りわずかだ。
「耳に快い言葉であれば、多少のことは大目にみていいのだ」
ブンガはもっともらしい口ぶりで言った。したり顔で頷く姿が目に浮かぶ。
「まあ、寝ていたところを起こしたのは悪かった。謝るよ」
「どうしたんだ? こんな時間に」
僕は机の脇に置いてあるストーブのスイッチを入れ、毛布にくるまりながら尋ねた。
「今レンタルビデオ屋でバイトしてるんだけどさ、俺だけ遅番になっちまって、客も
来ないから暇で暇で仕方ないんだよ」
「店の電話でかけてるのか」
道理で惜しげもなく長距離電話をかけてくるわけだ。僕はビデオ屋の経営者に同情
したくなった。
「これで時給さえ高ければ言うことないんだけどな」
ブンガは笑いながら言った。僕は軽くため息をついてやった。
「そんなに暇なら、ビデオを見てればいいじゃないか」
何も夜中に僕を起こさなくたっていいはずだ。一人で平和に、好きな映画のビデオ
でも見ていてくれればいいのだ。
「そういう気分になれないことだってある」
ブンガは楽しそうに言った。僕はふと、ビデオ屋の中は暖かいんだろうなと思った。
「電話をかけたい気分だったってわけだ」
「そう。例の件がどうなったのか、気になったしな」
僕は欠伸をしながら苦笑した。それを出されるとこっちも弱い。
「ええと……まあ、いろいろありがとう」
「その後、何かあったか?」
「──あったのかもしれないし、無かったのかもしれない」
僕は考えながら答えた。自分でもよく分からないのだ。
「何だよそれ」
ブンガは興味をそそられたようだった。まあ、話を聞いてもらうにはちょうどいい
相手かもしれない。
「──映画のチケットが送られてきたんだ」
僕は机の上に目をやった。白い封筒が一通、本立ての前に置いてある。
「彼女からか?」
「さあ。──誰が出したのか分からないんだ。差出人の名前も書いてないし」
「手紙とかは入ってないのか?」
「うん。チケットが一枚入ってただけなんだ。席と日時が指定してあるやつ」
最初にそれを見た時、何故そんなものが送られてきたのか分からなかった。何かの
懸賞で当たったのかとも思ったが、そんなものに応募した覚えは全くなかったのだ。
「ふうん。──宛て名の筆跡とか、見覚えはないのか?」
ブンガは少しきどった声で言った。なんだか刑事物のドラマのようだ。
「筆跡も何も、ワープロの字だよ」
僕はその封筒に手を伸ばした。僕の住所が印刷されたシールが貼られている。
「ふむ。何て映画だ?」
ブンガはすっかり探偵気分になっているらしい。
「聞いたことない題名だったけど。ええと──」
僕はチケットを取り出し、映画の題名を読み上げた。
「ああ、聞いたことあるな。確かモノクロのフランス映画だよ」
ブンガはすぐに答えた。昔から映画や小説には詳しいのだ。
「モノクロっていうと、昔の映画なわけ?」
「そう。多分リバイバルか何かだろうな」
「ふうん」
「でもお前、そんなの彼女が送ってきたに決まってるじゃないか」
ブンガは一人で勝手に納得しているようだったが、僕は素直に頷く気にはなれなか
った。
「……そうとも言い切れないと思うんだ。手紙も何も添えてないし、突然送りつけら
れてもこっちは行けないかもしれないんだし」
どうもその辺りがひっかかって、僕には彼女が送ってきたと割り切ることができな
かったのだ。
「それに、彼女が送ってきたんだとして、どうしてチケットだけ送りつけてこなきゃ
ならないんだろう」
「そんなの俺が知るわけないだろ」
ブンガはそう言って含み笑いを漏らした。
「とにかく映画館まで行ってみればいいじゃないか。そうすりゃはっきりするかもし
れないだろ?」
「そりゃそうだけど、何も分からずに行くのも嫌じゃないか」
僕はその映画を見に行くべきかどうか迷っていた。その日は暇だったが、ただチケ
ットの指定に従う気にはなれなかったのだ。
「ふむ。──いいことを教えてやろう。捜査に行き詰まった時は、文脈を最初から捉
えなおすのが一番なんだそうだ。昔の偉い人が言っていた」
ブンガは楽しそうに言った。こういう言い方をする時はたいてい裏があるのだ。
「自分で考えたセリフだろ?」
僕はそっけなく言った。それが聞こえたのかどうか、ブンガは受話器の向こうでが
さごそという音をたて始めた。少し間があって、急に声をひそめる。
「あ、ごめん。客が来ちまった。常連の奴。──こんな時間に来ることないのにな」
どうやら客に隠れて受話器を握っているらしい。ブンガは声を押し殺したまま喋り
続けた。
「変な客でさ、サスペンス物の連続ドラマを、最終回の方から逆の順番で借りていく
んだ」
「なあ、もう切った方がいいんじゃないのか?」
僕の方が心配になってきたが、ブンガには全く気にならないようだった。
「──アメリカの、『アブセント・アンサー』ってドラマ。知ってるか?」
「知らないよ。そんなことより、仕事はいいのか?」
そう尋ねても、ブンガの耳には届いていないようだった。客を観察しながら実況す
るのに熱中しているのかもしれない。
「反対から見たりして面白いのかな? 推理小説のラストだけ先に読む奴ってたまに
いるけど──」
ブンガは小声のまま、早口でまくしたてた。
「……少しは真面目に働けよ」
僕は笑って電話を切った。
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