不良少女復興!夏純子(1974)より 製作・池田博明
藤竜にさわると危(ヤバ)いぜ! 内海陽子 |
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誰でも一度位は持つんじゃないかな、不良性志向を。私もまたそのご多分にもれない。そして少し厳密に言えば、それは不良少年志向である。不良少女ではなく。 『不良少女魔子』、夏純子、ちょっとイイナと思った。夏純子のあのくちびるをキュッと結んだようなくずれのないカタさ。青さ、いいだろうなと思った。実際、タイトルが流れている間は、その少女がかった少年ぽさが匂って素晴らしかった。ところが、この少女の匂いを持つ不思議な少年がへタな恋愛を始めてしまうので、私は甚だ不愉快になってくる。私の幻覚は消え、彼女はただの少年っぽい不良少女になり下がってしまう。これは本当に一大事なのだ。歯だけがいやに健康的にチラチラする、ドンカンそうな、つまらない、ごくあたりまえの少年によって、魔子のもつ気高さが風前のともしびになってしまうのだから。 藤竜也扮する魔子の兄貴は、美の守護者の直感で、それを嗅ぎ取った。彼は肉親とも思えな愛情でもって、ひたすらこの堕落を防ぎとめようとする。この兄貴の心がいとしい。この心をわからない彼女がいらだたしい。 魔子というゾクゾクするほどイカす名を持ってるくせに、この子はちっとも魔性を見せてくれない。どんどんどんどん、つまらない、ごく当たり前の少女になっていく。その挙句が、何を血迷ったか、この兄貴を(!)刺してしまうのだ。 やっとのことで魔子は気がつく。どうしようもないほど遅く、彼女は気がつく。ラストのあのあまりに痛々しく大きな瞳はもう何も見えやしない。一番大事な人を見分けられなかったあなたには、もう見るべきものはないのだ。絶望の色がスクリーンをおおって、この映画は終わる。 私の心に残るのは兄貴の胸の痛みだ。あらかじめ失われているかのように不安定な、ごく少ない言葉しか持ち合わせていないこの男の、妹への思いを伝えられない悲しさに比べたら、ラストにおける魔子の美しすぎる涙など、だだっ子の口惜し涙くらいにしか当たらないではないか。 私は魔子以上にボーッとしてしまう。兄貴の痛みをもらい受けたままどうすることもできずにいる、傍観者としての自分自身に、ただただボーッとしてしまう。 せめて、と私は考える。この兄貴を慕う不良少年になりたかった!と。魔子の手から彼を救ってやりたかった、あざやかに。私は全くばかばかしいながら、真剣にそう思うのだ。 それにしても、夏純子ならいいけれど、酒井和歌子のようなボンクラがこの男に近づくと、私は一層絶望的になってしまう。私は当分、女のコにはなれそうもない。ひたすら不良少年として、この男への断ち切れない思いを抱き続けねばならないようだ。 どうなるんだろうねえ、全く・・・・ 1974年2月3日 魔子の一粒の涙 平田泰祥 青い空、青いプール。プールに浮かぶ徹の死体。血が青いプールを赤く染めていく。魔子の眼に一粒の涙。“どいてよ、みんな、ジャマ・・・” 『不良少女魔子』の夏純子は,彼女の最高の演技だと思う。彼女自身、演技ではなく、イメージとして持っている、小さな体から溢れ出ているような、自由で、アナーキーな志向。そして一心不乱に思いつめる、切羽詰った心情。それらが未完成な形で鋭く輝いている。 そして、夏純子と同じほど藤竜也もいい。『血と怒りの河』のブルー(テレンス・スタンプ)と同じほど好きだ。孤独な影を背負って、妹・魔子をやさしく見守る兄貴の役だ。ちょっと近親相姦的なイメージがあって、ひどく秋本鉄次好みなんだけど、むしろ脚本の長谷部さんの好みなのだろう。なんとなく『野良猫ロック・セックスハンター』の数馬とめぐみを連想させる。でも、『不良少女魔子』は『セックスハンター』ほど複雑じゃない。マコ−数馬、数馬−めぐみ、マコ−バロンと入り乱れはしない。魔子−兄貴の一種の「業」にからめとられた青春を発散させた映画なのだ。そして、もう一人、重要な人物がこれにからむ。小野寺昭扮する徹だ。 徹は拷問の末に、仲間を捨て、仲間を裏切り、仲間を売る。やくざ社会に入って、卑屈にゴマをすって生き延びようとする。僕はこの徹を認めるとともに、魔子がどうしても徹を許すことができない心情も痛いほど分るのだ。このやり場のない、どうしようもない、切羽詰まった、徹の、魔子の、そして兄貴の生き様がこの映画の全てだ。そして、急速にラストへ。奇妙な世界へ入り込む。 兄が必死に止めるのも聞かず、兄を刺し殺す。兄貴の言うことを聞けば「生き残れた」のだ。三人とも。しかし、蔵原=長谷部の青春は、ムリせず、ムダせず、続ける「生き延びようとする」青春ではない。しいて言えば、「命を賭ける」青春なのだ。出目昌伸監督の、愛や友情に命を賭ける『俺たちの荒野』『その人は女教師』と、似て全く違う青春なのだ。 魔子は徹をプールぎわで殺す。魔子の眼。一粒の涙。僕はその涙をなんとなく分りつつも、謎なのだ。「バラのつぼみ」と共に永遠に残る映画史上の謎なのだ。 魔子は憎しみのために、愛した男のために、裏切りを許すことができぬために、徹を殺したのか? 兄を殺してまでも?! そうかも知れぬ。でも、そうでないかも知れぬ。その理由はあの魔子の一粒の涙だけが知っていることなのだ。そして、僕の心にその「涙」だけが知っている魔子の強烈な「心情」そのものが、こびりつく。言葉では言う事のできないものとして・・・。 あの魔子の涙は、あのラストの奇妙に白ちゃけた青空と青いプールと共に、『八月の濡れた砂』と一緒の、僕の1971年8月の夏の涙だったのかもしれない。・・・・・魔子、万歳! 1973年11月22日 《写真は『戦争と人間』大阪の記者会見にて》 ALL I NEED IS MAKO 谷川 紀子 24歳の坂本道子とかいう、そう賢くもない女性にはあまり興味は無い。ソフィア・ローレンが目標という女優・夏純子も、近頃ではともすると嫌になりがちだ。けれども、私は魔子が好きだ。この想いは、おそらく褪せることがないだろう。私は魔子に扮する夏純子には“可愛く鋭く醒めている”と最大級の賛辞を与えた。少なくとも魔子に関しては梶芽衣子なんか問題じゃないのだ。 ☆ ☆ ☆ ![]() 街をのし歩く魔子にはある一定の軽やかさを持ちながらも無為感が溢れ、最初のGOGOシーンには行き場のないあり余ったエネルギーが溢れていた。魔子には登場したその時から、どのような制約の中でもじっとしてはおれないだろうと思わせる一種アナーキーな雰囲気があったし、仲間が若い男をいためつけるのを傍らでぬいぐるみを抱えて凝っと見ている姿には、可愛さよりもむしろ醒めた少女を見ない訳にはいかなかった。彼女らが不良少女でありつづけるためには、ボウリング場で恐喝もすれば、万引き女子高生の上前をはねることも平気でやってのける。そのけなげな心意気がさわやかだ。カタギになろうなんて不心得ものには用はないのだ。 ところが、魔子の兄貴が安岡組のやくざである為に、組の元でばっちり制約を受けていることが明らかになる。そしてこの後、二度あるGOGOシーンで、映画あるいは魔子の情念は微妙に変化していく。このあたりのスピーディな演出は実に鮮やかだ。 一度目のGOGOがヒデオとの出会いだとすれば、二度目はヒデオとの愛の芽生えである。魔子の情念は愛の情念へと発露する。それとともに不良少年グループに加担することで、自分たちを利用することしか考えない安岡組にも反逆を企てていく。しかも、魔子は、組の命令に否応なく従っていく兄貴を、誰よりも慕いつつ、反発せずにはおれない。だから、魔子は兄貴と直接争いはしないが、このまま突き進むことが兄貴の組内での立場を悪くすることを十分承知している。「兄ちゃんには悪いけど、兄ちゃん、組のことしか考えてないもんね」と、魔子は組の扱っている薬(マリファナ)の情報をヒデオに流してしまうのだ。 私たちの行動は家庭からも組(社会集団)からも、したがって当然国からも制約を受けない。私たちは自らの心情に忠実に行動するだけだ。その行動を妨げようとするような奴らには、私たちの自由な意志をオリの中に閉じ込めようとするような奴らには、反逆、だけである。 魔子もまた、正面切って安岡組に挑みかかっていく彼らに次第に深入りしていき、遂に、彼らとともに組の縄張り内の離れキャンプ場の新しいアジトに移り住むことで、本格的な反逆のメロディーを呟くのだ。敵の優位が歴然で、反逆の道が自滅への引込線であったとしてもだ。 その反逆の果ては、トオルの裏切り、ナナの死、魔子は連れ戻され、ヒデオの死まで一気に転がり落ちてしまう。ヒデオの死を聞いて魔子は走り、斜面を這い上がる。上がりきった時、既に車に火は放たれ、黒黒とした煙がたちこめている。それは死者を弔うとというにはあまりに激しい。魔子は焼けただれる車を前にして愛の情念を憎しみへと転化させる。 そして最後のGOGOシーンだ。魔子の情念がギリギリに追い詰められていく姿、憎いという情念を刺すという具体的行為に移すかどうかという激しい葛藤がそこにはある。「兄ちゃん匕首(ドス)かしてよ」、このセリフでラストの口火は切って落とされる。情念のフツフツとする素晴らしいシーンだ。 魔子は自ら匕首を持ち、自分の決着(オトシマエ)は自分でつけるきわめてラジカルな少女だ。“さそり”のようにカッコばかりつけなくとも、憎い許せない奴は殺っちゃうのだ。 同時にこの映画がスッキリしているのは、仲間を裏切り敵対していた筈の安岡組の一員となり、やくざの世界でのし上がって行こうと考えたトオルに対して徹底した制裁を加えているからだ。上昇志向に足をすくわれた人間は死んで決着をつけねばならない。 「邪魔だナ、みんなどいてよ」、渇いた言葉と熱い涙のひとしずくが私を思考停止にすら陥し入れる。結果として、魔子はたったひとりの兄貴すら乗り越え、タテの糸を断った。それが激しい感情にひきずられたほんの過ちであったとしても、兄貴を殺し、深い絶望の淵を垣間見た魔子には、心情に忠実にやって来ていた時とは違うものが見え始めた筈だ。兄貴の言うように、これ以上馬鹿なことをやって誰にも構ってもらえなくなったとしても、それでもやらねばならぬのに、ああ、何といじましき日常の連続よ! ☆ ☆ ☆ “存在感のある女優になりたい”という夏純子は、きっと“魔子”においてその存在感がどれほど生々しかったか、ご存知ないのだ。彼女のアプリオリなものが、決してメロドラマやホームドラマには相容れないということにも無自覚だろう。かくして、彼女はシアワセそうな顔にオチテユク。 ナイフを持ってさまになる女優なんて多くいるものじゃない。大方はナイフを持った時にきらめく凶暴性を欠落させたまま、いたずらにナイフをふり回しているにすぎない。こんな得難い資質をムザムザと埋もれさせておく手はないんだ。 とリキみかえることが今や虚しい気がしている。夏純子は私の理想とは別の道を選び取っているようだ。私が欲するのは、アウトローの虚構の世界の中で、夏純子、梶芽衣子として生きていけるような女優(ヒト)だ。そのために最後までローカルなスターであってもそれはそれでいいじゃないか。 何といっても最初に出会ったニューアクションという事実。“魔子”のイメージを私の中から追い消し去れるものならば、なんで今更野暮なセリフを吐くものか。 1973年12月12日 |
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夏純子 出演 映画作品 1967〜1973 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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